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カテゴリー: 日本史(明治)

加藤拓川

カテゴリー:日本史(明治)

著者  成澤 栄寿 、 出版  高文研
原敬(後の首相。暗殺されました)とともに司法省法学校に学び、ストライキをして放遂された人物が主人公です。朝鮮で外交官として活動し、伊藤博文を激怒させたことで有名なのでそうです。私は知らなかった人です。
中江兆民は大久保利通に直訴して政府派遣留学生に加えてもらい、1872年2月からフランスに留学した、フランス語の読解は抜群だったが、会話のほうは上手ではなかった。
 兆民のフランス留学は、1871年3月にパリ・コミューンが成立し、5月に政府軍から鎮圧されて間もないころのこと。「レ・ミゼラブル」の時代ですね。
 兆民は、3つの政治体制、すなわち王制、ブルジョア共和制、社会主義体制の存在を深慮しつつ、帰国したのである。
 兆民の学僕となったのは幸徳秋水。あの大逆事件で処刑された幸徳秋水が兆民の学僕だったとは驚きです。
中江兆民は、衆議院議員選挙に大阪4区から立候補し、定員2名1位で当選した。
 兆民が被選挙人に必要な条件をみたすために、収入も財産も乏しい兆民に資産などの名義を貸したのは末解放部落の業者だった。兆民は未解放部落の代弁をもする代議士になったのである。
秋山好古はフランスに4年あまり留学した。軍人として異例の長さであった。好古は騎兵についてはドイツよりフランスのほうがはるかに優秀であると学んで帰国した。
 兆民は1901年12月に食道がんで死亡した。その前、医師から余命1年半と告知されたあと、「生前の遺稿」と題する『1年有半』を執筆した。現実の政治批判を加えた随想集は20数万部も売れ、福沢諭吉の『学問のすすめ』以来のベストセラーになった。兆民の葬儀は、兆民の遺言どおり、一切の宗教的儀式を伴わない、わが国最初の告別式が参列者1000人のもとに拳行された。遺言によってお墓も建てられていない。ただし、友人による碑は建っている。
 宗教的儀式を伴わない葬儀と言えば、故池永満弁護士(福岡県弁護士会の元会長)の葬儀も遺言によって、そのようになされました。私はお通夜だけしか参加できませんでしたが、関係者が思い出を語るのを聞いて献花して終了となりました。故人らしいお通夜で、さすがだと思いました。
 日本海海戦で、日本海軍が大勝利したのは、敵前で180度回頭して同航戦(併行して走り戦う)を展開した初戦の砲撃戦術にあると強調されている。しかし、実は、この完勝を決定づけたのは、秋山真之・参謀も後に指摘しているとおり、多数の駆逐艦、ことに水雷艇の活躍だった。ええーっ、そうだったんですか。知りませんでした。
 伊藤博文は韓国を植民地同様に扱い、韓国を無視した。拓川は、赤十字条約改正会議における韓国の外交権を認める立場で外交官として行動しようとして、帰国を命じられた。伊藤博文の逆鱗に触れたのであった。
 外交官拓川は、盗賊主義の外交政策に従いながらも、最後の段階で、これに露骨にくみすることができなかった。
 日本国内の矛盾のあらわれだと受けとめました。知らなかった日本の外交官の存在を認識しました。
(2012年11月刊。3000円+税)

兵士たちがみた日露戦争

カテゴリー:日本史(明治)

著者  横山篤夫・西川寿勝 、 出版  雄山閣
日本人は、まことに昔から日記を書くのが大好きな民族です。
日露戦争のとき、個々の兵士は戦場に筆記用具を持ち込み、日記や手紙を自ら記し、見聞記録をつけることが常態化していた。
 本書は、その日記などにもとづいて、日露戦争の知られざる実情をことこまかく具体的に明らかにしています。
 日本軍は沙河の戦いのころ、大変な事態に陥っていた。遼陽の戦いで、日本軍は銃弾・砲弾を撃ち尽くし、これから生産する分も旅順要塞攻略用に手いっぱいで、補給の目途がたたなくなっていた。しかし、戦地の兵站倉庫に弾薬がないことは前線には知らされなかった。戦意喪失どころか、陣地防御も不可能だったからである。
 そこで、日本軍はロシア軍から奪った大砲で盛んに攻撃を仕掛け、砲弾の致命的欠乏をロシア軍に悟られずにすんだ。
 日本は日露戦争に17億円の戦費を投入した。このうち12億円は外国債にたよった。
大連から350キロも戦線がのびた奉天会戦では、大部隊が急速な行軍を行い、各部隊は常に前線で弾幕にさらされた。そうすると、兵站基地からの供給が途絶えてしまった。しかも、平原の前線では炊飯のために火をおこすと狙い撃ちされ、米が届いても炊くことができなかった。これに対して、ロシア軍は東清鉄道を使って開戦前から大量の食糧などを輸送して、各拠点に兵站基地をもっていた。
 日露戦争で、60万の兵が出征し、その兵站は重要な問題となった。しかし、満州軍に兵站組織はなく、場当たり的な対応だった。そのため、食料調達の不公平や遅滞が問題になった。輸送した総運搬量の3分の2は食糧だった。
 日露戦争は世界史上初めての国民総動員の戦争だった。日露戦争の特徴として、多数の後備聯隊が偏された。その主役は32歳までの後備の兵卒。現役は将校と下士官だけで、兵卒は30歳前後だった。
 私は旅順にツアーで行ったことがあります。有名な203高地にのぼりましたし、東鶏冠山と盤龍山のロシア軍堡塁跡地も見学しました。203高地の上からは、なるほど旅順港は真下によく眺めることができました。
 旅順戦の惨状は将兵の戦意低下を増幅させた。うまく負傷して戦列を離れることが「第一の幸福」と認識されていた。
 与謝野晶子の詩「君死にたまうことなかれ」は有名ですが、その弟が本当に旅順戦に参加して戦っていたのか疑問視する声もあるそうです。本書は、晶子の弟は宇品港(広島)から出航して旅順港戦に参加したとしています。それも前線兵士ではなく、輜重兵として、つまり兵站部隊の一員だったのです。
 1905年3月の10日間、奉天会戦が激しくたたかわれた。60万の将兵が東西100キロ、南北40キロにわたる満州の平原で激闘を繰り広げた世界史上空前の大会戦である。奉天会戦に参加した日本軍兵力は25万人、死傷者は7万人。ロシア軍のほうは総数31万人、死傷者6万人、行方不明7千人、捕虜2万人。この過程で及木第三軍は危機的状況に陥っていた。
 しかし、ロシア軍が奉天城から撃退していった。このとき、奉天には、中立である清国民が普通に日常の暮らしを営んでいた。ロシア軍が籠城していたわけではない。
 そして、ロシア軍の大半が撃退したあと、日本軍が入ってきた。
日露戦争に従軍した兵士の陣中日記などをもとにしていますので、その実情がリアルに分かる本になっています。
(2012年11月刊。2600円+税)

大久保利通の肖像

カテゴリー:日本史(明治)

著者  横田 庄一郎 、 出版  朔北社
大久保利通というと、いいイメージはありませんよね。佐賀の乱で江藤新平をさっさと処刑してしまったり、権力の権化みたいなイメージです。
 ところが、この本を読んで、そのイメージを少し修正しなければいけませんでした。
 まずは、西郷隆盛と大久保利通はすごく親しかったようです。そして、坂本龍馬も大久保利通に敬意を払っていたのでした。
大久保利通には娘が一人いたが、その幼い娘を暇を見つけては書斎に入れて戯れていた。なんとまあ、人間的なことでしょう。
 大久保利通には、鹿児島の正妻のほか、京都夫人がいて、京都に住居をもっていた。そして、東京に住居を移したとき、京都夫人が子どもと一緒に移り住んだ。東京では、異母兄弟5人が同居していたことがある。
 大久保利通の三男の長男は歴史学者、八男の長男はロッキード事件のときの丸紅の役員だった。さらに、二男の娘が結婚したのは吉田茂元首相であり、吉田茂の娘の子が麻生太郎元首相である。
 大久保はメモ魔であった。小さな手帳をもっていて、何事でもその手帳に書きとめていた。
西南の役のとき、鹿児島の大久保の家は壊されてしまった。ところが、福島県郡山市では「大久保様」と呼ばれ、「大久保神社」まである。
 東北地方の士族授産事業を大久保は計画した。当初の計画の2千戸が最終的には500戸になったが、旧久留米藩も大久保内務郷のすすめで士族100戸が移住した。
大久保は西郷隆盛の2つ年下で、亡くなったとき、西郷は49歳、大久保は47歳だった。
 西郷と大久保は、ともに6尺近い背丈があり、180センチほどの大男だった。
 大久保は西南の役があっていたころ、内国勧業博覧会を予定どおり開いた。そして、士族授産のために東北では安積疎水構想をすすめていた。
 大久保は明治11年5月14日に暗殺された。西郷隆盛が敗死したのは前年の明治10年9月24日のこと。
 この本の著者は、大久保が暗殺されたときに乗っていた馬車の現物を見ています。なんと、岡山・倉敷の近くの寺院に保存してあるのです。
 その馬車の荒れようからして、大久保利通は馬車の外へ出たところを暗殺犯の日本津で斬り殺されたようです。
 大久保利通は暗殺犯を恐れてはいなかったようで、人通りの少ない紀尾井町ルートを利用していました。暗殺犯は6人いて、出勤途上を待ちかまえていたのです。
 彼らは馬にまず切りつけ、走れなくしてしまいましたから、大久保が殺されるのは必至です。たまたま大久保は護身用の拳銃も持ちあわせていませんでした。馬丁の一人が一目散に逃げ出して助かっていますが、御者の方は殺されています。護衛など、いなかったのです。
大久保利通をふくめて明治維新を見直してみる必要があると思いました。
(2012年9月刊。2200円+税)

落花は枝に還らずとも (上) (下)

カテゴリー:日本史(明治)

著者   中村 彰彦 、 出版   中公文庫 
 会津藩士、秋月悌次郎の一生を追った本です。会津藩が幕末の京都でどんな動きをしていたのか、白虎隊に象徴される戊辰戦争の実情、そして明治になってからの会津藩士の歩みなど、興味深く読みすすめていきました。
ところが、会津藩士の中核として活躍した秋月悌次郎が、なんと明治になってから熊本で高校教師になっていたのを知って、腰が抜けそうになりました。
 熊本の高校生たちに風格ある漢文教師として慕われていたというのです。幕末といっても、そんなに遠い世界のことではなかったんだなと、このエピソードを知って改めて認識を改めたことでした。
 そして、この秋月悌次郎が熊本の五高で教えていたときの同僚の教授に末広厳太郎がいたというのです。民法学の大家であり、東大セルツメントの創始者でもある末広厳太郎が登場してくるとは夢にも思いませんでした。
 明治33年1月、77歳で息をひきとった秋月悌次郎は、若き日には「日本一の学生」といわれ、松平容保の京都守護職就任に際しては会津藩公用方として活躍した。会津藩の開城降伏式を宰領した。熊本で教育者になってからは、ラフカディオ・ハーンに「神のような人」とまで言われた。
 2005年に、この本で新田次郎文学賞を受賞したとのことですが、私と同世代の著者の調査力と筆力には、ただただ圧倒されるばかりです。
(2008年1月刊。762円+税)

筑前竹槍一揆研究ノート

カテゴリー:日本史(明治)

著者   石瀧 豊美 、 出版    花乱社選書 
 明治6年(1873年)6月に福岡県内で起きた竹前竹槍一揆は、参加者20万人とも10万人とも言われ、処罰されたものが6万4000人にもなる最大規模の一揆です。
 明治6年6月、大旱魃(かんばつ)を背景として、嘉麻郡の一角に起こった農民一揆は、たちまち筑前全域に広がった。一部は筑前地方をまきこみつつ、一揆の参加人員は30万人(少なくとも10万人)と言われる。福岡城内にあった福岡県庁の焼打ちにまで発展する空前の大一揆となった。
 福岡城内にあった福岡県庁といえば、現在、舞鶴中学校のあるところですから福岡の地裁・高裁のあるところの近くですよね。
 この一揆が何を要求していたかということについて、著者は「解放令」反対を揚げていた事実を直視すべきだとしています。この一揆は、その過程で、被差別部落2000戸以上の家屋を意図的に焼き払った。そして、そのとき、部落外に類焼しないよう細心の注意を払っていたことを明らかにしています。
 「解放令」が出た後の被差別部落民の積極的な行動が、一般民衆の目には傲慢とうつり、次第に発火点に達して、一気に爆発したのが竹槍一揆なのである。解放令が出たのは、明治4年のこと。
 一揆勢は、部落は有無をいわさず焼くが、部落以外は一軒も焼かないように、失火にすら気をつけるという見事な統制ぶりを示した。
 「解放令」は農商民と被差別民との間に妥協なき日々の戦いを強いることになり、筑前竹槍一揆勃発の直前まで、差別・反差別のせめぎあいが、ときに竹槍・刀で武装する戦いにまで至っていた。
 民衆が新政に反対し、ことに被差別部落の焼き打ちに及んだ背景には、政府が文明開化政策についての啓蒙を怠っていたこと、あまりにも急激な変化が矢継ぎ早に相次いだことがあげられる。民衆にとっては、これまで安住できた生活空間が破壊される恐怖感につながった。明治6年の筑前竹槍一揆については、私たちはもっと認識してよいと思います。昔の人は政府への怒りをストレートに行動に示していたのですから・・・。
(2012年5月刊。1500円+税)

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