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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

満州と岸信介

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  太田 尚樹 、 出版  カドカワ
  アベ首相の憧れの祖父・岸信介を美化した本です。ただ、岸信介が満州国づくりに深く関わっていたことを再認識することができる本でもあります。
  満州国の表の顔は、満州産業開発5ヶ年計画によって、東洋一の規模の豊満ダム、鴨緑江水電、重工業、製鋼所、浅野セメント、住友金属、沖電気・・・、そして満鉄「あじあ号」、ヤマトホテル、関東軍司令部・・・。このようにして、広大な原野に大都市が出現した。
岸信介にとって、満州にいた3年間は、革新官僚・岸信介が政治家・岸信介に変貌していく3年間でもあった。
夜の満州は甘粕正彦が支配していた。甘粕はアナーキストの大杉栄一家を関東大震災のときに虐殺した張本人である。岸は甘粕を頼りにしていた。
  満州国の裏の顔は阿片。岸信介が阿片による金もうけ無縁だったはずはない。岸の側近であった古海忠之は、自分が阿片に深く関わっていたことを認めている。
  満州国というのは、関東軍の機密費づくりの巨大な装置だった。謀略に使われる機密費を阿片によって捻出していたのが総務庁だった。岸信介は総務庁の次長として、それを取り仕切っていた。
  阿片の上がりは、満州中央銀行、上海と大連の横浜正金銀行、台湾銀行の口座に預けられていた。中国大陸に広く展開する総勢100万の日本軍を維持するのに、国家予算ではとうてい追いつかない。そればかりか、内地の陸軍部隊も阿片から収益に頼る部分が大きかった。
  阿片を吸引していた中国人が廃人となっていったのです。その悲惨な状況をつくり出した責任は日本軍にもありました。本書は、その点に触れることはありません。あくまで岸の手柄話に終始しています。良心に欠けているところがあるようで、とても残念です。
(2015年9月刊。1700円+税)

『昭和天皇実録』を読む

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  原 武史 、 出版  岩波新書
  昭和天皇は、生まれてすぐ沼津に行った。東京生まれ、東京で育ちながら、かなりの
時間を沼津で過ごした。川村純義(すみよし)という伯爵の家に預けられるが、川村の別邸が沼津にあり、1年のうち3ヶ月も沼津で過ごした。そこで、多くの女性に囲まれていた。母親も、皇后も、実の祖母も曾祖母まで沼津にいて、4人の叔母たちもいた。
  昭和天皇は幼少のころ、キリスト信者者が保母だった。
  昭和天皇は天皇家のしきたりを改めようとするが、母親や側近の女性たちの抵抗にあう。昭和天皇はヨーロッパ訪問したあと、ライフスタイルを西洋風に改める。これが母親との確執の原因となる。母親は、日本の伝統や皇室のしきたりを蔑ろにして、西洋かぶれになってしまったと昭和天皇を心配(批判)した。
  昭和天皇には女性的なところがある。かん高い声や話し方など、だから、政府は、1945年8月の玉音放送まで一般国民に対して声を聞かせることがなかった。
  戦前、神功皇后を天皇として認めなかったのは、昭和天皇が天皇になる前に、母親が自分のかわりに天皇となる可能性があったから、それを恐れていた。
  「昭和天皇実録」という本は昭和天皇の実像を知る手掛かりにはなるようですね。といっても、61冊、1万2千頁にもなるというのですから、とても実物を読もうとは思いません。
  そこで、その内容をコンパクトに紹介してくれる便利な本です。
(2015年9月刊。800円+税)

遺骨

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  栗原俊雄 、 出版  岩波新書
  アベ首相とその取り巻き連中は靖国神社の参拝には執着していますが、遠く異国の地で埋もれてしまったままの旧日本軍の将兵の遺骨の回収には冷淡そのものです。
  それこそ自己責任理論を持ち出すのでしょうか・・・。許せません。
  そして、東京大空襲を仕掛けたアメリカ空軍の責任者に対して、なんとなんと勲一等というとんでもない勲章をうやうやしく授与したものです。大虐殺された被害者側が加害者の親玉に感謝の勲章を送るなんて、前代未聞ではないでしょうか・・・。このカーチス・ルメイ将軍は、ベトナム戦争のとき、ベトナム北爆を指揮し、北ベトナムを原始生活の国に戻してやると嘘ぶいた札つきの軍人なのです。日本の権力ってどうして、こんなにアメリカに卑屈になるのでしょうか、信じられません。それでいて「美しき日本」を取り戻せなんてカラ叫びをするのですからね・・・。
  硫黄島の戦いによる日本軍の戦死者は2万人、生き残ったのはわずか1000人。アメリカ軍は戦死者6821人、戦傷者2万1000人。地上戦で、アメリカ軍の犠牲者が日本軍を上まわった珍しい例。硫黄島には、今もなお1万人柱以上の遺骨が残っている。今も、ほそぼそと遺骨回収作業が続けられている。
  沖縄本島にも、回収されていない遺骨がある。モノレールの「おもろまち駅」のところは、「シュガーローフヒル」と呼ばれた激戦地跡だ。1週間も戦闘が続き、アメリカ軍の死傷者だけで2662人にのぼった。日本軍の死傷者は不明のまま。ここも、掘れば、今も人骨が出てくる。
  戦前・戦後ずっとずっと戦争してきたアメリカは、戦死者の遺体・遺骨はすべてアメリカ本国に帰還させることを原則としている。それはそれで立派な原則ですよね・・・。
  戦争しない、平和な日本で今日まで来た日本も、アベ政権の下で戦争する国・ニッポンへつくり変えられようとしています。そして、その危険性が今なおピンと来ていない日本人が少なくありません。それこそ「平和ボケ」していて、努力しなくても平和でいられるものと錯覚しているようです。
「抑止力」に名をかりて日本の自衛隊が戦争しかけに海外へ出かけて行ったら、戦場で戦死者が出るだけでなく、国内でもテロ攻撃の被害者が続出することになるでしょう。絶対にそんなことにならないよう、今、声を上げるべきです。
  2011年度の海外戦没者の遺骨収集の予算は15億円。帰還した遺骨はわずか1500柱ほど。自衛隊の戦車一両が10億円というのですから、あまりにも少なすぎます。せめて戦車を減らしてでも遺骨収集にお金をまわすべきでしょう。
  いったい、この狭い日本に戦車なんか持っていて、誰と戦うというのでしょうか・・・。馬鹿げています。
(2015年5月刊。740円+税)

石の証言、八紘一宇の塔の真実

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  八紘一宇の塔を考える会 、 出版  みやざき文庫
  宮崎市街地から少し離れたところに平和公園という小高い丘陵があり、そこに高さ36メートルほどの巨大な石造りの塔が立っています。戦前、八紘一宇の塔と呼ばれていました。昭和15年(1940円)に建立されています。中国への侵略戦争を日本が始めた3年目です。すぐに日本軍が勝利して終わるはずでしたが、泥沼化していたころです。翌年(1941年)12月8日に、日本は太平洋戦争へ突入していきます。
  この八紘一宇の塔は日本国民の戦意高揚のために建立されました。私も一度だけ現地に足を運んでみましたが、なるほど異様な塔です。
  この塔には、世界各地から寄せられたという切石1789個がある。そのうち364個は、当時の日本の植民地や占領地からのもの。中国からは198個、朝鮮半島から123個、台湾の41個が目立つ。
塔の正面左手にある像「荒魂」は、武神像であり、「戦の象徴。
八紘一宇という言葉は古くからあったものではない。大正2年(1913年)に田中智学という国家主義者が初めてつかったもので、「日本書紀」から造語した。八紘とは世界であり、一の宇すなわち家にする。つまり、天皇を中心として世界を一つの家のように統一するという意味。
  1930年代になって、八紘一宇という言葉を軍事が使うようになった。
  軍部は、自作自演の暴挙や専横がもたらす国民の軍部への反感や離反を阻止・回避し、天皇と軍部を中心とする世界秩序を基礎づけるものとして田中智学の造語である「八紘一宇」を利用した。
  1940年7月、近衛文麿内閣は、「八紘一宇」を国是とし、大東亜の新秩序の建設を宣言した。こうして、「八紘一宇」は帝国日本を象徴する用語となった。
  「八紘一宇」のものとで、中国侵略が着実に進行していた。これが、「八紘一宇」の実像だった。ところが、1941年3月の国会(秘密会)で「八紘一宇」について議論され、否定的な意見が多く、以降、対外的な公式声明からは姿を消した。
  本年(2015年)3月、自民党の議員が「八紘一宇は建国以来の大切な価値観」だと発言しましたが、まったく歴史認識を欠いたものです。
  それにしても、塔の石材の一つひとつの由来が明らかにされています。よく調べてあります。恐るべきことです。その根気強さに敬服しました。
(2015年7月刊。2000円+税)

関東軍とは何だったのか

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者  小林 英夫 、 出版  中経出版
 泣く子も黙る関東軍。威張りちらして、市民の安全なんか気にもとめない横暴な軍隊というイメージの強い関東軍の実体に迫った本です。
関東軍は生まれ落ちたその日から、戦争というよりは外交、軍事というよりは政治に多くのエネルギーを割く集団だった。
鉄道守備隊であったから、関東州の旅順、大連から満州中央部の奉天(藩陽)、新京(長春)へと中国東北の懐に奥深く食い込んだ軍事集団であることから、現地東北の政治勢力との折衝を余儀なくされる宿命を胚胎していた集団だった。
関東軍は、45年8月のソ連参戦で圧倒的兵力を前に衆寡敵せず、完敗を喫して短期に解体された。日ソ中立条約を盾に北方への守りを楽観視し、ソ連参戦の時期を続み誤り、60万人に及ぶ将兵を捕虜としてシベリア抑留させることとなる失態は、政治と外交重視で、軍事面での錬成を欠いたこの軍団の末路を飾るにふさわしい結末だった。
関東軍の「関東」とは、中国の山海関、すなわち万里の長城の東端の要塞の東の意味である。
関東軍の前身は、満鉄(南満州鉄道)の沿線付属地を防衛する軍隊である。
満鉄の設立総会は1906年11月。資本金2億円、うち1億円は日本政府の現物出資、残り1億円は日本での様式募集とロンドンで募集された外債に依存していた。満鉄は日米の共同経営ではなく、日本の国策を実現する株式会社として、その産声(うぶごえ)をあげた。
敗戦時の満鉄従業員は40万人に近く、うち日本人が14万人ほど、残りが中国人など。
1906年に満鉄が営業を開始すると、関東都督府、満鉄、領事館の三者による満州統治の歴史が始まった。
1914年、原敬内閣は関東都督府を廃止し、関東庁と関東軍を創設した。1919年4月、関東都督府から軍事部が分離する形で関東軍が設立された。
関東軍は、当初は満鉄沿線を警備する独立守備隊6個大隊と日本から派遣された駐劄(ちゅうさつ)1個師団から編成された。
1931年9月の満州事変までの関東軍は、控え目で、つつましやかだった。1931年9月、満州事変が勃発し、翌32年3月までの半年足らずで関東軍は満州全土をほぼ手中におさめた。
関東軍は、周到な作戦と奉天軍閥・張学良の無抵抗主義に助けられて、満州全土を占領し、1932年3月に満州国を作りあげた。
満州国で実権を握ったのは国務院であり、その中核は総務庁だった。関東軍参謀部第三課が中心になって総務庁に伝達した。
関東軍は、正面には中国人を立てながら、背後から日本人がこれを制御する「内面指導」を実施した。
関東軍の幹部は、ソ連赤軍で進行していたスターリンによる粛清(テロル)を過大評価し、日満と極東ソ連軍の兵力差を深刻には考えなかった。
関東軍は、満州事変の直後から満州国の主要な財源としてアヘン収入を当て込んでいた。歳入の8分の1はアヘン税だった。
軍人に政治をまかせると、その無責任さによって社会は崩壊してしまうという実例が満州国でしょう。古き良き日本、なんてものではありません。アベ首相は単なる妄想に走らされているだけです。
(2015年3月刊。2500円+税)

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