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カテゴリー: 司法

雫の街、家裁調査官・庵原かのん

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 乃南 アサ 、 出版 新潮社
 先日、司法修習生と話していたら、弁護士になっても人間関係のドロドロした家事事件は扱いたくないと言い出して驚きました。だって、弁護士が扱うものは、家事だけでなく、民事も刑事もドロドロした人間関係の真只中に置かれて、より良き解決を目ざすものばかりだからです。私は企業法務を扱ったことはありませんが、そこでも多かれ少なかれ人間関係の泥沼と無縁のはずはありません。恐らく、その司法修習生の頭にあったのは「理論で勝負するビジネス・ローヤー」の姿だったことでしょう。でも、そんなのは幻想に過ぎません。
 それはともかく今の若い人の多くは高給取りで安定したビジネス・ローヤー志向であることは間違いありません。初任給が1200万円の弁護士を一つの法律事務所だけで50人も80人も採用しているという現実があります。日本の超大企業にとって、法的サービスへの多少の出費は何ともないほど、超高収益を上げているのです。さらに、テレビやSNSを活用した大手法律事務所(カタカナ名です)が「躍進」しています。
 今では官僚の供給資源としての法学部よりも高収入の保障されるコンサルタントへの早道である経済学部のほうが人気だと聞くと、なんだか寂しい限りです。
 本書の主人公は家裁調査官。最近は、調査官の志望者も減っていると聞きます。まさしくドロドロした人間関係そのもののなかに首を、あるいは全身を突っこむ大変な職業だと知って、若い人から敬遠されているようです。私は、人間とはいかなる存在なのかを知ることの出来る面白くてやり甲斐のある仕事だと思うのですが…。
親権を父と母のどちらがとるか、親と子の面会交流はしたほうがいいのか、そのときの方法そして回数はどうするか、調査官が面接して裁判官に報告します。裁判官は、およそ調査官報告の内容どおりに判断します。
子どもの父親は誰か…。私が弁護士になったころは、顔写真を見て、どちらに似ているか、というのも重要な判断要素になっていました。DNA鑑定なんかなかった時代です。今ではほぼ100%の確率で判定されますし、費用も10万円以内になっています。それでも、昔も、顔を見ただけで、こりゃあ、親子だというケースがありました。なにしろ、顔がそっくりなのです。
 私にも孫がいますが、孫の顔はどんどん変わっていくのを実感させられました。親の顔だけでなく、祖父母の顔までそっくりになることがあるのです。面白いものです。誰だって、自分の顔に似た子どもは可愛いものですからね…。
 子どもの親権者をめぐる争いで、一番嫌な、困ったケースは、父と母が自分は引き取らない、引き取れないといって、相手に押しつけようとするものです。何回も体験しました。結局、両親がいるのに、施設に入れられます。もちろん、面会にも行きません。そんな施設を卒業した人の話を何人からも聞きました。やはり世間並みに親が欲しかったというのです。それはそうですよね、やっぱり…。
 でも、毎日いがみあう両親の下で育つと、子どもは大変です。なんでもっと早く離婚しなかったのかと思ってしまいます。たいてい、経済力に自信のない女性(母親)が無理に我慢してしまうのです。そして、我慢しているのは子どものためだといいます。子どもは、それではたまりませんよね…。
考えさせられる人間ドラマのオンパレードでした。
(2023年6月刊。1850円+税)

概説・日本法制史

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 出口 雄一・神野潔 ほか 、 出版 弘文堂
 改めて日本法制史を読むと、知らないことがたくさんありました。
鎌倉時代の執権は、政所別当と侍所別当を兼ねる役職からなる。
 鎌倉時代の訴訟は三問三答式。訴人(原告)が問注所(裁判所)に訴状と証拠書類の写し(具書案)を提出し、また訴人は論人(被告)に訴状を届ける。論人は、反論(陳状)を提出する。このやりとりは3度まで。そして両者の対決がある。訴人と論人が担当の奉行からの質問に答える。そして、裁許状(判決文)が作成される。現代日本の労働審判は3回期日で終わりですので、発想は似ている気がします。
 戦国時代の刀狩令では、槍・弓・鉄砲は没収されず、刀、脇差ばかりが没収された。これは帯刀する権利を武士、奉公人で独占し、他の身分には許可制とする、身分政策だった。
 江戸時代、村の百姓も脇差は差すことができ、村には野獣狩りのための鉄砲はたくさんあった。一揆のとき、百姓たちは鉄砲を使わないという暗黙のルールがあった。
 江戸時代、三代将軍家老のときまで六人衆がいて、老中・若年寄制はまだなかった。六人衆が亡くなったとき、補充されず、老中と若年寄が制度として確立した。
 幕末のころ、隠れ切支丹を幕府は取り締ったが、明治政府は開港・開国のなかで、キリスト教禁令を解除せざるをえなかった。ただし、明治政府がキリスト教の信仰を制限つきでありながら認めたのは、明治22(1889)年の大日本帝国憲法だった。それまで隠れ切支丹だった人々が大挙して長崎で出現したのです。同じことが久留米の先にも起きました。浮羽の先の今村地区です。明治になってから立派な教会堂が建設されました。改築されて、今も堂々とした教会堂として現存しています。
 帝国憲法(明治憲法)は君主主権をうたっています。国民主権ではありません。先日の参院選で「躍進」した参政党の新日本憲法草案は、国民主権ではなく天皇主権に戻すというものです。今どき信じられない発想です。参政党の草案には、憲法が権力を縛るものだという発想がまったくありません。そして、日本国憲法で保障している、表現・言論の自由などの基本的人権の保障がほとんど抜け落ちています。恐ろしい内容です。そんなことを知らないで、ムードに流されて参政党に投票した国民が少なくなかったように思われます。
 日本を名実ともに法治国家にして、人権がきちんと保障されるようにしたいものです。そのための不断の努力が求められています。
(2023年10月刊。3960円)

検証・安保法制10年目の真相

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 長谷部 恭男 ・棚橋 桂介 ・豊 秀一 、 出版 朝日新書
 安保法制は憲法違反だ。このことを司法の場ではっきりさせようという裁判が全国各地で提起されました。私も福岡訴訟に少しばかり関わりました。
全国で25件の裁判が起こされ、原告は7700人、弁護士も1700人が代理人となった大型訴訟です。その中心的役割を担ったのは長崎出身の寺井一弘弁護士(故人)でした。日弁連事務総長、法テラス理事長もつとめています。
 安保法制が憲法違反だということは、憲法学者、元法制局長官そして、元最高裁長官まで声をそろえて一致しています。山口繁、元最高裁長官は、朝日新聞のインタビューにこたえて、「少なくとも、集団的自衛権の行使を認める立法は違憲と言わねばならない」と明快に語りました。「違憲の疑いがある」という、あいまいな表現ではなかったのです。
 国会審議のなかで、呼ばれた3人の憲法学者が、全員、安保法制は憲法違反だと断言しました。早稲田大学の長谷部恭男・笹田栄司、慶応大学の小林節名誉教授の3人です。内閣法制局の元長官として、宮崎礼壹(れいいち)、ほかに阪田雅裕氏なども違憲だと明確でした。
 ほとんどの裁判所が憲法判断を示さなかったなかで、唯一、憲法判断したのが仙台高裁の小林久起(ひさき)裁判長でした。2023年12月5日の判決です。残念なことに、小林判事は定年も間近でしたが、翌2024年4月20日、突然に病死(致死性不整脈)されました。
 集団的自衛権の行使を「部分的」に許容したとされる安保法制の合憲性について、中身に踏み込んで判断したのです。ところが、判決が原告の請求(控訴)を棄却するものであったことから、メディアは、安保法制の合憲性を認めたものとして報道されました。
 しかし、長谷部教授は、単純にそう読んではいけないと指摘し、その理由を詳しく展開しているのが、この新書です。長谷部教授の詳しい解説の結論は、集団的自衛権を行使するのは、実のところほとんど不可能だということです。
 他国が武力攻撃されたとき、それが日本国民の生命・自由・幸福追求に対する権利が根底から覆される場合、この場合だけが、集団的自衛権の行使が認められるものであるとし、その条件が厳格に守られる限り、明白に違憲とまでは言えない、ということ。しかし、実際問題として、この条件は、まず考えられないから、実質的には、集団的自衛権の行使は認められないと判決は言っているということ。そこで、集団的自衛権の行使を可能にする自衛隊法76条1項2号は、法令として意味をなさない、死んでいる、死文だ、使おうと思っても使えない条文だと小林判決は言っている。
 したがって、長谷部教授は、小林判決は、原告団が求めたものは得られていると評価します。なので、この仙台高裁判決について、原告団が上告しないと決断したことも長谷部教授は是認し、同調しています。
 小林判決の前、長谷部教授が法廷で証言するについては、裁判所のほうから訊きたいという声が上がったというのも異例のことでした。そのうえ、仙台高裁では小林裁判長は長谷部教授に対して、なんと30分間も延々と補充尋問したというのです。それは、先行する棚橋弁護士の尋問が下手で、ポイントを外していたからというものではありません。
 長谷部教授を証人として採用する前、小林裁判長は、「この裁判では、司法の領域なのか政治の領域なのかについても争点となっているし…、裁判は原則的に口頭主義であって広く傍聴人も聞いてもらうという意義もあるから」と言明したとのことです。これはすごいですね。
 小林裁判長は、我が国の国民が存立の危機に陥って、国民の生命・自由・幸福追求の権利が根底から覆されるという恐れが、他国への攻撃によって起こるということは、どうも考えられないと思ったのではないか…。
 棚橋弁護士は、法廷にいて小林裁判長が判決文の要旨を読み上げるのを聞いていた。すると、小林裁判長は、傍聴人に語りかけるような感じで読み上げていったが、なかでも肝心なところは、特にゆっくり声を張り上げていたことを紹介しています。なるほど、小林裁判長は、傍聴人(記者も来ています)を通して、世間にアピールしようとしたんですね…。
そこで、長谷部教授は、この小林判決の全文に目を通したうえで、「裁判官として精一杯の判断をしたという印象だ」と朝日新聞のインタビューに答え、さらに、「政府にクギを刺した判決だ」ともコメントしています。政府に対して、厳格な条件を守りなさいよと言っている判決だというのです。
 日本に対して本気で武力攻撃するつもりなら、弾道ミサイルを撃つような効率の悪い真似をするよりも、日本海岸の原発(原子力発電所)を二つ三つ壊してしまえば、それでもう日本はおしまい。これは長谷部教授の指摘ですが、まったく、そのとおりです。
 小林判決をまさしく深堀しています。少しばかり難しい展開もありますが、今の司法を取り巻く状況のなかで、小林裁判長はギリギリの線まで考え、考え抜いたのではないか。この悩み事をふっ切って書いた判決だということのようで、私としては、もっと世間に分かりやすく、ズバッと、違憲だと断じてほしかったのですが…。
(2025年7月刊。990円)

憲法事件を歩く

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 渡辺 秀樹 、 出版 岩波書店
 今の最高裁はひどいものです。安保法制が違憲であると全国で訴えた裁判は全部、上告棄却してしまいました。しかも、問答無用式で、何ら実体的真実を究明しようともしませんでした。そして、弁護士出身の裁判官など、さっぱり存在感がありません。彼らのほとんどはいわゆる五大法律事務所出身です。大企業と日頃つきあっていると、人権感覚がまるで摩耗してしまったのでしょう。残念でなりません。むしろ、検事(三浦守)と学者(宇賀克也)がなんとかがんばっているという感じです。
 有名な砂川事件が起きたのは1956年7月のこと。1959年3月、東京地裁の伊達秋雄裁判長は、日本政府が米軍の駐留を許容しているのは「戦力の保持」に該当するので憲法違反だから、被告人は無罪としたのです。まさしく画期的な判決。これに慌てたアメリカは、日本政府に圧力をかけて飛躍上告させた。そして最高裁判官の田中耕太郎(あまりにおぞましい人物なので、当然のことながら呼び捨てします)は、駐日アメリカ大使と密談を重ねていて、合議の秘密をもらし、アメリカ政府の指示するとおりに動いたのでした。アメリカの国立公文書館に文書が残っていたのを日本人ジャーナリストが発掘したのです。そのことが明らかになってからも、裁判官たちは田中耕太郎をかばい続けていますので、結局、今の裁判官の多くも田中耕太郎と同類だということになります。
 同種の恵庭事件のときは、最高裁が憲法判断せずに無罪判決で終わらせように指示したようです。遺族が証言しています。
 長沼ナイキ訴訟のときは、当時の札幌地裁の所長である平賀健太が担当裁判官(福島重雄判事)に圧力をかけ、それが明るみに出て、大問題になりました。ところが、問題を起こした平賀所長ではなく、福島裁判官のほうが「偏向」だとして攻撃されたのでした。福島裁判官は、その後、冷遇されたけれど屈することなく、定年退官のあと弁護士になり2025年2月に94歳で亡くなった。
 自衛隊をイラクに派遣するのは違憲だとする裁判で、名古屋高裁(青山那夫裁判長)は、理由中で明確に憲法違反と断じた。そして、平和的生存権を訴訟上の具体的な権利として認めた。
 人間裁判として有名な朝日訴訟(原告は朝日茂)で東京地裁(浅沼武裁判長)は、憲法25条は人間に値する生活を可能にする程度のものでなければならないという、当然といえば当然の、画期的判決を出した。
 この浅沼武裁判長は退官後弁護士となり、私も関わった灯油裁判の被告企業側の代理人として出廷してきていました。裁判のひきのばしを図った(と思った)ので、私は、「もっと勉強して裁判を早くやるように」と野次を飛ばしたことを思い出します。あとで先輩から、「あんたも勇気があるね」とほめられた(皮肉られた)ことを覚えています。
 私が大学生のころ、そして司法修習生のころ、三菱樹脂事件がありました。東北大学法学部を卒業して入社したころ、試用期間満了前に「依願退職」するように告げられたのです。要は、大学生のとき生協で活動していたので、思想的に難があると思われたのです。
 東京地裁も東京高裁も高野さんが勝訴したところ、宮沢俊義が会社側の見解にそった意見書を書いたため、最高裁は東京高裁に差し戻すとの判決を出した。これにくじけず運動したところ、和解が成立。高野さんは13年たって会社に戻り、その後は順調に昇進し、子会社の社長にまでなっています。よほど人柄が良かったのでしょう。私も何度か話を聞いたことがありましたが、誠実そのものの人だと実感しました。
 私は刑事裁判のなかで憲法違反を主張したことがあります。戸別訪問罪です。欧米の選挙運動は戸別訪問を主体としています。庶民がお金をかけずにやれるのが戸別訪問ですから、買収・供応の温床になるという口実で禁止しているのはまったく間違いだと考えています。しかも、私の担当した事件は、市会議員が商店街に一軒一軒、手渡しで「講演会に来んかんも(来てください)」と言って歩いたというだけなのです。オープンな店でビラを配るのが「買収・供応の温床になる」なんて、夢にも考えられませんが、戸別訪問みなし罪として起訴されたのです。一審の福岡地裁柳川支部(平湯真人裁判官)は憲法違反と断じて無罪としました。残念なことに、その後、福岡高裁も最高裁も有罪(公民権停止なしの罰金刑)にしてしまいました。そのうえ、平湯裁判官は、その後も「支部まわり」を続けさせられました。途中退官して弁護士になってからは少年事件を専門分野の一つとして活躍されましたが、少し前に病死されました。
 憲法をめぐる裁判をふり返った、意義ある本です。
(2025年4月刊。2500円+税)

志と道程

カテゴリー:司法

(霧山昴)
著者 宮本 康昭 、 出版 判例時報社
 裁判官としての再任を不当にも拒否された著者が満州から敗戦後に苦労して母と子3人で日本に帰国した体験を踏まえて、司法反動化の象徴でもあった再任拒否に至る状況をほとんど実名で紹介しています。改めて著者の人間としての芯の強さと再任拒否の不当性に思い至りました。裁判官としての著者のすごさは、転任するたびに旧任地の人々がたくさん見送りに駆けつけたことにあらわれています。
 初任地の福岡から新潟地裁長岡支部へ転任したとき(1964年3月)、裁判所の職員だけでなく、大学の先輩後輩、家族、親戚、はては近所の人まで駆けつけて、旧博多駅のコンコースが見送りの人で埋まったというのです。
さらに、再任拒否されたあと、熊本簡裁の判事としてまだ身分が残っていて、著者が仕事で長岡支部に立ち寄ったとき(1972年ころのようです)、ときの支部長が「今日の午後は長岡の裁判所は休業にする」と宣言し、庁舎2階の大会議室に全職員が、電話交換手から守衛さんまで、全員が集まって、楽しい時間を過ごしたというのです。信じられません。考えられないことです。よほど印象深い支部長だったのでしょう。
青法協攻撃、司法反動化の米兵となったのが雑誌『全貌(ぜんぼう)』でした。薄っぺらな冊子ですが、このころ書店の片隅で売られていました。これに、「裁判所の共産党員」として青法協裁判官部会の裁判官の名簿を載せたのです。
この攻撃を受けて、青法協から分離独立しようという動きが出てきました。主唱者は町田顕(あとで最高裁長官になる)で、若い推進者が江田五月(あとで政治家に転身。私が横浜地裁で修習中に青法協の小さな勉強会にチューターとして役の裁判官としてきてもらったことがある)。このときまで、著者は町田顕を裁判官の活動の中での指導者だと考えていたとのこと。町田と江田の二人は、対決を回避して当面を糊塗することに頭を働かせるばかりのエリートの弱さだと著者は鋭く批判します。
最高裁の岸盛一事務総長は、裁判官が青法協を脱退するのを「業務命令」だとまで言って強引に推進した。それまで岸盛一はリベラル派の刑事裁判官だと評定があったのに、「なんという変わりよう。裁判官としては、これで終わったな」と、著者は思ったのでした。
 青法協会員だった350人の裁判官は、脱退したかどうかで、その後はきれいに分かれた。「司法権力はエゲツなく、何十年たっても執拗だ」と著者は断言します。
脱会届を出した158人のうち、最高裁判事が6人(うち1人が長官)、高裁長官が12人、所長は64人。青法協に残った200人のうち、高裁長官になったのは2人だけ、地・家裁所長が3人。いやはや、歴然たる差別です。
著者に尾行がついたり、スパイ役をする裁判官までいたという話が出ています。尾行したのは素人のようですから、専門の公安刑事ではなく、裁判所の職員だったのでしょう。著者宅の電話も盗聴されていたようですが、これは高度の技術を要しますから、恐らく公安警察でしょうね。
再任拒否にあっても著者は泣き叫ぶこともなく、外から見ると、いかにも冷静沈着に行動しました。判事としての再任がなされなくても簡易判事として残れることが判明したら、その簡裁判事の仕事をまっとうしたのです。これは並みの人にできることではありません。どうして、そんなことが出来たのか。
その秘密がこの本の前半に詳しく語られています。著者の一家は戦前、中国東北部(満州)に渡り、日本敗戦時は9歳、父親はソ連軍からシベリアに連行されて、母と著者と妹2人が生命から日本に帰ってきたのでした。
父親は熊本県山鹿市出身で、満州では領事警察官でした。1945年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻してきたとき、父親は著者たちに青酸カリの錠剤を渡した。そして、青酸カリを飲むゆとりがないときに備えて、小型の拳銃(コルト銃)を著者に渡して、「この拳銃で、まず母を、それから妹たち2人を、最後に自分を撃て」と命じたのです。これを受けても、著者に母や妹を射殺することに何ら罪悪感はなく、恐怖心もなかった。ただ、父の言ったとおりにできるかどうかだけが気がかりだった。いやはや、なんということでしょう。9歳ですよ。
それが、ソ連軍の侵攻が予定より遅れたことで、著者たちは死なずにすんだのでした。「ボクは9歳からが余生なんだよ」と著者は思ったというのです。
一度は捨てたこの命。ここまで思い定めたら、司法反動の嵐のなかで「クール」な対応をしたのは、ある意味で当然だったことでしょう…。すごい経験です。感動そのものでした。
世の中で忘れてはいけないことがあることを痛感させられる本でした。今後ひき続きのご活躍を祈念します。
(2025年6月刊。2420円)

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