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カテゴリー: 中国

劉暁波と中国民主化のゆくえ

カテゴリー:中国

著者    矢吹晋・加藤哲郎・及川淳子  、 出版   花伝社
 天安門事件の真相が語られています。解放軍の戒厳部隊が広場にいた学生などを虐殺した。その数、およそ4千人という報道があふれていました。ところが、その後、いくつか本を読んでも、そんな状況は描かれていません。おかしいと思っていましたところ、現場にいた学生たちのリーダーが威厳軍の現場指揮官と話し合って、広場での死者を出さずに撤退していたというのです。中国当局の公式発表の死者319人よりも多いものの、千人の大台をこえることはまずないということです。そして、日本のマスコミはそのことを現場に記者がいて知りながら訂正記事を出さなかったというのですから、ひどいものです。
 今度、ノーベル賞をもらった劉暁波は、広場からの撤退をリードした指揮者の一人でした。そして、天安門事件のおよそ3週間後に中国当局に逮捕されました。
 劉暁波は1955年生まれ。中国のあの文化大革命時代に青年期を送り、そのとき撤退的に考え、思想形成をした。
 文化大革命が終わると、中国の知識人が、なぜこんなにもデタラメなのかと劉暁波は怒った。中国共産党の心ある人たちも、今のままではいけないと思っている。しかし、それを実現するためには、中国共産党がスムーズに複数政党制や民主主義に離陸できるような路線を敷いてくれないといけない。そうでないと、騒乱状態、暴力対立が起きてしまう。こんなロジックに、知識人がからめとられている。
 中国の民主化運動の指導者たちは、外国に亡命したら、国内に拠点がなくなり、根無し草で何もできない。中国の温家宝の息子や全人代委員長の呉邦国の娘婿や李瑞環の息子たち、政治局の幹部の子弟はアメリカの投資企業などのドルに汚染されてしまっている。
中国内部はバラバラ、明らかに差別構造が強固に存在する。国内植民地をつくる体制だ。農民から収奪し、安い労働力として使えるだけ使うが、都市民の持っている福利厚生は一切与えない。
 貧しい民が大勢いるなかで、輸出一辺倒の政策をとるのは、飢餓輸出になる。
 いま中国は、特権まみれの社会である国家資本主義というより、官僚制資本主義である。石油、電力、兵器、通信、運輸など、大企業はすべて軍産複合体である。育ってきた民営企業は、あまりにもうかると、どこかに邪魔をされる。それを防ぐため、有力な国営企業に株をもってもらい、保障してもらう。
 今や、太子党の全盛時代である。太子党とは、革命元老党、革命元勲党、解放軍元老党、既得利益擁護党という強大な利益集団の別称である。革命後60年、中国の老幹部たちは、恵まれた特権や高給を保障され、それを子々孫々継承してきた。このような特権を贈与し、贈与されつつ既保権益を死守する精神が、中国共産党の建党精神とまったく乖離しているのは明らかだった。しかし、このような利権まみれ幹部の子孫、特権の世代間承継者こそが太子党のイメージである。
 そこで、腐敗がすすむと、この体制が崩壊するかというと、おそらく絶対に崩壊しない。なぜなら、崩壊させる人々や活動家がいないから。中国では、支配する階級と膨大な被支配階級に分裂している。いい大学を出て党幹部のエリートコースを昇り、上に行く可能性は開かれている。だから、支配体制はけっこう強い。党の内部では、ある程度、昇進の道が開かれている。
 7800万人の党員がいて、メールで密告するボランティア監視人は30万人もいる。中国共産党は決して弱い組織ではない。
 膨大な地下資源の眠るアフリカは典型的な発展途上国地帯で中国資本の開拓地となっている。中南米にも、ものすごい勢いで中国資本が入っている。
 中国は2006年までに4000億ドルのアメリカ国債を買い、今では1兆ドルに近い。だからもう米中は敵対関係ではなく、「利益共同体」だ、アメリカのゼーリック国務副長官がこのように宣言した。中国の債権は最大であり、アメリカの対外債務の2割も持っている。だから、アメリカは中国を味方にするしかないと決意した。アメリカはもう日本を頼りにしていない。
ところが、日本のマスコミは、日中が対立したときには「アメリカが助けてくれる」という幻想をふりまいている。とんでもない世迷い言である。アメリカの国益からしたら、日中どちらかの二者択一を迫られたら、文句なしに中国を選ぶはずだ。アメリカが中国と本当に対立したら、核戦争を免れない。それを避ける装置が対中戦略対話なのだ。
 現代中国の本質を知ることのできる貴重な本だと思います。
(2011年4月刊。2200円+税)

「ユーラシアの東西」

カテゴリー:中国

著者  杉山  正明     、 出版  日本経済新聞出版社   
 
 私より少し若いだけ著者ですが、その博識には驚嘆せざるをえません。しかも、いくつもの外国語に堪能のようです。うらやましい限りです。私は英語はまるでダメ、フランス語だけ少々話せますが・・・・。
 ロシアの内実は、すきまだらけで不安定きわまりなかった。国域の大半は、広漠たる未開の原野であり、他国からの侵略を恐れるほどの魅力もなかった。基本的に、一方的な侵略国家でいられた。ただ、ナポレオンやヒトラーがロシアを敵視して攻勢をかけたとき、尋常でない国土の広さと都市・町・村落の乏しさ、「社会資本」の未整備が逆に救いというか、武器となった。侵略軍は、個々の戦闘には勝っても、補給線のあまりの長さに疲れ果てた。なーるほど、これは、よくよく分かる解説です。
 現代中国では13億人の人口のうち、1千万人くらいの富裕層しか中国の主要大学には入れないという現実がある。うむむ、そうなんですか・・・・。
 鎌倉幕府にとって、モンゴル軍の2回目の侵攻がすんだあと、3回目こそモンゴル軍は本気で来るとよく分かっていた。そのプレッシャーは十数年も続いた。当時の支配当局(北条執権)は、モンゴルの動向をよく察知していたので、いわば国をあげてモンゴル軍への備えをせざるをえなかった。
モンゴル襲来のとき、モンゴル・高麗連合軍が済州島から逆に東に出撃して、そのままダイレクトに対馬に上陸するのは、地図の上では簡単だとしても、それは海流のうえで、不可能だった。
このモンゴル軍による日本襲来について、整然と2方向から艦隊を組んでいたという人がいる。しかし、そんなのは机上の空論に過ぎない。そのころの航海は動力を使わずに、南の風まかせでしかなかった。艦隊なんか組めなかったのですね。
 震旦とは、サンスクリット訳の漢字音読である、チーナスターチと同じ意味。イースタンとは、サンスクリットやペルシア語に通暁している。
 清朝は、その内実は、満州族で一本化できず、満州族とモンゴル族を二本柱とする満州・モンゴル連合政権を組んでいた。
 モンゴル帝国の歴代皇帝は自らを文殊菩薩だとしていた。文殊菩薩をマンジュシュリーという。満州とは、文殊=マンジュに由来する。
 ウラジオストクというのは、ウラジとは征服せよという意味で、ヴォストークとは東方のことなので、東方を正副せよということ。
ヒンデュークシュとは、インド人殺しという意味だ。
日本の長弓は、3百メートルは飛ぶ。モンゴル式の短弓は100メートルしか飛ばない。モンゴル式の短弓は連射には向いている。
 バサラとは、サンスクリットのヴァジュラ。金剛、つまりダイアモンドのこと。
能の起源も大陸にある。難儀という仮面劇で伝統演劇であった。これが能のもととなった。昔のアジアの西のことを知ることのできる本でした。
(2010年12月刊。1800円+税)

毛沢東、最後の革命(下)

カテゴリー:中国

著者   ロディック・マクファーカー、 出版  青灯社
 
 1967年ころ、中国では解放軍が革命委員会の主役になっていた。省レベルの革命委員会の主任29人のうち、6人が上将、5人が中将、9人が少将で、残る9人は軍の政治委員を兼務していた。革命委員会の多くで、解放軍将校が主任を占めていた。1950年代初め以来、中国の軍隊が、文民政治にこれほど重要な役割を果たしたことはなかった。
 1967年10月、党中央は、授業を直ちに再開するよう命じた。しかし、優秀な教師が圧倒的に不足していた。学校の規律は、文革前にはあり得ないレベルにまで落ちていた。
 毛沢東にとって、修正主義の党リーダーを一掃して、自分が人々と直接に話すことが出来れば、人々は必ずや自分についてくるだろうという幻想の終わりがきた。
紅衛兵の栄光の日々は、1968年7月が過ぎると、まもなく終わり、紅衛兵のリーダーまで真のプロレタリアとして革命するために農村や工場に下放された。7年のあいだに、1200万人の都市青年(都市人口の1割)が地方へ送られた。12年間に下放された知識青年は合計1647万人にのぼる。
 中央当局が毛沢東への個人崇拝をやめさせる本格的な試みを始めたのは1969年春だった。このときまで毛沢東崇拝を続かせた重要な要素は恐怖と威嚇だった。文革中の党規約に毛沢東思想が復活したことは、前大会でそれが削除されたことを毛沢東が快く思っておらず、その決定を支持したものを恨んでいたことを暗示している。
 林彪の個人的な野心はどうあれ、客観的にみれば、林彪が党主席になったら軍が党を事実上支配することになろう。これは、毛沢東が常々のぞんできたことは逆だった。第9回党大会で公式に後継者に昇格したものの、林彪には、その地位について懸念する理由があった。毛沢東は、すでに国家主席を経験して、この役職にともなう公式典礼が大嫌いだったし、権力に装飾などないと考えていた。毛沢東は、林彪をあやして、かりそめの安心に誘い込むために、林彪に向かって2年以内に権力を委譲すると言った。
 毛沢東は林彪事件を利用して、党内における解放軍の優位を根絶する動きを始動させた。いやはや、権力闘争とはかくも複雑怪奇なものなんですね・・・。
 林彪の死と告発は、全中国に大変なショックをもたらした。全知全能の毛沢東であるはずなのに、林彪がほかの誰よりも悪人であることをなぜ察知できなかったのか。
 林彪事件は、毛沢東にとっても深刻なショックだった。林彪事件後、だらだらと続いた文革犠牲者の復権作業を主導したのは明らかに毛沢東であって、周恩来は実行したにすぎない。もし周恩来が党と軍の内部にもつ絶大な権威と影響力を使って同志を結集し、文革の早い時期にこれを食い止める努力をしていたなら、中国はもう少し良くなっていたのではないかという当然の疑問がある。
 私の大学生時代、ベトナム戦争に反対するのと同じようなレベルで中国の文化大革命を礼賛するのかどうかという試金石がありました。毛沢東と文化大革命の真相に迫った上下2巻の力作です。
(2010年12月刊。3800円+税)
 子どもの日、大月晴れの下、久しぶりに近くの小山に登りました。頂上(1388メートル)までちょうど1時間です。初めの30分間は、森林浴のようなものです。曲がりくねっただらだら坂をウグイスの鳴き音とともにのぼっていきます。ちょっと小休止してして急勾配の坂をのぼります。
 いつもより山にのぼっている人は少ないなと思っていると、頂上近くの見晴らしのいい場所にはチビッ子軍団がいました。元気な子どもたちが歓声をあげながら広々とした野原を楽しそうに駆けめぐっているのを見ると、こちらまでうれしくなります。
 はるか眼下に海が見え、大きな遊園地も遠くに望めます。海面は太陽の光を浴びてキラキラまばゆいばかりに輝いています。おにぎり弁当をゆっくり味わいながら食べます。梅干しがたっぷり入ったおにぎりです。山では、なんといっても梅干しが一番です。気宇壮大な気分に浸って、もう少し体を休めます。
 帰りの山の麓にはミカン山があり、ビワ畑があります。ブドウ畑はまだまだのようです。
 ミカンの白くて小さい花が咲いています。摘花しているようです。
 ビワの木におじさん、おばさんが袋かけをしています。
 3時間あまりの「山歩き」をして、翌々日、大腿部に痛みを感じました。

毛沢東、最後の革命(上)

カテゴリー:中国

著者  ロデリック・マクファーカー   、 出版   青灯社   
 
 毛沢東が文化大革命を始めたのは1965年2月のこと。そのころ私は高校生でした。
妻の江青(こうせい)に秘密任務を託し、上海に派遣した。毛が、自分の途方もない計画を全面的に支えてくれる人物として頼りにしたのは、上海市党委の左派リーダーの柯慶施(かけいし)だった。柯慶施は、江青が毛沢東の意を受けて動いていることを知っていたので、なんのためらいもなく江青の助手として二人の宣伝マン、張春橋と姚文元をつけてやった。しかし、柯慶施自身は肺癌のため同年4月に急死した。張春橋より年下の姚文元は、当時まだ33歳で、鋭い舌鋒で毛沢東の信頼を勝ちえていた。
 姚文元の書いた論文は、極秘扱いのまま、毛沢東との間を往復した。上海市党委の上層部は不意をつかれた。そして、北京市党委の彭真をだました。
 1966年3月、毛沢東は北京の党組織への最終攻撃を開始した。5月、彭真は粛清された。それに連座して解任された人々は多かった。そのような運命を受けいれるのを拒否して自殺を選ぶ人々が日ごとに増えていった。
 党幹部が疑いを口にする一方で、知識人や党外の名士はパニックを起こしていた。そのとき、毛沢東は軍事クーデターを心配していた。パラノイア(妄想症)とすら言える毛沢東は用心深く、首都工作組と呼ばれる特別タスクフォースを発足させた。北京衛戌区には新たに10人をこす将軍と家族から成る優秀な増強部隊が投入された。そして、中南海に棲んでいた幹部の多くが別の地区へ転出させられた。
1966年6月、全国の大学と学校の授業が停止させられた。学生たちは突然、「自由」になり、教室を離れて文革と「階級闘争」に投入していった。この事態に劉少奇は、苛立つ以上に、平然としていた。
 1966年夏に起きた混乱について毛沢東はすべてを熟知していた。毛沢東が北京にいないときにも、中央弁公庁は毎日、専用機を飛ばして、情報を届けていた。
 毛沢東は7月、「いっさいの束縛を粉砕しなければならない。大衆を束縛してはならない」と持ち上げた。また、反動派に対して「造反することには理がある」とぶち上げた。これが有名な「造反有理」の始まりでした。このころは、まだ劉少奇も乗り遅れまいと懸命の努力を続けていた。「四旧打破」運動として、紅衛兵は、「悪い」階級出身の家庭への家捜し、家財の押収・破壊を始めていた。北京での差し押さえ資産は、1ヶ月で5.7トンの金など莫大な収穫をあげた。
文革のあと、全国85校のエリート大学・中学・小学校を調査したところ、すべての学校で教師が生徒に拷問され、多くの学校で教師が殴り殺された。「幸運」な教師は便所掃除などの屈辱的任務を課された。
1980年代の公式マニュアルによると、文化大革命のとき18歳以下であれば、集団殴打に加わって人を死に至らしめても、のちに自分の誤りに気づいてそれを認め、現在も素行の良い者は、責任を問わないとした。毛沢東にとって恐怖支配は納得づくだった。中国の若者は、暴力の文化の中で育った。それまで党の暴力は慎重に制御され、調整されてきたが、そのタガが外された。大学生たちは、自分たちの革命的貢献を証明したくてうずうずしているから、騙されやすく、喜んで党中央の使い走りをした。
劉少奇が辞任して田舎にこもり、畑でも耕して暮らしたいと許可を求めても、毛沢東は許さなかった。
 中国を動乱から救うのは、もとより毛沢東の望むところではなかった。1966年12月、毛沢東は自分の73歳の誕生日のとき、全国的、全面的な内戦の展開のためにと乾杯の音頭をとった。
 毛沢東は、解放軍の制度については無傷のまま保つことに留意したが、党機構については、そのような配慮をしなかった。1968年から、大半の部局で職員の7~9割が「五七幹校」へ「下放」された。政府が崩壊すると、各部を動かしていた党組織に代わって解放軍が権力を握った。このせいで軍が腐敗した。たくさんの軍関係者が昇進して、大もうけした。
 それまでの指導部で大きな恩恵を受けている正規労働者は、政治の現状維持に与した。毛沢東は、民間の混乱状態から解放軍が部分的に隔離されるのに反対ではなかった。解放軍は、毛沢東の依って立つ制度的な基盤でもあった。
 文革中に、毛沢東が高級幹部の殺害を命じた形跡はない。スターリンと違って、毛沢東は、そんな最終的解決で自身を守る必要を感じなかった。その代わり、かつての戦友たちの運命は、中央文革小組や紅衛兵の手にゆだねられ、なすがままに放置された。
 毛沢東は、かつての盟友が辱められようが、拷問されようが、傷つこうが、ついには死に至らしめられようが意に介さなかった。スターリンほどではありませんが、毛沢東も冷徹一本槍ではなかったようです。
 周恩来は、国務院と解放軍の戦友を支持しなかった。これは間違いだった。もし、周恩来が、老幹部の団結という希有の機会をとらえて元帥や副総理たちに味方し、文革の恐怖と混乱を取り去るべく、いろんな提案をして毛沢東に圧力をかければ、大きな影響を発揮できた。しかし、周恩来は、その労をとるリスクを避けた。
1967年夏、中国は毛沢東のいう「全面内戦」状態に陥った。文化大革命は武化大革命になった。
 7月の武漢事件において、毛沢東は兵士暴徒や党幹部から安全を脅かされた。1967年夏に労働者のあいだで暴力事件が増加したのは、江青の挑発的発言に原因がある。
「武で防衛せよと江青同志が言った」というもの。重慶地区には、兵器工場が集中していて、武闘派に対するほぼ無制限といえる武器の供給源となっていた。
 以上が上巻です。とても読みごたえのある本でした。
(2010年11月刊。3800円+税)

革命とナショナリズム

カテゴリー:中国

著者  石川 禎浩、  出版 岩波新書
 本のタイトルからは何のことやら分かりませんが、中国近現代史の本です。国民党と共産党の二つを同じく主人公としていますので、これまでの共産党のみを主人公とする本より、事態の推移がより多面的かつ深く認識できる本になっています。
 1924年、国共合作(こっきょうがっさく)が始まった。この時点で、共産党員は500人にすぎず、国民党員の100分の1でしかなかった。 国民党は幹部が相対的に高い比率を占めていた。だから国民党に加入した共産党員は国民党の基層において大きな役割を果たしていた。この国共合作は共産党の党勢発展に大いに寄与した。国民党の傘のもとで「職業革命家」を維持できたことの意義は決して小さくなかった。
1924年に500人だった党員は1925年には300人になった。1924年の共産党の財政の95%はモスクワからの資金援助に伝存していた。予算の90%以上をコミンテルンからの援助に頼るという財政構造は1920年代を通じて、ほぼ変わらなかった。
 しかし、資金援助の点では国民党がソ連から得ていた軍事援助などの物質的援助は、共産党へのものより二桁も上回るものがあった。たとえば、1925年に国民党へは半年で150万元、共産党へは年に3万元を援助していた。ところが、日本は中国の段稘瑞政権に対して1億5000万元もの援助をしていたから、それに比べるとソ連の援助など微々たるものでしかない。
 幹部中心の政党である国民党は、その上層部が複雑な派閥に分かれていたので、多数派を占める蒋介石派も正規の党組織に依拠するだけでは盤石の支配体制を築くことは難しかった。そこで、蒋は腹心の陣果夫・陣立夫兄弟の組織した秘密党内組織CC団や力行社・籃衣社や中華民族復興社といった、蒋個人に直属する諜報秘密結社を拡大していった。これらの非正規組織は、黄埔(こうほ)軍校卒業生の統率する軍と並んで蒋の独裁体制の基盤となっていた。
 1930年代はじめ、コミンテルンの指導を背景とした中国共産党の「党中央」の権威は、地方の指導者が容易に否定することができないものだった。
 共産党の中央組織は、1930年代初めまで、上海の現界の中に置かれていた。
 都市部の共産党組織は1930年代半ばまでには、壊滅するか、活動停止に追い込まれるかのどちらかであった。だが、それにもかかわらず共産党は影響力をもっていた。共産党の勢力は、常に実態よりもはるかに大きく見積もられた。それは、共産党のもつ宣伝工作重視の政治文化による。
近世・近代日本の農村に比べて、中国農民の結合力は格段に弱かった。あとで中国共産党の指導者になる入党者の多くが、旧郷紳層・富裕層の子弟であった。当初、紅軍の有力な構成員であった土着のアウトローたちは、粛清などを通じて次第に紅軍から排除され、それに代わって土地革命の恩恵を受けた若き農民たちが大きな役割を占めていくようになった。
1934年10月に始まった「長征」も、中央根拠地の軍事的な窮地を打開するための「戦略的転進」として始まったもので、具体的な目的地を設定して開始されたものではなかった。
孫文の妻だった宋慶齢は共産党にひそかに入党を申していた。張学良は入党を申し入れたが、中国共産党はコミンテルンの拒否を受けて、これを認めなかった。ソ連とコシンテルンは蒋介石の統治能力を高く評価し、張学良はあくまで「軍閥」としてしかみていなかった。
ソ連・コミンテルンは西安事変の直後から、張学良の行動に疑念を抱き、「プラウダ」などを通じて、蒋の安全の保障、事態の平和的解決を望むという論評を発表し続けていた。
1940年の夏から秋にかけて、八路軍は100あまりの団(日本の連隊に相当する)20万人の兵力を動員した百団(ひゃくだん)大戦を始動した。日本軍は、八路軍に大攻勢をかけるだけの力があるとは思っていなかった。八路軍の力量に衝撃を受けた日本軍は、ただちに報復戦にかかった。それが悪名高い三光作戦である。
中国史の裏側にまでかなり踏み込んだ力作だと思いました。
 
(2010年10月刊。820円+税)

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