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カテゴリー: 中国

中国革命と軍隊

カテゴリー:中国

著者  阿南 友亮 、 出版  慶應義塾大学出版会
1920年代、30年代の中国、広東省における党・軍・社会の関係を詳細に分析し、中国革命と軍隊との関係を根本的に問い直した意欲的な本です。450頁もある大部な本なので、読み通すのに、少々苦労しました。
 1980年代以降に復活した中国での現地調査において、共産党によって抜本的に変革されたはずの農村社会における伝統的人間関係の根強い生命力を示す事例が数多く発見された。そこで、共産党が実際にどこまで農村社会を変革できたのか、疑問の声があがった。
 農村社会における伝統的な人間関係の根強い生命力の発見は、共産党による社会変革こそが国民党を圧倒する原動力の源となったという従来の定説の見直しを迫るものであった。
 1930年代までの中国の軍隊は、基本的に生産から遊離した貧民・流民を主たる兵士の供給源とする傭兵軍隊であった。軍隊に応募した兵士の圧倒的多数は、失業・破産・貧困農民出身であった。
 困窮する農民は多く、兵士になろうとする人間も多い。こうして中国では徴兵制を広く実施する必要もなく、募集すればすむ。蒋介石の国民革命軍ですら、募集して得た兵隊であった。
 20世紀前半の中国ではほぼ無尽蔵に傭兵を供給し続ける困窮した地域社会という兵士の生産地、そして兵士に対して常に一定の需要をもっていた軍閥の傭兵軍隊という消費者によって巨大な兵士市場が形成されていた。
 中国の傭兵軍隊の兵士の大半は、独身の貧困農民であり、軍隊の募兵に応募する主たる理由は、毎日食事にありつくこと、一定の給金を得ること、掠奪を通じて一攫千金を狙うことであった。それらを通じて生存の確保と貧困からの脱出を図ることであった。
平均的な兵士は、大義名分や国家に対する義務よりも利益のために戦う傭兵的性格が強く、戦場でリスクを回避しようとする姿勢が顕著で、戦況が不利になると、兵士の脱走、降伏、敵方への寝返りが頻発した。
 兵士は、往々にして各級の将校が自らの責任で募兵したため、その将校と直接的利害関係をもち、忠誠心もその将校に向けられる傾向が強かった。つまり、中国の傭兵軍隊は最高司令官を核とする一極集権的組織ではなく、多極分権的性格が強かった。このため、個々の兵士の脱走のみならず、師団長や旅団長が部隊ごと敵に寝返るという行為が頻繁にみられた。
 20世紀前半の中国において膨大な数に達していた民間の自衛団体の構成員は、匪賊とともに、軍閥の軍隊にとって重要な兵士の供給源となっていた。
 1923年末から1924年初めにかけて、共産党は農民運動を党の指導下で武装化し、それによって農民の生活水準向上に立ちはだかる既得権益層の武力に対抗すると同時に、「革命軍隊」に農民を動員するための基盤を構築するという構想を打ち出した。
 1923年6月の大会以降、共産党は都市住民に加え、農民をも兵士の重要な供給源とみなすようになり、農民の制度的武装化に関する構想を展開していった。
 ところが、1923年の終わりころになると、共産党指導部は、既存の自衛隊団体と農民運動、土地改革などによる農民の「解放」(社会変革)とが両立しがたいという社会状況を認識するに至った。
 1924年、著しく統制を欠いた軍隊を抱えた孫文は、麾下の将兵が職務に殉じる覚悟に欠け、利害を重視して職分に違反することを嘆き、革命に従事するはずの麾下の軍隊と「軍閥」の軍隊とのあいだに目立った差異がないことを認めざるをえなかった。
 1924年7月、広州に農民運動講習所(第一期)が開講した。ここは農民自衛軍の士官学校であった。農民自衛軍の拡大は、広東社会の既得権益層の強い警戒と反発を招くこととなり、広東各地で既得権益層と農民境界との確執、既存の自衛団体と農民自衛軍との衝突が顕在化した。農民自衛軍の役割は、本来、村落の防御に限定されていた。
 国共両党の推進した農民運動の過程で組織された新たな民間武装団体の農民自衛軍と旧来の民団との抗争は、一見、社会変革に伴う摩擦を象徴しているようでありながら、実は往々にして宗族間の械闘の論理に支配されていた。
 国共両党が1924年以降、普及に努めた農民自衛軍が1927年に軍隊に編入され、一つの部隊として戦闘に従事したのは画期的なことであった。それは極めて限定的ながらも、民間武装団体を通じて農民を制度的に軍隊に動員するという1923年以来の共産党の軍隊建設構想が実現したことを意味した。
 1927年ころ、国共両党が民団はもちろんのこと、農民自衛軍に対しても必ずしも末端組織に至るまで十分な指導権を確立していたわけではなかった。
 1928年、海豊における土地革命は障害に直面し、遅々として進まなかった。土地の分配に対する農民の反応が共産党の予想よりも複雑で、土地革命は多くの時間と労力を必要とする困難な作業であった。土地の分配は、決して順風満帆ではなかった。
 土地の境界の破壊に関する農民の理解を得ることは非常に難しかった。それを一因として、土地の分配がなされたのは、狭い範囲に限定された。土地境界の破壊は、少なからぬ農民の思惑・利益に反していた。多くの自作農が頑強にこれに抵抗した。土地所有権の否定は、自作農の抵抗を招いた。そして、それには宗教の論理も作用していた。宗族の共有地である「族田」が多く存在した。他の宗族に属するよそ者に土地を渡したしたくないという心理も働いた。
 一部の宗族が共産党に味方する一方、他の多くの宗族が共産党に頑強に抵抗した。
 1928年1月の時点で、共産党は県内を平定して土地革命に着手するどころか、県城を失い、陸豊から駆遂される危機に直面していた。
 土地革命は遅々として進まず、住民の蒙った恩恵は均等ではなかった。公平を重視する農村社会では、これは重大な問題であった。このころ紅軍は戦うたびに小さくなり、戦うたびに弱くなった。陸豊では、反共産党の名のもとに不倶戴天の敵同士であった黒旗と赤旗との連携が進み、複数の宗族から白旗を掲げる連合軍(白旗)が形成された。海陸豊における共産党の勢力は多分に宗族の論理に依存していた。同地の共産党には、郷神や地主が相当数ふくまれていた。
 共産党は、社会変革して新たな武力を手に入れたのではなく、前から存在した武装宗族を活用した。このように、国共の相克は、実は清代以来の宗族間の抗争の延長という側面を有していた。
 土地の没収・分配や地域社会からの紅軍兵士の獲得は、現地の共産党指導部にとって始めての試みだった。そして、着手した時点では、農民の頑強な反対と抵抗に遭うことを想定していなかった。それでもたもたしているうちに国民党軍の襲撃を受けてしまった。
 このように、国共内戦期の土地革命は、少なからぬ障害・混乱に直面し、なかなか共産党の計画どおりには進展しなかった。
 なーるほど、そういうことだったんですか。土地革命の成功イコール共産党の軍事力の増強という図式は必ずしも現実を反映したものではないということです。刮目させられました。
 40歳の若手学者による貴重な労作です。
(2012年8月刊。6800円+税)

中国共産党の支配と権力

カテゴリー:中国

著者   鈴木 隆 、 出版   慶應義塾大学出版会 
 420頁もの本格的な中国共産党の研究所です。難しいばかりではありません。その置かれている厳しい現実がとても分かりやすく分析されています。現実の中国に行ってみると、まさに資本主義を謳歌しているとしか思えません。それでも、中国共産党が取りしきっていて、今でも毛沢東思想を崇拝する人が少なくないのです。本当に不思議な国です。
人口12億人で、中国共産党がどうやって大国を統治しているのが、その謎を解き明かそうという意気込みの感じられる本です。少なくとも私には、その意気込みと、たしかな答えを感じることができました。
 中国共産党は新社会層への党員リクルートを決断した。その最大の理由は、改革・開放以来の資本主義的発展に伴い、近年、政治・経済・社会の各方面において、これら新興エリート層の影響力が拡大していることがあげられる。私営企業家をはじめ、外資企業の管理職や技術職、弁護士、会計士などからなる新社会層の多くの職種は、工場労働者と農民を主体とする伝統的な計画経済システムの下では、原理的に存在しないか、または実態として存在しないに等しい集団であった。
 中国共産党は、2000年代に入って、新興エリート層への政治的接近を本格的に開始した。その目的は二つ。その一は、共産党の支配の正統性の中核をなす持続的な経済成長に資するべく、私営企業家などの非公有制経済セクターとの協調的な関係を持続・強化すること。もう一つは、新興の社会経済エリートが主導する組織的な反体制運動と、その政治的立場の拡大を抑制することである。
 中国共産党は、弁護士や会計士などの新社会階層を構成する特定の職能集団への組織工作を優先的に実行している。
 2000年代に入って以来、中国共産党は、イデオロギーと党建設の両面から、体制の問題処理能力の向上に努めている。宣伝部のイデオロギー統制は、過去に比べて相対的に弱化しているにもかかわらず、組織部の力量は、各種の人事統制を通して、近年むしろ強化されている。今日、中国共産党は、衰退と適応の並存状態にある。
 習近平・中央政治局常務委員(当時)は業界の規模が比較的に大きく、業務の主管部門が明確で、活動の基礎が比較的に良好な弁護士や会計士などの職業を突破口として、新社会階層を主な対象として、末端レベルでの党建設の強化・推進を指示していた。
 新社会階層、とくに都市に社会経済生活の基盤を有する私営企業家の入党によって、農村部に対する都市部の政治的地位の相対的な上昇と、基層の政治社会における権力関係の変動という二重の不安がみて取れる。このような新社会階層の入党に対する批判的な意識は、今日でも中国共産党党内に根強く存在する。
 私営企業家の党員の人数は適切にコントロールしなければならない。党組織が私営企業家の従属物や道具となったり、党内に特殊な利益集団が形成されるのを防ぐ必要があるという考えも根強く存在する。
 浙江省では、当初874人だった企業家の入党志望者は、次々に選考対象から落選し、結局、実際に入党できたのは23人、2.6%にすぎなかった。
 2004年から2010年までの7年間に入党した新社会階層の党員は88万人。2010年時点は93万人に近くなっているが、これは党員総数の1.2%ほどを占めている。新社会階層の入党申請者は年1万人のベースである。ところで、毎年の新しい入党者の4~5割は、生産・工作現場の第一線の者で占められている。
 中国共産党の中央は、新参者たる新社会階層が、一定の量的規模と集団としてのまとまりの持つ存在感を党の内外に必要以上に誇示することのないように、慎重に適応していた。
市場経済化の進展は、非党員の者にとっても、経済的成功の獲得機会を増大させた。この結果、個々人の入党志望の度合いが相対的に低下し、とりわけ都市部での専門知識を有する高学歴、若年層に対する党員リクルートは、以前に比べて困難となった。
 中国共産党が、持続的な経済成長と新興エリート層重視の政治姿勢をすでに明確化している以上、非党員の新社会層としては、共産党への加入に積極的な意義を見出しにくい。共産党への入党以外にも非党員の新社会層が政治に参加する機会や経営が、これまでより拡大しているのも現実である。
 新社会階層への統一戦線活動重視の具体的なあらわれとして、統一戦線工作部長は党内で格上げされた。
 社会の多様化にともない、社会階層との権力関係をいかに処分していくのかが、党中央の重要課題となっている。
 中国共産党は、全国すべての弁護士・公認会計士事務所を細大もらさずに監視の下に置いた。弁護士と会計士の党員の比率はもともと相当に高かった。弁護士23.3%、弁護士と会計士に対する中国共産党の組織的統制力は、前にも比べて強化された。
 2010年の時点で、それら二つの職業人の3割が共産党員であり、その所属する法律事務所の7~8割に共産党支部がある。
 経済発展こそが、現地の県党委書記の最大の関心事だ。経済のノルマの達成が、当人の昇進と降格の主要な判断基準であることは、従来と変わられない。末端レベルの幹部たちは、上級党委員会からの絶え間ないノルマ達成の圧力に日常的にさらされている。
 中国共産党の内実が、とても鋭く分析されていると驚嘆し、勉強になりました。
(2012年7月刊。6800円+税)

李鴻章

カテゴリー:中国

著者   岡本 隆司 、 出版   岩波新書  
 日清戦争のあと、日本の下関で開かれていた日中協議の最中、中国の全権使節・李鴻章は、若き(26歳)日本人壮土からピストルで顔面を撃たれた。しかし、弾丸の摘出もせず、顔面に包帯を巻いたまま、日本との協議を続けた。そのとき、73歳、なんという生命力であり、胆力の持ち主でしょうか・・・。
 怜悧(れいり)にして、奇智(きち)あり。常に放逸不羈(ふき)。無頓着に、その言わんと欲するところを言い放つ。
 李鴻章は、1840年、18歳で、科拳の第一段階である学校入試に合格した。
 李鴻章は25歳のとき、上から数えて15位で進士となった。かなりの速さだ。自信と自負の強い人物に成長した。
 清朝は、もともと華夷一体、多種族が共存する政権であった。
日本軍の台湾出兵によって、清朝の危機感は著しく高まった。
 中国民衆が心ならずも日本に譲歩することになったのは、軍備が空虚だったからだ・・・。
 李鴻章は、1860年代から、清朝きっての知日派だった。李鴻章は、中国の現況に失望すればするほど、日本に対する関心を高め、畏敬の念すら抱いていた。
 李鴻章という人物を見直すことになる本でした。
(2011年11月刊。760円+税)

台湾海峡1949

カテゴリー:中国

著者   龍 應台、 出版   白水社
 中国解放戦を勝者側から描いた過程については、これまでずっと読んできましたが、この本は敗者であった国民党軍側から描いていて、とても新鮮でした。
 1984年11月、河南省の南陽市にある16校の中学・高校から5000人の生徒と教員が集合した。千里の道を歩いて、まだ戦火の及んでいない湖南省まで疎開しようというのだ。
 5000人もの青少年が一人ひとりリュックを背負って隊列をつくった。
 1949年3月、隊列は湖南省南西の零陵に落ち着き、授業を再開した。
 これらの教員の多くは、考え方が旧式だった。北京大学や精華大学出身の教員の思想は保守的で、新しい潮流を追いかけるタイプではなかった。共産党の考えを信じなかった。先生が生徒を引率するのは、母鶏がひよこを連れ歩くのと同じで、はぐれるものなどいなかった。先生と生徒とのあいだには、人間的な結びつきがあった。先生と一緒なら保護者も安心していた。
 1949年10月、教育省から緊急電報が入った。現地を即時撤退し、疎開せよ。これを受けて学生は二手に分かれ、雨風をおして湖南と広西の省境まで歩いた。広西省に達したとき、5000人の子どもは、半分になっていた。そして、国民党軍97軍246連隊が偶然そこに通りかかって、学生を守りながら進むことに同意した。ところが、共産党軍が追いつき、激戦のなか険しい山中を逃げまわった。南陽を出発した5000人の子どもたちが1年後にベトナム国境地帯に到達したとき、その数は300人にまで減っていた。
そして、フランス兵によってベトナムで捕虜収容所に収容された。しかし、すごいのです。300人にまで減った生徒と教員が、5000人だったときと同じように、腰を下ろして授業を再開したのです。
水も電気もないベトナムの鉱山の空き地で始まった青空学校で、河南省の南陽から携えてきた『古文観止』は、残された唯一の教科書だった。教師は全生徒に、30篇の詩を諳んじるよう厳しく指導した。
 1953年6月、ついに台湾に渡ることができた。そのとき生徒数は208人。
中国の東北地方がまだ満州国だったころ、多くの台湾人が出稼ぎに来ていた。当時、5000人以上の台湾人が満州国で働いていたが、その多くは医師と技術者だった。
 日本軍はたくさんの中国人を捕らえて収容所に閉じ込め、炭鉱作業に従事する苦力(クーリー)とした。逃亡を防ぐため、見張り役は錠を何重もかけた。就寝前に労働者たちから衣服をはぎ取り、パンツまで回収した。まるで豚扱いだ。そして共産党軍が東北へ進軍するとき、十分な兵員数を保持して国民党軍と対決するため、日本軍の方法をそのまま採用した。寝る前に総員のパンツを回収した。それでも、少年兵たちは必死に逃げた。3万2500人いた兵が4500人も減った。
 さらに、共産党軍は「兵力現地補充」作戦をとった。国民党軍の兵士を捕虜にとると、次々に戦場の最前線に送り、さっきまで味方だった国民党軍と戦わせた。解放軍(共産党軍)は、百万の民工の肩と腕を頼りに、前線まで物資を運び、傷兵を後方へ送った。民工は銃前と銃後を働きアリのように行き来していた。兵士1人のうしろに9人の人民がいて、食糧の手配、弾薬輸送、電線架設、戦場掃除、傷兵看護を担っていた。
 満州人は、日本人を「日本鬼」と読んだが、台湾人のことは「第二日本鬼」と呼んだ。台湾人は、必死で自分が日本人でないことを証明しようとした。
台湾接収を任務とする国民党軍と、「王の軍隊」の到来を期待していた台湾の民衆。両者は正面からぶつかりあった。相互不理解は内出血のごとく、あっという間に悪化して、化膿した。
 そして、1947年2月28日、台湾全島で動乱が起きた。2.28事件である。
 本書は、台湾へ逃げてきた国民党政権と軍隊について、台湾支配者という強者としてではなく、故郷を失った弱者として描いたところに特徴がある。
 なーるほど、本当にそうなんです。国民党軍との内戦のすさまじさを描いた中国映画を少し前にみました(申し訳ないことに、題名は忘れてしまいました)が、中国解放戦の過程では勝者も敗者も大変な苦しみを味わったことを少しばかり実感することができました。
 2009年8月に発売され、1年半で40万部も売れるベストセラーになりました。中国本土では禁書とされているようですが、実はかなり読まれているということです。たしかに勝者の側だけでは分からないことがありますからね。
 中国解放戦の内実を知るうえで、欠かせない本だと思いました。
(2012年7月刊。2800円+税)
さすがは海の幸
 稚内に来たら、やっぱり海の幸。一晩目は、居酒屋「竹ちゃん」。ほっけ、タラバガニそして、うに、いくらをしっかり堪能しました。最後は銀杏草(ぎんなんそう)という海草のみそ汁でした。
 二晩目は、地元の人の推薦の居酒屋「いつみ」。ここは家庭的な味わいです。まるごと食べられるハタハタのからあげを初めていただきました。八角(はっかく)の軍艦焼きは、甘いみそだれです。いつもは焼酎お湯わり2杯と決めているのですが、ついつい3杯目まで頼んでしまいました。
サロベツ湿原
 ラムサール条約にも指定されている広大湿原です。泥炭が採られていた歴史があります。稚内から鈍行に乗って一時間近く。そこからタクシーで行こうとしても、なんと町に一台。30分待ちでした帰りはバス。ところが、稚内行きは、4時間後しかないのです。
 ビジターセンターは近代的建物で、湿原は板道を歩けます。20分ほど。3回歩きました。残念ながらユリ科のエゾカンゾウはすっかり終わっていました。黄色一色のお花畑が広がるのを期待していたのですが・・・。ところどころ、わずかに紫色のハナショウブ、そして、エゾニュウの白い花を見かけるくらいで、緑の大草原です。その先に、利尻富士が見えます。海を隔てていますが、間近に感じます。傑作風景写真を狙ったのですが、もう一つでした。

毛沢東、大躍進秘録

カテゴリー:中国

著者   楊 継縄 、 出版   文芸春秋
 毛沢東の最大の罪状の一つが大躍進政策下で3600万人もの中国人が餓死したという事実です。その後の文革大革命の過ちに匹敵する罪悪です。
著者は中国共産党のエリート記者として活躍していたのですが、大躍進時の中国の実情を暴いたこの本は中国では発禁となっているとのことです。
止むことのない革命的大批判、見たり聞いたりする残酷な懲罰、それらは怯(おび)えの心理状態をつくり出す。それは毒蛇や猛獣を見たときの瞬間的な怯えとは異なり、神経や血液のなかに溶け込んで生存本能となる怯えなのである。人々は、熱い火を避けるように政治的危険を避ける。
皇帝が一番偉いという考えの強い中国では、人々は中央政府の声を権威とみなす。中国共産党は、中央政権という神器をつかって、全国民に単一の価値観を注入する。経験の浅い青年たちは、この注入された価値観を心から信じ、世間を知る親たちは、あるいは神器に対する迷信から、あるいは政権に対する怯えから、自分の子どもが政府と異なる考えをもたないよう、常に子どもが従順でいうことを聞くよう要求する。
 1958年から1962年の間に中国全土で3600万人が餓死した。餓死者の特徴は、死に瀕して発熱はなく、反対に体温は下がる。
 死の前の飢餓は、死そのものより恐ろしい。トウモロコシの芯、野草、樹の皮を食べ尽くし、鳥のフン、ネズミ、綿の実、それらすべてを口にした。白い粘土(観音土)も口に入れた。死者の肉は、他人だけでなく、その家族すら食糧にした。当時、人肉食は特別なことではなかった。
公共食堂制度は、大量の餓死者を出した主要な原因である。公共食堂を始める過程は、家庭を消滅させる過程であり、農民から略奪する過程でもあった。
 公共食堂が始まった最初の2ヵ月あまり、人々はどこの食堂でも、やたらに飲み食いした。食糧が浪費された。公共食堂は、幹部特権化の基地にもなった。
 公共食堂のもっとも大きな効能は、プロレタリア独裁を一人一人の胃袋にまで徹底させたことである。公共食堂を始めてからは、生産隊長は「法廷」の長となった。そのいうことを聞かないものには飯を与えない。公共食堂とは、実際には、農民たちが飯茶碗を指導者に渡すことである。つまりは、生存権を指導者に渡すことであった。飯茶碗を失った農民は、まさに生存権を失った。
 
 農民が大量に餓死しているとき、幹部は分け前以上に食べている。これは普遍的な現象であった。
 1958年の夏秋以降、毛沢東は、公共食堂を何回となくほめたたえた。
 1960年12月に事実上、公共食堂は解散した。しかし、毛沢東は公共食堂が次々につぶれていく状況に非常に不満だった。
劉少奇や周恩来は毛沢東に反対したことはあったが、毛沢東には逆らえず、ときには、毛沢東よりもっと過激なことさえ言って火に油を注いで、さらに助長した。毛沢東に積極に加担した者、保身のために余儀なく支持した者、権力にとりいった者、無知蒙昧だった者、ドサクサに紛れてもうけた者など、いろいろいた。
 1958年の「人民日報」は完全にホラ吹き競技大会の紙面となっていて、ホラ吹きを組織していた。農民が農村で大量に餓死する一方で、都市の需要をまかないつつ、豚や卵は輸出されていた。政府の買い上げ目標が高いため、買い上げ作業は困難をきわめた。政府は、農民が食料を上納できないのは生産隊が食料を隠匿しているからだと考えた。
 1959年の廬山会議において彭徳懐は毛沢東を批判する私信を毛沢東に送り届けた。このころ、毛沢東は両目を失い指導者の地位を失うかもしれないと心配していた。
 毛沢東は、軍の高級将校たちの間に団結がないことから安心して手が打てた。周恩来や林彪は、毛沢東が彭徳懐を批判したとき、その保身に走った。周恩来も彭徳懐に対して、井戸に落ちた者にさらに石を投げつける態度をとった。
 毛沢東は1940年8月の百団大戦について否定的評価を下していた。これも彭徳懐の歴史的に重要な誤りとみなしていた。
 中国とはどんな国なのか、毛沢東の誤りはなぜ生前にただされなかったのかという点を学ぶことのできる本です。
(2012年3月刊。2800円+税)

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