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カテゴリー: ヨーロッパ

プラハ侵略1968

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ジョセフ・クーデルカ  、 出版   平凡社
 ずっしり重たい大判の写真集です。300頁近くの歴史的場面が3800円で手にとって眺め、当時の状況を画像でしのぶことが出来るのですから、安いものです。
 1968年8月は、私が大学2年生のときです。親しくしていた下級生が、私に向かって先輩はソ連のチェコ侵入を認めるのですかと非難めいた口調で糾しました。私がそのころ左翼的言辞を弄していたことから、それでもやっぱりソ連を擁護するのかと問いかけたわけです。一世代前の左翼とは違って、私の周囲にソ連を絶対視するような学生はまったくいませんでした。私は、ソ連の行動を支持するわけではないと答えました。ただ、チェコ国内で一体、何が起きているのか、それこそアメリカCIAの策動でクーデター的に何か起きているのかもしれないという一抹の不安は感じていました。あとになって、そうではなく、あくまでチェコ国民の民主化に願う動きだと知りましたが、当時は何も分かりませんでしたので、ソ連のやることはひどいけれど、チェコの方もどうなってんだ・・・、という心配があったのです。
 この写真集は、1968年8月21日からの1週間、主としてプラハ市内の様子をとらえた写真からなっています。本当に緊迫した街の様子がひしひしと伝わってきます。日本で言えば首都・東京にアメリカ軍が戦車をともなった兵隊が進駐してきて支配するという事態が続いたわけです。チェコの人々はじっと我慢して、ソ連をはじめとする各国軍40万の兵士が退去するのを静かに待ったのです。偉いですね。
 死者100人、重軽傷者900人で済んだのは、今からいうと不幸中の幸いでした。いかにチェコの国民がじっと冷静に対応したかが分かります。なにしろ、ソ連軍の進駐に呼応する予定のチェコ人幹部がきちんと名乗り出ることができず、ずっと裏切り者扱いされたままで権力を握れなかったのです。
暴力回避がずっとアピールされました。そして人々は、路上にいる武装兵士を無視し、言葉を交わさずに広場を清掃しました。さらには、街路名、施設や役所の看板や標識をペンキで塗りつぶしました。よそから来た人間がプラハのどこにいるか分からないようにしたのです。すごい知恵ですね。その写真もあります。
 大きな広場で戦車が立ち往生し、市民がぎっしり取り囲んでいます。これじゃあ、とても武力制圧したとは言えないでしょう。人の波にロシア兵が埋もれてしまっているのですから・・・。そして、ときに戦車が火に包まれてしまいます。それでも、市民は誰も武器を持っていないのです。武器を手にしているのはソ連軍兵士だけ。
素手のまま、ソ連軍戦車の前に立ちふさがるチェコ青年の写真があります。ジャンパーを広げて胸を出し、銃をかまえる兵士に、射てるものなら射ってみろと抗議の声をあげて叫ぶ青年もいます。
 人々は広場から消え、また現れて座り込みを始めます。大群衆が座り込みをしたら、進駐軍の兵士は手も足も出ません。
 『プラハの春』(春江一也。集英社)を読んだときの震える感動を思い出しました。
(2011年4月刊。3800円+税)

ユダヤ人大虐殺の証人 ヤン・カルスキ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ヤニック・エネル  、 出版   河出書房新社
 重たい本です。いえ、220頁ほどの軽い本なのですが、読み終えると、ずっしり心に重くのしかかったものを感じます。強制収容所に忍び込んでユダヤ人大虐殺の現場をみて、ワルシャワ・ゲットーにまで立ち入っています。そして、自分の見た事実をイギリスで、アメリカで、つぶさに報告したのに、誰も動いてくれないのです。アメリカの大統領にいたっては報告の最中、何度もあくびをかみ殺していたのでした。ええーっ、嘘でしょと叫びたくなります。でも、アウシュビッツなどの強制収容所を、少なくともその周辺を爆撃すれば良かったのに、連合軍は近くの工場を攻撃目標としても、収容所やそれに至る線路などを爆撃することはありませんでした。その理由は、ユダヤ人が逃げ出してきて、自分の国にやってこられたら困るということだったようです。そして、ソ連のスターリンへの配慮でもありました。なんということでしょうか。そこで、著者は絶望感に陥り、長く口を閉ざすことになります。大学の教員として、学生たちには少し話していたようですが・・・。
 著者はポーランド人です。カトリックを信じるユダヤ人だとも自称していたようです。なぜ何百万人ものユダヤ人が殺されてしまったのか、その問いかけに対する答えは、実に重いものがあります。
 レジスタンス運動の捕まったメンバーに対して、次の言葉とともに青酸カリの錠剤が2つ送られてきた。
 「きみは勇敢勲章を授けられた。青酸カリを添える。また会おう。同胞」
それでも著者はナチス・ドイツの魔の手から脱出することができたのでした。もちろん、多くの人の援助がそこにありました。
 ユダヤ人の組織(ブンド)のリーダーは言った。連合軍に理解させなくてはいけないことは、ユダヤ人には防御手段がないという点だ。ポーランドでは誰にも、この絶滅政策を妨げることができない。レジスタンス運動だけでは、少数のユダヤ人しか救えない。連合国の列強が彼らを救いに来なくてはならない。外からの援助が必要だ。ナチスは、ポーランド人のように、ユダヤ人を奴隷にしようとしているのではない。彼らは、ユダヤ人を絶滅させたいのだ。この両者はまったく違う。世界は、まさにこのことを理解できない。説明しようとしても、このことが説明できない。
 ヤン・カルスキは正確な事実を確かめようと、ブンドのリーダーに質問した。ゲットーのユダヤ人のうち、既に何人死んだか。収容所に移送された人数分が死者だというのが答えだった。ヤン・カルスキは驚く。強制移送されたもの全員が殺されたのか?そうだ、全員だ。リーダーは断言した。心が寒くなる回答です。
 連合国は恐らく、1年か2年あとには戦争に勝つだろう。しかし、ユダヤ人にとっては遅すぎる。そのときには存在していないのだから。西洋の民主主義国家は、いったいどうして、ユダヤ人がこのように死んでいくのを見殺しにできるのか・・・?
ヤン・カルスキは、1942年11月、イギリスに到着し、ポーランド亡命政府に報告することができた。ロンドンからみると、ポーランドの存在など、たいした問題ではなかった。この戦争の機構と、その経済規模があまりに大きいため、ポーランドの状況などあと回しにされてしまう。
 ヤン・カルスキはニューヨークに行き、ユダヤ人のフランクファーター最高裁判事にも訴えた。
 「そんなこと、信じられません」
 「私が嘘を言っているとお考えですか?」
 「あなたが嘘をついたといったのではありません。私にはそんなことは信じられないと言ったのです」
 1943年にはヨーロッパのユダヤ人が絶滅させられつつある事実を信じるのが不可能だったことから、「世界の良心」は揺り動かされなかった。同じくルーズヴェルト大統領にも直接話して訴えた。しかし、誰もヤン・カルスキの話を信じなかった。信じたくなかったからだ。何百万人もの人間を抹殺するなんて、不可能だと言い返した。ルーズヴェルトは驚いてみせたが、その驚きは偽りにすぎなかった。彼らは全員知っていたのに、知らないふりをしていた。無知を装った。知らないほうが、自分たちに有利だったから。そして、知らないと思い込ませることが利益になった。
 しかし、諜報機関はちゃんと働き、だから彼らは知っていた。イギリスは情報を得ていたし、アメリカも情報を得ていた。事実を十分に知りながら、ヨーロッパはユダヤ人絶滅政策を止めさせようとはしなかった。イギリスとアメリカの消極的加担を得て、ヨーロッパのユダヤ人はナチスに絶滅させられつつあり、続々と死んでいった。
 ポーランド人とは、レジスタンス運動を意味する。ポーランド人であるとは、すべての圧制に反対することなのだ。ポーランド人は、ヒトラーに対してだけでなく、スターリンとも闘った人だ。ポーランド人は、いつの世でもロシア人に対してたたかった人だ。ポーランド人とは、何よりもまず、共産主義の嘘にだまされなかった人のこと。そしてもう一つの嘘、アメリカによる支配の嘘、民主主義を自称する国に特有の罪深い無関心にもだまされない人のことだ。うむむ、こんな言い方が出来るのですね。重たい指摘です。
 ヨーロッパのユダヤ人を救済することが誰の利益にもならなかったら、行動しなかった。イギリス人もアメリカ人も、ヨーロッパのユダヤ人を救えば、自分たちの国に受け入れなくてはいけなくなるのを怖れた。パレスチナをユダヤ人に開放しなければならなくなるのを、イギリスは嫌がった。
 アメリカによって巧みに組織されたニュルンベルク裁判は、ヨーロッパのユダヤ人絶滅政策に対する連合国の加担を言及しないための隠れ蓑でしかなかった。もちろん、罪を犯したのは、ナチスである。ガス室を設置したのはナチスであり、ヨーロッパのユダヤ人数百万人を強制移住し、飢えさせ、辱め、拷問し、ガスで殺し、焼いたのもナチスだ。だが、ナチスに罪があることは、ヨーロッパとアメリカを無罪にするものではない。
 初めは、なんだか読みにくいなと思っていましたが、途中からは一気呵成に読了しました。
(2011年3月刊。2200円+税)

フェルメールの光とラ・トゥールの焔

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    宮下  規久朗   、 出版   小学館ビジュアル新書
 フェルメールの光の粒も、ラ・トゥールの静謐な焔も、レンブラントの輝く黄金も、ダ・ヴィンチの天上の光も、美しい光は美しい闇がなければ描けない。
 これは、この本のオビにあるセリフです。まことにもってそのとおりです。この本を読むと、けだし至言である、とつい言いたくなってしまいます。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵は、光はどこから差しているのかわからないが、人物たちは影の中から浮かび上がってくる。レオナルドは、背景を漆黒の闇に塗りつぶすこともあった。
16世紀のイタリアに来たギリシャ人、エル・グレコの「ロウソクの火を吹く少年」は、燃えさしの火種と、それが照らし出した少年の顔や手の明暗を、実際に観察したようにとらえている。宗教的テーマではなく、光と影の迫真的な描写がそこに認められている。
カラヴァッジョは、光と影による空間の描出、そしてドラマの演出に重点を移し、その技術を高めた。その絵「聖マタイの召命」は、見事です。
 17世紀はじめのヴェネツィアで活躍したドイツのエルスハイマーは夜景表現を得意とした。彼の「エジプト逃避」には、満天の星、天の川、そして星座が正確に描かれている。これって、すごいことですよね。天体望遠鏡の精度はそれほどのものではない時代に・・・。
 17世紀はオランダが美術史上類を見ないほど濃密で高度な美術の黄金時代を迎え、科学や哲学も発展したため、オランダの世紀と呼ぶこともある。
 オランダ絵画の黄金時代を代表する三代巨匠ハルス、レンブラント、フェルメールは、いずれもイタリアには行っていないが、みな深くカラヴァッジョ様式の影響を受けている。
 レンブラントの絵「夜警」っていいですよね。ぜひ、一度現地に行って現物を拝みたいと思います。
 ゴッホの「聖月夜」も最後のところで紹介されています。夜の闇のなかに、くっきり光かがやくように描くのって、希望があっていいですね・・・。素敵な新書でした。
(2011年4月刊。1100円+税)

世界史をつくった海賊

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  竹田 いさみ    、 出版   ちくま新書
 イギリス、昔の大英帝国は海賊と深いつながりがあったどころか、そのおかげで世界を支配してきたことがよく分かる本です。
世界経済を長く牛耳ってきたイギリスの金融街ザ・シティは、そもそも海賊出身者が金融を動かしてきたもので、海賊ビジネスの元祖である。
 フランシス・ドレークはイギリスを代表する超大物の海賊であり、スペインやポルトガルを相手に略奪の限りを尽くした略奪王にほかならない。このドレークは女王エリザベスⅠ世からないとの称号を与えられたが、それは略奪した財宝によってイギリスに多大の富をもたらしたことによる。
 スペイン支配下のカリブ海へ大量のアフリカ系黒人を密輸したのもイギリスの貿易商人だった。そのとき、エリザベス女王が権力者、黒幕、投資家として常に登場してくる。これらの出来事に深く関与し、先兵として働いていたのが海賊である。現在、保険会社として世界に君臨するロイズ、高級紅茶として知られるトワイニングも、かつては海賊と切っても切れない関係にあった。
 海賊はエリザベス女王時代の経済的基盤を支えただけでなく、いざ戦争となると特殊部隊として参加し、イギリスを戦争の勝利者へと導いた。海賊は国家権力と一体化していて、海賊の存在なくしてイギリスが世界史に残る偉業を遂げることはなかった。
 エリザベス女王にとって、海賊は利用価値の高い集金マシーンと認識されていた。エリザベス女王がドレークをひいきにした最大の理由は、ドレークが巨額の利益をもたらしたからである。少なくともイギリスに60万ポンドをもたらし、エリザベス女王は半分の30万ポンドを懐に入れた。当時の国家予算は20万ポンドだったから、実に3年分の国家予算に匹敵する海賊マネーをイギリスに持ち帰ったことになる。
ドレークは単なる探検家ではなく、海賊としての能力と実績がある。献上品の大半は盗品、主として、スペイン船から略奪した金と銀である。
 ドレーク海賊船団の生還率は高く、乗組員164人のうち100人が生還している。ドレークの略奪対象は、金と銀のコインや延べ棒が中心で、これに加えて大量の砂糖やワインを含んでいた。
 イギリスの海賊船団といえども、スペイン護送船団を襲うだけの力量はなく、護送船団の枠外で航行しているスペイン船を待ち伏せしてゲリラ的に襲撃していた。ドレークたちは、そのため綿密な情報収集を行っていた。イギリス側は、スペインのスパイが常駐していることを十分知り尽くしたうえで、策を講じていた。
 エリザベス女王が海賊に関与している証拠を残さないよう最新の注意が払われていた。ドレーク船団のなかでも、ドレークのみが航海の目的とルートを知っていて、情報管理に心がけていた。たとえ海賊シンジケートが失敗に終わっても、女王に責任が及ぶことのないよう、闇に葬られた。
 ドレーク海賊船団には、女王を筆頭に側近グループがこぞって出資しており、まさに国家を総動員した一大プロジェクトであった。
イギリスがスペインの無敵艦隊に勝利したのも、ゲリラ戦、スパイ戦、そして海賊作戦という三つの戦術をたくみに組み合わせることが出来たからである。ドレークたち海賊とイギリス王室海軍は一体化していた。
 西アフリカで調達した黒人奴隷をカリブ海のスペイン植民地にこっそりと、しかも組織的に密輸するルートを開発した主人公には大物海賊のジョン・ホーキンズだった。そして、ホーキンズの奴隷貿易計画を主導していたのは、ほかならぬエリザベス女王だった。イギリスが奴隷貿易に関与したのは1560年代であり、イギリス議会が奴隷貿易を廃止したのは1807年。奴隷の密輸は、そのあともしばらく続き、最終的に廃止したのは1833年だった。つまり、イギリスは16~19世紀、270年間にわたって奴隷労働を延々と行ってきた。この間、1000万人以上の黒人奴隷がカリブ海や南北アメリカ大陸に売却され、イギリス、ポルトガル、フランスなどは奴隷労働で潤った。貧しい二流国家であったイギリスが豊かな一流国家へと変貌する過程で奴隷貿易による利益が大きな役割を演じたことは疑いのないところだ。
 うひょう、イギリスって紳士の国というイメージがありましたが、実は海賊の国であり、奴隷商人の国だったのですね・・・・。
(2011年3月刊。760円+税)

パレスチナ・イスラエル紛争史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ダン・コンシャボク、ダウド・フラミー  、 出版   岩波新書
 エルサレム生まれのパレスチナ研究者とアメリカ生まれのユダヤ人がアラブ・イスラエル紛争史をお互いの視点から語った本です。容易に意見は一致しません。それでも、いま現地で両者が憎しみ、殺しあっているわけですから、このような「平和共存」の本が出版されるのには大きな意義があると思います。
 パレスチナは、大シリアの一部として400年ものあいだ、オスマン朝カリフの支配下にあった。そのパレスチナには小さなユダヤ教徒コミュニティが存在しており、その一部はエルサレムやヘブロンなどの宗教的重要性をもつ主要都市に常住していた。これらのコミュニティはずっと昔からあり、アラブの隣人とともに平和に暮らしていた。
 19世紀末、パレスチナの人口は60万人。10%がキリスト教徒、4%がユダヤ教徒であり、大多数がスンニー派のムスリムだった。さまざまなコミュニティ間の関係は概して平穏で、それぞれが独自の生活を営んでいた。
第一次世界大戦の終わる前に出されたバルフォア宣言は、シオニストとイギリス政府による交渉の結果であり、イギリス政府はユダヤ人が郷土を獲得するための支援を真剣におこなうこと、その郷土はパレスチナに存在することを明言していた。
 嘆きの壁は、ユダヤ教徒とムスリムの双方にとって重大な意義をもつ場所である。
 ユダヤ人の運動には、国際レベルでの財政的・組織的な支援があった。パレスチナへの移民は先進的な社会からやって来た人々であり、最底辺の人々でさえ、アラブ人よりは高い洗練された一般教養をもっていた。多くの人々が高度な教育を受けているか、高度な技術をもっており、しかも、明確な動機につき動かされていた。
 他方、パレスチナの大半は、無気力状態に沈み込んでいた。
 イギリス軍が最終撤退した翌日の1948年5月14日、イスラエルの建国が宣言された。この新国家を最初に承認したのはアメリカで、ソ連がそれに続いた。
1967年6月、イスラエルとエジプトは6日間戦争をたたかった。この日、エジプトにある全飛行場への奇襲空爆によって、エジプト空軍機の大半が離陸する前に破壊された。
 この戦争の結果、イスラエルが中東地域において圧倒的な軍事力を有する国家となったことが明らかとなった。
 1972年の10月戦争は、イスラエルの不意を突いた。10月6日、開戦から90分でエジプト軍はスエズ運河に橋頭壁を築き、翌日には運河の東5キロ地点まで進軍し、運河東岸のイスラエル軍の複数の要寒を完全に掌握した。
 1980年代半ば、イスラエル古領地には煮えたぎる不満が広がっていた。そこにインティファーダが勃発する。物質的および精神的に従属してきたパレスチナ文化は、もはや何も失うものがないことを悟った。石をもった幼い少年たちが、まるでゴリアテの面前に立ちはだかったダヴィデのように、自動小銃で武装したイスラエルの兵士に立ち向かった。
 インティファーダは、現実を生きるパレスチナ人、占領下で暮らす民衆の怒りの爆発であった。ユダヤ人は隣人との平和を模索してきたが、アラブ人は戦争を仕掛けた。
 イスラエルは、その歴史を通じてユダヤ人をその土地から追い出そうとするアラブ民族によって包囲されてきた。最近では、インティファーダによってアラブ住民がイスラエルの支配下を覆そうとしてきた。
 パレスチナ人がイギリスによる統治を選択したのではなく、むしろイギリスの支配が押しつけられた。ユダヤ人は、イギリス政府によって代弁されていた。その一方で、パレスチナ人はイギリスとフランスの利害で分割された中東の従属的民族にすぎなかった。
 パレスチナにおいては、いったい誰が侵略者で、誰が被害者なのか。パレスチナ人は、自分の祖国を防衛する自由の戦士なのだ。
 ヨーロッパのユダヤ人へのホローストはアラブ人ではなく、ヨーロッパ人が犯した罪である。しかし、その代償を払っているのはアラブ人である。今、陵辱された者が陵辱する者になっている。
 以上、よく分からないままに不十分な紹介をしてしまいました。
 アラブ(パレスチナ)人とユダヤ人との和解はきわめて難しいこと、しかし、その手がかりはまだあることを思い知らされる本です。
(2011年3月刊。3400円+税)

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