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カテゴリー: 日本史(明治)

彰義隊、敗れて末のたいこもち

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 目時 美穂 、 出版 文学通信
 明治に松廼家(まつのや)露八(ろはち)という有名な幇間(ほうかん。たいこもち)がいました。その数奇な人生を明らかにした本です。
 松廼家は本名を土肥(どひ)庄次郎頼富といい、一橋家の家臣だった。家格もお目見(めみえ)以上という、れっきとした武士。ところが、若いころに放蕩(ほうとう)がたたって、廃嫡(はいちゃく)された。それで幇間になって暮らしていたが、36歳のとき徳川政府が瓦解したあと、彰義隊に加わって官軍(新政府軍)と戦った。彰義隊が敗走したとき、なんとか生きのびて再び幇間に戻った。
 吉川英治が小説として「松のや露八」を書いた。また、芝居にもなった。
 幇間は、たいこもち、たぬき、男芸者と呼ばれる。遊廓(ゆうかく)に来た客をすこぶる楽しく遊ばせるのを仕事とする。一見すると気楽そうだが、知れば知るほど大変な商売。
 客は遠慮も容赦もない。ただの道楽者につとまるような生半可なものではない。
 吉原に客としてやって来る男たちは、吉原の女たちが貧困のため、家族がした借金のため客をとらされている悲惨な境遇であることを知っている。知ってはいるけれど、それを真剣に考え、心底から女たちを哀れと思ってほったら、もはや吉原を美しい夢の国として享受することが出来なくなる。そこで、夢を維持するため、夢の国の女たちは、世間の貧しさも苦労も知らない、およそ巷(ちまた)の労苦からかけ離れた存在としていた。そして、遊女たちに同情するより、世間知らずを笑いものにする。
 彰義隊に対して、江戸の庶民は江戸っ子の思いを背負って死に花を咲かせようとしている武士たちだと受けとめて、熱烈に肩入れした。それで、彰義隊が無惨に敗走したあとも、江戸の町民はひそかに彰義隊の志士たちを大切に扱っていたようです。
彰義隊は戦闘が始まってから4時間ほど、午前10時ころまでは優勢だった。しかし、政府軍が新式のアームストロング砲を活用するようになってからは敗色が濃くなり、午後2時に彰義隊の敗走が始まった。
 松廼家はなんとか生きのびて、明治4年ころから再び幇間を始めた。
吉原につとめる女性は30歳を過ぎて遊女のままという人はまずいなかった。年季の明けた元遊女が、幇間や芸人など、廓内で働く男と結ばれるのはよくあることだった。
 幇間芸は、お座敷で、客の気分に従って即興で演じられるもの。あらかじめ小道具を準備しておくようなことはしない。その場にあるもの、手拭いと扇子、せいせいお膳に並べられた皿や徳利を使って、当意即妙の芸をしなければならなかった。
 露八は相当の苦労もして愛想もふりまいて復帰した吉原に受け入れてもらった。そして、なかなか受け入れてはもらえなかった老幇間の露八は、ついには、名物幇間として明治の世に通用した。明治36(1903)年11月、露八は71歳で死亡した。まさしく数奇な人生ですね…。
(2024年2月刊。2500円+税)

樋口一葉赤貧日記

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 伊藤 氏貴 、 出版 中央公論新社
 24歳という若さで亡くなった樋口一葉の一生が詳しく再現されています。なにしろ本人の日記がネタ元になっているのですから、まさしく迫真的です。
 一葉は、ずっと貧しい生を送ったのかと思っていましたが、それはまったくの誤解でした。幼いころから貧しかったら、文学的教養を身につけることができるはずもありません。むしろ、幼い頃は、中の上か上の下くらいの家庭で、一葉はなに不自由なく育ったのです。
 この本を読んで驚いたことがいくつもあります。その一が、一葉は、手紙の書き方の本を書いていることです。その『通俗書簡文』は、10年間に版を重ねて、5万部以上も売れた。いやあ、これは、すごいです。
 一葉は筆まめというだけでなく、手紙の達人だった。遊女の手紙まで代筆していた。この本は、女性を対象読者とした、女性の文体での手紙の書き方。
 「試験に落第せし人のもとに」送る手紙、「書物の借用たのみ文」など…。ところが、「借金を頼む手紙」とか、「借用金の返済猶予を願う文」というのは一切ない。これらは一葉にとって、とても身近だったテーマだったのに、ない。なぜか…。一葉が生前に出した唯一の本がこれで、借金から逃れるために書いて本にしたものだった。
 そして、二番目に驚いたのは、一葉が死んだあと2ヶ月したばかりで「一葉全集」が出版社の博文館から発刊されたこと。いやあ、これはすごいことですよね。わずか2ヶ月で、「全集」が出るなんて、誰にも想像できないことではないでしょうか。売れると見込んでいたのですね。
 その三は、もし一葉が若くして病死しなかったとしたら、売れた本の印税収入を元手として社会運動に身を投じていたかもしれないと著者は想像していることです。なるほど、そうかもしれないなと、私は思いました。
 一葉の作品が優れていたからこそ、女性として初めての日本銀行券の顔になった。そして、作品をそれほど優れたもの、他の追随を許さない、唯一無二のものにしたのは、なにより貧乏の体験だった。本当にそうだと私も思います。
 一葉の父の名前は、大吉、八代吉、甚蔵、八十吉、八十之進、為之助と何度も改名していて、最後に「則義」となった。
 一葉の家は、本郷にある東大赤門のちょうど道路をはさんだ真向かいにあった。
 一葉の父は、山梨で代々農民だった。そして、武士の地位はお金で買った。徳川幕府の直参の御家人になった。そして、その父(一葉の祖父)は、百姓惣代として水争いの調停のために江戸へ出て、老中阿部正弘に駕籠訴(かごそ)をして、投獄された。本人は死を覚悟していたが、結局、30日の伝馬町の牢内手鎮の刑ですんだ。一葉は、その生まれ変わりのように扱われた。
 一葉の父親は、苦労に苦労を重ねて、金を貯め、ここまで成り上がった。それに対して一葉は、生まれたときから裕福でお金の苦労というものを一切知らない。
 一葉は、12歳で小学校を中途退学した。母親の意見によるものだった。それで、一葉をかわいそうに思った父親が、一葉にどんどん本を買ってやり、そして一葉は和歌を独習した。『南総里見八犬伝』を3日で一葉は読了した。ホントでしょうか…。
 父親が58歳で病死すると、一葉は父親の指示どおりに戸主になった。そして、一葉の兄は23歳のとき、肺結核によって亡くなっている。
 漱石は一葉の5歳年上で、この二人は結婚の可能性があった。戸主になると、他家に嫁に行けなくなり、基本的に、長男とは結婚できなくなってしまう。
 一葉は19歳のとき、誰にも頼らず、自分の力だけで生きていこうと腹をくくった。
 一葉は、生きるために書くことを捨てた。そうではなく、書くために生きるのだ。
 私は書くために弁護士稼業をずっとずっと続けたいと考えています。
 一葉にとって「奇跡の14ヶ月」というのがあるのを初めて知りました。最後まで貧しさの底で生きることで、一葉の文学は、大きな実りを結んだ。貧困なくして、一葉の文学の輝きは生まれなかった。「大つごもり」、「にごりえ」、「十三夜」、「わかれ道」、「たけくらべ」の五作は、この14ヶ月に生まれている。
 私は、この五作を全部読んではいないと思いますので、ぜひ挑戦してみたいと思いました。
 いい本でした。面白かったです。
(2022年11月刊。税込2420円)

ボワソナード

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 池田 眞朗 、 出版 山川出版社
 「日本民法の父」だと私は思っていましたが、この本では「日本近代法の父」としています。
 ボワソナード(当時48歳)が日本にやって来たのは1873年(明治6)年11月15日のこと。ボワソナードは、パリ法科大学のアグレジェ(正教授登用を待つ身分)だった。
 日本でのボワソナードの活躍は、「法曹界の団十郎」と呼ばれるほどのものだった。
 ボワソナードは次の三つの分野で日本に大きく貢献した。その一は、民法、刑法、刑事訴訟法(治罪法)の編纂(へんさん)。その二は、法学教育への貢献。その三は、外交交渉や条約改正への貢献。
 ボワソナードは旧民法のうち、財産法の部分を起草したが、家族法は日本人が起草した。
 旧民法典は1890(明治23)年に公布されたものの、施行はされなかった。しかし、日本人起草委員が集成して明治民法典が成立した。
 ボワソナードは東京法学校(今の法政大学)でも講義していて、現在、法政大学にはボワソナード・タワーが建っている。
 ボワソナードは来日してから、日本で拷問が続いているのを知ると、拷問廃止を政府に建白した。やがて拷問は少なくとも表向きは廃止されました。
 ボワソナードは治罪法を起草し、施行されたが、草案では陪審制を提案していた。治罪法では、代言人による刑事弁護制度が確立した。
 ボワソナードは大久保利通から信頼されていた。しかし、大久保利通は1878(明治11)年5月、暗殺された(享年47歳)。
 ボワソナードが起草した民法典において、たとえば時効については援用することを要するとしたり、自然債務の規定を置いたことが注目される。また、売買契約における善意・悪意(ここでは道徳的意味は有しない)という概念も導入した。
 ボワソナードは講義は下手で、社交的でもない。政治力とも無縁で、書斎にこもって研究を続けるタイプの人間。
 旧民法典に対して、「民法出でて、忠孝亡(ほろ)ぶ」などという攻撃が加えられた。しかし、これは、観念論そのものの非難でしかなかった。
 「フランス型のボワソナード旧民法典は葬り去られ、ドイツ型の明治民法典が制定された」という通説は正しくない。個々の民法の条文には、フランス民法系の旧民法典の規定が多数残っている。すなわち、ボワソナードの影響は今に残っている。
 結局、フランス民法典とドイツ民法(草案)の影響は、ほぼ半々という評価が今日では定着している。たとえば、債権譲渡など、フランス民法型の規定の影響が優位である。
 ボワソナードの旧民法典起草作業は、決して無に帰したのではない。
 最近、配偶者居住権が新設されたが、これは130年ぶりのボワソナードの復権といえる。
 ボワソナードは在日22年に及び、死ぬ前年に勲一等旭日大勲章を受けている。
 日本におけるボワソナードの影響力の強さを再認識させられました。
(2022年3月刊。税込880円)

秋山真之

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 田中 宏巳 、 出版 吉川弘文館
 日露戦争におけるロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎の連合艦隊が撃破したときの参謀として名高い秋山真之の実像に迫った本です。
 著者によると、秋山真之の功績は、海軍大学校での兵術講義と日露戦争における作戦計画の二つにあるとのこと。
 兄の秋山好古(よしふる)は陸軍大将として、日露戦争のときは騎馬兵を率いていました。
 秋山真之は、若いときアメリカに留学しています。そこで、米西戦争を実地に視察して学び、また、兵理学を深く研究したようです。ヨーロッパにもまわって秋山兵学を確立したのでした。そして日本に戻ってからは海軍大学で講義しはじめました。
 艦隊決戦というけれど、それは海戦の始まりであって、文字どおりの決戦はその後の追撃戦であり、その主役は魚雷である。つまり大艦巨砲主義はとらない。駆逐艦や水雷艇の担当する魚雷が勝敗を決するというのです。これには驚きました。
 日露海戦のとき、秋山真之は37歳。
 このころの日本の軍艦を動かしていたのは、日本の和炭、つまり筑豊や三池炭鉱の石炭。しかし、これでは大型化高速化した艦艇の需要をまかなえなかった。もっと火力の強い粘結炭が必要で、そのため日本はイギリスのカーディフ炭を高く(和炭の8~10倍)買い付けていた。海軍は通常航行用には和炭、高速を求める戦闘用にはイギリス炭を使うというように使い分けてていた。
 日本海海戦の前、日本のマスコミは、ずっと南の海域で日本海軍は迎え撃つと予測していた。バルチック艦隊が北上して朝鮮海峡に来ることが分かっていても、旗艦「三笠」では、司令部で議論百出してなかなかまとまらなかった。それは小説に描かれるような格好のよいものではなかった。
 戦艦・巡洋艦ではロシア側に分があり、駆逐艦・水雷艇では日本側が圧倒的な優位に立っていた。結局、水雷攻撃で勝負は決まった。ここのところが、後世に誤って伝わっている。なーるほど、そうだったんですね…。
 秋山兵学も絶対ではなく、飛行機や潜水艦が出現してから、脱皮する必要があったのに、新しい思想は構想されなかった。
 シーメンス事件の調査委員会で秋山真之は花井卓蔵弁護士(国会議員)と激しい議論を繰り返した(当時、ともに45歳ころ)。
 秋山真之は、日蓮宗の信徒から、最後は大本教信仰へ移り、享年51歳で亡くなりなった。これまた知りませんでした。大本教といったら、戦前、軍部からひどく弾圧されましたよね。いろいろの発見がある本でした。
(2009年10月刊。税込2200円)

日清・日露戦史の真実

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 渡辺 延志 、 出版 筑摩選書
 一般に公刊されている日清戦争そして日露戦争の戦史は、実は本当の戦争の推移は書かれていない、つまり、都合の悪いことは書かないことになっていることを明らかにした本です。どうしてそれが判明したかというと、公刊戦史の前にあった草案が掘りおこされ、両者を見くらべることが出来たからです。
 公刊戦史は、失敗した軍事行動は書かない、成果をあげていない行動はつとめて省略するという編集方針によって書かれている。そして、日本軍の準備不足を暴露するようなことも書いてはいけないし、国際法に違反するようなことも書かないほうがよい、とされました。
 日清戦争のとき、清軍(中国軍)の将軍たちの戦意は乏しかった。平壌まではどうにか日本軍はたどり着いたが、兵糧は限界に達していて、もはや戦えなくなるのも目前だった。
 清軍(中国軍)は平壌に立てこもっていたが、ついに白旗を揚げた。そして、平壌から逃げだした。日本軍は白旗をあげた清軍に対して捕虜にするつもりだった。清軍のほうは、そんな常識を知らないので、白旗を揚げたあとは中国のほうへ引き揚げるつもりだった。決して日本軍をだましたりオチョクルつもりではなかった。あくまで任意撤退するつもりで、白旗をあげたのだった。
 清軍は、戦意に乏しく、情報収集の能力も乏しかった。そして前線の戦地からの威勢のいい報告は敵(日本)軍の兵力を大幅に過大な数量としていた。
日本軍は乏しい食糧を持たず、現地で「敵」から奪ってまかなうことになっていた。ひどい軍隊ですよね。なので、日本軍の兵士たちが略奪にいそしんだのは当然です。
日本軍の食糧を運ぶため近くの村々から人々を追いたてて使ったりするが、この人々はまったく協力的でなかった。お金を支払おうとすると、韓貨でしか支払えず、その韓貨は重たくて大きく持ち運びに不便だった。これも現地の人々による抵抗の一環なんでしょうね。
 日本軍に都合の悪いことがほとんど伏せられた「公刊戦史」なるものが、いかにインチキくさいものであるか、よくわかる本です。司馬遼太郎の『坂の上の雲』を呼んだ人にとっては必読の書です。
(2022年7月刊。税込1760円)

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