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カテゴリー: 日本史(戦前・戦中)

分隊長殿、チンドウィン河が見えます

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 柳田 文男 、 出版 日本機関誌出版センター
下級兵士たちのインパール戦というサブタイトルのついた本です。
私と同じ団塊世代(1947年生まれ)の著者がインパール戦の現地ビルマからインドを訪問し、その体験で知りえたこと、戦史や体験記も参考資料として書きあげた物語(フィクション)なので、まさしく迫真の描写で迫ってきます。実際には、もっと悲惨な戦場の現実があったのでしょうが、それでも、インパール戦に従事させられ、無残にも戦病死させられた末端の兵士たちの無念さが惻惻(そくそく)と伝わってきます。
インパール戦には、1万5千人の将兵が従事し、1万2千人の損耗率、戦死より戦病死のほうが多かった。インパール作戦は、1944年(昭和19年)1月7日、大本営から正式許可された。すでに劣勢にあった日本軍がインドにあるイギリス軍の要衝地インパールを占領して、戦況不利を挽回しようとするものだった。インパールはインド領内にあり、日本軍は、そこにたどり着くまえに火力で断然優勢な英印軍の前に敗退した。
インパールに至るには峻険な山地を踏破するしかなく、重砲などの武器と弾薬そして食糧補給は不可能だった。ところが、反対論を押し切って第15軍司令官の牟田口廉也(れんや)中将と、その上官にあたるビルマ方面軍司令官の河辺正三(まさかず)のコンビが推進した。大本営でも作戦部長(真田穣一郎)は反対したが、押し切られてしまった。
主人公の分隊長である佐藤文蔵は、京都の貧しい農家の二男。師範学校を退学させられ、応召した。そして24歳のときに軍曹に昇進して一分隊の指揮官に任命された。
英印軍は、山域に機械化部隊をふくむ精強な第20師団を配置し、強力な重火器類による砲列弾に日本軍は遭遇した。日本軍は小火器類しかなく、食料が絶対的に不足していた。そして、ビルマの激しいスコールは日本軍将兵の体力を消耗させていった。
第一大隊は、チンドウィン河を渡河した時点で1000人いた将兵が、これまでの戦闘によって、現時点では、1個中隊に相当する200人足らずの兵力に激減していた。そして、この将兵は、食料不足、マラリア、赤痢などの熱帯病におかされ、激しい雨によって体力を奪われてやせ衰え、その戦闘能力は極度に低下していた。
インパール作戦が大本営によって正式に中止されたのは、7月3日のこと。第15軍司令部が正式に知らされたのは1週間後の7月10日だった。あまりに遅い作戦中止決定だった。7月18日には東条内閣が総辞職した。
「戦線整理」という名ばかりの指揮系統のなかで、戦場に遺棄された将兵たちは、密林地帯から自力で脱出することを課せられた。激しいスコールに見舞われる雨季に入っていた。「白骨街道」が誕生することになった。
佐藤軍曹は2人の一等兵を鼓舞しながら、山中をさまよい歩きチンドウィン河を目ざしていくのでした。涙なしには読めない苦労の連続です。でも、ついに目指すチンドウィン河に到達し、やがて日本に戻ることができたのでした。もちろん、これはめったにない幸運な人々の話です。こんな無謀な戦争にひきずり込んだ軍部の独走、それを支えていた「世論」の怖さを、しみじみ実感しました。
あたかも生きて帰還した人の手記を読んでいるかのように錯覚してしまう物語(フィクション)でした。
(2020年1月刊。1600円+税)

日ソ戦争 1945年8月

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 富田 武 、 出版 みすず書房
1945年8月9日、ソ連軍が突如として満州に攻め入ってきました。たちまち日本軍は総崩れで、開拓団をはじめとする多くの在満日本人が殺害されるなど多大の犠牲者を出しました。このときのソ連軍の蛮行を非難する人が多いのですが、では日本の軍部(関東軍)は、そのとき、いったい何をしていたのか、それを本書は明らかにしています。
まず関東軍はソ連軍の侵入経路の最前線基地をその前に撤収していました。そして、関東軍の精鋭を南方戦線に抽出して転戦させ、その穴埋めとして開拓団の男子を8割、10割ひっぱってきて員数あわせをしました。しかも、武器・弾薬も十分でない状態でした。さらに、ソ連軍の侵攻直前に関東軍の上層部は自分たちの家族を内地にいち早く帰国させておきながら、在満日本人に対しては関東軍がいるから安心せよとなどという大嘘をついていたのでした。
なので、在満日本人の多くが犠牲にあったのは関東軍の意図したところ、見捨てた結果でもあったのです。現地の開拓団はいざとなれば日本軍(関東軍)が守ってくれると固く信じ込んでいたため、脱出が遅れてしまったのです。それは、関東軍が住民に本当のことを知らせたらパニックになるから言えない(言わない)という論理の帰結でもありました。むごいものです。
敗戦を予期した関東軍高級将校たちは、8月4日ころから家財一切を軍団列車に乗せ、家族を連れて満州を逃げ出した。政府関係者も同じ。指導者を失った関東軍はまったく混乱し、兵隊は銃を捨ててひたすら南に走った。
8月2日、関東軍報道部長はラジオで、「関東軍は盤石。日本人、とくに国境開拓団は安心して仕事を続けて」と安心させた。そのうえで、関東軍の前線部隊は開拓団員や居留民を「玉砕」の道連れにした。
さらに、要塞建設にあたらせた中国人捕虜を、「機密の保護」の名目で殺害した。
満州の前線数百キロにあった堅固な陣地は、昭和20年の春から夏にかけて、日本軍の手によって見るも無残に破壊され、無防備地帯と化していった。
満蒙開拓団員や居留民を根こそぎ動員して関東軍は人員不足を埋めたものの、それでも定員の7割には達していなかった。そのうえ、新兵には三八式歩兵銃(明治38年の日露戦争時の銃)を支給したものの、その弾丸は十分ではなかった。新兵は訓練もろくに受けず、第二線陣地構築の労務を従事させられた。
ソ連軍は大きなT34戦車が何十台も一隊をなしてやって来るが、日本軍には戦車が1台もなかった。ソ連軍は各種の大砲を何十門も砲口を備えて打ち出すのに、日本軍は、加農砲3門、迫撃砲5門ほどしかない。ソ連軍は飛行機で絶えず偵察し、爆撃してくるが、日本軍には1機もなかった。日本軍の戦車は構造が時代遅れで、出力は弱く、ソ連軍の軽戦車とも比較にならないほどの弱さだった。
満州に来たソ連軍は独ソ戦に従事していたので、疲労困憊していた囚人部隊だというのは誤った俗説。独ソ戦のあとリフレッシュもできていて、新兵も補充されていた。そして政治教育は徹底していた。さらに、囚人だけの部隊はなく、囚人といっても経済犯が主であり、イレズミの囚人兵たちがソ連軍の主力というのは間違い。
いやあ、いろんな真実が語られています。さすがは学者です。1945年8月に日ソ戦争の状況を正しく知ることのできる貴重な本です。
(2020年7月刊。2700円+税)

赤星鉄馬、消えた富豪

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 与那原 恵 、 出版 中央公論新社
全然知らない人でした。その名前を聞いたこともありません。
若くして大変な大金持ちだったというのですが、どうしてそんなことが可能だったのか、それも不思議でした。この本を読むと、要するに、権力者との太いコネ、そして戦争です。
まるで、アベ友の話と同じです。アベノマスクやGOTOキャンペーンは、アベの親しい仲間たちが大変な金もうけをできたことは間違いありません。それは決して下々(しもじも)の苦難を救うためではありませんでした。
そして、つい先日、自民党の女性議員たちが先制攻撃ができるようにしろとアベ政府にハッパをかけました。国民の生活はどうなってもよいけれど、「国家」は守らなければいけないという信じられない発想です。そこでは国民あっての「国」というのではありません。「国家」を守るために先制攻撃できるだけの強力な武器を備えるべきだという要請です。恐ろしい発想です。
赤星鉄馬の父は薩摩藩出身の赤星弥之助。樺山資紀(かばやますけのり)、五代友厚といった薩摩人脈を背景。父の弥之助は、もとは磯永弥之助だったが、赤星家再興のために養子となった。
赤星とは、さそり座の一等星、アンタレスの和名、夏の南の低空に見える赤い星のこと。
弥之助は、西郷隆盛のはじめた西南戦争を無益だと批判して、薩軍に加わらず、妻子ともども桜島に避難していたという。そして、薩英戦争で活躍したアームストロング砲を扱う武器商人のアームストロング社の代理人となった。
本書の主人公の赤星鉄馬はアメリカに留学した。アメリカの日本人は、このころ急増した。明治13年に148人、明治23年に2039人、鉄馬がアメリカに渡った明治33年に3万4326人、10年後の明治43年には2倍超の7万2157人となった。このころ永井荷風もアメリカに渡り、4年間の滞米生活を『あめりか物語』に描いている。これも私は知りませんでした…。
ところが、父の赤星弥之助は、明治37年12月に50歳で亡くなった(癌)。鉄馬が22歳、アメリカにいるときのこと。それで300万円の資産を相続した。「大日本百万長者一覧表」で三井や浅野などの財閥の総帥と肩を並べている。今の300万円とは、まるで違うのですね。
アメリカから日本に戻り、1年の兵役もすませると、結婚し、新婚旅行として、世界一周旅行に出かけた。さすがに超大金持ちは発想が違いますね。28歳の鉄馬が美人の妻(21歳)を連れて、トマス・クックの手引きで世界一周旅行に出かけたのでした。そのころ、トマス・クック社は3ヶ月間で2340円の世界一周旅行を上流階級の人々に売り込んでいたとのこと。
大正3年(1914年)に起きたジーメンス事件で、鉄馬は何の関係もしていないが、マスコミは鉄馬の名前をあげて軍部と経済人の癒着を問題とし、世間が沸騰した。
鉄馬は父から受け継いでいた資産を売りに出した。それは、510万円(今の110億4千万円)にのぼった。このお金の一部で、「財団法人敬明会」を設立し、皇族などを表に立てた。
鉄馬はゴルフや釣りを楽しんだ。鉄馬は釣りが好きなことから、ブラックバス(魚)の日本への投入に積極的だった。今では、ブラックバスは肉食魚として嫌われものでしかありません。
この本によると、吉田茂は戦前、大勢のスパイに監視されていたとのことです。知りませんでした。男女3人が女中や書生に化けていました。陸軍中野学校出身者である東輝次軍曹は、吉田の動静を逐一、報告していた。吉田宛ての手紙も開封して持参のカメラで写しとっていた。
鉄馬は、1951年(昭和26年)11月に69歳で亡くなった。
この本を読むまで、まったく知らなかった人の人生の一端を知ることのできた本です。
戦争で人を殺すのが金もうけにつながるというのは信じられないことですが、実際に、そうやってぜいたくな暮らしを過ごしているのですね…。許せませんが、今もそんな人たちが大勢いるのでしょう。
(2019年11月刊。2500円+税)

帝銀事件と日本の秘密戦

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 山田 朗 、 出版 新日本出版社
帝銀事件とは1948年1月26日、東京で発生した銀行強盗殺人事件。銀行員12人が毒殺され、現金・小切手500万円が盗まれた。画家の平沢貞通が8月に逮捕され、9月に犯行を「自白」。しかし、裁判では一貫して否認して無実を主張したが、1955年に死刑が確定した。その後、19回も再審請求したが、すべて却下(今も請求中)。平沢は死刑執行も釈放もされず、事件から9年後の1987年5月に95歳で死亡した。
この本は帝銀事件の捜査にあたった警視庁捜査一家の甲斐文助係長の個人的なメモ(全12巻、3000頁、80万字という膨大なもの)を著者がパソコンに入力してデータとして整理しなおしたものをもととしています。
10人以上の銀行員に対して、平然と毒を飲ませ(行員を安心させるため自分も一口飲んでいる)たという手口、しかも、2回に分けて飲ませ、即死ではなく数分後に全員が死ぬ毒物という、素人にはとても出来ない手口。それは、人を何度も殺したことのある、しかも毒物の扱いに慣れた者でなければやれないことは明らか。素人の画家に出来るような手口ではない。
この甲斐捜査手記によると、捜査本部は、毒物(青酸化合物)を扱っていた日本陸軍の機関、部隊にターゲットを絞って捜査をすすめていたことが判明する。これらの関係者は、帝銀事件の犯人は、そのような機関ないし部隊の出身者だし、青酸化合物は青酸ニトリールだと特定した。もちろん、そのなかには、例の七三一部隊もふくまれている。
石井四郎にも何回となく面談して追求しているのですが、いつものらりくらりだったようです。それにしても、著者は、戦後3年もたってない1948年1月(犯行日)から8月までのあいだに、日本軍の秘密戦争機関・部隊のほぼ全容を警視庁の捜査本部が把握していたことに驚いています。ただし、占領軍が七三一部隊の石井四郎以下と取引して、「研究」資料の提供とひきかえに免責したこと、世間には一切秘匿にしたままにするという大方針でもありました。
その結果、日本軍が中国大陸で残虐非道なことをしていたことを日本国民は知らされず、知ることなく、ひらすら戦争の被害者とばかり思い込むようになって今日に至っているわけです。
この本のなかに、七三一部隊と同じことをしていた日本人医学者の次のような述懐が紹介されています。恐るべき内容です。戦争は本当に怖いものです。
「はじめは厭(いや)であったが、馴(な)れると一つの趣味になった。
オレが先に飲んでみせるから心配しなくともよいから飲めと言ってやった。捕虜の茶碗には印をつけてある(ので、自分は安心して飲める)」
目の前で生きた人間に毒物を投与して死に至らしめる残酷な実験が「馴れると一つの趣味になる」というのは、戦争が、あるいは軍事科学に歯どめなく没入することは、人間の正常な倫理観を破壊してしまうことを示している。戦争に勝利するため、研究成果をあげるという大義名分がかかげられたとき、真面目な人間、使命感をもつ研究者であればあるほど、人間性を喪失してしまうという戦争の恐ろしさを示す実例だ。いやはや、人を殺すのが「趣味」になった科学者(医師)がいたのですね。チャップリンの映画「殺人狂時代」を思い出します。
七三一部隊と同じようなことをしていた「六研」での話…。
人間には荷札をつけ、青酸ガスを吸わせて、「1号は何分(で死んだ)、2号は何分」と観察する。そして、その死後の遺体処分は、特設焼却場で電気仕掛けでミジンも残らないようにしてしまう。粉にして上空に飛ばしてしまう。
「捕虜」とされているのは、「反満抗日運動」によって捕まった中国の人々であったり、ロシア人であったりした。
七三一部隊は敗戦直前の1945年8月11、12日の2日間で、残っていた捕虜400人近くを全員殺した。4分の1は縄を一本ずつ与えたので、首吊り自殺した。残りは青酸カリを飲ませたり、クロロホルム注射で殺して「処理」した。青酸ガスで殺したという報告もある。
いやはや、日本陸軍というもののあまりに残酷な本質に接すると、同じ日本人として身の毛がよだちます。本当に残念ですが、中国の人々には申し訳ないことをしたと思います。これは決して自虐史観なんかではありません。
1948年は、極東軍事裁判でA級戦犯に対する判決が出された年であり、BC級戦犯の裁判はまだ継続していた。大牟田にあった連合軍捕虜収容所の初代・二代の所長は捕虜虐殺(アメリカ人2人が死亡)によって死刑となり、絞首刑1号そして2号となりました。
この同じ時期に同じような、はるかに大量の「捕虜」殺害をした七三一部隊の石井四郎部隊長以下は免責され、やがて要職を歴任していったのです。
平沢貞通は、政治力学に翻弄された哀れな犠牲者だった。まさしく、そのとおりです。
大変な労作に驚嘆してしまいました。
(2020年7月刊。2000円+税)

告白

カテゴリー:日本史(戦前・戦中)

(霧山昴)
著者 川 恵実 、 出版 かもがわ出版
岐阜・黒川の満蒙開拓団73年の記録というサブ・タイトルのついた本です。2017年8月に、NHKのEテレ特集が本になったものです。衝撃的な内容です。
岐阜県の黒川開拓団650人は日本敗戦に孤立し、中国人から襲撃されていた。そこで、開拓団が生きのびるため18歳以上20歳前後の未婚女性15人をソ連兵に差し出し、「性の接待」をし、そのおかげでソ連兵から護衛され、食糧などをもらって1年間生きのび、650人の団員のうち450人が日本に帰国することができた。
このとき「接待」した当時20歳の女性が顔と名前を出して、証言したのです。
黒川開拓団が入植した場所は、ハルピンと新京の中間あたり。開拓団に行った人は、日本でも生活に困窮していた人々。国策に応じて村をあげて満州に渡った。黒川開拓団の隣の開拓団は敗戦直後に270人が全員自決したところもあった。
黒川開拓団でも自決しようという声は強かったが、生きて日本に帰ろうと呼びかける人がいて、まとまった。そして、中国の匪賊を追い払ってもらおうとソ連兵に助けを求めに行った。
お母さん、お母さんって泣くだけ…。医務室に行くのも恥ずかしいよ。洗浄してもらうじゃない。子どもが出来たら困るのと、病気が移っちゃ困るのと…。
15人の女性のうち4人が性病や発疹チフスで命を落とした。
この本を読んで救われるのは、日本に帰国してから、開拓団仲間などと結婚し、子どもをもうけて、苦労しながらも幸せに暮らしたことが写真とともに紹介されていることです(もちろん、映像でも紹介されたことでしょう)。
ただ、日本の子どもたちに戦争の苦労の話をするときに、さすがに「性の接待」の話はしなかったとのこと。それはそうでしょうね、ちょっと難しすぎますよね…。
貴重な歴史記録を映像と写真で生々しく伝えてくれる本でした。目をそらしたいけれど、目をそむいてはいけない重たい歴史です。一読をおすすめします。
(2020年3月刊。2500円+税)

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