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カテゴリー: 日本史(明治)

日本近代の出発

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 佐々木 克 、 出版 集英社
明治天皇は明治17(1884)年ころには、明確に自分の意見を述べ、政府要人に対する好みもはっきりしていて、個性派の天皇になりつつあった。たとえば、キリスト教信者と疑った森有礼(ありのり)を伊藤博文が文部省御用掛(大臣)に任命しても、明治天皇は「病気」と称して1ヶ月も面会しなかった。また、黒田清隆は薩摩閥のナンバー1だったが、酒が入ると人物が一変し、トラブルが多かった。井上馨(かおる)に対してピストルを出して追い返そうとした。
明治憲法の草案として、夏島草案というのがあるのを始めて知りました。夏島というのは、金沢の夏島ですが、今の横須賀市夏島町です。このころ、天皇と議会が同等の権力をもつということは認められない、議会は天皇の相談(諮問)機関であるべきだという考え方に対して、伊藤博文は、立憲政治を主張した。それは、天皇の国家を統治する大権は、憲法の規定する範囲内にのみある、つまり、立憲政治の根本は君主権の制限にある、そして、行政の中心には、天皇ではなく総理大臣にあることを強く主張した。
国会開設運動が最高潮に達したのは1880(明治13)年。このころ建白・請願に署名した人は32万人に近い。この当時、20歳から50歳までの人口は770万人なので、その4%にあたる。これはすごい比率だ。つまり、運動に共鳴した多数の民衆がいた。自由民権運動は、一種の文化革命だった。
1874(明治7)年から1884(明治17)年までの11年間に、全国1275もの結社があった。埼玉に29社、神奈川県に100社が活動していた。
このころ、新聞の購読料は高かった。東京日日新聞は1ヶ月85銭。日本酒が11銭、巡査の初任給は6円のとき。ところが、新聞は一般の庶民も読むことができた。新聞縦覧所が各所にあって、立ち読みすることができた。ちなみに、当時の人々は、声に出して読んでいたようです。黙読する週刊はありませんでした。つまり、新聞は広く一般に読まれていたのです。
そして、演説会は、民衆のものでした。義太夫より演説のほうが面白いと言って、人々は聞きに集まった。1881年9月10日、大阪・道頓堀の戎座(えびすざ)で板垣退助らが弁士となって開かれた政談演説会は、1枚5銭の傍聴券5000枚が前日までに売り切れた。
演説会の話がつまらなければ居眠りしたり、ヤジったり、面白ければ熱狂して沸く、弁士も聴衆の反応にこたえて、話をより過激な論調にしたり、臨席している警察官をからかったりする。まさに弁士と聴衆とが一体となって盛り上げる。自由民権の生き生きとしたパフォーマンスがあった。
有名な五日市憲法草案は、このような状況の中でつくられたものなんですね。学習や討論の積み重ねが結実したものだったのです。明治とは、どんな時代だったのか、改めて考えさせられました。
(2021年1月刊。税込1600円)

明治14年の政変

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 久保田 哲 、 出版 インターナショナル新書
1877(明治10)年の西南戦争は、近代日本における最大かつ最後の内戦だった。4年後の1881(明治14)年10月、近代日本を方向づける政変が起きた。
明治10年代、議会開設要求が高まり、政府内部でも将来的な議会開設に肯定的になっていった。そして、明治14年3月、参議の大隈重信が即時の議会開設を求める意見書を提出した。
同年7月、北海道開拓使の官有物を破格の安値で五代友厚(黒田清隆と同郷)へ破格の安値で払い下げられるとスクープ報道がなされた。これは肥前出身の大隈重信が情報をメディアにリークした、大隈は薩長政府の打倒を企てているという陰謀論が広まった。
そして、同年10月、御前会議が開かれて、大隈を政府から追放すること、開拓使による官有物の払い下げが中止となった。また、国会開設の勅諭が出され、9年後の議会開設が宣言された。
明治維新の三傑とは、西郷隆盛、木戸孝允、大久保利通。木戸孝允は明治10年5月、43歳で病死した。西郷隆盛は同年9月、城山で死んだ。大久保利通は明治11年5月、暗殺された。
大隈重信は、明治14年に43歳だった。伊藤博文は、同じく40歳。井上馨は45歳。黒田清隆は40歳。岩倉具視は56歳。井上毅は政変のフィクサーと評されるが、37歳だった。福沢諭吉は46歳。
私は、最近、歴史を語るとき、その人が、そのときに何歳だったか絶えず注意しておくべきだと考えるようになりました。年齢は、発想とか行動力に深くかかわるものだからです。
明治14年ころ、天皇親政の実現を企図する宮中グループなるものが存在していたのですね…。もちろん、薩摩グループがあることは、初歩的知識として知っています。それでも、そのなかで、どれほどの力をもっているかについてまで詳しくは知りませんでした。
明治14年5月、政変の前の参議は、薩摩4人で、長州と肥前が各2人だった。
伊藤博文の最大の関心は薩長の連携による政府の基盤強化だった。宮中グループが政治に関与しようと画策しており、在野では自由民権グループが言論による政府打倒を目ざしていた。
明治11年8月、竹橋事件が勃発した。近衛砲兵大隊の兵士が反乱を起こしたのだ。その日のうちに鎮圧され、翌年までに55人が処刑された。
福沢諭吉は政治に無関心ではなく、政府内の人間と積極的に交流していた、そして慶應義塾は、明治11、12年ころ、学生数の減少により深刻な経営危機に陥っていた。明治12年7月、福沢が国会開設を求める本を刊行すると、すさまじい反響があった。福沢の想像以上に、「大騒ぎ」となってしまった。
開拓使官有物の払い下げ批判は薩長藩閥政府批判となり、議会開設・憲法制定要求へと展開していった。
三菱という資金面での後ろ盾、福沢という理論面での後ろ盾を得た大隈が、自由民権グループと連携して薩長藩閥を打倒し、イギリス流議会を開設することで政府の実権を握ろうとしているという陰謀論が流布していった。このとき明治天皇は、それまでの大隈の努力に同情する気持ちがあり、罷免の強行ではなく、辞任するという形をとって、大隈の名誉を守ろうと配慮した。
明治14年の政変によって、政府を去ったのは、大隈重信だけでなく、大勢いた。ただし、政府にとどまった人も少なくはなかった。
明治時代の政府部内の微妙な力関係の変化は理解するのが、なかなか困難ですね…。
(2021年2月刊。税込1012円)

漫画、秩父困民党

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 つねよし 、 出版 同時代社
とても良くできた歴史マンガです。映画『草の乱』でも紹介された秩父事件がマンガになったのです。
映画では秩父困民党(こんみんとう)の会計長をつとめた井上伝蔵が主役でした。この井上伝蔵は秩父事件のあと逃亡に成功し、なんと北海道に渡って、そこで自然死したのです。
秩父事件とは、明治17年(1884年)11月に、埼玉・群馬・長野3県の民衆数千人が鉄砲などの武器をもち軍隊組織をつくって蜂起した事件です。その目標は、高利貸しへの負債延期、村費の軽減、学校の休校、雑収税の減免など。
この当時、松方(まつかた)デフレで生糸や米などの農産物価格が暴落し、民衆の生活は破滅的な状況に陥っていた。ところが、高利貸は暴利をむさぼり、裁判所は差押を頻発していた。
そこへ、自由民権運動として自由党が進出して、それを人々が受け入れはじめた。しかし、先鋭化する運動に恐れをなした自由党の指導部は解党を決議する。それに納得できない人々は困民党を結成した。
下吉田村(秩父市)の東京神社に数千人が結集し、秩父市の中心部へ武器をもって押し出していった。マンガは、その過程は丁寧に描かれていて、人々の取り組みの様子がよく分かります。ちなみに、江戸時代の百姓一揆では、百姓側も当局側も鉄砲を武器として使用することはなかったそうです(猟銃は村にありましたが…)。それが、明治10年の西南戦争で変わったのだと思います。
当局側は警察だけでなく軍隊まで出動させて鎮圧にあたると、素人集団はたちまち敗退してしまうのでした。
4千人近くが逮捕され、3600人もの人々が罰せられた。総理を名乗った田代栄助(51歳)ほか8人が死刑となった。100人が収監され、うち30人が獄死した。そして、指導者の一人だった落合寅市(35歳)が服役中に憲法発布恩赦で出獄すると、「秩父事件」の復権を訴えはじめて、ようやく秩父事件の積極的な意義が広く知られるようになったのです。
いやあ、本当によくできた歴史マンガです。登場人物の描きわけも見事だと思いました。
(2021年2月刊。税込2530円)

囚われの山

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 伊東 潤 、 出版 中央公論新社
八甲田雪中行軍遭難事件は1902年(明治35年)1月23日、陸軍の青森歩兵第五連隊第二大隊が雪中行軍演習したとき、折からの天候悪化により、道に遠い199人の犠牲者を出した史上空前の遭難事件。新田次郎の『八甲田山、死の彷徨』など、映画化(三國連太郎も出演)もされている(残念なことに私はみていません)。
120年も前の大事件を歴史雑誌編集者が売れる雑誌をつくろうと企画し、現地取材中に今もなお解明されていない謎を発見し、それに迫っていくというストーリーです。
著者の本は、『義烈千秋、天狗党西へ』、『巨鯨の海』、『峠越え』など、どれも読ませるものばかりですが、この本も、ぐいぐいと引きずり込まれてしまいました。
謎解きの要素も大きい本なので、ここでネタバレをするのはやめておきますが、軍の人体実験ではなかったのか、という点は、なるほど、そうだったのかもしれないと思いました。というのも、この陸軍による雪中行軍は2年後の日露戦争に向けて、厳冬の満州での大規模会戦の予行演習であったことが今では明らかになっていることだからです。
この青森歩兵連隊は、日露戦争のとき、満州大平原においける黒溝台作戦に従事しているのですが、八甲田山での雪中行軍で大量遭難した経験をふまえて、防寒対策をきちんとしていたため、凍死者を出すことはなかったというのです。
日露戦争のとき、青森歩兵第五連隊は、黒溝台の戦いに投入された。このとき、氷点下27度といった酷寒の中の戦いだったが、日本軍は寒冷地対策が万全だったため、凍傷者は出したものの、1人の凍死者もださなかった。うひゃあ、そうだったのですか…。
八甲田山で死んでいった兵士のおかげで、日本は日露戦争を勝ち抜けた。無駄死ではなかった。八甲田山では、限界に来ていた者や身体に不調を来して動けなかった者が実は生き残れた。逆に歩けるほど元気だった者は、体力を使いきって生命を失ってしまった。低体温症によって、正常な判断を下せなくなった者が続出した。酷寒のなか、ほぼ全員が手指の自由を失った。このため、雪濠の掘削どころか、排尿も排便もできなくなり、そのまま垂れ流したので、ズボンの中が凍りつき、性器部分も凍傷になり、あとで生存者の多くは切断手術を受けた。いやあ、これほどまでだったとは…。知りませんでした。
「山落とし」とは、猟師たちが冬山に入って遭難しかかったときに襲われる症状の一つで、低体温症の初期段階をさす。その症状はさまざまで、身体の震えがとまらなくなる者、嘔吐、頭痛、めまいなど…。
この本に、ソ連時代のロシアで起きた遭難事件の真相を解明しようとする『死に山』(河出書房新社)が紹介されています。このコーナーでも前に書評をのせました。
八甲田山の兵士大量遭難事件は陸軍による人体実験だという指摘は、そうかもしれないと思います。戦前の陸軍が、兵士なんて、いくらでも替りがいると考えていたことは間違いありません。そんな「真実」を発掘し、読みものに仕立てあげた著者の筆力には、今さらながら驚嘆させられます。
(2020年6月刊。1800円+税)

日清戦争論

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 原田 敬一 、 出版 本の泉社
日本の戦前を司馬遼太郎の史観で語ることを厳しくいさめる学者の本です。
1894年6月に、朝鮮への出兵が閣議決定されると、日本各地で義勇軍を派遣する動きが起きた。旧士族層を中心とし、国権派そして民権派まで加わった。
ええっ、そんな動きがあっただなんて…、ちっとも知りませんでした。
そして、義勇軍運動が中止に追い込まれたあとは、軍夫志願となった。岩手県では、兵士も軍夫も区別せず同じ扱いで送り出した。
日清戦争を契機として、日本国民の思想状況は大きく変化した。戦争の大義名分は、福沢諭吉が「文明と野蛮の戦争」と設定し、「宣戦の詔勅」も、「文明戦争」の枠で国民を説得した。そして、挙国一致が実態化していった。戦争こそが日本国民を創った。
日清戦争は4種類の戦争の複合戦争である。一つは、朝鮮王宮の景福宮における朝鮮軍との戦闘、狭義の日清戦争、東学党の旗の下に結集した朝鮮民衆との戦争、そして、台湾征服戦争。このとき、日本は、軍事的勝利、外交的敗北、そして民衆的敗北をした。
日清戦争に参加した軍隊と軍夫は合計して40万人。そのあとの日露戦争のときには100万人。対外戦争の勝利という見せかけに日本国民は酔っていた。
日清戦争のとき、日本の敵は清(中国)だけでなく、朝鮮国もあげられていた。
日清戦争の直前に朝鮮との戦争があり(7月23日戦争)、それにより日本は朝鮮政府の依頼(書面はない)によって清国軍を駆逐するという大義名分を得たと陸奥宋光外務大臣は発表した。
日清戦争により、日本は軍夫7000人をふくむ2万人の、清(中国)は2万4000人の、朝鮮は3~5万人の戦没者を出した。
勝海舟は、このころ枢密顧問官だったが、日清戦争の開戦後、この戦争には大義名分がないとする漢詩をつくった。つまり、日本政府の指導層にも、伊藤首相らのすすめる日清戦争を批判する人たちがいた。
日清戦争で派兵された軍隊は17万4017人、これに対して限りなく軍隊に近い軍夫は15万3974人。あわせて32万8000人。清国軍は、35万人なので、ほぼ匹敵していた。
日清戦争の実態に一歩踏み込もうという意欲の感じられる本でした。
(2020年4月刊。2500円+税)

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