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カテゴリー: 日本史(明治)

大久保利通の肖像

カテゴリー:日本史(明治)

著者  横田 庄一郎 、 出版  朔北社
大久保利通というと、いいイメージはありませんよね。佐賀の乱で江藤新平をさっさと処刑してしまったり、権力の権化みたいなイメージです。
 ところが、この本を読んで、そのイメージを少し修正しなければいけませんでした。
 まずは、西郷隆盛と大久保利通はすごく親しかったようです。そして、坂本龍馬も大久保利通に敬意を払っていたのでした。
大久保利通には娘が一人いたが、その幼い娘を暇を見つけては書斎に入れて戯れていた。なんとまあ、人間的なことでしょう。
 大久保利通には、鹿児島の正妻のほか、京都夫人がいて、京都に住居をもっていた。そして、東京に住居を移したとき、京都夫人が子どもと一緒に移り住んだ。東京では、異母兄弟5人が同居していたことがある。
 大久保利通の三男の長男は歴史学者、八男の長男はロッキード事件のときの丸紅の役員だった。さらに、二男の娘が結婚したのは吉田茂元首相であり、吉田茂の娘の子が麻生太郎元首相である。
 大久保はメモ魔であった。小さな手帳をもっていて、何事でもその手帳に書きとめていた。
西南の役のとき、鹿児島の大久保の家は壊されてしまった。ところが、福島県郡山市では「大久保様」と呼ばれ、「大久保神社」まである。
 東北地方の士族授産事業を大久保は計画した。当初の計画の2千戸が最終的には500戸になったが、旧久留米藩も大久保内務郷のすすめで士族100戸が移住した。
大久保は西郷隆盛の2つ年下で、亡くなったとき、西郷は49歳、大久保は47歳だった。
 西郷と大久保は、ともに6尺近い背丈があり、180センチほどの大男だった。
 大久保は西南の役があっていたころ、内国勧業博覧会を予定どおり開いた。そして、士族授産のために東北では安積疎水構想をすすめていた。
 大久保は明治11年5月14日に暗殺された。西郷隆盛が敗死したのは前年の明治10年9月24日のこと。
 この本の著者は、大久保が暗殺されたときに乗っていた馬車の現物を見ています。なんと、岡山・倉敷の近くの寺院に保存してあるのです。
 その馬車の荒れようからして、大久保利通は馬車の外へ出たところを暗殺犯の日本津で斬り殺されたようです。
 大久保利通は暗殺犯を恐れてはいなかったようで、人通りの少ない紀尾井町ルートを利用していました。暗殺犯は6人いて、出勤途上を待ちかまえていたのです。
 彼らは馬にまず切りつけ、走れなくしてしまいましたから、大久保が殺されるのは必至です。たまたま大久保は護身用の拳銃も持ちあわせていませんでした。馬丁の一人が一目散に逃げ出して助かっていますが、御者の方は殺されています。護衛など、いなかったのです。
大久保利通をふくめて明治維新を見直してみる必要があると思いました。
(2012年9月刊。2200円+税)

落花は枝に還らずとも (上) (下)

カテゴリー:日本史(明治)

著者   中村 彰彦 、 出版   中公文庫 
 会津藩士、秋月悌次郎の一生を追った本です。会津藩が幕末の京都でどんな動きをしていたのか、白虎隊に象徴される戊辰戦争の実情、そして明治になってからの会津藩士の歩みなど、興味深く読みすすめていきました。
ところが、会津藩士の中核として活躍した秋月悌次郎が、なんと明治になってから熊本で高校教師になっていたのを知って、腰が抜けそうになりました。
 熊本の高校生たちに風格ある漢文教師として慕われていたというのです。幕末といっても、そんなに遠い世界のことではなかったんだなと、このエピソードを知って改めて認識を改めたことでした。
 そして、この秋月悌次郎が熊本の五高で教えていたときの同僚の教授に末広厳太郎がいたというのです。民法学の大家であり、東大セルツメントの創始者でもある末広厳太郎が登場してくるとは夢にも思いませんでした。
 明治33年1月、77歳で息をひきとった秋月悌次郎は、若き日には「日本一の学生」といわれ、松平容保の京都守護職就任に際しては会津藩公用方として活躍した。会津藩の開城降伏式を宰領した。熊本で教育者になってからは、ラフカディオ・ハーンに「神のような人」とまで言われた。
 2005年に、この本で新田次郎文学賞を受賞したとのことですが、私と同世代の著者の調査力と筆力には、ただただ圧倒されるばかりです。
(2008年1月刊。762円+税)

筑前竹槍一揆研究ノート

カテゴリー:日本史(明治)

著者   石瀧 豊美 、 出版    花乱社選書 
 明治6年(1873年)6月に福岡県内で起きた竹前竹槍一揆は、参加者20万人とも10万人とも言われ、処罰されたものが6万4000人にもなる最大規模の一揆です。
 明治6年6月、大旱魃(かんばつ)を背景として、嘉麻郡の一角に起こった農民一揆は、たちまち筑前全域に広がった。一部は筑前地方をまきこみつつ、一揆の参加人員は30万人(少なくとも10万人)と言われる。福岡城内にあった福岡県庁の焼打ちにまで発展する空前の大一揆となった。
 福岡城内にあった福岡県庁といえば、現在、舞鶴中学校のあるところですから福岡の地裁・高裁のあるところの近くですよね。
 この一揆が何を要求していたかということについて、著者は「解放令」反対を揚げていた事実を直視すべきだとしています。この一揆は、その過程で、被差別部落2000戸以上の家屋を意図的に焼き払った。そして、そのとき、部落外に類焼しないよう細心の注意を払っていたことを明らかにしています。
 「解放令」が出た後の被差別部落民の積極的な行動が、一般民衆の目には傲慢とうつり、次第に発火点に達して、一気に爆発したのが竹槍一揆なのである。解放令が出たのは、明治4年のこと。
 一揆勢は、部落は有無をいわさず焼くが、部落以外は一軒も焼かないように、失火にすら気をつけるという見事な統制ぶりを示した。
 「解放令」は農商民と被差別民との間に妥協なき日々の戦いを強いることになり、筑前竹槍一揆勃発の直前まで、差別・反差別のせめぎあいが、ときに竹槍・刀で武装する戦いにまで至っていた。
 民衆が新政に反対し、ことに被差別部落の焼き打ちに及んだ背景には、政府が文明開化政策についての啓蒙を怠っていたこと、あまりにも急激な変化が矢継ぎ早に相次いだことがあげられる。民衆にとっては、これまで安住できた生活空間が破壊される恐怖感につながった。明治6年の筑前竹槍一揆については、私たちはもっと認識してよいと思います。昔の人は政府への怒りをストレートに行動に示していたのですから・・・。
(2012年5月刊。1500円+税)

明治維新 1858-1881

カテゴリー:日本史(明治)

著者   坂野潤治・大野健一 、 出版   講談社現代新書  
 明治維新のとらえ方について、ステレオタイプ的な見方を一新させられる思いをした刺激的な本でした。
 明治天皇は名目的な最高権力者であったが、政治の実権は多数の藩閥政治家が入れ替わり立ち替わり握っていた。そして、このことは当時の日本政治の弱点ではなく、むしろ世界史にほとんど類をみない長所だった。
明治天皇は国民統合の象徴としての重要な政治的意義を担い、ゆえに明治期の指導者にとっては尊崇し、権威を付与し、正当性の由来となる存在ではあったが、実権をもつ独立した政治力ではなかった。
 明治初期には、開発派(大久保)、外征派(西郷)、議会派(板垣)、憲法派(木戸)の四派があり、各派とも単独では十分な政策実施能力を欠いているため、絶えず他派と「連合」していた。そして、連携と牽制の関係は固定的でなく、状況変化に応じて数年ごとに組み換えられた。いったん対立したグループ間に、修復しがたい遺恨が生じることもなかった。
 佐賀(肥前)藩出身者は、大熊重信にかぎらず、江藤新平、大木喬任、副島種臣らも含めて、旧藩単位でグループを形成することはなく、単独行動が多かった。
 これは、幕末期の佐賀藩が自藩だけで「富国強兵」を実践し、それがかなり成功したために他の雄藩と連携する必要を感じなかったからである。そのため、旧佐賀藩士は、共同作業や連携組み替えの訓練を受けていらず、その母体となる枠組みも存在せず、それ故に自己主張のためには過激性や単独プレイに頼る傾向があった。これって、何事によらず、いいことばかりをもたらすわけではないっていうことですよね・・・。
幕末の佐賀藩は、富国強兵の優等生だった。軍艦を毎年一隻購入し、アームストロング砲16門、スペンセル銃1000挺を購入している。しかし、それにもかかわらず、佐賀藩は倒幕勢力としても、新政府勢力としても変革にはまったく貢献できなかった。
 江戸時代末期の武士は45万人。その1%の4300人が明治維新という社会変革に積極的に関わった。武士は、エリートとしての使命と誇りに燃えて政体編成にあたった。
 そして、新政権の確立と維持のためには所期の目的を大きく逸脱する行動は不可欠となった。政治改革を意図してはじまった運動は、ついに政治改革にまで及んだ。
 西郷隆盛は、幕末期に鹿児島藩の商社化による富国強兵と、他藩と協力しながらの封建議会の設立の双方のために奔走したから、大久保と木戸が、欧米視察で学んできた工業化と憲法論を十分に理解できたであろう。封建制を前提とする議会論は、明治維新の維新者たちのあいだでは、幕末以来の共通了解であった。
 明治初期の農村地主の突然の政治参加をもたらした要因は、第一に西南戦争インフレによる農産物価格の急騰が彼らの交通費と滞在費と書籍費を支えたこと、第二に、唯一の納税者で使い道に関心をもつようになったことにある。
変革期の連携に組み換えが収拾不能な混乱に陥ることなく、また長期にわたって継続したのは、王政復古に先立つ10年間の藩内での上下の交流による協働経験があった。指導者たちは、相互に抜き差しならない対立に追い込まれたときも、衝突する寸前まで、互いに相手の善意を信じこんでいた。
 西郷隆盛は、平均して年に11通の手紙を大久保に出していた。今日の我々には想像もつかないほどの筆まめさに支えられて、西郷隆盛や大久保利通らの薩摩藩改革派は、鹿児島にあろうと京の藩邸にいようと、江戸屋敷に住もうと、朝廷、幕府、有力諸藩の動向をお互いに共有することができた。
 やはり情報こそカギなのですね。いい本でした。さすがです、学者はすごいものです。
(2010年1月刊。740円+税)

イザベラ・バードを歩く

カテゴリー:日本史(明治)

著者   釜澤 克彦 、 出版   彩流社
 明治11年(1878年)夏に、東京から東北を旅行し、北海道に渡ってアイヌ部落まで視察したイギリス人の女性旅行家による『日本奥地旅行』(平凡社ライブラリー)は、江戸時代末期から明治初期の東日本をまざまざと紹介している貴重な本です。
 この本は当時47歳のイギリス人女性がたどったのと同じコースをアマチュア(素人)がカメラ片手にたどった旅を再現した本です。写真がふんだんにあって、昔と今のイメージの違いを知ることもでき、興味深く読み通しました。
イザベラ・バードの旅は今と同じ好奇心旺盛の日本人に取り巻かれて、プライバシーの欠如、悪臭、ノミや蚊に苦しめられた旅行でした。
 日本人の物見高さのすごさには呆れますね。バードを見ようとして、家の中に60人、外には1500人も集まっていたというのです。いわゆる白人女性の姿を一目でも見てみようという日本人の群衆です。今だって同じですよね。
 「こんなすばらしい見世物を自分ひとり占めしているのは公平でもないし、隣人らしくもない。私たちは、二度とまた外国人の女をみる機会もなく一生を終えるかもしれないから・・・」
 泊まった宿屋では、深夜まで芸者や酔客の騒音で睡眠もままならない状態でした。今も昔も、日本人の団体客は騒々しい限りなんですね・・・。
 バードの通訳として同行した伊藤鶴吉について、バードは不信感をもっていましたが、わずか20歳でバードの旅行を無事に完遂させたのですから、偉いものです。
東北の人々は、自らの貧しさを詫びながらも、外国人客を精一杯もてなそうとし、決して余分のお金は受けとろうとしなかった。すごいですよね、これって・・・。
そして、実り豊かに微笑する東北の大地をみて、イザベラ・バードはここをアジアのアルカデカ(桃源郷)と名付けたのでした。
 各地のカラー写真がありますので、バードが旅行した当時をしのぶ手がかりとなります。バードの勇気もたいしたものですが、それを130年後にたどってみた著者の努力も大いにたたえたいと思います。
(2009年6月刊。1800円+税)

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