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カテゴリー: 日本史(古代史)

魏志倭人伝と邪馬台国

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者  榊原 英夫 、 出版  海島社
 私は、もちろん邪馬台国は九州にあったと考えています。その後、大和に移っていったのです。それが日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の話につながります。では、九州のどこか・・・。個人的には、瀬高の大和(ヤマト)説です。いえ、吉野ヶ里でもいいのですが・・・。
 ところが、ヤマトの纏向(まきむく)遺跡に大型建物跡が発見されると、大和説をマスコミが強調してしまい、面白くありません。でも、この本の著者は、そのマスコミによる通説に待ったをかけています。頼もしい助っ人です。志賀島で発見された金印にある「漢委奴国王」の「委奴」は何と読むのか・・・。
 古くは、「委奴」を「いど」と読んでいたそうです。その後、「漢の委(わ)の奴(な)」と読む説が登場したとのこと。ただし、後漢では「倭奴(わな)」という国名と認識していたようです。
 金印は、志賀島の南端の傾斜地の土中、大人2人で動かした大石の下から見つかった。とても王墓とも墓とも言えない状況のようです。
 著者は、この金印について「倭奴国」が自力で「倭」地域の盟主になることを期待する後漢から餞別(せんべつ)だったと考えています。
 「倭漢著」倭伝にある「倭国王帥升(すいしょう)」は、「伊都国王」であると推認できる。
 「魏志倭人伝」は特異な存在だ。文字数が極端に多い。「倭国」が文明が文明国であり、魏にとって重要なことを強調している。
 「奴(な)国」は、空見川流域の早良(さわら)に平野にあった。
 「不弥(ふみ)国」は、宇美町にあたる。「伊都国」は、旧怡土(いと)郡志摩郡にあたる。
 「倭の奴(な)国」ではなく、「奴」は「の」と呼ばれていた。
 邪馬台国は、「女王の都(みやこ)する所」である、倭国を代表する国、すると7万戸、人口35万人というからには「須玖遺跡群」や「比恵・那珂遺跡」あたり、つまり春日市から福岡市博多区南部にかけた一帯だというのが著者の説です。
 なるほど、春日市の遺跡と博物館を見学したことがありますが、ここからは博多湾を見渡せる地形でもあり、豊富な遺物の土器から、邪馬台国があったかもしれないと実感しました。
 倭国は「絹の国」だった。自国で絹を生産し、魏から大量の絹製品を下賜(かし)されていた倭国(邪馬台国連合)は北部九州に存在していた。まったくそのとおりです。
(2022年11月刊。1800円+税)

ジェンダーレスの日本史

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者  大塚 ひかり 、 出版  中公新書ラクレ
 トロイア遺跡の発掘で有名なシュリーマンは明治の初めころに日本に来て、公衆浴場の前を通ると、30人から40人の全裸の男女が出てきて、驚きました。そうなんです。このころの風呂は男女混浴があたり前でした。
 それを見たシュリーマンは、「名前に男性形、女性形、中性形の区別をもたない日本語があたかも日常生活において実践されているかのようだ」と話したのでした。
 そのとおり、日本語には性がありません。私は長くフランス語を勉強していますが、この名刺は女性形なのか男性形なのか、今でも迷うことがしばしばです。これは直観に頼って覚えておくしかありません。
 日本の『古事記』や『日本書紀』という正史には、神々のセックスで国や国土が生まれたと堂々と書かれている。性は良いもの、大事なものという前提がある。子作り以外のセックスを罪悪視するキリスト教とは根本的に違っている。なーるほど、そうですよね。
 平安時代の美形は男女ともに、「きよら」とか「にほふ」というコトバで形容されている。
古墳時代前期における女性首長の割合は全国で5割以下、畿内では3割以下で、つまり3割から5割ほどの女性首長が古墳時代前期に存在した。
 いやあ、これってすごいことですよね。日本古来の現実は、女性が活躍する時代だったのです。そう言えば、天皇の先祖はアマテラスという女神でしたよね。そして、神功(じんぐう)皇后はもとより、推古から称徳まで、6人8代の女帝が立て続けに出ていました。なので、現代日本で女帝は認められない、それは日本古来の伝統なのだから・・・というのは、真っ赤な大嘘なのです。自民党の議員さんたちは少しは古代日本の歴史も勉強して下さい。
 平安時代になって、最高権力者の任命でもめたとき、決定権があるのは国母だった。国母、つまり天皇の母に決定権があったのです。国のトップは関白頼道(よりみち)でも天皇でもなく、80歳の彰子でした。
 鎌倉時代になっても、東は北条政子と義時の姉弟、西は後鳥羽院の乳母(めのと)の郷二位が牛耳っている。このように僧慈円は『愚管抄』に書いている。
 日本は明治後半まで、ずっと夫婦別姓だった。平安時代、藤原道長の妻は源倫子と源明子。鎌倉時代、源頼朝の妻は北条政子。室町時代、足利義政の妻は日野富子。
 夫婦同姓になったのは明治31(1898)年に明治民法が施行されてからのこと。わずか100年あまりのことにすぎないのです。
 古代社会、そして平安時代まで、新婚家庭の経済は妻方が負担し、家・土地は娘が受け継ぐことも多かったことから、子の父が誰かは大した問題ではなかった。
 いやあ、これは現代日本とはかなり異なる観念ですよね・・・。
お歯黒をつけるというのは江戸時代の女性とばかり思っていると、この本では、将軍も武士も上流階級の男はお歯黒していたというのです。そして、それが明治期まで続いていたというのには驚きました。
 知らないこと、思い込んでいることがいかに多いかと改めて思い知らされる本です。
 「日本古来の・・・」と自民党が言うのも、大半は「明治の人達は・・・」ということだということもよく分かる新書です。すらすらと読めますから、ご一読ください。
(2022年11月刊。990円)

東アジアからみた「大化改新」

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 仁藤 敦史 、 出版 吉川弘文館
 大化改新なるものが本当にあったのか最近まで疑問視されていましたが、今ではやはりあったということになっているようです。
 曽我入鹿(いるか)と父の蝦夷(えみし)が殺害され、また自死して曽我大臣家は滅んだ(645年)。これは乙己(いつし)の変と呼ばれる。大化改新は、その後に続く政治改革のこと。
 公地公民の原則、班田収授法、統一的な税制がその内容。
 この本は、日本の動きを、東アジア諸国における、随・唐帝国の動き、高句麗の泉蓋(せんがい)蘇文(そぶん)へ、新羅(しらぎ)の義慈(ぎじ)王への権力集中といった動きのなかで、位置づけてみようという本です。
 皇極(斉明)と中大兄は、百済との交渉を継続し、国土防衛を重視して飛鳥遷都(653年)や大律遷都を行い、不本意なままの強制退位に抵抗すべく斉明女帝として復位(重祚、ちょうそ)する。ところが、倭国は白村江(はくすきのえ)で大敗し、唐・新羅の侵攻軍に備えて山城や水城を築いて守りをかためた。
 唐は、隋の滅亡が高句麗遠征の失敗を名分に成立した王朝であったから、内政へ波及するのを恐れ、当初は高句麗への軍事行動に慎重だった。それでも644年、ついに唐の太宋は高句麗征討を決意した。
 新羅では、唐依存派と自立派の対立が激化した。このころ、日本(倭国)における大王の即位適齢期は40歳とされていた。
百済からの先進文物の安定的供給と豪族らへの再分配が蘇我氏政権の権威の源泉だった。大化期は、それまでの親百済色が強かった曽我氏政権に比較して、親唐・新羅的政策が強まった。
大化のころは、唐・新羅と結んで国力を強化しようと考え、孝徳擁立を画策した右大臣の蘇我石川麻呂・中臣鎌足らのグループと、皇極(百済)・中大兄と白雉期の左大臣巨勢須太臣らの反新羅・親百済・高句麗路線が対立していたと考えられる。
大化期には、親唐・新羅派が優勢だった。その後、両者の勢力は拮抗していた。新羅との交流再開を前提として、金春秋氏の仲介により唐との断絶状態は解消され、白雉(はくち)4年と5年という、連年の遣唐使派遣につながっていく。これは、大化の新政権の新たな外交立場として新唐・新羅政策が採用されたということ。
その後、親百済派の台頭により政権内の対立が顕在化し、対外的に明確な新百済や新新羅という外交族を示すことができなくなった。
日本における大化改新を考えるうえでも、日本の外にある随・唐の大帝国の存在、朝鮮半島内の政権(統治者)の動向をきちんとみる必要があるようです。考えさせられました。
(2022年9月刊。税込1870円)

九州装飾古墳のすべて

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 池内 克史 、 出版 東京書籍
日本列島にある装飾古墳は600基ほど。古墳総数10万基のなかではごくわずか。
半数以上が九州の北部ないし中部に集中している。次いで、北関東から南東北にかけての地域と鳥取県を中心とする山陰東部。
福岡の石人山古墳は石棺系の装飾古墳。福岡の竹原古墳は石室の奥壁に被葬者の事続を表したと思われる物語風テーマが描かれている、壁画系。ほかに、石障系と横穴系もある。
奈良県の高松塚古墳で壁画が発見されたのは1972(昭和47)年のこと。このとき、極彩色の飛鳥美人が突然、世の中にあらわれ、世間の耳目を大いに集めました。私も本当にびっくりしました。まるで源氏物語絵巻が古墳時代にもあったと思いました。写実性と革新的な描画技法が注目され、また使われた顔料も、それまでの装飾古墳とは異なっていたのです。
装飾古墳は、古墳文化の中心である近畿地方中央部になぜか存在していない。著者は、ここに注目しています。さらに著者は、「磐井(いわい)の乱」と一般に呼ばれている筑紫君・磐井の墓とみられている福岡・八女の岩戸山古墳が、継体大王の墓である大阪の今城塚古墳と類縁関係が認められることを強調しています。両者は対立ばかりしていたのではないというのです。
福岡の筑後川流域にある装飾古墳では、同心円文が好んで描かれ、また、船が主要な画題になっている。その船は、天鳥船(あまのとりふね)、つまり葬送船。これは海上他界観が存在したことを裏づけるもの。
装飾古墳は、いったい誰のため、誰が見るものなのか…。著者は会葬者に見せるためのものと考えています。なるほど、と思いました。
装飾古墳は、実物は日々劣化しているので、それをどうやって保存するか、著者たちは、最新のコンピューター技術を駆使して、その保存に挑戦しています。CG技術を駆使することで、実際には古墳の中に立ち入らなくても、あたかも古墳の中にいるかのような体験を味わってもらう技術です。すごいことですね…。
少しばかり高価な本ですが、実は、DVDが付録としてついていて、それによって3Dを見て楽しめます。本もカラー写真がたくさんあって、装飾古墳を居ながらにして見て楽しめる貴重な本となっています。ぜひ、あなたも手にとってみてください。
(2015年6月刊。税込3080円)

倭国の古代学

カテゴリー:日本史(古代史)

(霧山昴)
著者 坂 靖 、 出版 新泉社
この本は、うれしいことに邪馬台国は九州にあったとしています。ただし、3世紀半ばの日本列島において、広く西日本一帯を統治するような強大な権力を保持した女王の存在を認める余地はないと断言するのです。つまり、女王卑弥呼や壱与の統治の範囲は北部九州に限られていたのです。
奈良の纏向(まきむく)遺跡の規模が小さく、また中国官人の流入を示す楽浪系土器の出土がまったくないことが理由としてあげられています。
これに対して、4世紀になってヤマト王権は奈良盆地に成立したと断言します。先ほどの纏向遺跡を支配の拠点としていて、ヤマト王権の初代王墓は箸墓(はしはか)古墳だとしています。
朝鮮半島にかつて「任那日本府」があったと教科書にありましたが、今は削除されています。そのころ「日本」という国号は使われてもいなかったのです。そして、朝鮮半島では6世紀まで、ここには小地域を支配していた部族国家群しか存在していなかった。ただし、倭国の各地の王や倭人が朝鮮半島南部で積極的な活動をしていたこと自体は事実。
5世紀ころのヤマト王権は、奈良盆地東南部、中央部と北部そして大阪平野南部という3ヶ所に王の支配拠点を設け、それらの王が鼎立(ていりつ)していた。地域支配を実現した王どうしが、相互に激しい権力闘争をくり広げ、しのぎを削っていて、政権の安定にはほど遠い状況にあった。したがって、日本列島各地は、まだヤマト王権の支配下にはなかった。
稲荷山鉄剣銘文の「ワカタケル大王」は、「大王」を初めて称したのが、この「ワカタケル」であった。そして、このワカタケル大王は中国の順帝に倭王武として朝貢した。「かづらぎ」の王やキビ王権と対立し、その反乱を抑えて大王に即位したのがワカタケルだった。「キ」の王の力をどうやって抑えるかが課題だった。
倭国において、継体(オオド)大王の晩年から鉄明大王の時代にかけてのころ、朝鮮半島西南部、南部の小国はすべて滅亡した。
朝鮮半島西南部を出自とする渡来系集団が飛鳥(アスカ)の開発を主導し、氏族へ成長する。それが蘇我氏である。
鉄明大王の時代に、飛鳥に拠点を構えたのが蘇我稲目である。稲目の女(むすめ)の堅塩(きたし)女臣が、鉄明大王の妃であり、用明大王と推古大王の母である。
倭国王となって中国と交渉を開始してからも国土を統一するまでには、5世紀のあいだ、ほぼ100年という期間を要した。日本列島に統一国家が成立したのは、飛鳥時代以降である。
写真や図もたくさんあって、古代史についての総復習にもなる本として強く推薦します。
(2021年11月刊。税込2970円)

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