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カテゴリー: 日本史(中世)

風は山河より

カテゴリー:日本史(中世)

著者:宮城谷昌光、出版社:新潮社
 徳川家康が三河一帯を支配する前から始まる大河小説です。主人公は三河の武士である菅沼三代。東から武田信玄が攻めてきて、織田信長が西にいて、両雄のあいだで揺れ動かざるをえません。5巻ものの大長編です。『小説新潮』に2002年4月号から2007年3月号まで連載されていたそうです。
 モノカキのはしくれを自称している私は「あとがき」に目がひかれました。いやあ、ホンモノの小説家って、ホント、大変なんですね。
 連載開始後、一年もたたぬうちに、つらさをおぼえた。そのつらさは軽減するどころか、増大しはじめた。小説をつづけてゆくうえで調べなければならぬことが山ほどあり、毎日、5時間ほど資料と文献を読んだあと、原稿用紙にむかうと、疲れはてた自分がいた。そういう状態では、一日に一枚しか原稿を書けない。
 これがいつまで続くのか。そう考えるたびに悪寒をおぼえ、暗澹となった。引くに引けない、とはこういうことであろう。私は尺取り虫のようなものであった。そういう寸進を2年以上続けた。連載回数が50回に近づくころ、ようやく筆が速くなった。その速さに、自分でもおどろいた。結末が遠いながらもはっきりとみえたことで、小説がぶれなくなった。
 すごいですね。ここまでやるのですね。著者は「原稿用紙にむかう」と書いているので、パソコン入力ではないのでしょうね。私と同じ、手書き派だと推測しました。そして、実は、私も5巻ものの大長編小説(実は6巻まで考えています)に挑戦中なのです。既に3巻を出して、近く4巻目を刊行する予定です。私の場合には、結末がまだ自分でも見えてきませんので、主人公たちは一体どうなることやらと思いながら書きすすめています。なにしろ私の分身たちも主人公の一人なのですが、小説というのは書きすすめているうちに独り歩きしていくので、たとえ書き手であっても完全に制御することはできないのです。また、そこに書き手としてのワクワクする楽しみもあるわけですが・・・。
 第1巻は三河の守護の成り立ちの説明から始まっています。室町時代には、細川氏でなければ一色氏であった。しかし、応仁の乱以降、守護の威権ははなはだしく衰え、一色氏は南の渥美を戸田氏に奪われ、足下から台頭した波多野全慶に敗れて、ついに三河を支配する力を喪失した。ところが一色氏に仕えていた牧野古白成時は、今川に近づき、波多野氏に勝って一色氏の旧領の中心部を支配することになる。
 実は、私の配偶者の旧姓は牧野と言います。亡くなった父親は古文書や家系図に関心をもっていて、三河の牧野家の末裔であることを誇りに思っていました。ひょんなところで、牧野家の話が出てきて、驚いてしまいました。
 決断せぬ者を相手にすることは、時の浪費である。うーん、そうなんですね・・・。
 甲斐の武田晴信(のちの信玄)が父の信虎を駿河へ追放した。このとき晴信は21歳、信虎は48歳。うむむ、よほど信虎は家臣から人望を得ていなかったのですね。それにしても、とても信じられない年齢です。
 無沙汰とは、沙汰(訴訟)をとりあげないことをいう。なおざりにすることを意味する。 全5巻を半年かけて、ようやく読みきりました。こんな長編を書くのは本当に大変だったと思いますが、読むほうもそれなりに大変でした。それでも戦国時代の息吹を強く感じさせられ、生きた日本史の勉強になりました。
 私の読めない、意味を知らない漢字、熟語がたくさんあったことにも驚きました。
(2006年12月〜2007年3月刊。1700円+税)

中世のうわさ

カテゴリー:日本史(中世)

著者:酒井紀美、出版社:吉川弘文館
 おぼしきこといはぬは、げにぞ、はらふくるる心ちしける。かかればこそ、むかしの人は、ものいはまほしくなれば、あなをほりては、いひいれ侍りけめ。
 これは、平安時代の歴史物語『大鏡』の序文です。まことに、人間は、思っていることを自分ひとりの腹のうちにためておくことを大の苦手とする生き物ではあります。「ここだけの話だけど・・・」という話は、またたくまに、大勢の人に伝わっていくものです。
 なま身の人間の口や耳を通して伝えられ広がっていく「うわさ」には、それにかかわった膨大な人々の意識、願いや望み、心配や恐れ、それらがないまぜになって、何層にも重なり合って刻みこまれていくことになる。それは、まるで多くの人間の手仕事によって織りあげられた織物のようである。
 中世社会は自力の世界だったと言われる。たとえば、殺害事件が起きたとき、他の第三者にその捜査や解決をゆだねるのではなく、事件の被害者の血縁者や同じ場に生活している集団が、いちはやく動き出し、事件の状況把握につとめ、犯人を捜査し、さらにはその処罰までをも実行するというやり方が、中世社会では普通だった。これを自力救済という。
 何ごとも自分たちの手の届く範囲で解決していこうという姿勢は、中世の人々のもっていた強い集団への帰属意識を軸にしてはじめて実現できるものであった。
 中世の日本社会では、「国中風聞」が物証に匹敵するような地位を占めていた。切り札として「国中風聞」が扱われていた。
 ええーっ、単なる「げなげな話」が物証に匹敵していたなんて・・・。ホントのことでしょうか?
 室町時代の裁判のことが紹介されています。日本人は昔から裁判が嫌いだった、なんて俗説は、まったくの誤りです。日本人は昔も今も(もっとも、今のほうがよほど裁判が少ない気がします)、裁判大好きな民族なのです。そして、それは、日本人が健全な民族であったことを意味する。弁護士生活も33年を過ぎた私は、そのように考えています。
 この本に室町時代の土地争いが紹介されています。有名な東大寺百合文書には、折紙銭、礼物、会釈などという、裁判に要した費用の名目と金額が記録されていました。
 当時、三問三答というルールで裁判は運営されていました。そして、口頭で弁論して、相手を言い負かした人に感状が与えられたのです。
 「器用の言口」(きようのいいくち)とは、相論対決の場で、自分たちの主張を理路整然と展開することのできる力、相手方の矛盾を的確に突き、それを論破する力のことを言います。今の私たち弁護士にも同じものが求められています。私などは、弁護士を長年やっていても、残念ながらなかなか身につきません。いえ、文章のほうは書けるのですが、口頭での対決・論争に自信がないということです。裁判員裁判が始まると、これまでより以上に口頭で論破できる能力が求められることになります。
 風聞(ふうぶん)と巷説(こうせつ)と雑説(ぞうせつ)とを並べてみると、巷説と雑説の方は、その内容に信頼度が低く、風聞のほうが信憑性が高いと考えられていた。
 物言(ものいい)というのは、まだ起こしていない事件についての予言的なうわさを言う。「国中風聞」という事実が、殺害事件の真実に迫る重要な証言とされるのも、人口(じんこう)に乗ることが悪党である徴証のひとつにあげられるのも、落書起請(らくしょきしょう)で犯人を特定する際に実証と並んで風聞にも一定の席が用意されているのも、すべて、中世のうわさに付与されていた力、神慮の世界との密接なかかわりによる。
 同時に、うわさされている内容をくつがえそうとするときには、やはり神慮を問うための手続きが必要とされていた。そのひとつが、精進潔斎したうえで、神前に籠もり、起請文を書いて一定の期間内に「失」があらわれるか否かを問う「参籠起請」であった。
 うむむ、こうなると、中世の日本人と現代の日本人とは、同じ日本人であっても、全然別の人間かなと一瞬思ってしまいました。でも、よくよく考えてみると、今の日本人でも神頼みする人はたくさんいるわけですので、あまり変わっていないのでしょうね。
(2007年3月刊。2600円+税)

声と顔の中世史

カテゴリー:日本史(中世)

著者:蔵持重裕、出版社:吉川弘文館
 日本人は、訴訟沙汰という言葉があるように、昔から裁判が嫌いだった。そんな俗説が常識となっています。でも、とんでもありません。聖徳太子(果たして実在の人物なのか、という疑問を投げかける学者もいますが・・・)の十七条憲法に「和をもって貴しとなす」というのは、それだけ当時の日本人が争いごとを好んでいたことを意味します。そのころも訴訟好きの日本人が、たくさんいたのです。
 この本を読むと、中世の日本人がいかに訴訟を好んでいたか、よく分かります。ただ、今との違いは、弁護人というか職業としての代理人がいないことです。
 『日本書紀』によると、孝徳天皇元年(645年)に、訴える人は伴造(とものみやつこ)など所属する集団の長を通じて名前を記して訴状を書いて函(はこ)に投じて訴え、あつめる役人が毎朝これを取り出して天皇に上奏する。天皇は群卿に示したうえで裁断するというシステムだった。天皇が訴を正当に扱わないときは、訴人は鐘(かね)を打ち鳴らした。
 称徳天皇の天平神護2年(766年)は、律令制国家になっていたが、朝廷のある壬生(みぶ)門で口頭による訴が認められた。
 道長の『御堂関白記』によると、陽明門での大音声での訴があった。これは、天子・官人への訴であるが、同時に平安京の人々への訴でもあった。恐らく口頭による訴を受けて役所ないし官人が訴状を作成したものと思われる。そこで百姓申状が多数のこっている。ただし、夜の訴は認められなかった。その理由は、夜の訴だと訴人が誰か不明だからである。匿名による訴は認められなかった。政敵による謀訴を招くからだった。
 先日、東京地裁へ行きました。門前で一人の男性が坐ってハンドマイクで判決の不当性を大きな声で訴えていました。これって平安時代以来の日本の伝統なのですね。
 鎌倉中期以降、徳政が重視され、裁判制度の充実(雑訴興行)が重視されるようになった。それは、民間での寄せ沙汰、大寺社の強訴(ごうそ)、幕府の裁判制度の充実に対応するものだった。
 鎌倉幕府は、裁判・訴訟の系統を雑務(ざつむ。債権・動産関係)沙汰、検断(けんだん。刑事関係)沙汰、所務(しょむ。所領関係)沙汰の三つに分けた。所務沙汰では、訴状と陳状(答弁書)を3回やりとりする三問三答がおこなわれた。裁許は、引付(ひきつけ。判決草案を作成する役所)頭人より勝訴者に渡される。裁判結果の救済措置もあり、越訴(おっそ)、手続きの過程には庭中(ていちゅう。直訴)があった。
 このように幕府の訴訟制度は、基本的には徹底した文書主義だったが、口訴の訴も認められていた。
 織田信長時代の天正8年(1580年)のこと。貝を吹くというのは刑の執行の告知。貝によって人を集め、その場で罪名を口頭で告知し、たとえば家を焼いた。口頭音声の罪状告知によって、刑は執行の正当性が確認される。
 なーるほど、ですね。日本人は昔から裁判手続を重視し、裁判を為政者は大切にしてきたのです。

武田信玄と勝頼

カテゴリー:日本史(中世)

著者:鴨川達夫、出版社:岩波新書
 タイトルだけからすると、信玄と勝頼という戦国大名の親子の葛藤を古文書にもとづき再現・分析した本のように思えます。しかし、本の中味は、文書にみる戦国大名の実像というサブ・タイトルのとおりです。そして、それはそれなりに面白い内容です。
 私は、ひやあ、そうだったのか、知らなかったなあ、と思いながら、とても興味深く読みすすめていきました。くずし字の古文書を著者のようにスラスラと解読できたら、どんなに世界が広がるかと、私には著者がうらやましくてなりません。
 文書は手紙系の書状と書類系の証文とに大別できる。書状には年紀をつけない。相手が家臣や近隣の大名であるときは、堅切紙(たてぎりがみ。通常の紙を縦に半分程度に切ったもの)が、遠隔の大名のときには切紙(きりがみ。横に半分に切ったもの)が多く使われる。
 証文は、信玄や勝頼が決定した施策や確認した事項を、公式に通達する文書である。各級の家臣や寺社、商工業者や郷村の人々まで、領国内の諸階層に幅広く与えられていた。中身は多岐にわたるが、土地の領有を新規にまたは継続して認めたもの(充行状・あてがいじょう、安堵状・あんどじょう)、各種の義務の免除など何らかの特権を認めたもの、戦場における功績を確認したもの(感状)などが目立つ。体裁は必要な事柄を事務的に記したうえで、「仍って件の如し」(よってくだんのごとし)という文言で結ぶのが原則。そして、年紀が必ず記入される。
 信玄は永禄9年(1566年)夏ころ、証文のつくり方を変えた。それまでは折紙(おりがみ。紙を横に二つ折りにしてつかう)をつかっていたのを、堅紙(たてがみ。紙の全面をつかう)に改めた。また、信玄自身の名義で出すものと、当該案件の担当奉行名義で出すものとに二分し、前者には花押を書き、後者には龍の朱印を捺(お)すことにした。そこで、信玄名義で花押のあるのを判物、奉行名義で朱印のあるものを朱印状と称する。身分の高い相手や重要な案件については判物、それ以外の大半の案件については朱印状というのが原則であった。つまり、朱印状より判物のほうが格が高い。
 出馬と出陣とは違う。出馬は一軍の大将が出動するときにつかう。大将がどこかに滞在することを馬を立てるといい、行動を終えて帰還することは馬を納めるという。大将の下にいる将兵が出動するときには、出陣という。
 信玄の直筆の手紙からすると、信玄には気の小さい、臆病なところがあったと解される。しかし、その一方、きわめて強気な態度を示すこともあった。
 信玄は、遠江・三河を攻めたとき、そのまま京都に攻め上り、天下を取ろうとしたのだという通説に対して著者は疑問を投げかけています。
 信玄の標的が岐阜であり、信長を主敵と考えていたことは間違いないとしても、それは必ずしも本意ではなかった。朝倉義景や本願寺など、当時、信長に圧倒されていた勢力によって反信長陣営に主将として引っぱり出されただけ。
 なーるほど、そうかもしれません。戦国大名の統治形式と心理をうかがい知ることのできる手がかりが得られる本です。

敗者から見た関ヶ原合戦

カテゴリー:日本史(中世)

著者:三池純正、出版社:洋泉社新書y
 関ヶ原合戦の首謀者は、当時の日本を訪れていた朝鮮使節には毛利輝元だと見えていた。その毛利が所領を4分の1に減らされただけで何の処罰も受けることもなく、その配下の石田三成が首謀者として処刑されたのが不思議だと思われていた。
 石田三成は近江佐和山城主19万5千石の大名の一人で、豊臣政権を支えた奉行の一人でしかない。しかも、その奉行の身分は、関ヶ原合戦の直前に徳川家康によって剥奪され、表面上は何の権限も持っていなかった。
 関ヶ原合戦は、石田三成を首謀者に仕立て上げて処刑することで、その責任のすべてを三成に一方的に押し付け、その幕を閉じた。
 私は関ヶ原古戦場跡に2度行ったことがあります。やはり百聞は一見に如かずです。
 この本では、各将が合戦当時に陣取っていた位置を重視しています。毛利軍が陣を布いた南宮山からも、長宗我部のいた栗原山からも合戦場となった関ヶ原はまったく見えない。2万6千という西軍の大軍は、合戦当日、遠くに鉄砲の轟音やときの声を聞いて、黒煙を覆う光景は見えても、両軍が戦う姿は最後まで見えなかった。
 たしかに、関ヶ原の現地に立つと、意外に狭いことに驚かされます。西軍の有力な軍隊が隠れるようにいたというのは、それなりの思惑があったのでしょうね。
 通説は石田三成について典型的な文人官僚であり、軍事に疎い人物だとしている。しかし、果たしてそうだろうか。三成は官僚である前に、何より軍人であり、武将であった。秀吉のそばにずっといて、合戦についての大局的観点や陣城の構築などを学んでいた。つまり、三成が軍事的に疎い、戦下手(いくさべた)などと考えるのは、不自然なのである。
 朝鮮の役についても、文禄・慶長の役を通じ、三成は一貫して兵站・補給力をふくめて国力全体を見通した戦略を構築し、無理な戦いを避けようとした。三成の戦略視点の高さが朝鮮の役で表れている。著者はこう見ます。
 徳川家康は関ヶ原合戦のとき、いくつもの不安材料をかかえていた。安心して合戦にのぞんでいたわけではない。福島正則ら豊臣系大名を味方につけていたが、それは「三成憎し」という感情や、その場の雰囲気からであって、もし大坂城にいる秀頼が毛利輝元に擁されて出陣してくれば、どう心変わりするか知れない。
 会津の上杉の動きも心配だった。上杉と三成が連携し、上杉が佐竹とともに攻め込んできたら、前後からはさみ撃ちされる心配があった。
 頼みの伊達政宗も、その家臣団は一枚岩ではなく、すべてが家康寄りではなかった。だから、家康は江戸を動けなかった。それで家康は全国の諸将に書状を書きまくった。何と160通にものぼる。そして、肝心の徳川本軍3万8千は、信州の真田昌幸の攻城に予想外に手間どり、関ヶ原合戦には間に合わなかった。ことは重大であった。
 東軍は西軍の移動を察知することが出来ず、西軍を関ヶ原に着陣させるという失態を演じた。しかしながら、南宮山に陣取った毛利隊は戦う気がないのを東軍に見抜かれていた。長宗我部も同じで、合戦を放棄していた。
 三成は松尾山城を重視し、西軍にとって錦の御旗となるべき城と考えていた。そこに三成は毛利輝元を入れるつもりだった。ところが、そこにもっとも警戒していた小早川秀秋が入りこみ、三成の計画は頓挫してしまった。
 三成の作戦は決して場当たり的なものではなく、以前から用意周到に考えられ準備されたものだったのだ。三成、恐るべし、である。
 小早川秀秋は周囲を東軍に固められていて、西軍に味方することなど不可能だった。要は、東軍につくタイミングだけの問題だった。
 関ヶ原合戦について、新しい視野がぐんと広がる、そんな気にさせる面白い本です。

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