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カテゴリー: ロシア

女たちの独ソ戦

カテゴリー:ロシア

(霧山昴)
著者 ロジャー・D・マークウィックほか 、 出版 東洋書店新社
 『戦争は女の顔をしていない』(スヴェートラーナ・アレクシェーヴィチ)は、独ソ戦におけるソ連の女性兵士の果敢かつ苦難の戦いをよくよく描いていました。マンガ版も出来ましたので、まだ読んでいない人には強く一読をおすすめします。
 本書では、同じ独ソ戦において、ソ連の女性たちがなぜ、いかに戦うに至ったのかについて、オーストラリアの歴史学者が詳細に明らかにしています。464頁もの大作ですが、私は上京する飛行機の中で息をつめて読み通しました。
 ナチス・ドイツの侵攻に対して、100万人ものソ連人女性が戦った。そのほか、2万8000人の女性がパルチザンとともに戦った。
 スターリンの情勢判断の重大な誤りによって、ソ連は緒戦段階で致命的なほどの敗北を重ねた。ところが、圧倒的多数のソ連市民は戦争の最初の18ヶ月間にスターリンの赤軍が壊滅的な敗北を蒙ったあとも、彼らの祖国、社会、国家に忠実であり続けた。ナチスへの「協力者」は少数派だった。フランスがナチス・ドイツの侵攻に屈して、わずか6週間で降伏したことと対比させて考えると、その意義はきわめて大きいものがある。
 1940年代に前線に赴いた若いソヴィエト女性をフロントヴィチカと呼ぶが、彼女らは本質的に1930年代というスターリン時代の平時の産物であった。
 1930年代のソ連では、スターリンによって古参ボリシェヴィキと帝政期の知識人の多くが粛正されて消え去ったため、そのあとを新たな社会的エリート(ヴィドヴィジェニェツ)が占めた。
女性の識字率はスターリン時代に劇的に上昇した。若い女性の読み書き能力は43%(1926年)から83%(1936年)、そして都市に住む女性の91%(1939年)となった。
高等教育機関では女性の割合が28%から38%に上昇し、中等職業教育機関では38%から54%に上昇した。ちなみに男性の識字率も60%(1926年)から93%(1939年)に上昇している。
若い女性たちの軍への志願動機のなかには、スターリンの粛清によって家族(父や母)が「人民の敵」とされたという「恥」を雪(そそ)ぎたいというものもあった。ここではスターリンに理不尽にも虐殺されたので、その恨みを晴らしたいという発想は認められない。それほどスターリンの「教え」は浸透していた。
若い女性たちが母国を守るために集団で志願した。彼女たちは、戦争に参加するのを必要な愛国的義務とみなしていた。スターリンは当初は、女性の航空連隊を密かに許可した。しかし、軍事状況が更に悲惨なものとなったので、女性は赤軍で重要な補助的役割を果たすようになった。
ナチスのゲッペルスは、ソ連が女性兵士を動員したのを知って、ラジオで次のように叫んだ。
「ソ連は絶望的になったあまり、女性を新兵として集めている」
スターリンは、ゲッペルスの言うとおりではないとして、女性兵士の動員をこっそりと進めていった。戦争中に赤軍に従事した20万人の医師と50万人の看護師その他の医療従事者の多くは10代後半から20代前半という若い女性たちだった。
看護師の100%、医師でも半数近くを女性が占めている。前線で戦うソ連の看護師像は、負傷者を守るため、必要とあらば武器を取るというものだった。
医療要員と同じように、女性たちはパルチザン無線通信ネットワークの中心となった。3000人の無線通信士の86%を若い女性が占めていた。
ドイツの戦時捕虜収容所にソ連人女性がほとんどいなかったのは、女性狙撃兵は捕まると即座に射殺されたから。また、女性兵士のほうも、捕まる前に自分のための弾丸を残しておいて自ら死を選んだ。
スターリングラード戦のなかで、大砲を扱う人員のほぼ全てが2万人以上の女性に置き換えられている。
若い女性を軍隊に入れると兵士たちの性的関係は複雑化した。主として性的嫌がらせで、しばしば軍の規律を乱した。男性将校と女性部下との同棲は当たり前となっていた。
独ソ戦のなかで2700万人ものソ連の市民が亡くなった。1120万人の赤軍兵士が死亡・行方不明となった。負傷者は1830万人。女性に関する公式統計はないが、31万余人の女性が犠牲になったとみられている。
戦争が終わったとき(1946年)ソ連の男性7440万人に対して、女性は9620万人だった。そのため全世代の女性単身生活や生活苦、ときにシングルマザーの汚名を余儀なくされた。
この本の最後に、ナチスの強制収容所に入れられていた500人の女性兵士がナチスの要求を一切拒否し、食事も拒否し、10列に並んで行進したエピソードが紹介されています。1943年4月の日曜日の朝のことです。彼女らは整然と行進しながら、新しいソ連国家を合唱したのでした。
「立ち上がれ、広大な国。死闘のために立ち上がれ」
1944年、SS将校の顔に唾を吐きかけた赤軍女性将校は強制収容所の火葬場で生きたまま焼かれた。これはフランスのジャンヌ・ダルクを思い出させますね・・・。
その内容に圧倒され、息を呑むしかありませんでした。あなたも、ぜひ図書館で借りてでも、ご一読ください。
(2023年7月刊。4400円+税)

スターリンの図書室

カテゴリー:ロシア

(霧山昴)
著者 ジェフリー・ロバーツ 、 出版 白水社
 ヒトラーに並ぶ大虐殺の張本人・スターリンが実は大変な読書家だったという事実に、まずは驚かされます。本好きな人に悪人はいない。私としては、ぜひ、こう言いたいところですが、それを打ち破る人間がいたというわけです。
 スターリンが死んだとき、本や雑誌、小冊子は2万5千点もあった。スターリンは自ら暗殺させた政敵のトロツキーの膨大な著作も読んでいた。ただし、スターリンはロシア語と故郷のグルジア語しか知らなかったので、海外の文献はすべて翻訳もの。
 この本では、スターリンについて、「言葉の力を真に信じた」とか、「権力だけでなく真理を追究した優れた知識人だった」としていますが、さすがに、この評価には異論があります。「真理を追究した優れた知識人」が、大虐殺を推進した張本人だなんて、背理でしかない、私はそう思います。
 また、この本では、スターリンについて、「生涯の最期まで強靭(きょうじん)な知性を持ち続けた」としていますが、それについても肯定できません。
 スターリンは多くの小説も読んでいるが、小説には書き込みをしていない。蔵書印も押さず、署名もしていない。しかし、スターリンは多くの学術書等には大いに書き込みをしている。
スターリンは、血まみれの暴君、黒幕の政治家、偏執狂、無慈悲な官僚、狂信的なイデオロギー信奉者という性格をすべて典型的に備えていた。ところが、同時に文章こそスターリンの世界だった。
スターリンは革命の敵とみなす存在に対しては慈悲を感じなかったし、同情もしなかった。
 スターリンは若いころから読書欲が旺盛だった。
 独ソ戦に勝利したソ連は、ドイツから250万冊もの書籍を「戦利品」としてソ連に持ち帰った。3576万冊を貸車13台に載せてモスクワに運び込み、モスクワ大学とレーニン図書館に収蔵した。今も、そのまま残っているのでしょうか…。
 スターリンは、日記も回想録も残していない。自身の個人史には、関心を示さなかった。
 スターリンは、原則として、自分を主人公とする評伝や偉人伝には否定的だった。
 スターリンは、自分を労働者の息子ではなく、父は職人であり、従弟を抱えた搾取者だったとした。
 スターリンは、小さいころは「ソソ」と呼ばれていて、左腕が不自由だった。11歳のとき暴れ馬の引荷車に両足をひかれたせいで、生涯にわたって歩行は緩慢だった。「ソソ」が「コバ」になり、ついに「スターリン(鉄の男)」となったのは1913年のこと。
 スターリンは神学校で学んだが、神学校を去ったあとは、すべての宗教に背を向けた。
 スターリンは、自信にみちて、もの怖(お)じしない若者だった。スターリンは、演説の名手というよりは、文章に長(た)けた論峉だった。
 スターリンが信頼していた親友のマリノフスキーは、オフラーナ(ロシア帝国の秘密警察)の手引、つまりスパイだった。
 スターリンは、1953年3月、別荘において77歳で亡くなった。3月1日に脳梗塞で倒れ、4日後に死亡した。
 スターリンは、文章を読みつつ、興味を惹かれた段落や言い回しに下線を引いた。とくに重要と思われるところには二重に下線を引いたり、線で囲んだりした。また、余白に小見出しやタイトルを書き入れることもあった。
 「ハハ」「でたらめ」「無意味」「くず」「ばか」「下劣」「ろくでなし」「むかつく」
「そうだ、そうだ」「同感」「良し」「的中」「そのとおり」
「本当か?」「間違いないか?」
スターリンは、青、緑、赤の色エンピツでしるしを付けた。
スターリンの読書は、主として新しい知識を得るためのもの。
スターリンは、スピーチライターを使わなかった。自ら草稿を書き、他人の演説も編集した。同じ文章を繰り返し使う習慣があった。
スターリンは、レーニンの言葉を引用する名人だった。スターリンは、トロツキーの『テロリズムと共産主義』に共感の言葉を多く書きしるした。
スターリンは、反ソヴィエトの陰謀が存在すると固く思い込んでいたのだろう。この点は、たしかにそうなんでしょう。間違った思いこみではありますが…。
その結果、1937年から38年にかけて150万人が政治犯として逮捕され、数十万人が処刑されたのです。
スターリンはスパイを毛嫌いしていた。スターリンはスパイより情報将校を大切にした。日本でスパイとして活躍したゾルゲをスターリンは高く評価していなかったのです。
スターリンの周囲にはユダヤ人の官僚やユダヤ人の妻をもつ側近がいた。スターリンはユダヤ人が大嫌いというわけではなかったが、ユダヤ民族主義を政治家として憎悪していた。
スターリンの思考様式には、複雑、深淵、微妙という特性はない。単純明快に物事をとらえ、ひろく普及させる才能が抜きんでいた。
スターリンという悪の化身の思考回路を理解する重要な手がかりを与えてくれる本だと思いました。
(2023年9月刊。4500円+税)

ゾルゲ伝

カテゴリー:ロシア

(霧山昴)
著者 オーウェン・マシューズ 、 出版 みすず書房
 戦前の日本の政府中枢にがっちり食い込んでいたソ連赤軍スパイ組織のリーダー、リヒアルト・ゾルゲについての本格的な伝記です。本文だけで460頁もあります。お盆休みに朝から夕方まで、一心不乱に読みふけりました。後半はかなり飛ばし読みして、なんとか読了ということにしたのです。
 この本の冒頭、グローザ(雷雨)作戦という、聞いたことのないコトバが登場します。1940年9月以降、スターリンはドイツ侵攻のための有事の計画を立てていたのだそうです。
 そのころ、スターリンのソ連はヒトラーのドイツに対して、その戦争準備のための膨大なトウモロコシ、石油、鉄鋼を供給していたのですが、同時にドイツ侵攻も計画していたというのです。知りませんでした。
 リヒアルト・ゾルゲが大変な苦労してソ連本国に情報を届けたのに、スターリンはこう言って、まったく耳を貸しませんでした。それはドイツがソ連に侵攻しようと準備をすすめているという重大な情報です。1941年5月20日のゾルゲの報告に対して…。
 「小さな工場と売春宿で情報を仕入れるクソ」
 自分だけが真実を知っていて、周りは自分を欺いていると信じ込んでいる指導者(スターリン)の非合理的でヒステリックな疑念からくるもの。そして、ソ連諜報機関の長(ゴリコフ)は、ソ連国境での軍備増強は、イギリスの欺情報だというスターリンの確信をさらに強めるばかりだったのです。ですから、ゾルゲの貴重な報告は無視されていました。要するに、スターリンはヒトラーから完全に騙されてしまったのです。
 フィリップ・ゴリコフ将軍が赤軍情報本部長に就任したとき、前任者5人は全員が銃殺刑に処せられていた。NKVD組織(KGBの前身)は、情報部員200人以上を逮捕し、部長を含む全指導部を交代させた。 スターリンの大粛正は、党を崩壊させ、情報部第4部の組織のほとんどを壊滅させた。ソ連邦元帥5人のうち3人、赤軍の将軍の90%、大佐の80%、それ以下のランクの将校3万人が逮捕された。 
 ところが、バルバロッサ作戦が発動され、たちまちソ連領内にヒトラー・ナチス軍が侵入してきて、ソビエト軍の前線は戦わずして総退却していきました。スターリンの犯した重大な間違いによって、緒戦でソ連は大量の戦死傷者と捕虜を出してしまいました。スターリンは、これで自分の首も危ないと一時は思ったようですが、すぐに開き直りました。
 そして、事態がさらに進行していくと、ゾルゲの報告はスターリンのソ連軍に重大な変化をもたらしたのです。
 ソ連へのナチス・ドイツ軍の侵攻によって大変な痛手を受けたあと、ゾルゲの報告に信憑性ありとなり、日本が北進策を完全に中止したことが伝わると、ソ連赤軍は極東軍区から大量の部隊が西部戦線に移動して、ドイツ軍と戦うようになった。
 スターリンはシベリアに置いていたソ連赤軍の半分以上をモスクワ防衛に振り向けた。つまり、ゾルゲの報告によって、極東にあったソ連赤軍をドイツ軍との戦いに投入することによってヒトラー・ナチス軍を敗退させることができたのです。
 ゾルゲは共産党員でありながら、それを秘してナチ党への入党を申請して認められた。そして、在日ドイツ大使館において大使だったオットーとゾルゲは親密な関係を築きあげた。ゾルゲの報告はソ連だけでなくドイツにも送られていて、高く評価されていたようです。ドイツのリッペントロップ外務大臣のゾルゲあての感謝の手紙が残っているとのこと。驚きました。
 オットー大使は、ゾルゲが逮捕されたあと面会に来たときもまだゾルゲをスパイだとは思っていなかった。
 ゾルゲが逮捕されたのは1941年10月のこと。日本にゾルゲが上海からやってきたのは1933年9月なので、8年あまりもスパイ活動をしていたことになります。二・二六事件や西安事件など、激動の時代を過ごしていたわけです。そして、ゾルゲが処刑されたのは、1944年11月6日、ソ連の十月革命記念日だった。
 ゾルゲは、日本がソ連に戦争を仕掛けるのかどうかトップレベルの情報を仕入れて、ソ連に報告していたのです。それは、日本は石油確保のためにも南方へ進出するしかないというものでした。そして、極東ソ連赤軍をナチス・ドイツとの西部戦線に移動させ、ヒトラー・ナチスを敗退させ、結局は戦争終結を早めることができたわけですので、ゾルゲも尾崎秀実も世界平和の実現に多大なる貢献をしたとみることができると私は思います。
 それにしても、8年間ものスパイ生活を送っていたときの精神状態は大変なものがあったと考えられます。アルコールに溺れ、スピード狂で何度も大事故を起こし、また、たくさんの女性遍歴をしているなど、ゾルゲの人間性の描写にも興味深いものがあります。
(2023年5月刊。5700円+税)

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