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カテゴリー: 中国

最後の猿まわし

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 馬 宏傑 、 出版 みすず書房
 阿蘇に猿まわし劇場がありますよね。何回か見に行った覚えがあります。
 山口にも猿まわしの伝統芸があるようですが、今も続いているのでしょうか。
 今では、ネットで検索したら簡単にすぐ判明することでしょうが、スマホと無縁な昔ながらの生活を送っている私には、そこらは不明です。
 この本は、中国の猿まわしの人々の生活を中国の記者が一緒に旅をして明らかにしたものです。文化大革命のころに少年時代を過ごした著者が初めて手にした高級カメラは、リコーであり、マミヤであり、ミノルタでした。そして、著者は写真記者になったのです。
 中国の猿まわし師は、長年、中国各地を渡り歩いていることもあり、非常に警戒心の強い集団だ。
 中国には、猿まわしで生計を立てている地域が2つある。河南省南陽市の新野県と、安徽省毫州市の利辛県。利辛県のほうは数少なくなったが、新野県のほうは2002年に2千人が地方へ猿まわしに出かけた。新野県は、『三国志演義』の第40話で諸葛亮が火を放った、あの新野。この新野あたりは、土地がやせているため、家族を養うため猿まわしを業としている。
 新野の多くの村は、数百年、ひいては千年以上に及ぶ猿まわしの歴史を有していて、人々は常に猿と生活を共にし、猿を自分の家の特別な一員としてきた。それは今に至るまで続いている。
「朝三暮図」では猿がバカにされているが、猿まわし師が猿を扱っている話でもある。そして、『西遊記』には、新野の方言がたくさん出てくるし、第28話には、猿まわしの話でもある。
猿まわし師たちは稼いだお金(現金)を「担ぎ荷」の中の箱にからくりをつくって隠し持って歩いていた。現金書留で送金できるようになってからは、それを利用したので、現金を隠しもって運ぶことはなくなった。
1970年から76年にかけて立て続けに干ばつや水害、害虫被害に襲われると、猿まわし集団も外に出てお金を稼いでくることが認められた。猿まわしの実入りはなかなか良く、多いと日に20~30元は稼げた。当時の労働者の月給が30~60元だったのに、かなりの高給取り。今は、それほどの稼ぎはできない。
 文革期(文化大革命のころ)は、猿まわし師も文芸工作者として、世間への進出が認められた。
 猿まわしの猿は、老いすぎても若すぎてもダメ。老いた猿は動きが悪く、幼なすぎると十分にしつけられていない。猿の「働き」のよし悪しは、体つき、かしこさ、できる芸の数で判断される。オスは若いもの、メスは老いたものを使えと言い習わされる。一般的には7歳前後の猿がもっとも曲芸に適している。立ち姿が美しく、生来の性格が悪くない猿を選ぶ。日々の訓練によって、猿が立つ脚の筋肉は強くなっていく。猿のうち年齢の近いオス猿を2頭、「家族」に入れてはいけない。
 猿まわし師は、猿に自分たちと同じものを食べさせる。肉以外は、人が食べるものなら何でも食べさせる。食事のとき、猿まわし師は、自分たちより一番に猿に食事を与える。それが猿まわし師の決まりごと。それを破って、猿まわし師たちが先に食事すると、猿は怒って、鍋に石を投げ込む。猿って、人間をよく見てるんですね。
猿まわし師が集金するのは、まず外周から始める。外周の客は、いつでも立ち去れるから。
 猿は暑がり。もともと、猿は密林に住んでいたので、炎天下で長時間の活動はできない。猿まわし師たちは、列車に運賃を支払わず、不正乗車して、旅費を節約する。すると、鉄道警察が発見したとき、お目こぼしがあるか否かは、大変な別れ目となる。
猿は肉や魚を食べられないとのこと。肉はともかく、魚も食べられないなんて、信じられません。
 猿まわしはワンシーズンで3000元ほど稼げるので、1年で6000~8000元を稼ぐ。これは農業収入よりやや多い。そして、見物していた少女にこう言われた。「おじいさん、あなたは一生で、どれだけの人に楽しみを与えてきたことでしょう…」
 そうですよね。人生は、お金だけではありません。やはり、人に喜ばれることをするのも大いなる生き甲斐です。
 野生の猿は30年も長生きはできない。猿は老いてくると歯が削られて平らになって、モノが食べられなくなる。猿は若いほど顔のシワ(皺)が多く、年をとるにつれて、顔がつるつるになっていく。メス猿の顔がだんだん赤くなれば妊娠したと判断できる。出産は夜がほとんど。訓練は1歳をすぎたころから始める。
  中国でも猿まわし芸は、もはや滅亡寸前にあるようです。
(2023年2月刊。3800円+税)

上海

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 工藤 哲 、 出版 平凡社新書
 私もかなり昔に上海に行ったことがあります。超近代的な巨大都市なので、まさに圧倒されました。恐ろしい上海の現実を真っ先に紹介します。
 上海では毎年30人以上の日本人が死んでいる。2004年には43人もの日本人が死んだ。とはいっても、この分母は大きいのです。上海市だけで4万4000人の日本人がいる(2012年には7万9000人)。
 日系企業は上海市に1万あり、世界一位。日本人学校の生徒数は2200人、世界中に90ある日本人学校のなかでバンコクに次いで多い。そして世界で唯一、高等部がある。
死因のうち、病死では、心臓疾患と脳疾患、脳梗塞が増えている。上海に居住すると、緊張感が強いられ強いストレスがかかるところなのだ。そして、いたるところに監視カメラがあり、顔認証ですぐ街角での違反行為が摘発される。
 スマホなしでは生活できない。あらゆるサービスがスマホと連動している。
 建物が高層化しているため、街頭の監視カメラには上向きのものまである。危険な落下物を取り締まるためのもの。
 中国の「モーレツ人間」をあらわすコトバとして、「九九六」というものがある。毎日、午前9時から夜9時まで、週6日間、働き通すこと。でも、実のところ、夜10時まで働くのが常態で、このあと帰宅しようとすると、タクシーをつかまえるのが難しい時間帯になっている。ホワイトカラーの8割で、残業が日常化している。
 上海にいると、日本は資本主義の顔をした社会主義で、中国は社会主義の顔をした資本主義だと思える。日本が社会主義だなんて笑ってしまいますが、中国は明らかに資本主義そのものだと私も思います。
 中国人、それも上海人は九州に来て「癒やし」を求める。なるほど、それは言えるかも…、と思います。阿蘇の大観峯は気宇壮大な気分に浸れますし、湯布院や黒川の温泉街って、気分をすっかり落ち着かせるから、日本人でも「最高!」って思いますよね。
 上海そして中国の現実を手軽に知れる新書です。
(2022年2月刊。920円+税)

中国残留邦人

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 井出 孫六 、 出版 岩波新書
 「中国残留婦人・残留孤児」は、国策で日本から送り出され、日本改戦によって中国に置き去りにされた人々です。ですから、カネやタイコで中国(当時の満州)に送り出しておきながら、そんなのは自己責任だ、騙されて乗せられたほうが悪いというのでは正義はありません。
 しかも、日本に帰国してくるとき、第一番に中国から日本へ送り返されたのは、なんと元日本兵でした。帰還作業に関わった人たちがアメリカ軍に対して、人道的見地から女性・子ども・老人を優先させるよう求めたとき、アメリカ当局は一笑に付して取り合いませんでした。なぜでしょうか…。
 100万人もの元日本兵を中国に残して置いたら危険だとアメリカ当局は考えていたからです。実際、国共内戦に元日本兵が集団で国民党軍の一翼を担って共度党軍と戦ったという事実もあります。
 東京の大本営は、日本敗戦後も、日本人はなるべく現地に定着し、いずれ帝国復活の糸口をつかめと指示していたのです。
 元日本兵の集団が国共内戦のキャスティングギートを握る事態が起きることをアメリカ当局は予測し、恐れていたのでした。そんなこと、私はまったく夢にも思っていませんでした。
 結局、元日本兵のいない、女性・子どもと年寄りばかりが中国(満州)に残り残されたら、悲惨な目にあうことになるのは必至です。そして、現実に、そうなりました。
 ところが、一部の開拓団は、地元民との融和を大切にしていたことから、戦後も周囲から襲撃・略奪されることなく日本に帰還できました。
 しかし現地民に対して、神より選ばれた選民として君臨し、威張るばかりの開拓団は改戦後たちまち襲撃され、それこそ身ぐるみはぎとられてしまったのです。それこそ、男も女もパンツとズロースひとつで、麻袋に穴を開けて貫頭衣のように着て過ごしたのでした。
関東軍は「治本工作」を満州ですすめた。現地農民を土塁の中に囲い込んでしまうもの。
 満州に成立した開拓団の中で、もっとも悲惨な結末をとげたのは、高社郷、更科(さらしな)郷、埴科(はにしな)郷の三開拓団。高社郷は、716人の団員のうち、日本に引き揚げたのはわずか56人。更科郷495人のうち日本に帰国したのは19人のみ。埴科郷は308人のうち日本へは17人だけ帰国できた。
 日本政府から見捨てられた「残留」の人々から国家賠償を求める裁判が全国で提起されたのも当然のことです。しかし、裁判所は救済を拒否し続けました。それでも、ついに、国に法的義務に違反しているとして、損害賠償を命じたのでした。
これは政府の言いなりに行動していると大変な目に合うということです。
 いま、日本を守る、沖縄の島々を守ると称して、島に自衛隊が進出し、ミサイル基地と弾薬庫をつくり、司令部は地下化しつつあります。有事になったら、真っ先に狙われることでしょう。
 島民は避難しようと思っても、船も飛行機もありません。ウクライナと違って、地続きで外国へ逃げ出すなんてことも、ありえません。島民は戦前の満州と同じように、置き去りにされることは必至です。何が「国民を守る」ですか、そんなこと出来っこないし、政府や自衛隊が真剣に考えているハズもありません。
 古いようで新しい、現代に生きる私たちに中国残留邦人話がよみがえってきているのです。怖いです…。
(2008年3月刊。740円+税)

ハルビンからの手紙

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 早乙女 勝元 、 出版 草の根出版会
 「マンシュウ国って、どこにあったんですか?」
これは、著者が30年も前に高校生から出た疑問だそうですが、今もきっと同じでしょうね。日本が、かつて13年間も、中国の東北部を占領して、勝手に「政府」を作って植民地支配していたという事実は、今やすっかり忘れ去られているような歴史です。
 その忘却を前提として、アベやサクライなどは「自虐史観はやめよう」、「いつまでも謝罪する必要なんてない」とウソぶいているのです。でも、過去の歴史にきちんと向きあわない人は、将来も再び過ちを繰り返してしまうでしょう。
 戦前の中国東北部を日本は満州と呼んでいました。日本の3倍ほどの面積に、人口は3千万人。豊富な資源を内蔵していました(お金になるアヘンの生産地でもありました)。
 そこに、日本は強引に進出し、日本企業を展開させ、農地を取り上げて開拓団を置いて行ったのです。しかし、そんな悪事が長続きするはずもありません。「満州国」は13年ばかりで消滅しました。その結果、日本人の開拓団そして青少年義勇軍は、関東軍という「精強な軍隊」が「張り子の虎」となっている現実の下、ソ連赤軍の猛攻の下に瓦解し、避難民として逃げ惑う中、何万人もの日本人が死んでいったのです。
 この本の舞台となったハルビンには関東軍が全面的に協力していた「七三一部隊」がありました。悪魔の細菌戦をすすめるために中国人など3000人も人体(生体)実験し、全員を殺害してしまったという悪魔そのものの部隊です。
 関東軍はハルビン郊外に、この一大細菌生産・人体実験工場をつくるため、80平方キロの土地を特別軍事地域として指定した。そのため、1600戸もの現地農民を強制退去させた。七三一部隊からは逃亡者こそ出ていませんが、ペストなどの病原菌がもれ出ていって、周辺の中国人農民や日本人開拓団に病気までもたらしました。
 日本が中国で悪いことをしたこと、それを今なお謝罪するのは当然だということを改めて思い知らされる本でした。
(1990年7月刊。1300円+税)

中国残留日本人

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 大久保 真紀 、 出版 高文研
 戦前の満州に、日本は大量の開拓団員を送り込んでいました。ソ連との国境近くに開拓団を置いて、いわば軍事上の抵抗拠点としようとしたのです。青少年義勇軍も送り込みましたが、「軍」というほどの実体はなく、要するに農民が自衛用の小銃を持っているだけのことでした。1945年8月9日、ソ連軍の大軍が怒涛のように満州に攻め込み、たちまち開拓団は逃げ惑うばかりでした。
 幼い子どもたちを引き連れて日本へ帰ろうとしても、お金も食べ物も何もないうえ、ともかく身の安全さえ脅かされているなか、我が子を中国人に託して生きのびさせようとする母親がいたのも自然な流れでした。
この本の前半は、中国人の養父母の下で養育され、本人は中国人だと思っているのに、周囲からは「日本鬼子」として、いじめられる女の子の話です。それでも周囲のいじめに負けることなく、養父母の下で健康に育ち、ついに日本へ帰国。ところが、顔が似ているから実の親だと思っていると、DNA鑑定で親子ではないとされる。すると、途端に「親」は冷たく扱うようになり、家を出て行けと求められるのです。
 中国へ帰されようとしているとき、河合弘之弁護士(今や、原発訴訟でも有名です)が救いの手を差し伸べました。この河合弁護士も戦前、新京(長春)に生まれ、日本へ引き揚げてきた人でした。そして、この女性は偶然の機会に、実の姉妹とめぐり合うことができたのです。まさに運命の出会いでした。
 後半には、1993年9月5日に起きた「強行帰国」の顛末が紹介されています。細川首相の頃のことです。56歳から80歳までの年老いた女性たち12人が自費で中国から成田空港にやって来て、首相官邸に押しかけ直訴しようとしたのです。この12人の女性たちは宿泊所もないため、空港ロビーで夜を明かしました。長く中国に住んでいるため日本語を話せるのは3人だけ。新聞で報道されると、早朝の成田空港にはテレビ局のワイドショーのクルーも押しかけてきて、新聞、テレビで大きく報道され、大騒動となったのです。要するに、自分たちは日本人である、中国から日本に帰りたい、肉親は受け入れを拒否しているので、日本に帰っても生活できない、国の支援が必要だと訴えたのです。
 実際にも、日本語を話せないため、仕事もできないので、生活保護を受けるしかありません。そうなんですね。やはり自分の生活と権利を守るためには、実力行動が必要なことがあるんですよね。今のフランスのデモとストライキも同じです。ゴミ収集がないからパリの街がゴミだらけになっても、それは一時的なことなので、長い目で見たらデモとストライキを支持したほうが自分たちの生活と権利を守ることになる、そう考えてパリ市民は我慢しているのでしょう。
 「強行帰国」をした結果、すべてが万々歳ということではありませんが、局面を大きく打開して、日本社会への定義を結果的に大きく助けたと言えるようです。よかったですね。1994年、中国残留邦人等帰国促進・自立支援法が成立しました。
 たとえ「自分の意思で」中国に残ったとしても、永住帰国を望んだら、全員が日本に帰ってくることができる、その帰国旅費は日本政府が負担し、公営住宅の入居をあっせんするという法律です。大きく前進したのでした。
 いずれにしても、国が鳴物入りで旗を振った政策でも、いつかひっくり返ることがある、実は国はアテにできない、でも簡単にあきらめず、要求を行動で示したら、きっと何かいい方向に向かうだろう…。そんな元気の出てくる本でもあります。
(2006年6月刊。2400円+税)

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