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カテゴリー: 司法

市長「破産」

カテゴリー:司法

著者  吾妻 大龍 、 出版  信山社
私は長く住民訴訟にかかわってきました。残念なことに、一度も勝訴したことはありません。それでも、一つだけ、マスコミの事前予測では「住民側勝訴」というものがあり、事前に取材を受けましたが、当日、「請求却下」判決が出て、がっかりしたこともあります。第三セクターの破綻によって30億円ものムダな公金支出をさせられたことについて、市長個人の責任を追及した住民訴訟でした。
この本は、住民訴訟をはじめ行政訴訟に精通している学者がペンネームで架空市の行政側の内幕をバクロする仕立てになっていますので面白く、分かりやすく、問題点を理解することができます。住民訴訟を担当している人、とくに裁判官にはぜひ読んでほしいと思いました。
 権利放棄議決というものがあります。これは、市長個人に市への賠償責任があるという判決が確定したとき、市議会が市に対する賠償は必要ないと議決して、市長の個人責任を免責するというものです。いわば脱法的な議決です。この有効性が裁判で争われて、最高裁は個々の事案毎に「諸般の事情を総合考慮」して、裁量権の範囲の逸脱または濫用にあたらないかで判断するとしました。権利放棄決議を無効とした判決もあります。
 京都のぽんぽん山訴訟では、元京都市長に一審で4億円の賠償が命じられ、高裁では、それが26億円にアップしました。最高裁でもそのまま認められて確定したため、元市長の遺族は限定承認をして8000万円を市に支払ったとのことです。
 住民訴訟の対象になるものはたくさんあります。要するに、フツーの市民の感覚からして、それは税金のムダづかいではないか、という公金の支出です。そして、失敗しても誰も責任をとらないというときに、住民訴訟という手法をとるのです(その前に住民監査請求をしなければいけません)。
 行政当局側の、市長と担当部局そして法規担当、顧問弁護士の対話がメチャメチャに面白いものになっています。真相は、あたらずとも遠からず、と言うところではないかと思って読みました。
 行政法の権威である阿部泰隆先生の書いた本です。
(2013年7月刊。980円+税)

憲法とは何か

カテゴリー:司法

著者  長谷部 恭男 、 出版  岩波新書
憲法とは何か、改めてじっくり国民に考え直してもらおうという本です。
 憲法はわれわれに明るい未来を保障するどころか、ときに人々の生活や生命をも左右する「危険」な存在になりうる。憲法を変えたとき、われわれの暮らしが良くなるか否かは、憲法をどう変えるかによる。
 憲法にまつわるさまざまな誤解や幻想を指摘したい。
 憲法が権力を制限することで、人々の自由と権利を守る重要な役割を果たすことができる(立憲主義)。立憲主義は、近代のはじまりとともに、ヨーロッパで生まれた思想である。 
 衝突の調停と限界づけを目ざす立憲主義は、中途半端な煮え切らない立場である。立憲主義を選ぶことは、この「中途半端」な立場にあえてこだわることを意味する。立憲主義は、人間の本性に反している。というのは、人は、もともと多元的な世界の中で個人的に苦悩などしたくない。みんなが同じ価値を奉じ、同じ世界観を抱く「分かりやすい」世の中であれば、どんなにいいだろうかと思いがちなものである。
 プライバシーの権力や環境権を憲法に書き込むべきだという討論がある(いわゆる加憲のことですね)。しかし、これらは、憲法の条文に書き込んだとしても、国会の制定法や裁判所の判断を通じて具体化されなければ、何の意味もない。たとえばプライバシーの権利は、すでに憲法13条の解釈として裁判所によって具体化されており、その侵害に対しては差止めや損害賠償等の救済が認められている。憲法に書き込むことで新たにえられるものはなさそうである。
 憲法がなぜ、通常の法律よりも変えにくくなっているかといえば、意味のないことや危なかったことで憲法をいじくるのはやめて、通常の立場のプロセスで解決できる問題に政治のエネルギーを集中させるためである。不毛な憲法改正運動にムダなエネルギーを注ぐのはやめて、より社会の利益に直結する問題の解決に、政治家が時間とコストをかけるようにと、憲法はわざわざ改正するのが難しくなっている。
 憲法96条を改正して、3分の2を過半数に緩和しようとする考えは、最終的には国民投票で決着がつくのだから発議要件はそれほど厳格でなくてもよいという考えがある。
 これは一見もっともらしくあるものの、にわかに賛成しがたい。憲法の改正に単純多数決ではなく、要件の加重された特別多数決が要求されるのは、第一に、少数者の権利の保障のように、人々が偏見にとらわれるために単純多数決では誤った結論を下しがちな問題については、より決定の要件を加重することに意味があるから。
 第二に、憲法に定められた社会の根本原理をしようとするのであれば、変更することが正しいという蓋然性が相当高いことを要求するのは、不当とは言えないから。
 著者は、国会が憲法改正の発議したとき、国民投票まで少なくとも2年以上の期間をおくことを提案しています。なるほど、まったく同感です。ことを急ぐ必要はないのです。じっくり、あれこれ考えて結論を出したらよいと私も思います。
 立憲主義には広狭二つの意味がある。広義の立憲主義は、政治権力あるいは国家権力を制限する思想あるいは仕組みをさす。「法の支配」という考え方は、広義の立憲主義に含まれる。
 狭義の立憲主義は、近代国家の権力を制約する思想あるいは仕組みをさす。
 アメリカやフランスで何度も憲法が改正されているが、その内容は、道路の交通規制にも比すべきルールの改正である。内容のいかんより、とにかく何かに決まっていることが重要な問題に決着をつけることを目的とするルールが改正されているのにすぎない。フランスでも、同じように、国会の会期の延長や大統領の任期の短縮など、道路の交通規制に比すべきルールの変更のようなものである。すなわち、国家体制の根本的変革をもたらすようなものではない。
やや難しい言いまわしの部分もありますが、じっくり読むと、自民党の憲法改正草案はとんでもないものだということがよく分かる内容になっています。
(2011年2月刊。700円+税)

憲法を守るのは誰か

カテゴリー:司法

著者  青井 未帆 、 出版  幻冬舎ルネッサンス新書
これまでの歴史をひも解いてみれば、権力行使の「行き過ぎ」の例は枚挙にいとまがない。だからこそ、本当に自由を奪われ、人権が侵害されないように、国家権力を縛り、コントロールしなければいけない。どんな人が統治にあたることになっても人権侵害が起こりにくいような「仕組み」をつくっておく必要がある。そうした、権力に服する側の国民の目線でつくられたのが、権力分立をともなう統治の仕組みを定めた憲法である。
 憲法によって国家権力を制限して人権を保障する、つまり政治を憲法に従わせるというのが立憲主義の考え方。
明治憲法の下では、政府のもつ権力がきちんとコントロールされ得なかったために、無謀な戦争に突き進み、多くの人々に生命・身体・財産における犠牲を強いながら、日本は焦土のなかで敗戦を迎えた。
明治憲法には、人々の自由や人権といった概念やその保証のための制度が大いに欠けていた。
 憲法は「道徳本」とは違う。国家は、人の心に入り込んで、その選択に介入してはならない。人権というのは、フワっとした概念で、とらえどころのないもの。
多数者に天賦人権を観念しなくてはならない切迫性はない。天賦人権論をもっとも必要としているのは、多数者から有形無形の圧力を加えられることに起因して苦しむ少数者だ。
選挙で勝った「時の多数者」によって、簡単に人権規定などの重い意味をもつ憲法の規定がコロコロと変えることができるというのは、選挙という民主的政治過程で負けてしまいがちな少数者の人権を危機にさらすことにほかならない。
 憲法96条改正先行論は、憲法改正は、少数者の基本的人権保障がかかわる以上、慎重にも慎重を期そうという現行憲法の狙いとするところを没却するもの。
 劣勢に立つ側の「武器」として憲法論は、法律の論理を外側から変化させる理屈として、もっと使えるはず・・・。
 戦争は、人々の生命・身体・財産・自由が奪われるという人権の問題だ。だから安全保障政策は人権の問題である。だからこそ、国家の統治を人権保障という観点から監視する必要がある。
 自衛隊は、日本政府の説明によると、国家固有の自衛権にもとづいて正当化されるもの。明治憲法の失敗の一つには、軍部の強い自律性を外部からコントロールできなかったことにある。天皇は戦前の軍部などの前に権威づけとして利用されていた。
 立憲主義とは、自由を守るための知恵である。自由や人権が保障されることが、憲法や立憲主義の目的である。
 有事の際に、弾となり、盾となるのは、私たち国民である。どう変えるのかも不明なままで、憲法改正に賛成することは具体的な制度づくりを政治家にゆだねるということになり、これは、無謀であり、危険が大きい。
 10月3日に広島で開かれる日弁連のシンポジウムで著者に基調となる講演をしていただきます。若手の学者による鋭い問題提起が聞けるのを楽しみにしています。
(2013年7月刊。838円+税)

刑事弁護プラクティス

カテゴリー:司法

著者  櫻井 光政 、 出版  現代人文社
新人弁護士養成日誌というサブタイトルのついた本です。著者の長年にわたる活動実績と熱意には本当に頭が下がります。
 「季刊・刑事弁護」で連載されていましたので、このうちいくつかは読んでいましたが、こうやって本になって改めて読んでみますと、その指導のすごさが実感できます。そして、厳しい指導を受けて大きく成長していった新人弁護士は幸せです。
弁護人は被告人の良き友人になろうとする必要はない。被告人も友だちがほしくて弁護人を依頼しているのではない。だから、人間的に立派な人だと思ってもらう必要もない。被告人の弁解を十分に聞いて、法律的にきちんと主張すること、捜査官、裁判所に手続を守らせること、そのための努力を払えば、被告人は弁護人を弁護人として信頼するはずである。弁護人としては、それで十分である。
生まれ育った境遇も現在置かれている立場もまったく異なる被告人と弁護人との間の信頼関係は、所詮そこまでのことと心得るべきである。弁護人も報酬の多寡はあるけれど、仕事でのつきあいなのだから。
「先生のおかげで生まれ変わりました」などと言っていた被告人が数ヶ月後に同種事犯で逮捕され、「また先生にお願いしたい」などと連絡してくるのは驚くほどのことではない。そんなことで「自分の努力は何だったのか」などと嘆く弁護人がいたら、その思い上がりこそ戒められるべきである。弁護士が「お仕事」で数ヶ月つきあっただけで、人は生まれ変わったりはしない。一般的に言えば、接見回数が多すぎることによる弊害は、少なすぎることに比べて、はるかに少ない。
私自身は、1回の面会時間は少なくして、なるべく回数を重ねるように心がけています。この本にも、接見時間が4時間とか、とても長い新人弁護士の話が出てきますが、1回にあまりに長時間かけるのは他人(はた)迷惑(別の弁護人が接見できなくなることになります)でもありますし、仕事として効率的でもありません。
たとえ新人だろうが、バッジをつけたら一人前の弁護士だ。自分の責任で事件に対応しなければならない。困難な問題に突きあたったときに、先輩弁護士に意見を聞くのはよい。しかし、最初に何をしたらよいのか分からないようなときは、明らかに自分の手にあまるのだから、そのような事件を受任すべきではない。一つひとつが生の事件であることを忘れて、あたかも単なる学習教材のように接する姿勢があるとしたら、たいへんな間違いである。
情状弁護においては、被告人が再び罪を犯さないようにすることを大きな柱のひとつに据えている。目先の刑の長短よりも、その後の被告人の立ち直りのほうが、被告人のためにも、ひいては社会のためにも重要だと考えている。そのための努力を惜しまないことが、弁護士の矜持だと心得ている。
この点は、私もまったく同感です。被告人に対して、なるべく温かく接して、社会は決してあなたを見捨てていませんよ、というメッセージを送るのが私の役目だと考えています。
裁判所により仕事をしてもらおうと思ったら、弁護士は手を抜いてはならない。
この指摘は私にも大変耳の痛いものがあります。大いに反省させられます。弁護士生活40年になる私がこうやって新人弁護士養成日誌を読んでいるのも、初心を忘れないようにするためなのです。ありがとうございました。
(2013年9月刊。1900円+税)

憲法問題-なぜいま改憲なのか

カテゴリー:司法

著者  伊藤 真 、 出版  PHP新書
著者は、自分のことを護憲派だと思ったことはないと言います。
 ええーっ、だって・・・と思うと、次の言葉で救われます。なるほど、なるほど、です。
 自分のことを改憲派でもなく、「立憲派」だと思っている。
 著者が現憲法にも変えたほうがいいという点も示唆に富んでいます。たとえば、こうです。
 現憲法は人間中心であるがゆえに、動物や植物に、さらにいうと地球と共生していくという視点がない。地球環境に言及する条項もあっていい。なーるほど、ですね。
 しかし、憲法の基本から逸脱すると、憲法で社会を良くするつもりで改正したのに、逆に悪くなってしまったという自体を招きかねない。
 604年に聖徳太子が制定したといわれる十七条の憲法にも、立憲主義の考え方が隠れている。「官吏は賄賂をとるな」(5条)、「任務をこえて権限を濫用するな」(7条)、「国司や国造は人民から勝手に税をとるな」(12条)という条項には、国民を守るために国家権力を縛ろうという意図が込められている。
 このように、マグナ・カルタより600年も早く、日本には国家権力を縛る考え方が存在していたわけである。
ちなみに十七条憲法でよく紹介されている「和をもって貴しとなし」というのは、このころあまりに争いごとが多くて裁判が増えすぎたので、いい加減にしろ、もっと仲よくなりなさいというものであって、日本人が仲良くしていたというのではありません。誤解しないようにしたいものです。
安倍首相と自民党の96条改正先行論は、改憲の「裏口入学」であって、真の目的は戦争放棄を誓った9条の改正にある。
 自民党改憲草案の前文には、日本は「天皇をいただく国家であって」としている。これは、国民の上に天皇がいて、権威のある天皇に国民が従属しているという構図を想起させる。そして、改憲草案の前文第二段には、日本が戦争加害者になったことに触れていない。
 夫婦同姓が日本の伝統的な家族のあり方だというのは誤解。夫婦同姓がスタンダードになったのは、明治以降のこと。それまでは夫婦といえども別姓があたりまえだった。有名な北条政子は源頼朝と結婚しても名前は変わっていない。
 個人の尊重は、立憲主義にもとづく憲法の根底にある大事な考え方である。人間を身分や制度から解放して、かけがえのない個人として尊重しようとするもの。一人ひとりが多様に生きていることこそがすばらしい。それが個人の尊重の意味。ところが、自民党の改憲案は「個人」から「個」をとって、「人」とした。「個」をとったということは、人を自立した個人ではなく、「人」という集団としてとらえているということに他ならない。
 人を個人として扱われなくなれば、個人としての責任も曖昧になる。
人々が苦労して発展させてきた立憲主義の歴史をふまえたとき、時代の針を巻き返すような自民党の改憲案を認めることが、はたして正しいことなのかどうか、ぜひ考えてほしい。
 わずか250頁の新書ですが、最新の知見と論点を盛り込んで改憲論の問題点をじっくり考えさせてくれる本になっています。一読をおすすめします。
(2013年7月刊。760円+税)

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