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カテゴリー: ヨーロッパ

キリスト教とホロコースト

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    モルデカイ・パルディール  、 出版   柏書房
 ヒトラーによるユダヤ人絶滅作戦が進行するなかで、自らの生命を賭してユダヤ人を救った人がいたのを知るのは本当に救いです。
 ホロコーストの時代、ナチからユダヤ人を救命するために自分の生命を賭した非ユダヤ人2万1000人以上が「正義の人」として栄誉をたたえられている。残念ながら、日本人はセンポチウネただ1人である。
 キリスト教の聖職者は、そのうち600人ほどです。本書は、その聖職者を主として紹介しています。
 ユダヤ教とキリスト教の関係は、まぎれもなく親密な性格を有している。そもそも、キリスト教の崇敬の主たる対象は、ユダヤ人に生まれユダヤの信仰を実践し、唯一かつ万物の造り主である神と同じ位格の神であり人であると考えられる一人の人物である。彼の直の弟子は皆ユダヤであったし、最初に彼の復活と再臨を信じたのは数千人の人々であった。
 彼の故郷ナザレにおいてのみ受け容れられなかったが、その行く先々で群衆は彼を追った。宗務当局は彼を逮捕しようとしたが、群衆の人気に押されて手を下せなかった。
 イエスについて、人々は好意的に受けとめるのが通例だった。
中世のカトリック神学者の一人であるトマス・マクィナスをはじめとする神学者たちはユダヤ人が教勢促進も挑発もせず、騒々しい戦いを避ける以外に何も望まなかったにもかかわらず、ユダヤ人を激しく非難し続けた。プロテスタントの偉大な改革者であるマルティン・ルターは、後期中世のもっとも悪質なユダヤ人迫害者の一人として突出している。うひゃあ、そうだったのですか、ちっとも知りませんでした。
 1933年1月、ヒトラーが権力を握ったとき、ドイツ全土にユダヤ人は52万人ほど、ベルリンに7割近い38万人がいた。ユダヤ人の多くはドイツ人の暮らしの中に完全に同化していた。
 ヒトラーは、自らの反キリスト教の見解を表明するのは注意深く、公衆の面前では教会の忠実な支援者という建て前を装った。
 推定で2万人のユダヤ人がドイツ国内で生きのびた。そのうちの1万5000人は地下生活に潜ることなく、非ユダヤ人配偶者との結婚によって保護された。推定5000人近くのユダヤ人が潜伏して生きのびた。
 ドイツでは、ほとんどのプロテスタント聖職者、とりわけルター派が1937年1月のヒトラーの権力掌握に際して、強い高揚感を表明した。
 フランスには30万人のユダヤ人がいて、パリには18万人いた。ビシー政府はドイツの圧力を待たずにユダヤ人を差別する法律を布告した。フランスの解放までに7万5000人以上のユダヤ人がドイツに引き渡された。フランス警察が、ドイツ軍以上に多くのユダヤ人を逮捕した事実は、フランスの名と民族的名声に汚点を残している。しかし、ユダヤ人を助けるため、カトリック司祭とプロテスタント牧師が共に連携して動いたことも事実である。フランスにおけるユダヤ人の生存率は、他の西側諸国に比べて相対的に高かった。
 1980年代のフランス映画『さよなら子どもたち』は私もみましたが、ユダヤ人の子どもたちを救おうとするフランスの取り組みが描かれています。
ゲシュタポは、ユダヤ人の所在の通報者には報奨金100から1000フランを約束していた。重要人物については5000フランだった。当時の平均月収は3000フランだったので。月収に匹敵するものだったが、人々は応じなかった。
イタリアのユダヤ人の80%はドイツ軍の占領時代を生きのびた。ファシストと呼ばれるムッソリーニ政府が1943年9月にドイツによって占領されるまでユダヤ人をナチスに引き渡すことがなかったことをはじめて知りました。イタリア人は、ナチの論理にしたがって、ユダヤ人として生まれたことだけを理由として人間の命を奪い取る気になれなかった。そのため、官僚的な口実や嘘をふくめ、想像しうる限りのありとあらゆる計略、逃げ口上を弄して、ドイツの要求に応じなかった。
 うへーっ、すっかりイタリア人を見直しましたよ。たいしたものです。
 イオニア海にあるザキントス島では、ドイツ人将校がやって来てユダヤ人の引き渡しを求めたとき、カトリックの主教がユダヤ人リストに自分の名前を目の前で書き加え、「あなたは私を逮捕できる。それで満足できないのなら、私もユダヤ人と共にガス室に直行するつもりだ」と宣言した。ドイツ軍将校はあっけにとられ、折れた。
 560頁もの大部な本です。キリスト教会がユダヤ人絶滅にいかに関与したのか、よく分かる本となっています。
 バチカンはユダヤ人絶滅策が進行していることを熟知していたにもかかわらず、公にホロコーストを非難することはなかった。しかし、イタリア全土のカトリック施設に数千人のユダヤ人をかくまっていた事実はある。
 ユダヤ人絶滅について、キリスト教会が全体として手をこまねいていたことは争いようのない事実です。しかし、そのなかでも、個々の聖職者は自分の生命と家族を危険にさらすことを承知しながらユダヤ人の救出にあたっていたのでした。その矛盾をどう考えたらいいのかを改めて考えてみました。
(2011年5月刊。4800円+税)

慈しみの女神たち(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジョナサン・リテル    、 出版  集英社 
 ずっしり重たい本です。読みすすめるのが辛くなる物語です。
 上巻だけで上下2段組、500頁あります。ユダヤ人を大量虐殺したナチ親衛隊将校の手記という構成なので、大虐殺状況を目撃して、それをずっとずっと語っていくのです。気が滅入ってしまいます。
いくらユダヤ人を豚以下の存在だと言われても、目の前にいるユダヤの人々はやはり同じ人間なのだから、どうしても、そこにためらいが生じる。
女性や、それ以上に子どもたちの場合、私たちの仕事はときに非常に困難で、胸を抉られるようなものとなった。兵士たちは絶えず不満を漏らしており、とりわけ家族のいる年長のものたちがそうだった。無防備なあの人々、子どもたちを護ることもできず、ただ殺されるのを見ていなければならない。そして子どもたちとともに死ぬことしか出来ないあの母親たちを前にして、わが軍の兵士たちは極度の無力感に苛まれ、自分たちもまた無防備であることを感じていた。
このような状況に何ヶ月もさらされたなら、健康な精神の持ち主であれば、後遺症、それもときに重大な後遺症に見舞われないことは不可能なのだ。
あるSS少尉は正気を失い、幾人もの将校を殺害したのちに、自らも射殺された。上層部は前代未聞の命令を下した。良心からにせよ、弱さからにせよ、ユダヤ人を殺すことを自らに課すことが出来ないものは、他の任務への配属や、さらにはドイツの送還のために全員が幕僚部へ出頭しなければならないというもの。
恐るべき虐殺が証明していることがひとつあるとすれば、逆説的なことに、それはまさに人類の、痛ましい、変わることのない連帯である。
 どんなに獣のようになり、どんなに慣れてしまっても、我々の兵士の誰ひとりとして、自分の妻、妹、あるいは母を思うことなしにユダヤ女性を殺すことはできないし、目の前の穴に自分自身の子どもたちの姿を見ることなしにユダヤ人を殺すことはできない。
彼らの反応、彼らの暴力、アルコール中毒、神経衰弱、自殺、私自身の悲しみ、これらすべてが証(あかし)立てているのは、他者が存在すること、他者として、人間として存在することであり、また、どんな意志も、どんなイデオロギーも、どれだけの量の愚行やアルコールも、細いけれども堅固なこの絆(きずな)を断ち切ることはできないということだ。これは事実であって、意見ではない。
38歳のアメリカ人が大量の本を読みつくして4ヶ月で書きあげたというのです。恐るべき筆力です。
(2011年2月刊。1000円+税)

ノーザン・ソングス

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ブライアン・サウソールほか  、 出版   シンコーミュージック・エンタテインメント
 なつかしのビートルズの著作権をめぐる本です。ビートルズは私が高校生のころ一世を風靡しました。「イエスタデイ」とか「ミッシェル」と言ったポール・マッカートニーのバラードなんかも最高でしたね。
 夏に市営プールで泳いでいると、ビートルズの「イエローサブマリン」の曲が流れてきたことを今も鮮明に記憶しています。これは高校生というより中学生のときかもしれません。
 ジョン・レノンがアメリカで射殺されたのもショックでしたね。アメリカって、本当に恐ろしい国だと思いました(実は今も思っています)。
 音楽の分野で天才だった四人組も、商売の分野ではなかなか苦労したようです。
音楽出版の世界において著作権ほど重要なものはない。ソングライターと出版社にとって、「著作権は絶対に手放すな」という金言は不変である。
レノン&マッカートニーは、自分たちの曲の著作権を実際に放棄したわけではなかった。相次ぐ契約によって、作品がどんどん資産価値を上げていく渦中で、気がつくと手元から消え失せてしまっていたのだ。
 音楽出版社と契約をかわすことで、ソングライターは楽曲の所有権(つまり著作権)の一部を譲渡する。その代わりに出版社は、その楽曲を売り込み、そこから得られた収入をソングライターと事前に合意した割合にもとづいて分配する。通常は50対50がいいところだが、売れ行きによっては作家側の取り分が増えることもある。普通は純利を分配するので、音楽出版社側はデモ録り、事務所経費、交通費などの費用を控除することができる。したがって、作家とり分50%というのは、総収入を100としたときの50ということではない。
 出版社と作家が受けとる使用料を徴収するのは著作権管理団体であり、その徴収の範囲は、演奏、放送、録音に及ぶ。
 スナックがカラオケを無断で利用していると、この著作権管理会社から請求書が届き、裁判を起こされるというのは、日本でもよくあります。
 1962年の音楽ビジネスは、現在と同じくロンドン中心部に拠点をもつレコード会社と音楽出版社を中心に回っていた。彼らは業界を何十年にもわたって支えてきた不動の原理原則を行使し、才能あふれる若きミュージシャンたちの運命を握っていた。そこでは、クリエイティブな人間よりも、決定権を持つ企業が常に優位な立場にあった。
 1963年、わずか2枚のヒット・レコードを出しただけなのに、ビートルズは既にイギリス業界を席捲しつつあった。ツアーは売り切れ、テレビやラジオに出演すると、ティーンエイジャーにとって、それは「絶対に見なくてはならない」ものになった。たしかに、すごい熱狂でした。
 1963年、「シー・ラブズ・ユー」は数週間のうちに100万枚をこえて売れた。
 1964年の「キャント・バイ・ミー・ラブ」は英米で250万枚の予約注文数を記録した。
 1965年の時点で、四人組は若き大金持ちになっていた。
ところが、イギリスの高額所得税は83%、それに異進付加税として、さらに15%が足された。なんと98%の税率です。これは、いくらなんでもたまりませんね。
そこで、節税対策が始まります。しかし、それはそれで四人組の仲間割れにもつながるのでした。四人組が全員そろってレコーディングスタジオに入ったのは1969年8月が最後だった。
 そして、その結果、ポール・マッカートニーが自分の出演映画で「イエスタデイ」を使おうとすると、会社(ATVミュージック)に許可申請しなければならなかったのです。なんということでしょう。曲をつくった人が自分の曲を自由に使えないなんて・・・。
 音楽著作権の世界の難しさをなんとなく実感させられる本でした。
(2010年4月刊。2400円+税)

囁きと密告(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    オーランドー・ファイジズ  、 出版   白水社
 人間とは社会的存在であることがよくよく分かる大作でした。スターリン時代のソ連で人々がどのように生きていたのか、なぜスターリンの暗黒政治があれほどまで大々的に、かつスターリンが死ぬまで続いたのか、ようやく謎が解けた気がしました。
 一番の心の深手は「クラーク」(富農)の出身という烙印を押されたことだった。出身階級によってすべてが決まる社会だった。高等教育を受ける権利も、まともな仕事につく機会を認められない「階級の敵」の烙印がつきまとった。テロルの波はスターリン支配の全期間を通じて国中に吹き荒れたが、その波をかぶれば、「階級の敵」はいつでも逮捕され、処刑される危うい身分だった。自分が社会的に劣等な存在であるという意識は心を離れることがなく、その意識は一種の恐怖心となった。
 数百万人がテロルの犠牲となったが、犠牲者の家族も同じように被害者だった。
 この四半世紀の間に確立された独裁体制はスターリンの死後も簡単には終わらなかった。スターリン支配の四半世紀にソヴィエト体制の抑圧の犠牲となった人々は控え目にみても2500万人を下らない。これは、当時のソ連の人口2億人の8分の1に相当する。
 スターリン支配が生み出し、現在まで残る影響の一つは、体制にひたすら順応する沈黙の大衆の存在である。多くの人々が過去を口にしない習慣を身につけた。
 1930年代、そして40年代には、日記を書くこと自体がきわめて危険な行為であり、危険を冒して私的な日記を書き残す人は、きわめて稀だった。
 1917年から55年の38年間に行われた政治犯の処刑の85%が1937年~38年の2年間に集中している。なぜか?
 もし、善良なスターリン主義者というものが存在しうるとしたら、シーモノフは間違いなくその一人だった。正直で誠実、礼儀正しく、上品で、思いやりにあふれ、魅力があり、人を喜ばせることが得意な人物だった。幼少期以来、ソヴィエト体制にどっぷりとはまり込んでいたシーモノフは、教育の結果としても、気質上の傾向からも、独裁体制の精神的な圧力と要求から自分を解放する手段を持たなかった。
 
 ソヴィエト・ロシアの国民生活は、ほぼ全面的に国家管理の下に組み込まれていたので、そのために必要な官僚機構は膨大な規模に膨れ上がった。1921年の官僚機構の規模は帝政時代の官僚組織の10倍以上となった。国家公務員の数は240万人に達したが、それは産業労働者の2倍以上だった。公務員こそがソヴィエト体制を支える主要な社会層だった。
 1920年代に盛んになった粛清システムの中で中心的な役割を果たしていたのが密告の奨励である。
 ボリシェビキによれば、子どもを社会的な存在として育てるための最大の障害物は、他でもない家族だった。
1920年代にはいると、多くの家庭で世代間の溝が深まるという現象が始まった。家庭の価値観と学校の方針との不一致は多くの家庭で摩擦を生んだ。家族から聞かされる話と学校で先生から教わることが矛盾するので、子どもたちは混乱した。
 ボリシェビキの上級幹部になればなるほど、賃金の高い有能な乳母を雇う傾向があった。そして、皮肉なことに、有能な乳母の多くは反動的な意見の持ち主だった。
 モスクワにいるユダヤ人は1914年に1万5000人で、1937年には25万人になった。これはロシア人に次いで2番目に多い人種集団であり、ユダヤ人はソ連邦の一大勢力だった。
 党を与えるプロレタリア階級の大半はレーニンの始めたネップに対する強硬な反対派だった。ネップが引き起こした物価上昇に耐えられなかったからである。だから、革命期と内戦記の階級闘争を再現しようとするスターリンの激しいレトリックは、党を支持するプロレタリアから幅広い支持を集めた。
 「クラーク」と呼ばれた農民の大半は、勤勉な篤農家であり、そのささやかな財産は家族全員の勤勉な労働の結果だった。「クラーク」が勤勉な篤農家であることは、農民の大半が認めていた。「クラーク」撲滅キャンペーンとは、「もっとも勤勉で、もっとも優秀な耕作者」をコルホーズから追放する運動に他ならなかった。「クラーク」の消滅はソ連邦の経済的破局を意味していた。それは、この国でもっとも勤勉な農民の労働倫理と農業技術を集団農場から奪い去り、最終的にはソヴィエト農業部門に末期的な衰退をもたらす結果となった。しかし、「クラーク」との戦争に踏み切ったスターリンには、経済問題への配慮はまったくなかった。少なくとも1000万人の「クラーク」が1929年から32年までの間に家を失い、故郷の村を追われた。そして、「クラーク」の子どもたちの多くが、成長後は熱烈なスターリン主義者となった。
 コルホーズに加入していた農民のうち、3人に1人が完全に農業を放棄し、その大半が工業地帯に逃げ込んで賃金労働者になった。1932年の前半には数百万人が国内を流浪していた。家族の崩壊が進み、農村部の若者たちは家を出て、都市を目ざした。
 スターリンが5ヶ年計画で結束した急激な成長率を確保するためには、強制労働が不可欠な要素だった。1920年代の労働収容所は基本的には刑務所であり、囚人たちが労働を強制されたのは、本来、囚人の食い扶持を囚人自身に稼がせるという趣旨からだった。
多くの家族が農業集団化と都市化という二重の圧力に屈服させられた。集団化こそ大変動の中で農民の生活にもっとも深い傷を残した。集団化は、ソヴィエト式の生活様式を受け入れるか否かをめぐって、父と子を争わせ、家族を分裂させたからである。
 「自己改造」は、ボリシェビキの間では、ごく普通の概念だった。旧世界から受け継いだプチブル根性や個人主義的な性癖を排除して自分を浄化し、より高度の人間、つまりソヴィエト人に成長するというボリシェビキの思想の中心的な位置を占めるのが他ならぬ「自己改造」だった。
不純分子への恐怖心は共産党指導部が抱えていた深刻な問題、つまり自信欠如の表れだった。幹部の自信欠如こそが粛清を繰り返すという党風をつくり出すことになる。
 シーモノフは、自分の継父が逮捕されたとき、それは誤解によるものだと思った。それは、親族を逮捕された人々の大半が示す反応と同じだった。
党内には表立ってスターリン路線に反対する勢力は存在しなかった。しかし、膨大な人的被害をともなって強行された1928~32年の粛清に対しては、水面下で異議と不満が鬱積していた。
 1932年11月、スターリンの妻ナジェージタが自殺する。スターリンは妻に自殺されて狂乱状態となり、周囲の人間全員に対して一層深い不信感を抱くようになった。
 1930年代が進むにつれて、多数の古参党員が、粛清され、代わって新規党員が入党したために、党の性格自体が次第に変化を見せはじめる。古参ボリシェビキの影響力は弱まり、その代わりに一般党員の間から新しい党官僚グループが台頭してきた。この新・管理職層こそがスターリン体制を支える主要な柱となる。平均7年程度の教育しか受けていない新エリート層の大部分は自分の頭で政治的問題を考えるだけの能力を持たなかった。彼らは、新聞発表の党声明を自分の意見とし、宣伝スローガンと政治的な決まり文句をオウムのように繰り返すだけだった。
 1934年12月に、レニングラードの党書記長キーロフの暗殺事件が起きたが、その直後、スターリンは、旧貴族とブルジョアジーの大量逮捕と流刑を命じた。
 NKVDは1930年代の半ばまでに情報提供者を組織して、膨大な密告ネットワークの構築を完成させていた。すでに、あらゆる工場、事務所、学校などに密告者が配置されていた。元来、相互監視方式はロシア国家の根幹をなす制度だった。広大すぎて警察組織だけでは管理できないロシアという国家は、ギリシェビキ体制になっても、帝政時代と同様に、国民の相互監視という統治スタイルに大きく依存せざるを得なかった。
 人々にストレスをもたらした最大の原因はプライバシーの欠如だった。トイレと浴室は軋轢と不安の絶えざる発生源だった。
大多数の市民は、自分たちが生きている間に共産主義のユートピアが実現することを期待しつつ、賢明の努力を重ねていた。1930年代のソヴィエト体制を支えていたのは、人々のこの期待だった。何百万人もの人々が、毎日の苦しい生活は共産主義社会を建設するために必要な犠牲であると信じ込まされていた。今日の辛い労働は、明日には報われるだろう。明日は、ソヴィエトの「素晴らしい生活」を全員が享受することになるだろう、と。
 1930年代を振り返って、当時は目先の問題よりも未来を考えて生きるという生活感覚が一般的だったと回想する人が少なくない。この楽観的な雰囲気に押し流されて、ソヴィエトの知識人たちはスターリン体制が進歩の名の下で犯していた恐るべき犯罪の実態を見ようとはしなかった。
 1937~38年の大テロルは、当時の情勢認識に対応してスターリン自身が全体を綿密に計画立案し、指揮監督した大作戦だった。迫り来る戦争へのスターリンの恐怖心と国際包囲網の脅威に対するスターリンの恐怖心は、1936年11月にベルリンと東京が反コミンテルン防共協定を締結したことで、さらに増大した。
 1937年の時点で、ソ連邦はヨーロッパではファシスト諸国と戦争、アジアでは日本との戦争の瀬戸際まで追い込まれているとスターリンは確信していた。
 1936年にスペイン共和国政府が喫した軍事的敗北の原因は、共産主義者、トロツキスト、アナーキストなど、さまざまな左翼グループが分派行動に走り、内部抗争を繰り返したからだとスターリンは見てとっていた。したがって、ソ連邦では政治的抑圧が緊急に必要であるというのがスターリンの得た教訓だった。単に「第5列」「ファシストのスパイ」「敵性分子」などを粉砕するだけでなく、すべての潜在的反対派を対ファシスト戦争が勃発する前に殲滅しておく必要があるとスターリンは考えた。
 1937年6月のスターリンの発言によると、逮捕された人々の中に本物の敵が5%もふくまれていれば逮捕作戦は大成功と言うべきだとされた。すなわち、大テロルは迫り来る戦争に備えるための必要不可欠の準備作戦だった。
人々は逮捕される順番が来るのを待っていた。NKVDがドアをノックしたらすぐに対応できるように必要な品物をカバンに詰めてベッドの横において寝る人が少なくなかった。逮捕される側の人々が示したこのような受動的な態度は、大テロルの時代の人々のもっとも驚くべき特徴のひとつである。
 逮捕されるという運命に直面してとりわけ受動的だったのは、ボリシェビキの幹部たちだった。彼らは、あまりにも深く党のイデオロギーに浸りきっていたので、抵抗しようとする意思よりも党に対して自分の無実を証明したいという要求のほうがはるかに強かった。
 ずしりと重たく、画期的な分析にみちた大変な労作です。
(2011年5月刊。4600円+税)

十字軍物語 1

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  塩野 七生    、 出版  新潮社 
 十字軍の実態を知れば知るほど、キリスト教っていいかげんな宗教じゃないのかなと感じます。教皇と王とは、世俗の君主として権力争いをしていたのですよね。そこには、大義も何もあったものじゃありません。そして、イスラム教徒に支配される聖都イエルサレムを奪還しようと教皇が呼びかけ、それに応じて真っ先に行動したのが貧者の軍隊でした。ところが、イエルサレムに向かって行進していくうちに霧消していくのも哀れです。
 カノッサの屈辱は1077年のこと。法王の反対を無視した皇帝を法王は破門に処した。破門とは、当時、社会からの全面的な追放を意味していた。そこで、皇帝は法王が滞在中のカノッサの城の前に、降りしきる1月の雪のなか、裸足で立ち尽くしたのだった。
 ときに得意絶頂の法王は57歳。皇帝はまだ27歳だった。カノッサで受けた屈辱を忘れなかった皇帝は、軍事力で法王を追いつめると同時に教会の内部を分裂させることで対立法王を選出させ、ローマ法王のもつ権威を足許から崩す策に出ていた。
 イスラムの支配するなかでキリスト教徒たちは既に300年以上も生きてきた。この地方に住む人々からローマ法王に対して現状から解放してほしいと求めた史実はない。法王に援軍の派遣を求めたのは、かつてビザンチン帝国領であった中近東を取り戻したいと欲したビザンチン帝国の皇帝だった。
 法王の呼びかけに応じて最初に東方に向かってヨーロッパを発ったのは、隠者ピエールの率いる貧民から成る十字軍だった。貧民十字軍には、人的犠牲にはまったく無関心という絶対的な強みがあった。それにしても哀れな末路でした。教会って無責任ですよ。
 法王には、十字軍を成功させることで法王の権威を強化し、それによって皇帝の権力を弱体化させようとする思いがあった。
 この当時はまだ中央集権ではなかった。11世紀の諸君たちは皇帝や王に対して地位は下でも、実力では劣る存在ではなかった。公爵や伯爵とは呼ばれていても、これらの諸侯が領土を持っていたのは、皇帝や王から与えられたからではない。彼らのほうがすでに領土を持っていて、その状況下で、まあ、あの男ならば今のところは不都合はないだろう、とした人物に、皇帝なり王なりへの忠誠を一応は誓うのである。自らの力で獲得し、自らの力で保持する領国の主(あるじ)であり、それに欠くことのできない軍事力として血のつながりのある一族郎党を率いるボスだった。貴族とも言われていたが、その実態は豪族であり、部族であった。
 十字軍には、最高司令官は最初から最期まで存在しなかった。だから、指令系統の一元化はついに成らなかった。貧民十字軍は、聖地に近づく前に、小アジアに足を踏み入れたとたんに消滅してしまった。
 十字軍との戦いで敗北したセルジュク・トルコ軍は大軍を結集しての会戦方式ではなく、少ない兵力を駆使してのゲリラ戦法に変えた。そして、ゲリラ戦法だけでなく、焦土作戦にも打って出た。
すべては領土の問題であって、宗教の問題ではなかった。イスラム側が、十字軍とは神の旗のもとにまとまった軍勢であり、十字軍遠征の目的が、イスラムを撃退し、その地に十字軍国家をうちたてることにあるのを知るのは、80年後のサラディンの時代だった。それまでは、イスラム教徒の大半は、十字軍を領土獲得を目的とする侵略軍と思い込んでいた。
 力だのみの野蛮な十字軍将兵の実像が描かれています。だから、現代世界でレーガンでしたか、十字軍なんて言うと、野蛮とか残虐というイメージにつながるのですね。
(2010年9月刊。2500円+税)

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