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カテゴリー: 日本史(明治)

ボワソナード

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 池田 眞朗 、 出版 山川出版社
 「日本民法の父」だと私は思っていましたが、この本では「日本近代法の父」としています。
 ボワソナード(当時48歳)が日本にやって来たのは1873年(明治6)年11月15日のこと。ボワソナードは、パリ法科大学のアグレジェ(正教授登用を待つ身分)だった。
 日本でのボワソナードの活躍は、「法曹界の団十郎」と呼ばれるほどのものだった。
 ボワソナードは次の三つの分野で日本に大きく貢献した。その一は、民法、刑法、刑事訴訟法(治罪法)の編纂(へんさん)。その二は、法学教育への貢献。その三は、外交交渉や条約改正への貢献。
 ボワソナードは旧民法のうち、財産法の部分を起草したが、家族法は日本人が起草した。
 旧民法典は1890(明治23)年に公布されたものの、施行はされなかった。しかし、日本人起草委員が集成して明治民法典が成立した。
 ボワソナードは東京法学校(今の法政大学)でも講義していて、現在、法政大学にはボワソナード・タワーが建っている。
 ボワソナードは来日してから、日本で拷問が続いているのを知ると、拷問廃止を政府に建白した。やがて拷問は少なくとも表向きは廃止されました。
 ボワソナードは治罪法を起草し、施行されたが、草案では陪審制を提案していた。治罪法では、代言人による刑事弁護制度が確立した。
 ボワソナードは大久保利通から信頼されていた。しかし、大久保利通は1878(明治11)年5月、暗殺された(享年47歳)。
 ボワソナードが起草した民法典において、たとえば時効については援用することを要するとしたり、自然債務の規定を置いたことが注目される。また、売買契約における善意・悪意(ここでは道徳的意味は有しない)という概念も導入した。
 ボワソナードは講義は下手で、社交的でもない。政治力とも無縁で、書斎にこもって研究を続けるタイプの人間。
 旧民法典に対して、「民法出でて、忠孝亡(ほろ)ぶ」などという攻撃が加えられた。しかし、これは、観念論そのものの非難でしかなかった。
 「フランス型のボワソナード旧民法典は葬り去られ、ドイツ型の明治民法典が制定された」という通説は正しくない。個々の民法の条文には、フランス民法系の旧民法典の規定が多数残っている。すなわち、ボワソナードの影響は今に残っている。
 結局、フランス民法典とドイツ民法(草案)の影響は、ほぼ半々という評価が今日では定着している。たとえば、債権譲渡など、フランス民法型の規定の影響が優位である。
 ボワソナードの旧民法典起草作業は、決して無に帰したのではない。
 最近、配偶者居住権が新設されたが、これは130年ぶりのボワソナードの復権といえる。
 ボワソナードは在日22年に及び、死ぬ前年に勲一等旭日大勲章を受けている。
 日本におけるボワソナードの影響力の強さを再認識させられました。
(2022年3月刊。税込880円)

秋山真之

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 田中 宏巳 、 出版 吉川弘文館
 日露戦争におけるロシアのバルチック艦隊を東郷平八郎の連合艦隊が撃破したときの参謀として名高い秋山真之の実像に迫った本です。
 著者によると、秋山真之の功績は、海軍大学校での兵術講義と日露戦争における作戦計画の二つにあるとのこと。
 兄の秋山好古(よしふる)は陸軍大将として、日露戦争のときは騎馬兵を率いていました。
 秋山真之は、若いときアメリカに留学しています。そこで、米西戦争を実地に視察して学び、また、兵理学を深く研究したようです。ヨーロッパにもまわって秋山兵学を確立したのでした。そして日本に戻ってからは海軍大学で講義しはじめました。
 艦隊決戦というけれど、それは海戦の始まりであって、文字どおりの決戦はその後の追撃戦であり、その主役は魚雷である。つまり大艦巨砲主義はとらない。駆逐艦や水雷艇の担当する魚雷が勝敗を決するというのです。これには驚きました。
 日露海戦のとき、秋山真之は37歳。
 このころの日本の軍艦を動かしていたのは、日本の和炭、つまり筑豊や三池炭鉱の石炭。しかし、これでは大型化高速化した艦艇の需要をまかなえなかった。もっと火力の強い粘結炭が必要で、そのため日本はイギリスのカーディフ炭を高く(和炭の8~10倍)買い付けていた。海軍は通常航行用には和炭、高速を求める戦闘用にはイギリス炭を使うというように使い分けてていた。
 日本海海戦の前、日本のマスコミは、ずっと南の海域で日本海軍は迎え撃つと予測していた。バルチック艦隊が北上して朝鮮海峡に来ることが分かっていても、旗艦「三笠」では、司令部で議論百出してなかなかまとまらなかった。それは小説に描かれるような格好のよいものではなかった。
 戦艦・巡洋艦ではロシア側に分があり、駆逐艦・水雷艇では日本側が圧倒的な優位に立っていた。結局、水雷攻撃で勝負は決まった。ここのところが、後世に誤って伝わっている。なーるほど、そうだったんですね…。
 秋山兵学も絶対ではなく、飛行機や潜水艦が出現してから、脱皮する必要があったのに、新しい思想は構想されなかった。
 シーメンス事件の調査委員会で秋山真之は花井卓蔵弁護士(国会議員)と激しい議論を繰り返した(当時、ともに45歳ころ)。
 秋山真之は、日蓮宗の信徒から、最後は大本教信仰へ移り、享年51歳で亡くなりなった。これまた知りませんでした。大本教といったら、戦前、軍部からひどく弾圧されましたよね。いろいろの発見がある本でした。
(2009年10月刊。税込2200円)

日清・日露戦史の真実

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 渡辺 延志 、 出版 筑摩選書
 一般に公刊されている日清戦争そして日露戦争の戦史は、実は本当の戦争の推移は書かれていない、つまり、都合の悪いことは書かないことになっていることを明らかにした本です。どうしてそれが判明したかというと、公刊戦史の前にあった草案が掘りおこされ、両者を見くらべることが出来たからです。
 公刊戦史は、失敗した軍事行動は書かない、成果をあげていない行動はつとめて省略するという編集方針によって書かれている。そして、日本軍の準備不足を暴露するようなことも書いてはいけないし、国際法に違反するようなことも書かないほうがよい、とされました。
 日清戦争のとき、清軍(中国軍)の将軍たちの戦意は乏しかった。平壌まではどうにか日本軍はたどり着いたが、兵糧は限界に達していて、もはや戦えなくなるのも目前だった。
 清軍(中国軍)は平壌に立てこもっていたが、ついに白旗を揚げた。そして、平壌から逃げだした。日本軍は白旗をあげた清軍に対して捕虜にするつもりだった。清軍のほうは、そんな常識を知らないので、白旗を揚げたあとは中国のほうへ引き揚げるつもりだった。決して日本軍をだましたりオチョクルつもりではなかった。あくまで任意撤退するつもりで、白旗をあげたのだった。
 清軍は、戦意に乏しく、情報収集の能力も乏しかった。そして前線の戦地からの威勢のいい報告は敵(日本)軍の兵力を大幅に過大な数量としていた。
日本軍は乏しい食糧を持たず、現地で「敵」から奪ってまかなうことになっていた。ひどい軍隊ですよね。なので、日本軍の兵士たちが略奪にいそしんだのは当然です。
日本軍の食糧を運ぶため近くの村々から人々を追いたてて使ったりするが、この人々はまったく協力的でなかった。お金を支払おうとすると、韓貨でしか支払えず、その韓貨は重たくて大きく持ち運びに不便だった。これも現地の人々による抵抗の一環なんでしょうね。
 日本軍に都合の悪いことがほとんど伏せられた「公刊戦史」なるものが、いかにインチキくさいものであるか、よくわかる本です。司馬遼太郎の『坂の上の雲』を呼んだ人にとっては必読の書です。
(2022年7月刊。税込1760円)

リーダーたちの日清戦争

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 佐々木 雄一 、 出版 吉川弘文館
日清戦争について、大変勉強になりました。
その一は、日清戦争で敗北したことから、中国(清)は欧米の列強からたちまち狙われてしまったことです。
その二は、日本の支配層は一枚岩でなく、計画的・意図的に日清戦争を始めたわけではないということです。明治天皇は中国(清)を相手に戦争を始めてしまったことに恐れおののいていました。さらに、明治天皇は陸奥宗光を信用できない男だとして嫌っていたというのです。
その三は、日清戦争では、そのあとの日露戦争とちがって、戦死者よりも戦病死者が圧倒的に多かったということ、日本軍の戦死傷者は千数百人だったのに、戦病死者は1万人をこえた。日露戦争では、総率された近代軍同士の全面衝突があったので大量の戦死傷者が出たが、日清戦争では、それがなかった。日清戦争のときには兵站(へいたん)や衛生への配慮が十分ではなかった。
その一に戻ります。日清戦争を通じて、それまで東洋の大国と考えられていた清の評価は大きく下落し、ヨーロッパ列強は清への進出意欲を高めた。清は東アジアにおいて圧倒的な存在感のある大国だったが、日清戦争の敗北によって、つまりアヘン戦争でもなく、アロー戦争でもなく、地位を大きく低下させた。
その二。かつての学説の通説は、朝鮮進出を早くから日本は目ざしていたので、明治政府と軍は、計画的・必然的に日清戦争を起こしたというものだった。しかし、今や、日清戦争は、日本政府内で長期にわたって計画・決意されたものではないというのが通説的地位を占めている。たとえば、伊藤博文や井上馨は、清との紛争や対立はなるべき避けようとしていた。伊藤博文は、対清協調と朝鮮独立扶持を一貫して主張していた。また、明治天皇は大国の清と戦って勝てるのか不安であり、できることなら戦争を避けたいと考えていた。開戦に前のめりになっている陸奥宗光外相を信用せず疑惑の目を向けていた。天皇は開戦したあと、「今回の戦争は、朕(ちん)、もとより不本意なり」と言っていた。
日清戦争のとき、清は一元的に強力な国家の軍隊を有してはいなかった。人数や外形はともかく、指揮・訓練などの点で問題をかかえていて、本格的な対外戦争を遂行するのに、十分な内実を備えていなかった。すなわち、清軍は、十分に訓練され明確に統率された軍隊ではなかった。
日清戦争とは何だったのか、改めて考え直させてくれる本です。
(2022年2月刊。税込1980円)

西南戦争のリアル、田原坂

カテゴリー:日本史(明治)

(霧山昴)
著者 中原 幹彦 、 出版 親泉社
1877(明治10)年の西南戦争で最大の激戦地だった田原坂の戦いについて、現地の発掘状況も踏まえた本です。92頁と薄い冊子ですが、写真や地図が豊富で、よくイメージをつかむことができます。
まず名称ですが、戦争とは、国家間の武力による闘争をさすコトバなので、本当は西南戦役(せんえき)か西南役(えき)と呼ぶのが正しいとのこと。この本は通例にしたがい、西南戦争といいます。そして、英訳は「薩摩反乱記」となっていることが多いそうです。これも、「西南内戦」が適切だとされています。いずれも知りませんでした。
政府軍は熊本と福岡の境の豊前街道上野の南関に本営を置いた。ここから熊本城に至るコースは3つあったが、北の山鹿コースと南の吉次峠コースは、熊本まで数十ヵ所の難所があるのに、田原坂は抜けたらもう一つ向坂の難所があるだけなので、田原坂コースが選ばれた。
当時は自動車がありませんので、馬や牛に頼れないところでは人力しかありません。そして、重たい大砲を運び上げるには、この田原坂を人力でのぼっていくしかなかったのです。
田原坂の戦いは3月4日から20日までの17日間。この17日間のうち6日間、雨が降った。そして最終日の3月20日は大雨だった。「雨は降る降る、人馬は濡れる」という歌のとおりでした。
動員した兵力は薩摩軍が5万人、政府軍は全国から集められた8万人。政府軍の戦費は4157万円で、国家予算の7割に匹敵する巨額だった。
そして田原坂の戦いに政府軍はのべ最大8万人を動員し、死傷者が3000人、戦死者1700人だった。これは政府軍の前線死者の25%で、1日あたり100人だった。薩摩軍のほうは数千人規模で、実数は不明。
政府軍は田原坂の戦いで、548万発、1日32万発もの銃弾(砲弾ふくむ)を消費した。薩摩軍のほうは無駄撃ちせず、政府軍10発に対して1発と、銃弾を惜しみ、必要に応じて猛射した。
薩摩軍が17日間も持ちこたえて激戦になったのは、第一に地形、第二にその将士が一丸となって決死の覚悟で守り抜く気魂があったから。
田原坂は険しい坂道で、トンネルのようであり、細く曲がりくねった険しい山道で、兵略上、守りやすく攻め難い地勢である。薩摩軍は、私学校党の精鋭とここにそろえて死力を尽くし、堅固な陣地を両崖の十数ヵ所に築いた。両軍の距離は、わずかに5、6メートルとか20メートルというほど近接していた。
そして、薩摩軍は150人の集団抜刀で攻撃してきたので、政府軍は当初たちまちやられていった。政府軍は狙撃隊で対抗したが、1週間で全滅。その後、東京警視抜刀隊200人が活躍した。この抜刀隊には元東北諸藩士で構成されたというイメージがあるが、必ずしも正しくない。出身地が判明している45人のうち東北地方出身者は14人、薩摩藩出身者も16人いた。
この本には、薩摩軍にいた兵士のうち政府軍に投降した兵士のみからなる政府軍部隊(231人)が存在していたとのこと。途中から、薩摩軍は集団投降者が続出していたようです。田原坂の現地には何度か行ったことがありますが、この冊子を読んで、もう一度行ってみたいと思いました。
(2021年12月刊。税込1760円)

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