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カテゴリー: 日本史(中世)

享徳の乱

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 峰岸 純夫 、 出版  講談社選書メチエ
応仁の乱の前に30年も続いた享徳の乱というのがあったのですね、知りませんでした。とても分かりやすい文章で、なるほどなるほどと読みすすめることができました。
戦国時代は応仁・文明の乱より13年も早く、関東から始まった。応仁・文明の乱は関東の大乱が波及して起きた。
関東の大乱は、享徳3年(1454年)、鎌倉(古河)公方(くぼう)の足利成氏(しげうじ)が補佐役である関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺した事件を発端として内乱が発生し、以後28年にわたって東国が混乱をきわめた事態をいう。
この享徳の乱は、単に関東における古河(こが)公方と上杉方の対立ではなく、その本質は上杉氏を支える京の幕府・足利義政政権が古河公方の打倒に乗り出した東西戦争である。
南北朝の内乱は57年間続いたが、享徳の乱は28年間も続いた。応仁・文明の11年間よりはるかに長い。源平合戦(治承・寿永の内乱)は5年間でしかない。
一揆というのは、百姓だけでなく、武士であっても、揆(やりかた)を一にするものをいう。
足利成氏が12月27日自邸で上杉憲忠誅殺事件を起こすその11月23日と12月10日に大地震が起きている。また、応仁・文明の乱の直前には大飢饉が発生していた。
1456年には、大きな彗星(ほうき星)が出現して、人々の不安が高まった。ハレー彗星の出現である。
中世の支配構造は職(しき)の体系と呼ばれる重層的なものであった。すなわち、同一の所領について、現地の地頭職、中間の領家職、上部の本家職などが重なって、それぞれの所得分の権利となっていた。つまり、「この所領は、わがもの」といえる主体か何人もいた。
足利成氏は享徳の乱の28年間、粘り強い戦いによって幕府、上杉方と五分に渡りあい、事実上の勝利をもたらした。成氏という人には並々ならぬ器量があった。
やがて太田道灌や北条早雲が舞台に登場してきます。戦国大名の形成過程がたどられています。
戦国大名に成長していった勢力には、その出身別にみると、前代の守護・守護代や国衆といわれる在地勢力があげられる、それらが戦国争乱の過程で上剋下や下剋上といった抗争や地域間の争覇を通じて権力を拡大して、一国ないし半国以上の領域を掌握して戦国大名となっていく。
まことに世の中には知らないことがたくさんあるものです。
(2017年10月刊。1550円+税)

一遍、捨聖の思想

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 桜井 哲夫 、 出版  平凡社新書
一遍(いっぺん)上人(しょうにん)って、街頭で人々と一緒に踊っている人ですよね。捨聖とは、「すてひじり」と読みます。
一遍は、1239年、四国の伊予松山に武将、河野通広の次男として生まれた。一遍は30代のとき、再び出家したが、河野家内部の権力争いにも原因があった。
「阿弥陀仏」(あみだぶつ)は、サンスクリットで「アミターユス」(無限(無量)の寿命をもつもの)と「アミターバ(無限(無量)の 明をもつもの)という二つの仏名で表現される。
「浄土」という漢語をつくって、中国で術語として定看させたのは、鳩摩羅什(クマラジュー)である。それは、「諸仏の浄土」であって、阿弥陀仏の極楽を指していたわけではない。 「極楽」とは、サンスクリット語で、スカーブフラィーと言う。「楽のあるところ」という意味で、鳩摩羅什が、これを「極楽」と訳した。
「聖」(ひじり)の語源は、「日知り」で、太陽が世の隅々まで照らすようにこの世のことをすべて知るという意味。
善導の主張の中心は、凡夫が阿弥陀仏の浄土に生まれることができるという点にあった。ひとは皆凡夫であり、その凡夫もまた、口で称える念仏で弥陀の浄土に往生できるという教えである。これは、中国では認められていないものだった。
念仏者には、智恵も愚痴も、善も悪も、身分の上下も何の関係もない。地獄を恐れたり、極楽を願ったりする気持ちも捨て、すぐれた諸宗派の智者。教えも捨て、一切を捨てて称える念仏こそ、阿弥陀如来の本願にかなっている。
鎌倉の宗教界の様子を知ることができました。
(2017年8月刊。860円+税)

中世ふしぎ絵巻

カテゴリー:日本史(中世)

(霧山昴)
著者 西山 克(文)、北村 さゆり(画) 、 出版  ウェッジ
変わった(凝った)装丁の本です。絵を主体として、解説しているように見えて、やはり文章が主体の絵巻解説本です。
『百鬼夜行絵巻』とか『百怪図巻』というものがあるそうですが、この本はそれをやや現代風にアレンジした感じの妖怪たちが描かれています。
そして、厩(うまや)につながれている馬が人の言葉をしゃべったという話ものせる怪異譚(たん)が紹介されています。
若い女は孤の化身だったとか、病気になった関白の肩に「小さき孤の美しげなる」が乗っていたのが目撃されたという話も紹介されています。
皆既日食をパロディー化した『百鬼ノ図』がある。日食の時間帯に、御法度(ごはっと)の歌舞音曲を楽しむ妖物たち。日食の間を待ちかねてメイクを始める化粧道具の怪。その闇の中で、妖物たちを解放する鬼卒(きそつ)。
『妖物記』は、寛正(1460年ころ)の飢饉という、大災害の記憶を留めるものとして描かれた。
天皇の家政機関に「作物所」があった。「つくもどころ」と呼ぶ。
先食台(せんじきだい)は、本当は施食台(せじきだい)であり、死者、いわば餓鬼や鬼神たちが一飯に与(あず)かっていた。
不思議な花があった。金花、銀花。本当に花なのか・・・。二人の陰陽師(おんみょうじ)の一人は花と言い、他方は花ではないと断言する。その正体は、クサカゲロウという昆虫の卵。
昔から日本でゲイの人を「おかま」と呼ぶことがあるのは、釜鳴りを鎮める呪法には異性装がからんでいた。そして、釜鳴りを鎮める呪法とかかわっていたから、「おかま」と呼ばれるようになったのではないか・・・。
なかなか読ませて魅せる長文の解説付きの妖怪絵本です。少し高価なので、せめて図書館で閲覧してみて下さい。
(2017年6月刊。3200円+税)

描かれた倭寇

カテゴリー:日本史(中世)

                                 (霧山昴)
著者  東京大学史料編纂所 、 出版  吉川弘文館
 日本の中世、14世紀ころ、日本の倭寇が朝鮮・中国の海岸部を荒らしまわったようです。
 中国は明王朝、朝鮮は高麗王朝から李王朝に変わったころのことです。そして、この倭寇は、16世紀になっても活発に動いていたのでした。しかし、後期倭寇は、果たして日本人なのか・・・、という疑問があります。
 この本は、後期倭寇を描いた「倭寇図巻」を詳細に検討したものです。高精細デジタルカメラによる赤外線撮影によって、肉眼では読み取れない文字が読めるようになった成果をふまえています。
「倭寇図巻」には、多くの類似した作品があった。そして倭寇を描く絵画は「倭寇図巻」だけではなかった。「倭寇図巻」を東京大学史料編纂所は、1923年より前から所蔵していた。そして、天安門広場にある中国国家博物館は「抗倭寇巻」を所蔵している。
両者の絵を紹介しつつ、その異同を細かく検討しています。なるほど、なるほどと思いながら、読みすすめていきました。
 倭寇というからには、日本人のはずです。そして、日本のイメージというのは、日本刀と日本製の折り扇だったのでした。扇も日本刀も、15世紀から16世紀半ばまで続いた遣明船貿易のなかで、日本から大量に輸出された商品だった。細身で強い反りを特徴とする日本刀は、多いときには公貿易分だけで3万7000本も中国に持ち込まれた。その値段は、量に反比例して、1本10貫文(100万円)から、1貫文まで下落した。1回の貿易で多いときには10万貫文もの売り上げを誇る最大級の輸出品だった。扇もまた大量に中国へ輸出された。15世紀前半、遣明船1回の公貿易だけで、2200本という記録がある。日本製の折り扇は人気の品であり、15世紀半ばの遣明船で明に赴いた僧侶は、扇1本で翰墨(かんぼく)全書一式を手に入れた。また、16世紀の遣明使節の日記には、扇を売って買い物費用を調達したり、世話になった明人たちへの贈答品にしたことが記されている。これらの日本製というイメージの濃い日本刀や扇が倭寇を示す記号として絵に描かれている。
果たして倭寇とは日本人なのかという疑問を解明することは出来ませんが、中国人(明時代の)倭寇のイメージをビジュアルにとらえることのできる貴重な本だと思いました。
 
 
(2014年10月刊。2500円+税)

古代・中世の芸能と買売春

カテゴリー:日本史(中世)

著者  服藤 早苗 、 出版  明石書店
奈良時代の采女(うねめ)は、地方の郡司層の容貌の良い若い女性が選ばれ、はるばる都の朝廷に宮人として仕え、任を終えれば帰郷できた。
遊行女婦(うかれめ)や娘子(おとめ)たちの中には、都の官人にひけをとらない教養を身につけた地方出身の女性たちが多くいた。そして、宴のあとの性的交渉は、古来からの伝統であった。専門歌人として宴に列席した遊行女婦と都下りの官人たちとの共寝は、しごく自然の成り行きだった。
遊女は、性を売る芸能兼業女性として、9世紀末期ころから成立した。
 妻が夫以外の男性と性関係をもっても、それほど非難されず、それだけで離婚になることはなかった。
 男性がプロポーズしても、女性が同意しなければ、性愛関係はもてない。さらに、女性の母の同意がなければ、性関係も無理だった。女性は一緒に寝たいと素直に表現し、同意すると、男性は夜に通った。
 男女関係も夫婦関係も緩やかな時代から、生涯にわたる夫婦同居が社会秩序になっていくのは、9世紀末から10世紀以降である。
 11世紀中頃までは、平安京内の貴族層が邸宅内に遊女、傀儡女(くぐつめ)たちを招き、歌い遊ぶ遊宴はそれほど盛んではなかった。11世紀の後期になって多くなった。
 源経信たちと一緒に歌って遊んだ歌女は、遊女や傀儡女と同様に共寝も業としており、貴族にとって、ある程度長期間、あるいは一生の「愛物」的な存在である妾的配偶者だった。貴族の男性たちは、公にできない愛人との会合のための宿を欲していた。その宿所を提供していたのが、女房と宿所を媒介した女たちであった。
 拍子をはっきりと刻み、拍子にあわせて歌い舞うのが白拍子である。白拍子とは、雅楽の伴奏ではなく、拍子だけの伴奏で歌い舞う芸能であり、12世紀中ころから宮廷の殿上人たちによって舞われた芸能だった。
 本来は貴族の男性たちが宮廷で舞う男舞を、男装した女性たちが舞ったことに新鮮さと新しい時代の予兆があったのではないか。これが白拍子女の出現である。
 後鳥羽院において、皇子女を出産した三人は、ともに白拍子、舞女である。これは共寝も伴う芸能女性たちへの蔑視が強くない時代だったことを意味している。
 そして、貴族層にも白拍子女、遊女を母にもつ者が多かった。白拍子女・遊女・舞女たち芸能者は貴族層のツマになっていた。そして、その所生子は決して公郷層から除外されてはいなかった。
 しかし、白拍子女・舞女が正妻になったとまでは考えられない。遊女・傀儡女・白拍子女たちの中で、芸能にすぐれ、容貌が良く、さらにコミュニケーション力のある女性たちの中でも幸運な者のみが、上皇や貴族・武士層を長期にわたるパトロンとして獲得でき、子どもでもできれば、一生涯、愛人やツマとして遇された。
 貴族層の愛人となり、子どもを産むと、子どもはきちんと認知され、他の男性と関係をもっても、父親はそれぞれ確認される。
 鎌倉時代から傾城(けいせい)という言葉が見られる。13世紀ごろから出はじめる。
 14世紀の南北朝期以降、芸能と売色を兼ねる女性たちの諸国遍歴が増加する。
 遊女や芸能女性の地位が下がるのは、売色の要素が強くなったことと、諸国を流浪することによるのではないか・・・。
足利義満の側室となり、北野殿とか西御所ともよばれた高橋殿は中世後期の傾域としてもっとも著名である。この高橋殿は、美貌ばかりではなく、相手の気を引きつけるずば抜けたコミュニケーション力が、接待術で立身出世した。経済的に相当の負担がかかる熊野詣でに、高橋殿は少なくとも15回は行っている。
 古代・中世の女性の地位をめぐる考察として、大変興味深く読みました。
 古来、日本の女性は性におおらかだったことが、この本でもよく分かります。
(2012年10月刊。2500円+税)

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