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カテゴリー: 司法

『司法改革の軌跡と展望』

カテゴリー:司法

著者  日弁連法務研究財団 、 出版  商事法務
 『法と実務』(10)に収録されているシンポジウムの記録です。2013年6月8日、日弁連会館クレオで開催されています。
 呼びかけ人の本林徹弁護士が、開会挨拶で次のように述べています。
 今回の司法改革は、明治維新、戦後改革に匹敵する歴史的な抜本改革であった。人権の尊重、法の支配、国民主権という崇高な理念のもと、利用者であり、主権者でもある市民の視点から、司法全般にわたって抜本的な改革をするとともに、21世紀のわが国の社会のあり方を変えることを目ざした。
 改革の導火線となったのは、1990年の日弁連定期総会における「司法改革宣言』だった。そして、1990年代半ばから、経済界などから規制緩和要求があり、また、政治改革、行政改革に次いで、司法改革が一つの大きなうねりとなっていた。
 司法改革が大きな成果を上げていたことについて、日弁連は自信を誇りを持つべきだ。弁護士の増加によって、ゼロワン地域は解消し、弁護士の活動の場も法廷をこえて広がりつつある。法テラスの創設によって法律扶助制度は拡充した。被疑者国選弁護制度が実現し、裁判員制度も始まり、法廷中心の裁判へ変わった。また、労働審判も始まっている。しかし、その反面、弁護士数の大幅増加が、大きな問題を生んでいること、法曹養成制度が大きな岐路に立たされていることも現実である。さらに、民事司法改革、行政訴訟改革も不十分であり、司法制度基盤の拡充・強化も非常に遅れている。
 明賀英樹・元日弁連事務総長は、次のように基調報告した。
 法律扶助協会時代の国庫支出金は21億円だった(2000年度)。これに対して、2011年度の法テラスへの運営交付金は165億円、国選弁護費用を加えると310億円となる。この10年間で8倍増となっている。その結果、被疑者国選は、2007年度に国選が4.4%でしかなかったのが、54.6%と、5年間で10倍以上も増えた。
 20年前の1993年に、弁護士ゼロ地域が50カ所、ワン地域が25カ所あった。2009年にはゼロが2カ所、ワンが13カ所となっている。裁判官は、10年間で600人の増員があったが、それだけでしかない。検察官のほうは、10年間で200人しか増員していない。
 2012年には、企業内弁護士が771人、任期付公務員が106人になっている。
 裁判所予算は、2005年には3250億円だったのが、2013年には2988億円と、減っている。
 そのあと、パネルディスカッションとなりました。パネリストは、佐藤岩夫・東大社研教授(法社会学)、豊秀一・朝日新聞社会部次長(大阪)、丸島俊介弁護士(元日弁連事務総長)。
矢口洪一・元最高裁長官は全国の裁判所を見て回って、裁判所の姿に大変落胆した。それは、大変元気のない、活気のない裁判所となってしまったということ。
 司法制度改革審議会に財界代表で参加した委員は、日本の民主主義を議論する場だったという感想を述べた。
 司法制度改革審議会が公開されていたことは大きかった。議事録も顕名で出された。法曹三者の内輪の論理ではなく、国民の目から見てリーズナブルなのか、納得のいく話なのかを繰り返し議論していった。
 日弁連としても、当番弁護士制度、法律相談センター、ひまわり基金法律事務所の設置など、現場での実践を積み重ねていたのが非常に重要だった。
今回の司法改革を象徴する三大改革は、裁判員裁判、法テラス、法科大学院と言われるが、もっとも困難だとされながら、もっともスムースに実施されてきたのが裁判員裁判である。これは、市民参加の裁判を担うだけの力量が日本国民に十分あるということを意味している。裁判員裁判は、「おまかせ民主主義」から日本が抜け出すきっかけの一つになるのではないか。
法的ニーズは顕在化しにくいという独特の性質をもっている。さまざまな分野で眠っているニーズがあり、それを具体的な実践を通じて掘り起こしていくことが重要である。
 旧司法試験合格者は、頭の回転の速さが粘り強さか、どちらかの特殊能力を持つ人が多い。ロースクールを経た新司法試験組には、よくも悪くも普通の人が数多い。つまり、今は、市民に身近で、リーガルトレーニングにきちんと耐える能力を持っていれば、弁護士資格を取得できる時代になりつつあるということ。
 市民に寄り添って、地道にがんばっている若手弁護士にもっと光をあて、弁護士のやり甲斐とか弁護士の意義をぜひ伝えてほしい。
さまざまな論点に光をあてた意義深いシンポジウムだったと思います。とても勉強になりました。
(2014年4月刊。5000円+税)

無罪請負人

カテゴリー:司法

著者  弘中 惇一郞 、 出版  角川ワンテーマ21新書
 現代日本の刑事弁護人としてもっとも有名な人による本です。マスコミを騒がす大きな刑事事件となると、なぜかこの人が弁護人として登場してくるのです。不思議です。いくらか同意しにくい部分もありましたが、この本で書かれていることの大半は私も同感するばかりです。
 冤罪事件には、共通する構造がある。予断と偏見からなる事件の設定とストーリーづくり、脅しや誘導による自由の強要、否認する被告人の長期勾留、裁判所の供述調書の偏重。社会的関心を集める事件では、これにマスコミへの捜査情報リークを利用した世論操作が加わる。
 弁護人の仕事は、黒を白にするというものではない。
 私が無罪判決を得たのは、10件程度しかない。
 これには驚きました。もっとたくさんの無罪判決をとっているとばかり思っていました。ちなみに私は、40年間の弁護士生活のなかで、2件だけです。
弁護の仕事に際して心がけてきたのは、依頼人の話をよく聞くこと。依頼人に対して、先人観をもって接することはしない。そもそも弁護士は、あらゆることについて、予断や偏見をもつべきではない。依頼人との依頼関係は、弁護活動の大前提なのである。
 人生でもっとも忌むべきもの、それは「退屈」だ。刑事事件を面白いと思って取り組んできた。仕事を選ぶ基準は、まず自分が納得できるかどうか、である。筋が通らないこと、理不尽なことに納得できない。それは、「社会正義」という大上段にかまえた理念ではなく、自分のなかの価値基準のようなもの。
 厚労省のキャリア官僚であった(である)村木厚子さんの事件では、大阪地検特捜部は、検察庁の従来の手法をそのまま受け継いだ捜査をした。弁護人として助言したことは、事件当時の手帳や業務日誌のコピーをとっておくこと。そして、そのコピーを弁護人に渡すのは何ら問題にならない。
 毎日、被疑者と面会(接見)する目的は、三つある。最大の目的は、事実に反する自白調書を検察にとらせないこと。二つ目は、被疑者のたたかう意欲を維持すること。三つ目は、弁護活動に役立つ情報を得ること。無罪判決を得た最大の要因は、村木さんが当初から一貫して容疑を否認し、自白調書を一本もとらせなかったこと。刑事事件では、当人がそれまで送ってきた全人生、人間性のすべてが試される。
 不運にどう対処できるか。検察官と対峙して取調べにきちんと対応する。無実を信じて支援してくれる仲間がいる。囚われの身となっても、家族や職場がそのまま保たれている。これがない人間は、非常に弱い存在となる。
 被告人の精神的なコントロールが大事になるのは、逮捕後よりも、むしろ起訴後である。起訴されると、他人と話す機会がなくなり、非常に辛い状況に陥ってしまう。
 たちが悪いことに、マスコミも捜査当局も、ともに自分たちは正義だと信じこんでいる。だから、マスコミは、捜査官のリーク情報とともに、平気で都合の悪い部分は捨て、都合のよい部分だけをふくらませ、読者の興味をひくストーリーをつくる。
人間という者の弱さに対する寛容や、人が人を裁くことの難しさゆえの謙虚さが社会で薄れてきた。代わりに「犯罪者」の烙印を押した人間を徹底的に叩きのめすという仕打ちが目立ってきた。
 おそらく人々は、「かわいそうな被害者」を引き受けたくないのだろう。被害者に同情を寄せながら、では、その被害者を受け入れるかどうかというと、それはしない。被害の原因・責任追求、制度改善の努力など、その被害の全体を社会で引き受けることは避け、「悪者」を叩くことで自分たちを免責する、ということなのだろう。
 刑事弁護人としての苦労をふまえた、価値ある指摘のつまった本だと思いました。
(2014年4月刊。800円+税)

上野千鶴子の選憲論

カテゴリー:司法

著者  上野 千鶴子 、 出版  集英社新書
 私と同世代の著者は、「おひとりさま」で、女性学の研究者として有名ですが、自分は護憲派ではなく、もちろん改憲派でもない、選憲派だと言うのです。選憲派って、耳慣れない言葉です。いったい、何なんだろう。そう思って読みはじめました。
 選憲派。同じ憲法を、もう一度選び直したらいいじゃないの・・・。
 憲法は変えなくてはならないものではない。人生の選択だって、1回限りとはとは限らない。節目で、何度でも、もう一度選び直したらいい。
 民主主義には愚行権という権利もある。間違う権利も主権者の権利の一つだ。
 選憲論は、もし憲法を選びなおすのなら、いっそつくり直したいというもの。
 そのとき、どうしても変えてほしいのが、1章1条の天皇の項。象徴天皇という、わけの分からないものは、やめてほしい。これがある限り、日本は本当の民主主義の国家とは言えない。1条改憲。これは選憲の一つの選択肢だ。
 危険な首相が登場する確率は、危険な天皇の登場する確率の1000倍。この危険を無力化する可能性は10万分の1。
 選憲のもう一つの提案は、日本国憲法の「国民」を、英文のように「日本の人々」「日本に住む人々」に変えること。つまり、日本社会を構成し、維持しているすべての人々のことにする。
 歴史が教えているのは、国家は国民を犠牲にしてきたこと。軍隊は、国民を見捨てて、国家を守ってきた。軍隊は、敵だけではなく自国の国民にも銃を向けてきた。それどころか、軍隊とは国家を守るために、国民は死ねという、究極の「人権侵害」の機関なのだ。
 私たちが本当に守らなければいけないのは、国家ではなくて人間だ。
 昨年(2013年)9月の横浜弁護士会の主催するシンポジウムでの講演をもとにする本なので、とても読みやすく、分かりやすい本になっています。桜井みぎわ弁護士が講演会の実現に骨を折ったことも紹介されていて、その桜井弁護士のすすめから読んで、こうやって書評を書いています。定員1100人の関内ホールが満杯になったというのですから、すごいものです。
 いつものように切れ味するどい話がポンポン飛び出し、聴衆を圧倒したのだと思います。初めて知りましたが、1981年に発表された「琉球共和社会憲法C案」なるものがあるそうです。琉球(沖縄)は、戦後ながくアメリカ軍の統治下にあり、日本人が沖縄に行くのにビザが必要だったのです。沖縄の人々は祖国復帰運動を大々的にすすめていきますが、結局、ときの自民党内閣は、アメリカと「密約」を結んで、表面上は日本に施政権を返還しました。でも、今なお、沖縄には、たくさんのアメリカ軍基地があります。
 その前文は、この「密約」があるなかで沖縄が日本の一部になったことを知り、日本国民の忘れっぽさを皮肉る内容になっています。
 いろいろ考え直すところが多い、刺激にみちた本でした。
(2014年4月刊。740円+税)

絞首刑は残虐な刑罰ではないのか?

カテゴリー:司法

著者  中川智正弁護団 、 出版  現代人文社
 いま、先進国のなかで死刑が残っているのは、日本とアメリカのみ。中国も死刑大国ではありますが・・・。韓国では死刑は長く停止されています。ただし、北朝鮮では、先日、ご存じのとおりナンバー2が銃殺されてしまいました。
 日本は、平安時代、810年の薬子(くすこ)の変のあと死刑を停止し、1156年の保元の乱で復活するまで死刑はありませんでした。
 最近、アメリカの死刑執行に使われる薬物の入手が困難になっているというニュースが流れていました。アメリカでは、電気椅子による処刑はなくなっているのです。薬物を使った二段階方式の死刑執行です。はじめに、いわば睡眠薬を注入し、次に薬物で死に至らしめる方式です。より苦しみを少なくするための工夫です。
 そして、日本はずっと絞首刑による死刑執行です。それに立会う人々がいます。検察官もその一人だと知って、私は検察官にならずに良かったと思いました。
 死刑の執行方法のなかで、絞首刑は次の二点で特に残虐である。
 第一に、絞首された人の意識は少なくとも5秒から8秒、あるいは2分から3分間も続き、激しい肉体的な損傷と激痛を伴う。脳の死は早くても4分から5分かかる。
 第二に、絞首刑を執行したとき、いつ意識を失うかは人それぞれであり、5秒で失う人もいれば、3分間は意識があるかもしれない。また、首が切断されるかもしれない。
古畑種基・医学博士は絞首刑をもっとも苦痛のない、安楽な死に方だとしたが、これは明らかな間違いである。脳内の血液循環が直ちに停止したとしても、脳内には多量の酵素が少なくとも数秒間は意識保つのに十分なだけ残っているので、意識の消失が瞬間的に起こることはない。また、日本の絞首刑について、執行によって頭部離断が起こりうる。
 現代日本の世論は、死刑廃止なんてとんでもないということのようですが、それは死刑執行の現場が公開されていないことにもよるのではないでしょうか。そして、死刑執行を担当する拘置所の職員の心労は簡単には回復できないものがあると思います。
 いずれにしても、日本の死刑執行の実情と問題点は、もっと知られていいことだと思います。今は、あまりに秘密主義で、多くの人が漠然と死刑制度を支持しているとしか思えません。
(2011年10月刊。1900円+税)

前夜、日本国憲法と自民党改憲案を読み解く

カテゴリー:司法

著者  梓澤和幸・澤藤統一郎ほか 、 出版  現代書館
 自民党の改憲案のもつ問題点が縦横に語られています。
 安倍首相の改憲にかける執念深さは、異常としか言いようがありません。それは、自民党の要職をつとめた人々からもやり過ぎだとして警戒されているほどです。野中広務、古賀誠、山崎拓などです。
 アメリカ政府からも「失望した」とか、ケネディ駐日大使は安倍首相と会おうとしないとか、さまざまな圧力が加えられています。安倍首相は、今のところアメリカの圧力に屈せず、自分の信じるとおり敢行しているようです。でも、そんな「対米自立」は、かえって日本人には迷惑なことなのではないでしょうか・・・。
自民党の改憲草案は、ひどく時代錯誤そのものです。
 天皇を元首とすることは、限りなく君主主権に近づけるということ。
今どき、君主主権だなんて・・・。復古調も、ここまでくると、少し狂っているという感じがします。だいいち、いまの天皇自身が、そんなことを望んでいませんよね。要するに、天皇を道具として使いたいために、その下心から、勝手に天皇を「元首」に持ち上げようとしているのです。天皇を心から崇敬しているとは決して思えません。自分の手玉(てだま)として使いたいというだけです。天皇を、そんなに軽々しく扱うなんて、私だって許せません・・・。
 自衛隊を「国防軍」に変えるという自民党の改憲草案は、軍事組織として、ある程度の自由をもって外の世界へ出ていくことを許すこと。
 要するに、日本人の集団が「国防軍」として海外へ戦争しに出かけ、そこで外国の人々を殺し、また外国の人から殺されるということです。「フツーの国」になるということは、戦死者が「フツー」に、すぐ身近に存在するということになります。これって、社会の変質ですよね。
 自民党改憲草案は、現行憲法が「すべて国民は、個人として尊重される」としているのを、「すべて国民は、人として尊重される」に変えるとする。「個人」を「人」に変えるというが、「人」というのは、非常に抽象化されたもの。動物と人という感じだ。それに対して、「個人」は個性をもっている。一人ひとりの個人と「人」とは、ニュアンスがまったく違う。
 原子力発電所(原発)を設置し、稼働する人たちは、戦争を想定していない。そして、防衛、安全保障、戦争を考える人たちは、原発のことを想定していない。
 北朝鮮は、ミサイル一発を原発に撃ち込めば、日本を地上から消し去ることができると言った。本当に、そのとおりなんです。とても怖い現実があります。
 安倍内閣は、北朝鮮のテロの危機を声高に叫んでいますが、ミサイルによる原発攻撃には口をつぐんでいます。防ぎようがないし、本当にそうなったら、日本は「おしまい」だからです。真の怖さは隠して、その一歩も二歩も手前の「怖さ」だけを言いたてて、防衛産業の売り込みを図っているのです。まったく、許せません。
 自民党の改憲草案は、私は何度も読み返しました。草案の前文なんて、お話にならないほどの格調低さです。出来が、まったく違います。ぜひ、見比べてください。
 それにしても、改憲草案の全条について、こうやって詳しく検討してくれて本当にありがたいことです。
(2013年12月刊。2500円+税)

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