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カテゴリー: ヨーロッパ

現代ロシアの深層

カテゴリー:ヨーロッパ

著者: 小田 健、  出版: 日本経済新聞出版社
 
 ロシアが今どうなっているのかを知りたくて読みました。560頁もある、大部で、ずっしり重量感のある本です。ロシアの男性の多くが60歳までに亡くなって年金をもらえないという現実を知りました。そうなんです、ウォッカの飲み過ぎです。エリツィン元大統領も明らかにアル中でしたよね。ロシアの男性には、それだけ社会的ストレスがひどいようです。それでも、ソ連時代には戻りたくないのです。そして、一時はアメリカと資本主義(自由主義)に急接近していましたが、今ではロシア独自の道を自信もって歩いているようです。そして、この本を読んでロシアの軍隊は張り子の虎のような気がしました。初年兵のいじめが横行し、武器は老朽化しているようです。もっとも、今の日本では「ロシアの脅威」なるものは、右翼すらあまり言いたてなくなりましたね。
 プーチン大統領は、憲法の規定どおり2期8年で退任した。健康で支持率の高い最高指導者が憲法を守って任期をまっとうしたのは、ロシア史1000年のなかで初めてのこと。プーチン大統領の最後の記者会見(2008年2月)には内外の記者1364人が出席し、
4時間40分にわたって100問以上の質問にこたえた。うひゃあ、これはすごいですね。アメリカの大統領でも、これほど長くて大衆的なの記者会見はしていないんじゃないでしょうか。
 エリツィン大統領は、地方分権化に配慮して連邦の維持を図った。しかし、地方が連邦を軽視し、勝手気ままに統治したというのが実態だった。地方の首長がときに犯罪組織とつながって、文字どおりボス化し、封建君主のように振るまった。連邦法と地方の法律が相互に矛盾し、法体系が崩れた。
 オリガルヒとは、1992年以来のロシア資本守護の混乱の中で、法の未整備を巧みに利用して巨額の蓄財に成功し、エリツィン政権に癒着して、政治にも口をはさんだ一握りの成り上がりの事業家。オリガルヒが最高に力を持っていたのは、1995年から1998年にかけてのこと。プーチン大統領は、オリガルヒを弾圧し、政治への介入を封じた。次にプーチン大統領はエリツィン前大統領の「家族」の影響力を抑えた。プーチン大統領は、オリガルヒのあからさまな政治介入に歯止めをかけたが、オリガルヒを全滅させるようなことはしなかった。そこで、オリガルヒは富を増やし続けた。ロシアには1998年に10億ドル以上の資産家が4人しかいなかったが、2008年には110人にまで増えた。
今度は、シロビキがプーチン大統領の下で台頭した。シロビキとは、ソ連時代のKGBや今のFSBなどの特殊情報機関、内務省などの法執行機関、そして軍でキャリアを積んだ人たちを指す。なかでも特殊情報機関出身者の存在感が大きい。ロシアの支配層を調査すると、経歴にKGBあるいはFSBにいたことを明記していた人間が26%もいた。メドベージェフ大統領のもとでもシロビキが影響力のある地位に配置されていることに大きな変わりはない。
ロシアのマスコミは、たとえば1996年の大統領選挙で再選を目指すエリツィン大統領の支持率が3から4%と極端に低く、ジュガノフ共産党首に大きく水をあけられていたとき、エリツィン政権と一体となって傘下の報道機関を総動員してエリツィン大統領を盛り立て、逆にジュガノフ党首へのネガティブ・キャンペーンを展開した。このようにロシアの報道機関は報道の一線をこえて選挙運動に直接関与した。しかも、その裏には、ビジネス上の自己の利益を確保しようという意図があった。
2002年夏までに政府が主要な全国でテレビ網を手中に収め、オリガルヒによるテレビ支配は終わった。政府は、世論形成に大きな影響力をもつ全国テレビ放送局を事実上独占し、政府に都合のよい報道を垂れ流している。ええーっ、でも、これって日本でもあまり変わらないんじゃないでしょうか。それもきっと月1億円を自由勝手に使っていいという、例の内閣官房機密費の「有効な」使われ方の「成果」なんでしょうね。
ロシアでは、1992年から2009年4月までに50人もの記者が報道の仕事が理由で亡くなっている。うむむ、これはひどい、すごい現実ですよ。
 ロシアの軍隊では、毎年、暴行によって数十人が死亡し、数千人が肉体的・心理的な後遺症を負い、数百人が自殺を試み、数千人が脱走している。さらに、将校の関与する汚職事件が増えていて、5人以上が懲役刑の判決を受けた。
1990年代には、軍でも給与の未払い、遅配が起きた。軍人世帯の34%が最低生活保障水準を下回っていた。たとえば空軍では、新型機を1990年から一機も調達できていない、海軍の艦船の半分以上が要修理の状態にある。2004年に、バルト海におけるロシア軍の能力は、スウェーデンやフィンランドの2分の1ほどでしかない。ロシア軍は必要兵器の
15%しか保有しておらず、ロシア軍は紙の上だけで仕事をしている。これは、ロシア軍の参謀総長が2009年6月に演説した内容である。うひゃあ、そ、そうなんですか・・・・。
 ゴルバチョフ時代に原油価格が高ければ、ソ連は崩壊しなかったかもしれないし、エリツィン時代に原油高があれば、あの経済混乱はなかったかもしれない。プーチン大統領は幸運だった。原油高が強いプーチン大統領をつくった。
ロシアは世界的にみてきわめて汚職度が高い。ロシア経済の弱点のひとつは、インフラが脆弱なこと。
ロシアの平均的男性は、60歳という年金支給開始年齢まで生きられない。女性のほうは73歳ほど。ロシアの男たちが飲むのは、社会的ストレス、貧困、不安感などの要因が考えられる。しかも、ロシアでは麻薬常習者が急増し、300万人から400万人に達している。そして、その結果、エイズ患者も急増している。
 ロシア社会の大変深刻な状況がよく伝わってくる本でした。
(2010年4月刊。6000円+税)
 自宅に戻ると大型の茶封筒が届いていました。
 あっ、合格したんだ。そう直感しました。不合格のときはハガキで通知されます。封を開けると、真っ先に合格証書が目につきました。フランス語検定(準1級)の合格をフランス語と日本語で証明したものです。合格基準点22点のところ、34点を得点していました。やれやれです。年に2回のフランス語検定試験を受け始めて10数年になります。たどたどしくではありますが、フランス人と臆することなく話せるようにはなりました。引き続き勉強するつもりです。今年もフランスへ旅行したいと思っています。

聖灰の暗号

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著者 帚木 蓮生、   出版 新潮社
 いやはや、なんと・・・。すごいんですよ、巻来の主要参考文献はフランス語の原書のオンパレードです。さすが仏文科卒だけはあります。私もフランス語を長らくかじっていますが、残念ながら日常会話に毛のはえた程度のレベルでしかありません。著者はフランス語で書かれたカタリ派についての専門書を読み尽くして、この本を書きあげたようです。
 主人公はフランス語だけでなく、方言のオクシタン語まで読み書き、そして話せる日本人です。著者もひょっとしてオクシタン語までできるのでしょうか・・・。
 14世紀のフランス。スペインに近い南フランスにはカタリ派が流行していました。宗教的権威をひけらかすローマ・カトリック教会に楯ついたため、大弾圧を受けることになります。
 私が3年前に行った南仏のツールーズやアルビなどがカタリ派の拠点となっていました。今も原型をそっくり残っているカルカッソンヌ城もカタリ派の拠点でした。ロートレックの生地であり、立派な美術館のあるアルビでもカタリ派が繁栄していました。カトリック教会が形式に流れていたのを、信仰の原点に立ち戻って信仰していた人々がいたわけです。
 この本は、日本人の研究者がカタリ派の弾圧を目撃した修道士の手記を偶然に発見して学会で発表したところ、そんなことは隠しておきたいカトリック教会側から迫害を受けるというストーリーです。 さすがに、生々しい迫力があるタッチで展開していきます。次はどうなるのか、手に汗を握る場面の連続です。1年に1作という著者の小説づくりは、いつ読んでも驚嘆するばかりの見事さです。
 カタリ派の興亡は、天草の乱、そして日本の隠れ切支丹を連想させるものがあります。
 我が身がどんなに拷問されても、神のもとに近づけると思って喜んで死んでいくという点では、まったくうりふたつです。
 上下巻2冊を、時間を惜しんで読みふけってしまいました。
 
(2007年7月刊。1500円+税)

モスクワ防衛戦

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著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 ナチス・ドイツ軍がスターリンを不意打ちにして電撃的に侵攻して、モスクワまであと一歩のところまで迫りました。このモスクワ防衛戦はロシア大祖国戦争のなかで格別の位置を占めています。
 1941年9月30日から翌1942年4月20日までの6ヶ月以上にわたって展開したモスクワをめぐる戦争である。そこに投入された独ソ両軍兵力は、将兵300万人、大砲と迫撃砲2万2000門、戦車3000両、航密機2000機。戦線は1000キロメートルをこえて広がった。この本は、1941年までの初期の戦闘状況のなかで戦車戦に焦点をあて、写真とともに紹介しています。
 赤軍の戦車部隊がモスクワ防衛戦で演じた役割はきわめて大きい。ドイツ軍攻撃部隊に相当の損害を与えた。しかし、ソ連軍の戦車部隊の活動には多くの否定的な側面もあった。戦車部隊の司令官は配下部隊を指揮する経験が浅く、熟練した人材が不足していた。そのため、戦車は練度の低い戦車兵が操作・操縦し、戦車の回収と修理部隊の作業も十分に効率的とは言えなかった。
 また、上級司令部が偵察も砲兵や歩兵の支援もなしに戦車を戦闘に投入することも少なくなかった。これは人員の兵器の損害をいたずらに増やすことにつながった。
 ドイツ軍の司令部の報告書にも同旨の指摘がなされている。
「戦車搭乗員は、士気のたかい選抜された者からなっている。だが、このところ良く教育された、戦車を熟知している人材が不足しているようである。戦車自体は優秀である。装甲もドイツ製のものを上回っていて、良質な近代兵器と特徴づけられる。ドイツの対戦車兵器はロシアの戦車に対して十分効果的ではない。
 兵器・装備が優秀で、数量も優勢であるにもかかわらず、ロシア人はそれを有効に活用できていない。部隊指揮の訓練を受けた士官の不足に起因するようである」
 指揮官の不足はスターリンによる軍の粛清の影響が大きかったのでした。まったくスターリンは罪つくりな人間です。
 赤軍のT-34戦車、そして戦車兵の顔がよく分かる写真に見とれてしまいました。
 先に紹介しました『モスクワ攻防戦』(作品社)が全体状況は詳しいのですが、視覚的にも捉えたいと思ってこの本を読んでみました。
(2004年4月刊。2000円+税)

帝国の落日(上巻)

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著者 ジャン・モリス、  講談社 出版 
 
大英帝国の繁栄から衰退までを描いた帝国史です。
1897年6月、ヴィクトリア女王は即位60周年記念式典を心豊かに祝うことができた。
19世紀末の時点で、英国民は帝国民としてふるまうのが習い性になっていた。世界の4分の1を統治する技量からいっても他国に負けない力を持っていた。
この時期、ヨーロッパ各国の野望が集中したのはアフリカである。そこではアフリカ争奪戦と呼ばれる取りあいと自己弁護の醜い争いが繰り広げられていた。やりたい放題だった。当時のヨーロッパ人にとって、アフリカ先住の黒人は、ほとんど人の数にも入らない存在で、アフリカの土地をヨーロッパ人が占領し、思うままに支配し、改善し、搾取するのは当然とみなされていた。
南アフリカにおいて、英国人とボーア人は長年の仇敵同士だった。ボーア人は容易に融和しなかった。ボーア人は生まれながらの非正規兵で、世界でもっとも優れたゲリラ兵といってもよかった。武器はヨーロッパの国々から入手した最新のものであり、生まれ育った土地を知り尽くしていた。
1902年5月、ボーア人はついに降伏した。しかし、英国兵の戦死者は2万2,000.その3分の2がコレラと腸チフスの犠牲者だった。ボーア人の死者2万4,000人、そのうち2万人が婦女子だった。すぐに戦闘は終わると思ってイギリスと出た派遣軍は8万5,000人。しかし、戦争終結時には、45万人となっていた。英国の首相は、戦費がかさみすぎて英国は三等国に成り下がったと公言した。
ヴィクトリア女王が亡くなり、あとを継いだエドワード7世は大英帝国にあまり関心がなかった。第一次大戦が始まった。
英国にとって、トルコ軍とのガリポリの戦いは、アメリカ独立戦争以来、最大の敗北となった。帝国特有の虚勢が再燃するなかで作戦が開始され、最終的には帝国の伝統に押しつぶされるようにして敗北した。英国軍の将軍たちは、兵と距離を置くことが多すぎた。
英国は大戦によって決定的に変化した。70万人もの若者が死んだのだから、当然といえば当然だった。
英国は第一次大戦への参戦諸国のなかで、もっとも強大なまま終戦を迎えたように見えた。工業はまったく被害を受けず、財政も大打撃を受けたというのにはほど遠かった。軍事力も、世界最強の空軍、最強の海軍と、世界有数の強力な陸軍を有していた。しかし、多くの悲哀を経験するなかで、成功に伴うはずの生気を失って、革命に揺れるロシアが発する共産主義の狼煙(のろし)や米国が提案するウィルソン流のリベラリズムに対抗する壮大な理念も、希望や変化を思わせるメッセージも提示することはできなかった。ドイツとの講和条約が調印され、戦後世界の運命が決定されるヴェルサイユ会議にあって、英国は決定的役割が果たせなかった。
英国にとって、アジアやアフリカでも悩みは尽きなかったが、何にも増して悩ませたのは、帝国領土のなかで、もっとも地理的に近く、もっとも古く、もっとも不満の大きい場所、アイルランドだった。たしかに、アイルランド紛争はごく最近まで続いていましたね。このあと、インドの独立に至るガンジーの活躍が記述されています。パックス・ブリタニカの実情を知ることのできる本格的な歴史概説書です。
                   (2010年9月刊。2400円+税)

大祖国戦争のソ連戦車

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 古是 三春 、   カマド 出版 
 
 1941年、ナチス・ドイツ軍がソ連に電撃的に侵攻していったとき、モスクワ攻防戦で大活躍したソ連赤軍のT-34戦車というのはどんなものなのか前から関心がありました。この本は、このT-34戦車の生いたちと活躍の状況を紹介しています。
 スターリンの重大な誤りによって大損害を蒙っていたソ連ですが、T―34戦車の必死の大増産によってなんとか挽回することが出来たのでした。
 ドイツ軍のグデーリアン将軍はT-34戦車の威力に脅威を感じたといいます。
ソ連は、ドイツ軍の侵攻を受けて、レニングラードやハリコフなどの西欧地区の工業都市にあった軍需企業をウラル山脈以東へ疎開させた。1500以上の工場を解体して東部へ移動させたが、その規模は鉄道貨車に換算して150万輌にもなる。T-34戦車の大増産が始まり、1942年には1万2千両を戦場へ送り出した。
 T-34戦車の製造工場では、全設備の70%が流れ作業方式でつくられた。スターリングラードも後に1942年9月には戦場になったが、同年8月まではT-34戦車の生産を続けていた。しかし、1943年7月のクルスク大戦車戦では、T-34戦車を主力とするソ連軍はドイツ軍のティーガー重戦車などの前に大損害を蒙ってしまった。このとき、T-34戦車の8割以上が喪われてしまった。
 それでも、T-34戦車はドイツ側からすると、「洪水のようにあふれる戦車の波」がソ連側の戦場に出現したわけです。
T-34戦車の優れた点は、量産を考えて信頼性を重視し、極力単純に設計されていること。ロシアのぬかるみの大地や豪雪地帯でも行動できた。ディーゼルエンジンは燃費に優れ、耐久性に富む。最大速度は時速51.5キロ。ドイツ軍の対戦車砲もはね返す車体となっていた。
ソ連の大祖国戦争の実際を知るうえでは、前に紹介しました『戦争は女の顔をしていない』(群像社)をぜひ読んでみてくださいね。
(2010年2月刊。1600円+税)

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