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カテゴリー: 司法

刑務所の中の中学校

カテゴリー:司法

 著者 角谷 敏夫、 しなのき書房 出版 
 
 読んでいるうちに胸がきゅんと締めつけられ、心臓が燃えたち、目から涙があふれ出て止まらなくなりました。
「きみの田舎では、正月にはどんな料理を食べますか?」
「帰ったことがないから、分からない」
子どものころの正月の話をする生徒は誰もいない。年賀状を出すところもなければ、年賀状が来ることもない。小学校も満足に通っていない。中学校は中退した。そんな彼らが、今、刑務所にいながら中学校の勉強を必死になってするのです。人間って、本当に変わるものなんですよね。この本には、いくつもの感動があります。
 自分はどんな存在なのかな。何のために生きているのかな。なぜ本を読んだり、勉強したりするのか、本当にそんなことが生きるうえで必要なのか・・・・。そんな疑問を胸に抱いている若い人には絶好の本です。
 最近、テレビの番組にもなったようですね。私は観ていませんが・・・・。テレビ映像もいいでしょうが、この学校で30年間も実際に教えていた人の書いた本を読むのもいいものですよ。人間って、まだまだ捨てたものじゃないと実感させてくれ、明日に生きる力を分け与えてくれます。
 長野県松本市立旭町中学校の桐分校は、全国で唯一の刑務所の中にある中学校。松本少年刑務所のなかにあり、そして中学校ではあるが、そこに学ぶ生徒は未成年とは限らない。それどころか60歳をはるかに超える生徒までいる。
桐分校のスタートは1955年(昭和30年)のこと。以来、55回生までの卒業生が691人いる。ここは全国の義務教育未終了の受刑者の中から希望者を募集する。そして、中学校の第三学年に編入学させる。1年間の勉強で卒業が認定されると、卒業証書が渡される。この間、刑務作業は免除される。
この中学校では大変な猛勉強をします。1年間で中学3年間分の勉強をするのですから、大変です。朝は8時から夕方4時半まで、1日7時間の授業を受けます。夜は10時まで勉強します。なんと1日10時間の勉強です。そして、夏休みも冬休みもありません。英語ももちろんあります。教師は、教員免許をもった法務教官7人と旭町中学校の教諭1人があたります。
生徒は、年齢にかかわらず、詰襟の学生服、夏はワイシャツ。入学者は、このところ減ってきて、1年に7~8人くらい。年齢は、17歳から67歳まで。このところ日本人だけでなく、外国人受刑者も増えてきた。入るためには面接を受ける。そのとき重視されるのは学力ではなく、本人の勉学意欲の確認。しかし、意思がないという生徒を説得することもある。うむむ、すごいですね・・・・。
入学式の当日から授業は始まる。教科書は中学3年生用のものが無償で配布される。
梅雨が明けるまで、なんとか持ちこたえられれば、1学期が乗り越えられる。そうすると、翌年3月の卒業までたどり着ける。6月には中間テスト、工場対抗ソフトボール大会。7月には七夕、8月にはプールで水泳。9月には運動会がある。そして、10月には遠足まであるのです。しかも、手錠も捕縄もなく・・・・。付き添いの職員が緊張する一日です。遠足は、決して事前には知らされません。当日の朝、初めて知らされます。朝、机の上にブレザー、スラックスそしてネクタイが並べられ、朝食のあと、今日は遠足だと告げられるのです。そして引率の教師が宣言します。
 「今日、ぼくは手錠も捕縄も持っていきません。ただ一つの武器を持っていきます。それは『信頼』です」
 いやあ、すごい言葉ですね。胸がじーんとしてきます。そして、なんと、開所以来、一度も逃走事故はないのです。すごいですよね。うれしくなります。
 2月の遠足は本校にあたる旭町中学校を訪問します。音楽交流授業で本校の中学生たちと心を通いあわせるのです。いいですね・・・・。
 そして、3月。あっというまに一年間がたち、卒業式を迎えます。卒業したら、クラス会や同窓会もありません。しかし、やがて卒業生がこの桐分校に誇らしげにやって来ることがあるのです。これって、うれしいですよね。
 桐分校は犯罪の道から更生の道への架け橋である。桐分校には、学びと教育と人間の原点がある。そうですよね。一人でも多くの人に、この本が読まれることを心から願います。とりわけ若い人々に・・・・。著者は私と同じ団塊世代です。お疲れさまでした。今後とも、お元気にご活躍ください。
 
(2009年2月刊。1600円+税)

波浮の港

カテゴリー:司法

 著者 秋廣 道郎、 花伝社 出版 
 
 楽しい本です。子どもの時代の楽しくも切ない思い出がたくさん詰まった本なのです。
 波浮(はぶ)の港と言えば、伊豆の大島のことです。著者は大島の名家に生まれ育ったのですが、5歳のときに父を亡くしました。そのときのエピソードが心を打ちます。
 通夜や葬式の日に、近所の人は、父を失った幼い私を哀れんで、「みっちゃん、可哀想ね」と来る人来る人いうので、それがたまらなく厭だった。それで、(近所の)史郎ちゃん、六ちゃん(いずれも著者の子分である)を連れて、お葬式の日に波浮の港へ泳ぎに行ってしまった。そして、ひどく怒られた記憶が残っている。しかし、誰かは定かではないが、「みっちゃんも辛いのよ」と庇ってくれた人がいた。その言葉の優しさが今も忘れられない。
 そうなんですね。5歳には5歳なりのプライドというものがあるのですよね・・・・。
大島の三原山に日航機の木星号が墜落したのは、著者が小学3年生のとき。早速、三原山の現場へかけのぼり、スチュワーデスと思われる女性の死体を見たというのです。この木星号の墜落事件についても松本清張が本を書いてますよね。よく覚えていませんが、アメリカ占領軍と日本の財閥をめぐって何か略謀の臭いのある事件だと描かれていたように思います・・・・。
 小学生の著者たちは、なかなかおませだったようで、美空ひばりを本気で好きになったり、美人の先生が男性教師とデートするのを子どもながら嫉妬し、木の上からおしっこかけて邪魔しようとしたりしています。
 著者の家は旧家で名望があったとはいえ、小学生のころから家業の牛乳屋の牛乳配達をしていました。そのおかげで小柄な身体つきですが、頑強な身体になったそうです。
著者は、小学校も中学校も一学年一クラスの中で育ちました。9年間も一緒だと、その性格はもちろん、その家庭の様子も手にとるように分かる。ごまかしや格好付けのできない世界だった。なるほど、だから、いじめられる側にまわると悲惨なんですよね・・・・。
教師には恵まれたようです。伊豆の大島は都内からすると一級の僻地なので、若い新任の教師も多かったのでした。
 小学二年生のときに髄膜炎にかかって長く自宅療養しているなかで、著者は孤独との戦いを余儀なくされ、いろいろ考えさせられたのでした。そのころ、大島の三原山は投身自殺の名所となっていました。漁船の遭難事故も多く、人の死と向きあう日常生活があったのです。著者自身も大島での子ども時代に九死に一生を得る体験を二度もしています。
当時の写真だけでなく、素敵なスケッチがあり、また、漫画チックな著者たちのポートレートもあって、終戦後間もない大島における子ども時代が彷彿としてきます。
 著者は先輩にあたりますが、私と弁護士になったのは同じ年で、一緒に横浜で実務修習を受けました。運動神経が抜群で、ボーリング試合での成績がいつもとても良いのに感嘆していました。これからも、どうぞ元気で頑張ってください。よろしくお願いします。
  
(2010年10月刊。1500円+税)

カネミ油症

カテゴリー:司法

 著者 吉野高幸、 海鳥社 出版 
 
 カネミ油症は古くて新しい食品公害事件です。ふだんはテレビを見ない私ですが、宿泊先のホテルで日曜日の朝、たまたまテレビを見ていましたら、カネミ油症の特集番組があっていて、著者も登場していました。カネミ油症の被害者が今なお大量に存在して苦しんでいること、原因企業であるカネミ倉庫が治療費をこれまで負担してきていたのに、経営難から負担を打ち切ろうとしていることがテーマとなっていました。
この本は、カネミ油症の弁護団の事務局長として長く奮闘してきた著者が、カネミ油症事件とその裁判について振り返ってまとめたものです。ハードカバーで260頁もあります。読むのはしんどいな、でもせっかく買ったので読んでみようかなと渋々ながら重い気持ちで読みはじめました。ところが、なんとなんと、とても分かりやすい文章で、すらすらと読めるではありませんか。これには日頃、著者に接することも多い私ですが、すっかり見直しました。ええっ、こんな立派な分かりやすい総括文が書けるなんて・・・・(失礼!)、と改めて敬服したのでした。
 カネミ油症裁判で何が問題だったのか、どんな意義があるのか、実務的にもとても明快に紹介されています。とりわけ若手弁護士にはぜひ読んでほしいと思いました。
カネミ油症が初めて世間に報道されたのは、1968年10月のことです。私は大学2年生であり、東大闘争が始まっていました。初めは「正体不明の奇病が続出」という記事でした。翌1969年7月現在、届け出た患者は西日本一円で1万4320人といいますから、大変な人数です。それはカネミライスオイルを使ったからで、その原因は製造過程で金属腐食があってPCBが製品に混入したからだということが判明しました。
 PCBは「夢の工業薬品」と言われていましたが、PCBを食べた例は世界のどこにもなく、したがって治療法がありません。このことが被害者を絶望のどん底に突き落としました。
 1970年11月16日、被害者300人はカネミ倉庫と社長、そして国と北九州市を被告として損害賠償請求訴訟を提起しました。
 このとき、弁護団は訴訟救助の申立をしました。印紙代として必要な数百万円の支払いの猶予を求めたのです。また、弁護士費用についても、法律扶助協会(今の法テラス)に支給を求め、300万円が認められました。
 弁護団は訴訟費用を被害者に負担させないという方針をとっていました。だから、大カンパ活動を始めました。支援する会は200万円ものカンパを集めました。そして、1971年11月にPCBを製造したメーカーである鐘化を被告として追加しました。
 裁判では1973年夏に、原告本人尋問がありました。長崎県の五島にまで出かけ、裁判官が出張尋問したのです。朝9時に現地の旅館前に集合し、「平服でげた履きの裁判所関係者は三班に分かれて出発」し、「各家庭で本人尋問が始まった」と記事にあります。
 一人の裁判官が40時間にわたり、40人をこえる被害者や証人から各家庭で証言に耳を傾けた。すごいですね。裁判官が被害者である原告本人の自宅にまで出向いて、その訴えに耳を傾けたのです。
 原告弁護団は、損賠賠償を請求するのに個別に逸失利益を算定するのではなく、包括一律請求方式を採用した。請求額は死者2200万円、生存患者1650万円(いずれも弁護士費用こみ)を請求した。これは患者の苦しみに個人差はないという考えにもとづく。たしかに被害者の苦しみについて簡単には格差はつけられせんよね。
 裁判の最終弁論は、1976年6月に3日間おこなわれた。2日間が原告、残る1日が被告の弁論に充てられた。うひゃーっ、す、すごいですね。今どき、そんなもの聞きませんね。
 判決に向けて、弁護団は大変な努力を重ねたことが紹介されています。なんと、判決前の6ヶ月間、そのためにずっと大阪に弁護士(今は大分にいる河野善一郎弁護士)が滞在していたというのです。熱の入れ方が違います。いったい、その間の生活はどうしていたのでしょうか・・・・?
 弁護団は判決直後に大阪のカネカ本社で3日連続の交渉、東京の厚生省で交渉をすすめるほか、大阪で強制執行できる準備を着々とすすめていきました。
 1978年3月10日の判決は、残念ながらカネカとカネミ倉庫の責任は認めたものの、国と自治体の責任は認めませんでした。しかし、原告弁護団はカネカの高砂工場で、工場内に積まれていた岩塩1万トンあまりを差し押さえました。執行補助者が岩塩に「差押」とスプレーで書いている写真があります。大阪本社では社長の机や椅子も差し押さえました。ところが、カネカには現金や預金がまったくありませんでした。そこで、強制執行妨害(不正免脱)罪として、弁護団は大阪地検特捜部に告発したのです。これは起訴猶予となりましたが、これ以降は、カネカも現金か小切手を用意するようになりました。
 原告弁護団は、カネカの強制執行停止申立書を高裁受付で待ちかまえ、その不備を発見して受理させなかった。すごいですよね。受付で申立書を点検するなんて・・・・。そして、そもそも執行停止すべきでないと裁判所に申し入れたのです。裁判所は、結局、1人300万円を超える部分については執行を停止するとの決定を下しました。ということは、逆に言えば一人300万円までは執行できるということです。
判決後のカネカとの本社交渉では、執行停止が認められなかった20億円のほか6億円を上乗させることが出来ました。
ともかく、あきれるばかりのすごさです。交渉というのは、このようにすすめていくものなのですね。さらに、原告弁護団は、第一陣訴訟に加わっていない被害者について、仮払い仮処分を申立して、一人150万から250万までの支払いを認めさせたのでした。これによって、カネカによる被害者の分断工作を封じてしまったのです。
1984年3月、福岡高裁は国の責任を認める画期的な判決を下した。1985年2月に、小倉支部でも同様に国と自治体の責任を認める判決を出した。
ところが、1986年5月、福岡高裁(蓑田速夫裁判長)は国と自治体の責任を認めないという判決を下したのです。私は、こんな冷酷非道な判決を下す裁判官がいるなんて、信じられませんでした。たとえ裁判官が温厚な顔つきをしていても、決してそれに騙されてはいけないと思ったものです。
危険性は予測できなかったから、行政に落ち度はなかったとしたのです。まるで行政追随の非情な判決です。これでは裁判所なんかいりませんよ・・・・。
最高裁で口頭弁論したあと、和解交渉に入ります。カネカには責任がないことにしながら、カネカは21億円を支払う。これまで被害者が仮払金として受け取っていたものは返す必要がないというものです。この和解で一応私の決着はついたのですが、あとで、訴訟を取り下げたところから、さらに新しい問題が発生します。仮払金を受け取っていたのが根拠がなくなったので、返せといわれたのです・・・・。いやはや、いろいろあるものです。裁判がいかにミズモノであって予測しがたいか、そのなかでどんな知恵と工夫をしぼるべきか、しぼってきたか、手にとるように分かる本になっています。
ぜひぜひ手にとってお読みください。裁判闘争の実際を知りたいと思うあなたに強くおすすめできる本です。 
(2010年10月刊。2300円+税)

日弁連・人権行動宣言

カテゴリー:司法

 著者 日本弁護士連合会、 明石書店 出版 
 
 いまの日本で基本的人権がどれくらい守られ、また侵害されているのか、その全体状況がこの1冊を読めば、かなり分かります。本来、日本政府がやるべきことを、日弁連が代わって明らかにしているという意味で貴重な労作でもあります。
日弁連は、過去三度、『人権白書』を刊行している(1968年、1972年、1985年)。残念なことに、日本では、このような人権の全体状況をトータルに明らかにしたものは、政府発行のものをふくめて、他に見つけることができない。この本は、『白書』を補強し、現在の日本の人権状況を浮かび上がらせるものとなっている。
以下、いくつか恣意的にはなりますが、ピックアップして紹介します。
 生活保護世帯数は、1996年度から一貫して増加傾向にあり、2010年4月、135万世帯、187万人となった。この135万世帯というのは、1990年代前半には60万世帯だったから、その2倍となっている。
 貯蓄をまったく持っていない世帯は、1980年代に5%、1990年代に10%、2005年には24%と急増した。2009年の相対的貧困率は16%。
子どものいる一人親世帯の貧困率は54%。複数親の5倍になっている。一人親世帯の貧困率は、日本は59%であり、OECD加盟国30ヶ国のうちで一番高く、平均31%の2倍である。母子世帯は2000年に63万世帯。2005年には75万世帯となった。その平均所得は2007年に243万円で、一般世帯550万円の半分以下である。
 児童虐待は、2004年度は3万件を超し、前年度比で26%増。2007年度には4万件を超えた。1990年度の30倍である。
日本に暮らす外国人は、2008年末で235万人。日本の総人口の1.8%。そのうち韓国・朝鮮籍は59万人で、その人数は年々、減少している。
 難民認定を受けた人は、2008年に57万人で、ほとんどがミャンマー人。
この20年間に、死刑を廃止した国は、139カ国となり、死刑を認める58カ国の倍以上となった。死刑廃止・執行停止が国際的な潮流である。
 死刑を認める国は、日本のほか、アメリカ、中国、北朝鮮、イランなど。これって、アメリカが民主主義がないと非難している国ですよね。アメリカも、同じような国じゃないのかと、つい疑問に思ってしまったことでした。
 刑務所にいる無期懲役の受刑者は、1998年に45人だったのが、2006年には136人と、大幅に増加している。無期懲役刑の受刑者の仮釈放者は1998年には二桁だったのが、2007年にはわずか1人だけ。平均受刑者在所期間は、1998年に20年だったのが、2007年には31年へと大幅に延びている。受刑者の死亡も多くなった。
 この本は、2009年11月に和歌山で開かれた日弁連の人権擁護大会で公表された「人権のための行動宣言2009」の解説版です。大変コンパクトなものになっていますので、日本における人権状況を参照し、引用するときに便利な百科全書という気がします。日弁連の英知を結集したと言える内容ですので、ぜひとも大いに活用したいものです。全国の法律事務所だけでなく、国と地方自治体にぜひ一冊は備えてほしいと思いました。
 編集責任者である京都の村山晃弁護士が盛岡で開かれた人権擁護大会の会場外で自ら売り子となって汗を流していましたので、その熱意にほだされ、こうやって書評を書かせてもらいました。あなたも、ぜひ買って読んでみてくださいね。少しばかり高価な本ですが、その価値は十分ありますよ。
(2010年10月刊。3500円+税)

上田誠吉さんの思い出

カテゴリー:司法

 著者 自由法曹団、 自由法曹団 出版 
 
 ミスター自由法曹団というべき存在だった上田誠吉弁護士は、最高裁判所の長官にふさわしい人格、識見、能力だったと衆目の一致するところでした。惜しくも昨年5月10日、82歳で亡くなられました。
 私の生まれた1948年に東大法学部を出て、司法修習生(2期)になりました。上田弁護士は戦後の著名な刑事事件の多くに関わっています。メーデー事件、松川事件、三鷹事件、千代田丸事件、白鳥事件・・・・。
 これらの事件は、戦後日本を揺るがす大事件であったと同時に、司法界においても大変重要な事件であり、貴重な判例を残しました。そして、上田弁護士は弁論要旨だけでなく、数々の著書をモノにし、世に問うています。私が大学一年生のときに読んで、身体中が雷に打たれた衝撃を覚えたことを鮮明に覚えているのが『誤った裁判』(岩波新書)です。国家権力というのは、自己の威信を守るためには無実の人を死刑にしてもかまわないと考えること、一般市民は丸裸にされたときには、きわめて弱い存在であると痛感させられました。それまでは、警察や検察というところは人権と弱者を守るために存在するとばかり思い込んでいたのです。ひどく認識が甘いと思わされました。
その後、上田弁護士は、自由法曹団の幹事長に就任します。41歳のときです。
 上田弁護士は『国家の暴力と人民の権利』(新日本出版社)を世に問いました。私が司法修習生のときでした。感激をもって必死に読み、大いに学ぶことができました。
 そして、私が弁護士になった年(1974年)10月、自由法曹団の団長に就任しました。まだ48歳の若さでした。しかし、既に風格がありました。それから10年間、団長の要職をつとめました。
団長在任中、石油ショックが起こり、石油業界のヤミ・カルテルが摘発されました。東京と山形・鶴岡の消費者がこぞって裁判に起ちあがりました。弁護士1年生の私も末席に加えていただきました。上田弁護士と同じ弁護団の一員となったのです。
この灯油裁判と呼ばれる消費者訴訟は最終的に敗訴しましたが、途中で消費者の権利を認める高裁判決を勝ちとるという画期的な成果もあげています。上田弁護士は、理論的にも、運動においても、中心の柱になっていました。
 上田弁護士の旺盛な著述活動は、その後も続きました。『裁判と民主主義』(大月書店)、『ある内務官僚の奇跡』(同)。後者は、上田弁護士の父親について書かれています。父親は、なんと特高課長つとめたキャリア組の内務官僚だったのでした。中国・上海総領事館の警察部長もつとめています。ですから、上田弁護士も、上海に暮らしていたことがありました。戦後、上田弁護士は、父親から左翼にだけはなるなといって、顔を叩かれたこともあります。ところが、その父親も亡くなる前には松川事件の弁護団の一人になったのでした。
 上田弁護士は、63歳のときに胃がんで胃を全摘しました。しかし、その後も著述活動だけでなく、アメリカに渡った訪米団の団長として、また、警察による盗聴事件を追及して、活躍しました。最後には、自らが住民の一人として無用な道路建設に反対する運動に加わり、裁判の原告になりました。
 この本は、上田弁護士の没後1年たち、「しのぶ会」の開催に合わせて、弁護士やかつての裁判の元原告たちが思い出を寄せたものです。大変読みやすく、上田弁護士の飾らぬ人柄、そして、その能力と見識の高さがにじみ出る冊子となっています。
 上田弁護士は東大法学部に入学するも、学徒出陣の時代ですから、川崎の高射機関に砲部隊に配属されてしまいます。戦後、大学に戻って学生運動に参加するのでした。
 大阪の宇賀神(うがじん)直弁護士が「上田誠吉さんと裁判闘争」と題して、少し長文の思い出を寄せていて、勉強になりました。
 裁判闘争の基本、土台というのは、裁判で問題となっている生活事実をつかむこと、これが大切である。裁判官もまた人間である。人間がものごとを決めるときに寄るべきものは事実の認識であって、そのうえに立って道理を考える。そこでは、事実と道理、対決と説得そして共感が大切なのである。一面では対決であり、他面では説得である。説得の武器は、対決の場面もふくめて、事実と道理である。そのために知恵と力を出す。裁判官の良心を取り戻し、それに灯をともし、その灯を強めていく。それが成功するなら、裁判官は事実を素直に見るようになる。そして、救済を決意する。ここには飛躍がある。裁判所が何を考えているかを読みとること、これが実は弁護士にとって一番苦しい任務なのである。
 上田弁護士をしのび、大いに学ぶべき存在であることを改めて思い知らせてくれるいい冊子です。若い弁護士に広く読まれることを期待します。
(2010年9月刊。価格は不明)

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