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カテゴリー: 日本史(明治)

衝撃の絵師・月岡芳年

カテゴリー:日本史(明治)

平松 洋 新人物往来社
 おどろおどろしい絵に度肝を抜かれます。しかし、我慢して頁をめくっていくと、江戸時代の浮世絵調になって救われます。幕末・明治を生きた最後の浮世絵師。血みどろの無残絵、迫力の妖怪絵から麗しき美人絵、気品あふれる歴史絵まで・・・。
 これがオビのうたい文句ですが、実にそのとおりです。
 目をそむけたくなる無残絵は目をつぶって通り過ごしましょう。
 歴史絵として、桜田門外の変が描かれています。まさしく血みどろの闘いであったことが手にとるように分かります。目撃したわけでもないでしょうに、あたかも実況中継のように氏名入りで活写されているのに驚きました。
 月岡芳年は天保10年(1839年)の生まれ。12歳で浮世絵師の歌川国芳の門をたたいた。芳年が「血みどろ絵」を描いたのには、その当時の時勢の影響も大きい。安政の大獄、桜田門外の変、安政の大地震、コレラによる大量死、大政奉還、明治維新というなかで、多くの人が実際に血みどろの屍を目にしていた。
 その後、新聞社に入って時事絵を描き、また絵入新聞で活躍した。このときには時給100円という破格の待遇だった。
 そのドラマチックな場面構成は、現代の劇画に通じる。
 「血みどろ絵」は三島由紀夫が愛好していたそうですが、なんとなく分かるような気がします。
 芳年は精神の病を得て、54歳という若さで生涯を閉じた。
一見の価値ある絵です。ただし、お化け屋敷なんて絶対にのぞかないという人にはおすすめしません。気分が悪くなると思いますので…。
(2011年6月刊。2100円+税)

明治維新と横浜居留地

カテゴリー:日本史(明治)

著者   石塚 裕道 、 出版   吉川弘文館
 幕末から明治の初めにかけて、横浜に大量の英・仏軍兵士が駐屯していたこと、アームストロング砲はともかくとしてガットリング機関銃のほうは、まだまだ欠陥が多くて、実戦ではそれほど役に立たなかったことなどを知りました。世の中って、本当に知らないことだらけだとつくづく思います。
 英仏両軍の横浜駐屯は文久3年(1863年)から明治8年(1875年)までの12年間に及んだ。その間、この横浜のフランス山、トワンテ山一帯は、いわば外国軍隊による占領に近い異常事態のもとにあった。
 横浜には、明治11年(1878年)ころ、中国人1850人をふくめて外国人が3200人、進出している外国商社は60社に及んでいた。横浜港は日本全国の小銃輸入量の6割を占めていた。20万丁をこえ、小銃取引の一大拠点となっていた。相手かまわず利益を追求する、ヤミ空間に暗躍した外国商人がそこにいた。
 文久3年(1863年)、イギリスとともにフランスにも駐屯権が承認され、それまで公使館の護衛兵程度にすぎなかった兵士たちに加えて、大規模な英仏共同の軍事行動のかたちで、続々と両国軍の士官・兵卒が香港や上海などから横浜へ進駐を開始した。
 四国連合艦隊による下関砲撃事件は文久3年(1863年)から翌年にかけてのこと。長洲藩が合計6回にわたって外国艦隊を砲撃して交戦したが、結局、敗北した。英国陸軍の制式砲に採用された最新鋭の後装式施条砲であるアームストロング砲の攻撃力により、4日間の交戦で長州藩の敗北に終わった。その長い射程距離、高い命中精度、旧型球弾に代わる尖頭型炸裂弾の使用など、アームストロング砲は薩摩と長州側からすれば、地上最強の究極兵器に見えたことだろう。
 列強艦隊の中心は英・仏の兵力であったが、その6割を占めたのはイギリス海軍であった。この対外戦争の実態は「日英戦争」であった。英国公使オールコックは強硬派であり、対馬占領そして彦島の占領、さらには城下町萩まで侵略する作戦を主張した。これについて、英仏の現地軍司令官は兵員不足と不利な地形から反対し、占領侵略作戦は実施されなかった。かの有名なオールコックが、日本占領・侵略を主張していた強硬派外交官だったとは知りませんでした。
 オールコックは、基本的にはイギリス本国の自由貿易政策の保護者でありながら、当面の戦略では、ロシアの南下作戦に対する危機感から対馬ついで彦島の占領を提案したのだった。
 戦時に、アームストロング砲は故障が続出するなど、装備に欠陥があった。
 イギリスは、極東で保有する軍事力の3割を日本へ派遣していた。さらに日本で緊急事態が発生すれば、英仏軍合計6600あまりの横浜駐屯軍に加えて、日本への増派可能な軍事力として、2、3日中にも上海から、その3倍ほどの増援部隊を移動・派遣することが可能であった。
 ところが、日本の市場価値の低さもあって、イギリスには幕末日本を植民地化するという永続的・長期的な方針はなかった。それが幸いしたのですね。市場価値があるとみられた中国に対しては、イギリスはアヘン戦争を仕掛けたわけです。
 戊辰戦争のなかで長岡藩家老「軍務総督」河井継之助の戦力とその指揮力が近年高く評価されている。河井総督の最後の切り札はアームストロング砲とともに高性能のガットリング機関銃だった。これは、手動回転式6銃身、弾薬後装360発、砲架(砲車)に搭載移動、1門の価格6000両だった。ところが頼みの最新兵器ガットリング機関銃の性能は期待はずれ、陣頭指揮者であり射手として銃の手動回転を操作した河井総督も狙撃されて負傷し、更迭されてしまった。
このころは外国人の武器商人が双方の陣営に深く入りこんでいたのでした。アメリカでガットリングが新型銃を完成して売り出したが、不評だった。そのため、内乱列島の日本が兵器売り込み市場の一つとして注目され、海外市場の開拓として日本に売り込まれた。
 ガットリング機関銃は南北戦争でもわずかしか利用されず、南北戦争のあとにアメリカ陸軍が制式採用した兵器であった。ヨーロッパでは、まだ試用段階で、その性能は疑問視されていた。
 立ったまま銃身を手動回転させるので、敵から狙撃されやすく、毎分200発も発射できるといっても、それに必要な大量消費できる弾薬補給・輸送体制が確立していなかった。
幕末・明治にかけて、アメリカでは南北戦争が、フランスでは、パリ・コミューンがあって、日本どころではなかったというのが明治維新による変動が国内要因だけで成功した条件だったようです。まさに、昔も今も世界は連動しているのですね。
(2011年3月刊。2700円+税)

日露戦争諷刺画大全(下)

カテゴリー:日本史(明治)

著者    飯倉  章  、 出版   芙蓉書房出版
 日露戦争とは一体いかなる戦争だったのかを知りたいと思ったら必読の本だと思いました。当時の世界各国のとらえ方がポンチ絵(政治マンガ)として紹介されているのですから、見逃すわけにはいきません。
 1904年に始まった日露戦争で、1905年1月下旬、ロシア軍が突如として大規模攻撃を満州にいる日本軍に仕掛けてきて黒溝台(こっこうだい)の戦いが始まり、1月25日から29日まで続いた。これは、ロシアの血の日曜日事件の3日後に始のことである。ロシア国内では、世界の注目を血の日曜日事件からそらす目的でツアー(ロシア皇帝)がクロパトキンに攻撃を命じたのではないかと推測されている。
 うむむ、なんと、そういうこともありうるのですね・・・。
 この戦いでは、日本側は対応を誤った。ロシア軍大移動の情報を軽視し、厳冬期で積雪もあるので、ロシア軍による大掛かりの攻撃はないと判断して油断していた。
このあと、奉天会戦が続きます。日露戦争中の最大の陸戦である。3月10日、日本軍は奉天を占領して勝利したが、敵ロシア軍に一大打撃を与えて戦争の勝敗を決するという目的を果たすことはできなかった。
 日本軍の黒木将軍は奉天を陥落後まもなく61歳の誕生日を迎えた。現役の勇猛な将軍と評価されていた。奉天会戦は、日露両軍ともに多大の死傷者を出した。日本側の戦死者は1万6千人、ロシア側は2万人。負傷者は日本側が6万人、ロシア側は4万9千人。ロシアは2万人が捕虜となった。
日本海海戦についても、いくつものポンチ絵で紹介されています。
 日本側は、バルチック艦隊の動向を把握していて、戦術開始前に十分な準備をし、訓練を重ねていて、士気も盛んだった。
 ロシア側は、ニコライ皇帝が講和を拒んでいた。なぜか?賠償金の支払いには強い抵抗感があった。それに応じたら、ロシアの体面は維持できないとニコライは考えていた。そして、強気だったもう一つの理由は、軍事的な情勢判断だった。ロシア側にはまだ戦力に余裕があった。
 他方、日本側は、辛勝が続いているので、いつ戦況が逆転しないとも限らないという心配があった。
 写真だけでなく、マンガ(画)でも事の本質はよく捉えることができることを実感させられる良書です。
(2010年11月刊。2800円+税)

日露戦争・諷刺画大全(上)

カテゴリー:日本史(明治)

著者    飯倉 章  、 出版   芙蓉書房出版
 日露戦争は、東アジアの地域強国に過ぎなかった日本が、大国ロシアに果敢に挑んだ決死の闘いでした。その戦争の推移が世界各地の新聞・雑誌に掲載された諷刺画(ポン千絵)で紹介されています。文字だけの歴史・分析書とは違って視覚化(ビジュアル化)されていますので、とても面白く読めました。
 諷刺画は、戦争をリアルに伝えることを意図したものではなく、また戦場の様子をリアルに伝えるのに優れていたわけでもない。諷刺を生業とする画家は、常に戦争や戦闘を斜に構えてとらえる。そこで、諷刺画は、奥深く幅広い人間の精神がとらえた戦争の一面を表象している。
 日露戦争は避けることの出来た戦争だった。それは日露の対立を背景とし、日露両国が相手の動向を相互に誤解したために起きた戦争だった。日露戦争の原因をロシアの拡張主義のみに求めることは出来ない。その他の深層原因として、日清戦争後の陸海軍における日本の軍拡もあげることができる。
 ロシア側は、日本から戦争を仕掛けることはないと勝手に決め込み、日本側に弱腰と受けとられないため、譲歩を小出しにした。他方、日本側は、戦うなら早いほうがよいという考えもあって早期決着を求めていた。ロシア側が、非効率なうえ、回答を遅らせることに無頓着であったことも、日本の誤解を増幅させた。
 日露交渉では、お互いに政治外交上の妥協点をはっきり示していれば、ロシアが満州を支配し、日本が韓国を支配することをお互いに認める形で決着がついていた可能性もある。日本軍、とくに陸軍の戦略思考を拘束したのは、シベリア横断鉄道が全通したときの動員力の増強だった。日本陸軍としては、相手側の動員力が増強されないうちに優位に戦いをすすめたかった。
 ロシアのツァーは戦争を望む性格ではなく、戦争を欲してはいなかった。そして、明治天皇も、日露開戦をもっとも心配し、開戦に消極的だった。明治天皇は対露戦争に乗り気ではなかったが、国内の主戦派に押し切られた。
 アメリカの世論は、日露戦争の期間、おおむね親日的であり、とくに戦争初期の段階ではその傾向が強かった。
 日露戦争はメディアを通じて、戦争が数日の間隔はあるものの、リアルタイムに近い形で報道された。
 開戦当初、ロシア社会は熱狂的に戦争を支持した。しかし、この戦意高揚も長くは続かず、春ごろから戦争支持は急速に下火になった。敗戦が続いて士気がそがれ、しかも戦争の目的が不明確であったからである。
旅順総攻撃で日本軍は第1回のとき1万6千名もの死傷者を出して悲惨な失敗に終わった。このときロシア軍の死傷者は、その1割以下の1500名でしかなかった。そこで、ミカドが機関銃を操り、機関銃弾として「日本の青年」が次々に発射されていく絵が描かれています。まことに、日本軍は人間の生命を粗末に扱う軍隊でした。
 日露戦争の実相をつかむためには必須の本だと思います。
(2010年11月刊。2800円+税)

韓国戦争(第6巻)

カテゴリー:日本史(明治)

著者    韓国国防軍史研究所  、 出版   かや書房
 ついに韓国戦争シリーズも第6巻、最終巻となりました。休戦の成立です。貴重な人命が惜しげもなくうち捨てられて、犠牲となっていく情景描写は、戦争のむごさを痛感させ、胸を痛めながら最後まで読み通しました。
 1952年夏、戦線が膠着した状況で、共産軍側の軍事力は日ごとに増強されていった。7月、中共軍63万人、北朝鮮軍28万人の計91万人だったが、9月には合計100万人をこえた。兵力だけではなく、砲兵火力も大幅に増強させた。共産軍の装備補充のなかでもっとも不足していたのは、通信装備の部門だった。
 国連軍司令官クラーク大将は、最小限の犠牲を持って最大限の軍事的圧迫を駆使できるのは空軍力だけだと強調した。航空圧迫作戦の主要な特徴は、第一に制空権の獲得、第二に、敵に最大限の犠牲を強いるものであること、第三に、地上軍の脅威を減少させること。
 そこで、国連軍は北朝鮮の発電施設に対する大々的な攻撃を実施した。韓国内の500機以上の航空機を総動員して編成された大規模作戦だった。7月には、米第五空軍と米海軍の航空機822機が三派に分かれて平壌大空襲を実施した。11時間のうちに
1400トンの爆弾と2万3000ガロンのナパーム弾が平壌に投下された。これってすさまじい量ですよね。
 1953年3月5日、ソ連のスターリン首相が脳出血のため突然死亡した。このスターリンの死は、国際情勢と朝鮮戦争に大きな変革を意味した。スターリンの死後、ソ連政府は朝鮮戦争を終結させるとの結論を出した。金日成もそれに従った。
 5月、国連軍は北朝鮮軍捕虜5194人、中共軍1030人、民間人拘留者446人を共産軍側に引き渡した。このとき、共産軍側は、684人の捕虜を引き渡しただけだった。
 1953年5月から最後の攻勢と呼ばれる軍事作戦が展開された。アイゼンハワー大統領は、板門店での膠着状態を打開するため、核兵器の使用を考慮していることを中国側に暗示した。この核兵器戦略は、作戦交渉に決定的な影響力をもっていた。アメリカ軍は、40キロトン核爆弾で平壌を攻撃する計画を立てていた。うひゃあ、これってとても怖いことです。つかわれなくて幸いでした。
 1953年4月、共産軍の総兵力は180万人。そのうち中共軍が19コ軍135万人、北朝鮮軍が6コ軍国45万人だった。
 中共軍は午前2時ころ、砲撃に続き、笛を吹き鉦(かね、ドラ)を打ち鳴らしながら、気勢をあげつつ、闇をついて攻撃してきた。
 アメリカ軍が待ちかまえる近代戦の最前線でこのような非情な捨て身作戦が敢行されていたという事実に戦慄を覚えます。
 韓国戦争は、その実情に照らして内戦とは規定できない。韓国軍63万人、国連軍55万人をふくむ119万人の戦死傷者を出した。それに対して、北朝鮮軍80万人、中共軍
123万人、計204万人の死傷者を出した。このほか民間人の死傷者は249万人に達し、323万人の避難民が発生した。
 統一は、平和的な手段によって成し遂げなければならないという貴重な教訓を得た。
この最後の言葉は重いですよね。これで何とか6巻を読み通すことができました。お疲れさまです。朝鮮半島で再び戦争が起きることのないことを心から願います。いずれ近いうちに平和に統一が達成されることを願うばかりです。
(2010年12月刊。2500円+税)

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