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カテゴリー: 中国

沙飛(さひ)

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 加藤 千洋 、 出版 平凡社
「中国のキャパ」と呼ばれた戦場写真の先駆者、沙飛の生涯を明らかにした本です。もっとも有名な写真は、八路軍の聶(じょう)栄臻(えいしん)司令官が4歳の日本人少女と手をつないでいるものです。
この女の子は、八路軍の百団大戦によって襲撃された炭鉱につとめていた両親とともに生活していたのですが、父とは生き別れ、このとき母は殺されて一人になったところを八路軍兵士に救われ、聶司令官の所へ運ばれたのでした。聶司令官は撤退するときに手紙を添えて日本軍に送り届けるよう手配し、少女は無事に救われたのです。そして、戦後40年もたって日本のマスコミが少女の現在を探しあてました。宮崎で生活していた女性は、そんな幼いころの記憶は何もなかったのです。
さて、問題は、この写真をとったカメラマンです。「沙飛」という名前のカメラマン。どんな経歴なのか、よく知られていませんでした。
沙飛は魯迅(ろじん)の生活最後の写真をとり、また毛沢東が高く評価したことで有名なベチューン医師の手術中の写真もとっています。
沙飛の本名は司徒傳。司徒は、中国では数少ない二文字の姓。1912年5月5日に生まれ、1950年3月に38歳で亡くなった。しかも、それは日本人主治医を射殺し、銃殺刑になったのだった。精神錯乱状態に陥って、八路軍に協力していた日本人医師を妄想にかられてピストルで射殺した。
1937年7月7日の盧溝橋事件のあと、8月に国共合作のなかで八路軍が誕生した。
総指揮は朱徳、副総指揮に彭徳懐。第115師団(林彪・師団長)、第120師団(賀竜・師団長)、第129師団(劉伯承・師団長)の3師団態勢で、総兵力は3~4万人。
第115師団で政治委員をつとめる聶栄臻はフランスに留学し、ベルギーの大学に学び、カメラの趣味もあった。なので、カメラマンの沙飛を部下として認めたと思われる。
「4歳の女の子」は、1980年7月に訪中し、北京の人民大会堂で、聶栄臻元帥と対面した。そして、「4歳の女の子」を助け出した元八路軍の兵士まで本人が名乗り出たことによって判明したというのです。生きのびていたのですね。百団大戦のときは17歳の兵士だったとのこと。そして、写真をとったのが沙飛という中国の戦場カメラマンだということも判明しました。
「4歳の女の子」を手紙とともに受けとった日本軍指揮官は聶司令官あてに返信を送ったというのです。ええっ、本当でしょうか…。
「子どもは確かに受けとった。貴部隊の人道主義精神に感謝する。将来、平和時に面会した際、謝意を伝えたい」
いやあ、立派な内容ですね。この日本軍指揮官の氏名は判明していないのでしょうか…。
百団大戦のあったのは1940(昭和15)年8月から11月にかけてのこと。炭鉱を守備していた日本軍は全滅したようです。「4歳の女の子」はトーチカで震えているところを八路軍兵士に救出されたのでした。名前を訊かれたとき「母ちゃんは死んだ」、「死んだ」と答えたので、「死んだ」を「しん」と聞いた八路軍の兵士が女の子を「興子」(しんこ)と名づけたというのです。なんとも泣けてくる名前です。
沙飛に殺された日本人医師は、津村勝という内科主任の医師(41歳)。河北省の石家荘の和平病院には、100人の医療スタッフをふくめて200人ほどの日本人がつとめていたのでした。これが、「留用者」と呼ばれる、日本敗戦後しばらく八路軍の求めに応じて中国にいた人たちです。医療関係者が断然多かったようです。
私の叔父(父の弟)は紡績工場のたちあげと技術指導する技術員として8年ほど中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。八路軍の三大規律・八項注意の素晴らしさを聞かされたものです。今、その叔父の中国における歩みを文章化しています。
(2022年4月刊。税込3080円)

草原に生きる

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 アラタンホヤガ 、 出版 論創社
内モンゴル遊牧民の今日(いま)。これがサブタイトルの写真・エッセイです。
内モンゴルはモンゴル国ではなく、中国の一部。満蒙開拓そしてノモンハン事件の舞台。
内モンゴルは日本と同じく、四季がはっきりしている。冬と春は寒くて、風が強く、雪が降る。夏は暑く、朝晩の温度差が大きいけれど、乾燥しているので風が爽やかで、日本より過ごしやすい。秋は草刈りの忙しい時期で、家畜が一番太り、売買される、収穫の秋。
内モンゴルには遊牧の生活をしている人はほとんどいなくなり、定住しながら牧畜を営んでいる。定住牧民だ。
文化大革命のとき伝統文化が否定され、1980年代の土地改革によって牧草地が分配されて遊牧民は移動できなくなり、さらに政府が定住化を推進したことで、生活様式が遊牧から定住に変わってしまった。
カルピスは、内モンゴルの馬乳酒が本家。馬乳酒はお酒ではなく、馬の乳を発酵させた飲み物で、老若男女、誰もが飲む。ビタミンCの補給、胃腸や血液中の脂肪分を排除する働きがある。
内モンゴルの子どもは、小学1年生からモンゴル語と中国語を同時に学び始め、3年生からは英語の学習が加わる。
1980年代から内モンゴルでは土地改革は行われ、牧草地が各家庭に分配された。この分配は平等ではなく、お金持ちや権力者が土地を広く鉄条網で囲み始めた。早い者勝ちだった。弱い者も借金しながら、わずかな土地も残さず鉄条網で囲んだ。わずか5年もしないうちに、日本とほぼ同じ面積のシリンゴル草原は鉄条網に囲まれていない草原は存在しなくなった。この鉄条網によって、家畜が移動できず、同じ場所で放牧するため、育つ植物が貧弱になり、草原の草が食べ尽くされてしまった。
草原が貧弱になったため、春になると、少しの風でも砂嵐が起きるようになった。
以前は、季節ごとに家畜が食べる草が決まっていて、季節ごとに移動しながらのサイクルができていた。あるところの草を食べ尽くす前に次へ移動する。そこに新しい草が育ち、来年にはまた豊かな牧草地に生まれ変わっていた。このサイクルがなくなり、草原の砂漠化がすすんでいる。鉄条網は、草原を分断しただけでなく、モンゴル人の文化、地域コミュニティを分断し、心まで閉じさせた。
夏に雨が少なくなり、遊牧民は深刻な打撃を受けている。高利貸から高い利息で借金して牧草を買うしかない。
ラクダは、走り出すと速い。時速40キロ以上で走る。足が長いため歩幅が大きく、速く走ることができる。
内モンゴルの大草原が鉄条網によって、分割・分断されていること、その結果、砂漠化が進行していることを初めて知りました。日本に20年以上住んでいる著者による写真とエッセーです。知らない世界がそこにありました。
(2022年4月刊。税込2420円)

中国の現代化を担った日本

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 西原 哲也 、 出版 社会評論社
私の叔父(父の弟)は日本の敗色濃いなか、丙種合格だったのに徴集され、25歳の2等兵として中国・満州に送られました。トンネル掘りなどをさせられているうちに日本敗戦となり、やがてやってきた八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)に招かれて、紡績工場で技術員として働くようになりました。満州に進軍してきたソ連赤軍は引き揚げるとき、大量の日本人元兵士とともに工場内の機械・設備類を根こそぎソ連に運び去ったのでした。なので、満州の工場を再建するのに、中国は日本人技術員の力を借りなければいけなかったのです。といっても、叔父は日本では百姓をしていましたので、根っからの技術屋ではありません。ところが、八路軍の将兵に文盲が多く、叔父は貴重な存在だったのです。高給優遇されました。といっても、生活に困らなかったというレベルで、貯金して、それを日本に持って帰ったというのでもありません。戦後8年たった1953年6月に帰国し、それからは農業一筋に生き、98歳過ぎてもすこぶる元気でした。
現代中国では、現在の経済的繁栄を支えている産業そして技術は中国が独自に開発し、発展させたものということになっていて、その開発・発展に日本が大きく寄与したことがまったく没却・無視されている。ここを調査・発掘した貴重な成果が本書で紹介されています。
中国側で、日本企業を受け入れたときに活躍したのが、戦後の日本に留学し、日本語ペラペラという中国人が実は中国に多数存在していたのです。一番の大物は、早稲田大学に留学していた廖承志。そして、それを周恩来が背後からリードしていた。
はじめは、中国特産三品目しか日本は中国から輸入できなかった。漢方薬、生漆そして甘栗。
日本の大手商社はダミー商社をつくって、中国との取引をすすめた。それは、台湾との取引を続けるためにも必要だった。
中国は、日本企業の一貫生産プラントをそのまま発注せず、基本設計を導入して自前でつくろうとした。しかし、それはどれも失敗した。ボーイング七〇七を分解して、見よう見まねで同じような旅客機をつくってみたものの、それが空を飛ぶことはなかった。そんなエピソードが紹介されています。ありえることですが、これって本当なのでしょうか…。
そして1966年ころから文化大革命の厳しい大波に中国はさらされ、日本企業もさんざんな目にあうことになります。日系商社マンも次々に逮捕されました。
やがて文革がおさまり改革開放がすすむなかで、新日鉄を中心とした宝山製鉄所の建設が始まった。
ガマン強く、誠実に対応した日系企業はついに生き残り、中国経済の復興に大きく寄与した。これは本当のことだと私も思います。
売った商品に欠陥があれば、無償できちんと直すという態度を多くの日本の商社・メーカーがとった。このことが日系企業への中国側の信用を積み重ねていった。
なるほど、そういうこともあったんだよね、そう思いながら、誠実そのものだった叔父を偲びつつ読みすすめました。
(2022年1月刊。税込1980円)

モンゴルはどこへ行く

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 窪田 新一 、 出版 論創社
私は相撲にはまったく関心がなく、テレビで見ることもありませんが、日本の相撲はモンゴル人力士が支えてきましたよね。そのモンゴルの今を多角的に追究している本です。
モンゴルの首都のウランバートルで、日本車は多く、目立つ。しかし、モンゴルで大きく成功した日本企業はあまり多くない。ウランバートルには日本の5大商社の事務所があるが、それほど目立つ存在でもなさそう。モンゴルでのビジネスのハードルの高さは想像を絶している。
モンゴルにおける最大の問題は、政治とビジネスの癒着。政治家や高級官僚が自身の立場を利用して鉱山利権や土地の許認可に影響力を行使している。
癒着・腐敗が、国会に議席をもつ既成政党のなかでキャリアアップするために構造化されている。
国内産業が十分に発達していないため、税収の多くを鉱山に依存しているモンゴルの財政は常に脆弱(ぜいじゃく)で、政治家や公務員の給料は高くない。ほとんどの政治家や高級官僚は、家族・親族の名義で企業を経営させており、それらの企業が不正の舞台となる。
モンゴルでも若者の投票率は50%ほど(日本は33%)。政治に期待がもてないというあきらめから、投票所に足を運ばない。日本と同じ。でも、それは腐敗した権力者を喜ばせるだけなんですけれど…。
戦前の帝国日本は、ロシアと3回も密約をとりかわし、モンゴルにおけるロシアの特殊利益を承認していた。
日本敗戦後、大量の元日本兵がソ連軍によってシベリアへ連行されるが、その一部(1万4千人)はモンゴルへ廻されて、首都ウランバートルの建設に従事させられた。
モンゴルは、国土の7割以上が草地・牧草地。モンゴルは降水量が少ない。
遊牧は、現在でもモンゴルの衣食住を担う生業。遊牧を中心とする牧畜はモンゴルの基幹産業。牧民世帯は17万戸であり、全世帯9万戸の2割近くを占めている。
モンゴルの広大な草原の下には豊富な鉱物資源が眠っている。銅と石炭である。その輸出のほとんどは中国向け、砂金を採取するため「ニンジャ」と呼ばれる労働者が働いている。
ウランバートルは世界でもっとも寒い首都。また、自動車排ガスとあわせて暖房用の石炭も都市の空気を汚している。
モンゴル馬は小柄だが、がっしりとした体格。脚が丈夫で、耐久力がある。モンゴルの大草原での乗馬ツアーを営んでいる日本人の若者がいる。たいしたものです。
日本の高専にモンゴル人の若者が勉強に来ている。そして、モンゴルは日本と同じ方式による高専が3校もある(「技術カレッジ」と呼ぶ)。いやあ、これはいいですね。若者同士が交流できる場があるというのは、とてもいいことです。
モンゴルという未知の国を少し知った気分になりました。
(2022年1月刊。税込2200円)
 日曜日の午前中、フランス語検定試験(1級)を受けました。1995年以来、毎年2回、仏検を受けています。今年、福岡の1級受験生は4人のみ(おじさん3人と女性1人)でした。今までで最少です。近くで仏検4級の試験もあっていましたが、そちらは50人ほども受験生がいるようでした。
 1級は、準1級と違って合格することははなから期待していません。ともかく、ボケ防止のためです。25枚にもなる過去問を朝と夜に繰り返し復習しました。
 そして結果は…。自己採点で61点でした(いつもの大甘です)。150点満点で4割。もちろん不合格は間違いありません。
 終わって、やれやれとほっとしています。

中国法

カテゴリー:中国

(霧山昴)
著者 小口 彦太 、 出版 集英社新書
中国って、法治国家って言えるのかしらん。裏で共産党が裁判所そして判決を操作しているんでしょ…。こんな疑問にこたえてくれる新書です。
まず、何より驚かされるのは、中国の民事訴訟事件数が非常に多いという事実です。そのなかでも、契約関係の訴訟が断トツに多いのです。
著者は1700件もの訴訟の判決文に目を通していますが、判決文の形式は日本の民事訴訟とほとんど変わらず、当事者双方の主張、そして裁判所の事実認定が正確かつ詳細に記され、それをふまえて法解釈論が展開され、判決となっている。
中国の人々は、契約が守られなかったとき、決して泣き寝入りしないという人々が数多く存在する。なので、訴訟は多く、でたらめな判決文では本人がとうてい承服しない。
とはいっても、日本と中国とでは、法観念が相当に異なっている。たとえば、中国では、特別のことがないかぎり、当事者間の約定を何より重視する。約定こそ原則であるという法観念が強烈にはたらいている。むむ、これはなんだか日本とは違いそうですね。
中国の不法行為法には無過失責任の規定が多い。たとえば、中国の道路交通安全法では、運転者に過失がなくても、必ず損害額の1割の範囲内で賠償責任を負わなければならない。これは無過失責任。これも日本とは違いそうです。
中国の死刑判決は2種類ある。必ず執行される死刑と、もう一つは2年の執行延期がついていて、その2年の間に故意犯罪を行わない限り、無期あるいは有期懲役刑に減刑されるもの。知りませんでした。
中国の学者は、中国の裁判所と裁判官には、必要な独立性が欠けていると批判している。現代中国の刑事手続では、「疑わしきは被告人に有利に」という原則ははたらかない。それにかわって、「疑わしきは、軽きに従う」、つまり拷問があったかもしれないが、どうも確信がもてない。決めがたいので軽きに従う。これが現代中国での慣行をなしている。うむむ、これはいかがなものでしょうか…。
中国では、合議・独任廷での審理によって審判は完結せず、重大な事件であれば、常に上位の人間・機関の指示を仰ぐことが期待されている。こんな仕組みは、まぎれもなく行政に属すると判断される。
中国の法院の審判には確定力がない。
中国は、成立以来、30年間も法律の空白期間が続いたが、1979年の刑法典と刑事訴訟法の制定から、2020年の民法典の制定で、法体系の構築は基本的に完了した。
憲法解釈の権利は、中国では、全人代常務委員会がもっていて、法院(裁判所)ごときが憲法解釈権を行使するなど、もってのほか。これが党中央の指導部の考え方だった。
党が国家を指導する体制を前提をする限り、表の法としての「国法」に、裏の法としての「党規」が常に優先する。したがって、多様な形式から成る裏の法が姿を消すはずがない。これが中国法の常態である。やっぱりそうなんですね。
著者は、「法院」は本当に裁判所なのかと疑問を呈しつつも、私法の領域では、法は着実に機能していると認めています。この矛盾こそが、現代中国法をめぐる特色なのでしょうね…。福岡には中国語の話せる弁護士が何人もいますよね。たしたものです。ますますの活躍を心から期待しています。
(2021年11月刊。税込860円)

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