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カテゴリー: 日本史(明治)

日露戦争を世界はどう報じたか

カテゴリー:日本史(明治)

著者  平間  洋一、   芙蓉書房出版 
 
 日露戦争について、世界がどう見ていたのかという面白い視点でとらえた珍しい本だと思いました。日露戦争の前、ロシアの新聞では極東の日本の珍しさについての報道が多く、遠い国であり、ロシアと利害関係が衝突するというイメージの記事はなかった。日本は韓国における今の利益を守ろうとしているだけで、それ以外のことは追及していない。ロシアとの摩擦は無意味だ、と伝えていた。その後も、ロシアのマスコミは、読者に、日本との戦争は起きないという希望的観測を流し続け、ヨーロッパからの日本が戦争を準備しているとの情報を否定していた。いよいよ情報が緊迫してくると、白人キリスト教の精神文化と異教徒の黄色い人種の精神文化とのすさまじい衝突に直面している。白色人種が勝利をおさめるだろうという記事がのった。開戦当初は、案外に日本兵士はよく整備され、勇ましく、毅然とした積極果敢な兵士であると評価する記事がのった。
 1904年6月、イギリスの『タイムズ』にレフ・トルストイが戦争を批判する文章を発表した。「戦争がまた起こった。何人もの無用無益なる疾苦、ここに再び人類の愚妄残忍また、ここに再び起きる」
 そして、日本でもトルストイの影響を受け、与謝野晶子が『明星』に「君、死にたまうことなかれ」を発表し、論争が起きた。与謝野晶子とトルストイが同じようなことを世間にアピールしていたとは知りませんでした。
 旅順が陥落したあと、バルチック艦隊の行動が新聞の注目をあびた。イギリスのある提督は、東郷とロジェストウェンスキーの戦いは日本が勝つ。艦船の数が多くとも、砲手の技量は日本兵のほうがロシア兵よりも優れているからだと、その理由を述べた。うへーっ、見る人は見ていたのですね・・・・。
 意外なことに、文豪のマクシム・ゴーリキーは、戦争の継続を支持した。しかし、それは、愛国主義の立場からではなく、国内の政治改革に役立つからというものだった。なるほど、そういう視点もあるわけですね。
中国では新聞社が壊滅状態だった。若い光緒帝の支持の下にすすめられていた戊戌維新は、かの西太后の弾圧によって失敗し、活気をみせていた新聞も、そのほとんどが閉鎖され、停刊に追い込まれた。1902年ころ、中国には、わずか20数社の新聞社しか残っていなかった。それも中国南部に集中し、北部中国には4~5社しか新聞社はなかった。4億人の人口を有する中国に20数社の新聞紙しかないことは、中国政府の言論に対する取り締まりの厳しさが反映している。いやはや、閉鎖的な言論統制は国の発展を妨げるのですね。
アメリカ国民は、日露戦争のあいだ、 日本が利他的な動機、つまり門戸開放原則を守るために戦っていると信じていた。だから、戦後の日本が満州利権を独占しようと動いていることを知ると、対日世論が悪化する一因となった。ふむふむ、イメージというのは騙し騙されやすいものなんですよね。
 開戦の前から黄禍論はヨーロッパのメディアをにぎわしていた。開戦と同時に、黄禍の脅威の主張がロシアだけでなく、フランスやドイツでも高まった。日露戦争において、日本はヨーロッパの当初の予想をこえて海陸で戦勝を続けた。このため、新たな黄色人種によるアジアの列強の登場を心配する声が増えていった。
 日露戦争を世界史のなかでとらえるうえで大いに目を開くことのできる本です。
(2010年5月刊。1900円+税)

日露戦争の真実

カテゴリー:日本史(明治)

著者   山田 朗、   高文研 出版 
 
 「坂の上の雲」で日露戦争が注目されている今、ぜひとも多くの日本人に読んでもらいたい本です。わずか180頁ほどの本ですが、内容は大変充実していて、私の赤エンピツが次々に出動し、ポケットにしまう間も惜しくなって、ずっと右手に握りしめながら熟読していきました。
 明治は成功、昭和は失敗という司馬流の二分法は間違いである。近代日本の失敗の典型であるアジア太平洋戦争の種は、すべて日露戦争においてまかれている。日露戦争に勝利することによって、日本陸海軍が政治勢力の軍部として政治の舞台に登場した。軍の立場は、日露戦争を経ることで強められ、かつ一つの強固な官僚組織として確立した。
近代日本の大きな失敗の種のもう一つは、日露戦争後、日本が韓国を併合してしまったことにある。そうなんですよね。植民地支配は日本の失敗の源泉です。
 日露戦争によって、アジアの人々を勇気づけたのは事実としても、それは当時の日本が意図したことではない。むしろ日本は、欧米列強の植民地支配を全面的に容認する代償として、列強に韓国支配を容認してもらった。
 日本は、幕末、明治維新のころから、イギリスの世界戦略に巻き込まれ、ロシア脅威論に突き動かされてロシアとの対決路線を強めていった。明治維新以来、日本政府は「お雇い外国人」をたくさん雇ったが、そのなかで一番多かったのはイギリス人だった。だから、基本的にイギリスからの情報で世界を見ていた。イギリスはロシアと世界的に対立していた。このイギリスの反ロシア戦略が、日本の政治家やジャーナリストの意識に影響を与えていった。なーるほど、そうだったのですね。
 日清・日露戦争による軍拡によって国家予算に占める軍事費の割合は27.2%から
39.0%に増えた。軍事の国民総生産に占める割合も平均2.27%から3.93%へと大幅に上昇した。軍事予算が増えると、ろくなことはありません。
日本軍は、土地は占領するがロシア軍の主力に大打撃を与えることができず、ロシア軍は後退しながら増援部隊を得て、どんどん大きくなっていった。これ以上ロシア軍が大きくなると、日本陸軍が全兵力を投入してもまったく太刀打ち出来なくなるというところで、ロシア国内で革命運動が広がり、戦争が継続できなくなったために、戦争がおわった。純粋に軍事的には、極東のロシア軍は日本軍を圧倒できるだけの戦力を蓄積しつつあった。危機一髪のところで、日本軍はロシア軍に「勝っていた」のでしたが、日本国民の多くがそのことを知らされず、気がついていませんでした。だから、「勝った」のに、なぜロシアからもっと戦利品を分捕れないのかという不満が募ったわけです。
 日本は外国からの借金に成功しなかったら、日露戦争はできなかった。お金を貸してくれたのは、イギリスとアメリカ。イギリスは銀行が、アメリカではロスチャイルド系のクーン・レーブ商会というユダヤ金融資本が日本の国債を買ってくれた。このクーン・レーブ商会は満州での鉄道開発に乗り出す意図があった。ところが、日露戦争のあと、日本がロシアと裏で手を結んでアメリカが「満州」に入ってくることをブロックしてしまったから、アメリカは対日感情を悪化させた。ふむふむ、そんな裏の事情があったわけですか・・・・。
 日本軍は、陸軍も海軍も有線電信・有線電話・無線電信による情報伝達網の構築にきわめて熱心で、それによって兵力数の劣勢を補った。野戦における有線電信・電話の使用など、当時のハイテク技術を活用した日本軍の戦いに、イギリス人をはじめとする観戦武官・新聞記者は大いに感心し、注目していた。ところが、この点は秘密にされているうちに、日本軍自身が忘れてしまい、また軽視してしまった。いやはや、秘密主義は自らも滅ぼすというわけです。
 日本軍が旅順攻略を急いだのは、バルチック艦隊がやってきて無傷の旅順艦隊と合流したら、黄海はおろか日本近海の制海権を日本側が確保できなくなって、輸送や補給ができなくなれば、大陸での日本軍の作戦はまったく不可能になってしまう。そこで、バルチック艦隊がやって来る前に、なんとしても旅順を攻略して、旅順艦隊を撃滅しておこうと大本営は考えた。
 バルチック艦隊を日本海軍が撃破したのも、かなり運が良かったともいえるようです。ぜひ、ご一読ください。価値ある本ですよ。
(2010年11月刊。1400円+税)

西南の役・山鹿口の戦い

カテゴリー:日本史(明治)

著者・発行 山鹿市地域振興公社  
 
西南の役における田原坂の戦いは有名ですが、田原坂は植木町にあります。実は、山鹿市でも激戦があったのです。この本は、山鹿市での戦いを紹介しています。
 明治10年2月、小倉第14連隊が南下を開始する。この隊長は乃木希典少佐。3個大隊全部で2034人。銃をエンピール銃からスナイダー銃へ切り換え、一度に南下するのではなく、順次、南下する。
 官軍は2月26日、熊本県の南関町に本営を設置した。博多にあった裁判所機能も南関に持ってきた。有栖川宮も南関へやって来る。
 山鹿市内は薩軍が支配していた。2月27日から3月20日までは平穏だった。
 その前、肥後藩の細川護久知事は減税を実施した。一般民衆は、明治維新になって生まれた、もっとも理想的で典型的な姿を熊本に見た。大減税をするし、その他いろんなことを刷新した。肥後藩は、明治3年から6年にかけてのたった3年間とはいえ、いい時期を送っていた。そして、明治10年、山鹿にコミューン自治政府が誕生した。普通選挙法で人民総代を選び、協同隊の隊長も、みんなで選んだ。民権派がコミューンをつくった。
なんと、なんと、山鹿は、日本最初の民権政治を実施したのです。
熊本の協同隊は薩軍とともに山鹿を支援すると、かねて抱懐する民権政治を実現せんとして、山鹿に民政を布いた。野満長太郎は選ばれて民政長官となった。長太郎は、薩軍とともに各地へ転戦したが、8月17日、降伏し投獄された。2年あまりのあと、放免され、それ以来、郷党の指導者として尊敬された。
熊本の協同隊は、ルソーの民約論に刺激されて集まった自由民権論者のグループだった。山鹿は日本最初の民主政治発祥の地と言える。
 うむむ、なんということでしょう。日本にもパリ・コミューンのようなものがあったとは・・・・。
 
(2002年2月刊。2000円+税)

イザベラ・バード『日本奥地紀行』を歩く

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 著者 金沢 正脩、 JTBパブリッシング 出版
 
 『日本奥地紀行』(平丹社)という本があります。明治11年(1878年)にイギリス人女性(47歳)が横浜から東北地方そして北海道へ単身、もちろん日本人の通訳と従者を連れて旅 行したのを記録した本です。その当時の日本人の習慣が分かって、とても面白い内容になっています。
 この本は、このイザベラ・バードがたどったコースを自ら体験し、当時と現況の写真を添えて紹介していますので、なるほどという思いで興味深く一気に読み通しました。イザベラ・バードは、明治政府から東北と北海道を旅行する許可を得ていました。このころ外国人は居住から40キロを超えて離れてはいけないことになっていたのですが、異例の許可でした。
 人力車を3台連ねて、まずは日光に向けて江戸を出発します。
 日光から鬼怒川に出て、会津に至ります。
 ヨーロッパでは、ときとして外国は、実際の危害を受けなくても無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられることがあるが、ここでは一度も失礼な目にあったことはなく、過当な料金をとられたこともない。
 西洋人女性の一人旅ですから、当然、村の人々は関心を持ちました。ある村では、2千人をこす村人が一目みようと集まってきて、さすがのバードも唖然としました。ところが、バードが望遠鏡を取り出すと、群集は一斉に散りました。ピストルだと思ったのでした・・・・。
 新潟から秋田へバードたちは向かうのですが、ともかくどこもかしこもてんやわんやの大騒ぎとなったのでした。昔も今も、日本人の好奇心の強さは同じなんですね。
 バードの旅行に通訳兼案内人兼用心棒となったのは、当時20歳の伊藤という日本人青年です。特別に学校で学んだのではなかったようですが、バードから教えられて英語を巧みに駆使したようです。バードが高く評価した伊藤のその後について詳しいことは判明していません。それについて、宮本常一は、伊藤レベルの人なら当時たくさんいたからだろうと解説しています。ふむふむ、なるほど、そういうことなんですか・・・・、とつい納得してしまいました。
 原作を読んだあと、視覚的に同じコースをたどってみたいという方に絶好の手引きになる本です。
 それにしても、当時のイギリスにレディー・トラベラーと呼ばれる自立心の強い女性旅行家たちが多くいたということを知って、大変驚きました。
 
(2010年4月刊。1800円+税)

真説・西南戦争

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著者:勇 知之、出版社:七草社
 五月のゴールデン・ウィークに田原坂へ出かけました。ちょうど植木スイカ祭りがあっていて、美味しいスイカをちょっぴり試食することも出来ました。そしてほかほかのイキナリダンゴ(1個100円)もいただきました。
 なぜ西南の役と呼ばれてきたか?それは、東京・大阪から遠い西南のほうで起きている戦争という意味。つまり、地方(田舎)での出来事でしかなかった。役というのは、軍役、使役の役のこと。つまりは役目のこと。民衆にとって、戦いに駆り出された兵士としての役務でしかなかった。
 なるほど、そういうことだったんですか・・・。田舎のちょっとした出来事でしかないと中央政府は言いたかったわけなんですね・・・。
 若き日の乃木希典が少佐として第14連隊を率いて参戦しますが、熊本県植木町で野戦になり退却します。そのとき、殿軍(しんがり)を連隊旗手の河原林少尉に命じたところ、この少尉は戦死して14連隊旗は薩軍に奪われてしまうのです。乃木少佐は自殺を図りますが、部下からいさめられて思いとどまります。有名な話です。乃木少佐は負傷して、久留米にあった軍病院に入院したとも言われています。政府軍の本営は、熊本県の南関町にありました。
 自動車のない当時です。馬と電信だけで連絡をとっていたようですが、誤報も少なくなかったことでしょう。現に、薩摩郡が南関町の政府軍本営を攻略しようとしていたら、田原坂が陥落したと伝令が誤報をもたらして中止したというもの紹介されています。
 田原坂が激戦地になったのは地形による。高さ500メートル。この坂を越えると、あとは熊本城まで平坦地で一直線となる。そこで、加藤清正も田原坂を北の要衝と認めていた。田原坂はなだらかな丘をくり抜いた道が通っているので、左右から伏兵の攻撃を受けやすい。しかも坂は蛇行しているため、大軍であっても苦戦せざるをえない。
 官軍が新式の大砲を運び上げるには、この田原坂を強行突破するしかなかったのです。
 官軍は、南関・三池を経て、90個中隊の官軍1万8千人が南下した。
 田原坂の戦いは、3月4日から20日まで17日間続いた激戦だった。ある薩軍兵士は、いやなのは、一に雨、二に大砲、三に赤帽と言った。雨は薩軍の旧式銃を不発にし、塹壕の水たまりはワラジを切らせ、降る雨は木綿の着物を濡らして行動を不自由にした。
 薩軍兵士のイヤなもの、警視抜刀隊。
 東京巡査に近衛(兵)がなけりゃ、花のお江戸に殴り込む
 この17日間の戦いで、薩軍は鹿児島私学校の精鋭を失い、体力を消耗させた。官軍の戦死者は1687人、一日平均99人。死傷者は6700人(1日平均370人)。
 田原坂戦での両軍の戦死者は3500人。死傷者は1万人をこえる。
 明治10年9月に西郷隆盛は城山で死んだ。翌年5月、大久保利通は暗殺された。
 さらに、翌年(明治12年)、大警視川路利良も死亡。毒殺されたともいう。
 田原坂の坂道を車で走ってみましたが、なるほど、勾配はそれほど急ではありません。ただ、曲がりくねっていて狭い道です。国道は別なルートを走っていますので、道幅は当時のままで、ほとんど拡幅されていないようです。
 田原坂の資料館に入りました。両軍の小銃弾が空中でぶつかりあったという弾が展示してありました。1日に何万発も撃ちあったということで起きた珍現象でしょう。
 ぜひ、一度、文明開化のきしみを意味する田原坂へ足を運んでみてください。
(2008年10月刊。1300円)

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