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カテゴリー: 司法

もうひとつの「帝銀事件」

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  浜田 寿美男 、 出版  講談社選書メチエ
 1948年に事件が起きました。東京は池袋の帝国銀行椎名町支店で銀行員16人が青酸性の毒物を飲まされ、12人もの人が亡くなったという大事件です。
「帝銀」というのは、今の三井住友銀行のことです。犯人は、現金16万4千円と1万7千円の小切手を持ち去り、小切手は翌日、換金されていました。
この帝銀事件と同種の事件は前年末から2つも起きていて、まったく同じ手口でした。しかも、犯人が銀行員に飲ませた青酸性の毒物は、青酸カリではありません。つまり、青酸カリなら即効性があり、20人もの人が飲んで、しばらくして死に至るという経過をたどりません。ですから、犯人は戦前「731部隊」にいた毒物扱いに慣れた人物としか考えられません。ところが犯人として捕まり、裁判で有罪とされたのは著名の画家であった平沢貞通でした。平沢には毒物扱いの経験はありません。
著者は、平沢の「自白」が信用できないということをさまざまに論証しています。なるほど、なるほどと大きくうなずきながら私は読みすすめました。
青酸カリのような無機青酸化合物は即効性がある。被害者は数分間生きていたし、飲まされた16人のうち4人は生き残った。すると、旧日本軍が開発していた遅効性の有機青酸化合物ではなかったかという疑いがある。ところが、茶碗が洗われていて、科学的な解明ができない。
平沢貞通は33歳のとき、狂犬病の予防注射を受け、その副作用として記憶障害を主症状とするコルサコフ症候群を発症した。そのため、平沢は、誰にでも分かるようなその場かぎりの作話をするようになった。
平沢は、目撃者からの情報によってではなく、「松井」名刺の線から「犯人」として浮びあがったというだけ。平沢を有罪とした判決はいくつもあるけれど、結局、平沢の「自白」と目撃者の供述だけ。帝銀事件を平沢につなぐ客観的な物的証拠は何もない。
平沢には詳細な「自白」がある。しかし、その「自白」によってあらたに暴露された事実というのは何もない。平沢の「自白」については、それを「補強すべき証拠」が物的証拠に関する限り皆無である。
平沢は「青酸カリ」の入手経路を語ることも出来なかった。青酸カリではないだろうとされているのに、青酸カリの入手経路も明らかにできない「自白」を裁判所が信用するなんて、とんでもないことですよね・・・。
平沢は、こんな「自白」もしています。
「ただ困ったことは、腕章も手に入らず、薬も手に入らないので、どうして人殺しが出来たか、それでつじつまが合わないので困ります」
ええっ、こんな「自白」があるのでしょうか。他人事(ひとごと)ですよ、これって・・・。
自分の体験していない「事実」を、自分の体験であるかのように語るときの、その奇妙な感覚を、平沢は実に自然に語っている。私も、本当にそう思います。これは無茶ですよ。こんな「自白」を信用した裁判官なんて、よほど予断と偏見に満ちているとしか言いようがありません。
「自白」した平沢は帝銀事件の実際を知らなかったのである。
「私は、もう現し身ではなくて仏身なのです。だから、頼まれれば何にでもなりますよ。帝銀犯人にでも何にでもなりますよ」。これが平沢の言葉でした。これだけでも、私は平沢は帝銀事件の犯人なんかじゃないと確信します。
平沢は取調の場で、何回となく反省と謝罪の言葉を繰り返し、それを短歌や漢詩にも反映させている。平沢は、「自白」したあとも、犯行の具体的なところを語りきることが出来なかった。その「語れなさ」こそが平沢「自白」の大きな特徴だった。その「語れなさ」を埋めるかのように、その謝罪の表現では「犯人になりき」った。平沢は、顕著な空想性虚言者だった。「自白」は明らかに間違いだった。この「自白」で、40年も獄にとらわれ、95歳で獄死した。
本当に恐ろしいことです。誤判した裁判官の責任は重大だと改めて思いました。
(2016年5月刊。1850円+税)

志は高く、目線は低く

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  久保利 英明、 出版  財界研究所
 大先輩の弁護士が50年前にアフリカへ単身で渡って旅行したときの体験を書きつづっています。
 旅へ出発したのは、1968年4月のことです。私は大学2年生になったばかり。セツルメント活動に打ち込んで、大忙しの毎日でした。やがて、6月に東大闘争が勃発し、翌年3月まで、まともな授業はありませんでした。
 著者は4月13日に日本を出て、日本に戻ってきたのは9月27日です。この5ヶ月間のうちの2ヶ月間をアフリカで過ごしています。
 私自身は大学生のときもそうですし、弁護士になるまで海外旅行するなんて考えたこともありませんでした。勇気がなかったというもありますが、なによりお金がありませんでした。
 では、著者は、いったい海外旅行の費用をどうやって工面したのか・・・。なんとなんと、中学生になるころから、株式投資をしていたというのです。これには参りました。すっかり降参です。株式投資なんて、今に至るまで考えたこともありません。株式投資に失敗した人の相談は何度も乗りました。先物取引の失敗は詐欺商法だということで、弁護団をつくって取り組み、それなりの成果もあげました・・・。著者は株式投資が成功したため、結局、「無銭旅行」を楽しめたというのです。すごいですね。
 著者は50万円を用意して出発。6ヶ月間の世界旅行なので、1日5ドルの貧乏旅行。勇気ありますよね。私はとても真似できません。
ところが、父親は、こう言って反対した。「せっかく難しい試験に受かって弁護士になれるというのに、アフリカで死んでしまったらどうするんだ・・・」。これに対して母親は、反対しなかった。「3人も子どもがいるんだから、一人くらい死んだって仕方ないわよ」。ええっ、冗談にしても、すごいセリフですね・・・。
 著者は出発時に84キロあった体重が、帰国したときには、20キロも減って62キロになっていた。今では、かつての80キロは軽くオーバーしているのではないでしょうか・・・。
 なぜ20キロも減ったのか。それは、この本を読むと一目瞭然。すごい貧乏旅行なのです。現地の人と同じ水を飲んでも、ほとんど下痢することもなかったというのですから、よほど著者の胃腸は頑丈なのでしょうね。うらやましい限りです。
 アフリカでもどこでも、著者は日本人だというだけで、現地で優遇された。
 あのころの日本人は、世界中で特別な存在たった。もう戦争はしない、軍隊も持たないと言っている。そして、柔道や空手をしていて、武士道に精通した人たちばかりだと思われていた。
 今では、日本人は、アメリカべったりで、「戦争するフツーの国の人」になり下がってしまいましたよね。あのアベ首相のせいで・・・。
 スーダンではラクダのくるぶしを丸ごとグツグツ煮こんだ料理を食べたそうです。空腹だったせいもあって、とても美味しかったとのこと。牛のテール料理みたいなものなんでしょうか・・・。
 最後に著者は、弁護士にとって大切は「3つのY」を強調しています。一つは、柔らかい頭。二つ目は、優しい心。そして、三つ目は、勇気。
 なるほど、これは私もまったく同感です。
「ことは急げ。見るべきものはすぐに見る。ほしいと思ったらすぐ買え。チャンスは二度ない」
 23歳の東大生が書いたというのです。見事です。
 ちなみに、私は、司法試験に合格したあと、小さな診療所で受付事務していました。お金がなかったので、アルバイトをして生活費を稼いだのです。海外旅行するなんでいう選択肢はありませんでした
 本書が著者の年齢と同じ71冊目になるというのもすごいことです。今後ますます元気にご活躍ください。
 たまには、自分40年前50年前を振り返って初心を思い出すのも、人間にとってもいいことだと思いました。
(2016年2月刊。1500円+税)

檻の中のライオン

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  楾 大樹   出版  かもかわ出版
 権力をライオンにみたて、そのライオンに自由勝手なマネをさせないための、檻(おり)が憲法だという、とても分かりやすい憲法の解説書です。
 ところで。著者の名前は何と読むでしょうか・・・。こんな漢字は見たこともありません。「はんどう」と読みます。ちなみに、手元の漢和辞書で、引いてみました。すると、どうでしょう・・・。角川の漢和中辞典にはありませんでした。木と泉という、よく見る字の組み合わせなので、あってもよさそうですが・・・。
 「ライオンは強いうえに、わがままなことがあります。暴れ出したら手がつけられません。
 歴史を振り返ると、ライオンが私たちを襲いかかることがよくありました」
 そうなんですよね。今のアベ政権をみていると、よく分かります。ネコなで声で、ささやきながら、とんでもない恐ろしいことを平気でやっています。マスコミを支配していますので、自分の都合の悪いことは、多くの国民に知らせないようにしています。
ライオンが「緊急事態には檻から飛び出してキミたちを守れるように、内側からカギを開けられるような檻を作りかえよう」と言い出した。
 でも、ライオンは、本当に私たちを守るためだけに檻から出るのでしょうか。勝手な都合で檻から出て、私たちを襲わないという保障がどこにあるのでしょうか・・・。
 ライオンが自ら「緊急事態だ」と言いさえすれば、檻から出すことが出来るのなら、檻がないのと同じということです。
 たくさんの絵とともに解説されていますので、中学生以上だったら理解できる内容だと思います。小学生でも、高学年だったら、読んで聞かせて、問答形式にしたら、かなり分かってもらえるように思います。
 広島の若手の弁護士である筆者のますますのご活躍を心から期待しています。
(2016年6月刊。1300円+税)

刑罰はどのように決まるか

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  森 炎 、 出版  筑摩選書
 日本では、「犯罪者は刑務所行き」という定式はまったく成り立っていない。検察庁が受理する「犯罪者」は年間160万人前後で、そのうち6割が不起訴となり、刑務所に入るのは3万人弱、比率として2%弱でしかない。有罪になってもその6割は執行猶予となっている。
 刑務所に入れた場合であっても、早く仮釈放すればするほど、それだけ再犯は少なくなるという関係にある。満期までつとめたほうが再犯率は高い。
刑務所生活が長ければ長いだけ、社会への適応は困難になる。
日本の再犯率は40%。治安の維持にとって、初犯者よりも再犯問題の占めるウェートは大きい。近年、初犯者の数は順調に減り続けている。
刑務所では、衣食住、医療費、光熱水道費すべてを刑務所がまかなっている。一人あたりの年間費用は46万円。
日本で定められている法定刑は必ずしも合理的ではない。日本では、10年前まで殺人よりも現住建造物放火のほうが重かった。
殺人罪の受刑者の平均刑期は7年。殺人罪の量刑相場は、20年前は懲役8年、10年前は懲役10年、そして現在は懲役13年となっている。
アメリカの調査によると、殺人の3分の2は親しい知人間で起きていて、そのうちの8割は家庭内で発生している。女性は寝室で殺され、男性は台所で殺される。日本では、行きずりの殺人は稀。
コンビニ強盗が強盗犯の主流になっている。日本で銀行強盗は少なく、銀行から預金をおろして帰る人を途中で襲う「カモネギ待ち」強盗が多い。
被告人は裁判所の法廷で「反省している」と述べさせられる。しかし、法廷で良心にしたがって本心を言うと刑を重くされる。裁判所に迎合する虚飾の演技が強要される。日本の裁判所は欧米の教会のようなもので、裁判官は説教師で、被告人がざんげないし改悛の情を述べると、罪一等が減じられる。
元裁判官による本なので、裁判所の内部の動きを垣間見ることが出来ます。
                                    (2016年1月刊。1600円+税)

夕張毒ぶどう酒事件・自白の罠を解く

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者  浜田 寿美男 、 出版  岩波書店
 事件発生は1961年3月28日。25戸しかない小さな村で宴会に供されたぶどう酒を飲んで5人の女性が死亡するという大事件が起きた。犯人として逮捕された奥西勝は当時35歳。妻と愛人の女性二人が死亡したことからも疑われた。三角関係の清算のために殺したのではないか・・・。
奥西勝は、4月2日深夜から3日の未明にかけて「自白」した。しかし、4月24日には否認に転じた。奥西勝に犯行を裏付ける決定的証拠は何もなかった。
 第一審は、奥西勝に無罪の判決を言い渡した(1964年)。ところが、第二審は、逆転死刑判決を言い渡した(1969年)。そして、奥西勝は延々と再審請求し、ついに2015年10月4日、89歳で獄死した。
奥西勝の「自白」によって、何か新たな事実が明らかになったわけでも、それが物的証拠で裏づけられたわけでもない。
 無罪は、無実とは異なる。検察側は「有罪」の立証を求められるが、弁護側に無実の立証が求められるわけではない。検察側が黒だと証明できない限り、灰色は「無罪」なのである。これが法の理念である。ところが、現実には、しばしば、あたかも弁護側は「無実」を証明しなければならないかのような状況に置かれてしまう。
 無実の人が虚偽の自白をしたあと、世間に向けて謝罪するというのは珍しくないこと。無実の人であっても、犯人だとして自白してしまった以上、求められたら犯人として謝罪するほかないからである。だから、謝罪までしたんだから犯人に間違いないと考えるのは虚偽自白の実際を十分に知らない、素朴すぎる見方でしかない。
 足利事件では、DNA鑑定によって無実とされたS氏は、任意同行で取り調べされて10時間ほどで「自白」した。その後、公判廷でも一貫して自白を維持し、1年たって結審したあと、ようやく否認に転じた。
 S氏は裁判所でも犯人であるかのように振る舞い続け、求められるたびに被害女児への謝罪の言葉を繰り返した。
たとえ虚偽の自白であっても、自分の口で語る以上は、そこに被疑者の主体的な側面が皆無ということはありえない。その状況を自ら引き受けて、自分から嘘をつく。そうした一種の主体性が虚偽自白の背後には必ずある。
 「自白」する前の厳しく辛い状況にあと戻りしたくない、出来ない心境にいる。だから、本当はやっていないのだけれども、もし自分がやったとすれば、どうしたろうかと、その犯行筋書きを考えざるをえない。その筋書きを想像しても語り、それが捜査側のもっている証拠と合致していればよし、合致していなければ、取調官のチェックを受け、その追及内容にヒントを得て、それにそって修正していく。このようにして、無実の被疑者が取調官の追及にそいながら「犯人を演じていく」。
 自白調書は取調官と被疑者との相互作用の産物なのである。このとき相互作用は、対等なもの同士のものではなく、両者には圧倒的な落差がある。その場を主導し「支配する」のは取調官である。被疑者は取調官によって「支配される」。人は任意捜査段階でも、状況次第で心理的に身柄拘束下に等しい状況に追い込まれる。
無実の人にとっては、死刑への恐怖が現実感をもって感じられず、それが自白に落ちる歯止めにはなりにくい。裁判官は、自分の無実の訴えをちゃんと聞いて、正しく判断してくれるだろうと、無実の人は考える。
被疑者は、拷問で落ちるというより、むしろ孤立無援のなか、無力感にさいなまれ、それがいつまで続くのか分からないなかで、明日への見通しを失って「自白」に落ちる。これが典型である。
冤罪は、言葉の世界が生み出す罪過の一つである。だからこそ、裁判のなかで積み上げられてきた「ことばの迷宮」にメスを入れ、これを整理し、分析し、総合し可能なかぎり妥当な結論を導くことが人にとって大事な仕事になる。
裁判官をはじめとする法の実務家は、思いのほか虚偽自白の現実に無知である。冤罪を防ぐ立場にいる裁判が防げるのに見抜けなかったとしたら、それこそ重大な犯罪だと言われなければならない。
 裁判官そして法曹の責任は重大であることを痛感させられる本でした。いささか重複したところもありますが、300頁の本書は法律家がじっくり読んで味わうに足りるものだと思いました。
(2016年6月刊。3000円+税)

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