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カテゴリー: ヨーロッパ

慈しみの女神たち(下)

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慈しみの女神たち(下)
著者   ジョナサン・リテル   、 出版  集英社 
 プロパガンダは、確かにある役割を果たしているが、実際はもっと複雑だ。SS看守が乱暴になり、サディストになるのは、被拘禁者が人間でないからではない。逆に、被拘留者が他人から教わったような下等人間であるどころか、詰まるところは彼自身と同じ一人の人間なのだと気づくときに、看守の怒りは激化してサディズムに変化する。看守に耐えられないのは、他者が無言で持続していることなのだ。
 看守は自分たちと共通する人間性を消し去ろうとして、被拘留者を殴る。もちろんそれは失敗に終わる。なぜなら、看守は殴れば殴るほど、被拘留者が自らを非=人間とは認めまいとしていることに気づかずにいられないからだ。ついに、看守は相手を殺すより外に解決法がなくなるが、それは取り返しのつかない失敗の証なのである。
 ユダヤ人を殺すことによって、私たちは私たち自身を殺し、私たちのなかのユダヤ人を殺し、私たちのなかにある私たちのユダヤ人についての考えに似たものをすべて殺したかったのよ。私たちのなかのブルジョワ、お金を勘定し、名誉を追いかけて、権力を夢想する、そんな太鼓腹をしたブルジョワを殺し、ブルジョワ階層の偏狭で強固な道徳を殺し、勤倹を殺し、服従を殺し、奴隷の隷属根性を殺し、ご立派なドイツ的美徳をすべて殺す。なぜかというと、下劣さ、無気力、吝嗇、貪欲、支配欲、安っぽい悪意などと称して、私たちユダヤ人に特有とみなしている性質は、実は完全にドイツ的な性質であるし、ユダヤ人がそういう性質を身につけているのは、彼らがドイツ人に似たようになりたい、ドイツ人でありたいと渇望してきたからである。
 これって、言い得て妙なる指摘ではないでしょうか。ユダヤ人とはドイツ人そのものだったと私にも思われます。
元ナチ親衛隊将校の回想記という体裁の小説です。2段組400頁を超し、改行もない文章が続きますので、読みにくくもありますが、そこで描かれる生々しくも残酷な現実が目を逸らさせません。いえ、目をそむけるのを許さないのです。
 主人公は戦中を生きのびて、戦後はフランスで何十年も平穏な生活を過ごしたという設定になっています。戦争犯罪の追及が甘かったということを意味するのでしょうか・・・・・。
(2011年5月刊。4000円+税)

囁きと密告(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  オーランド・ファイジズ     、 出版  白水社 
 スターリンの大テロルの直接の犠牲者は大人たちですが、当然のことながら子どもたちも犠牲となりました。大量の親なし子が生まれたのです。
 大テロルは家庭を押しつぶし、家族をバラバラに引き離したが、生き残りのメンバーを再び結び合わせる努力の中心には、いつも祖母たちの働きがあった。ロシアのおばあちゃんも、たくましいのです。当局を前にして一歩も引かずに孫たちを守り通していったのでした。
両親の無実を一瞬たりとも疑ったことはなかった。両親への信頼を維持することができたのは祖母のおかげだった。祖母はソヴィエト権力の本質を理解しており、何を言われても負けなかった。革命が起こったとき、祖母は既に40歳に近かったからだ。
多くの場合、親が逮捕されると、残された子どもは一夜にして大人になった。
 両親が逮捕されたとき、頼る先をもたない子どもの数は数百万人を下らなかった。多くは孤児院に収容されたが、中には浮浪児となって街をうろつく子どももいた。少年ギャング団が出来た。
 孤児たちは、自分たちが世界で一番幸福な孤児だと思い込んでいた。なぜなら、すべての子どもを愛する国父スターリンに率いられる国家が孤児たちにすべてを与えてくれるからだ。なんという皮肉でしょうか・・・・。
10代後半の年齢を迎えた「人民の敵」の子供たちにとって、「ソヴィエト市民」としての社会復帰を象徴する最大の出来事はコムソモール(青年共産同盟)への加盟だった。流刑地や特殊居住地で育った「クラーク」の子どもたちにとって、出征の汚点を克服する唯一の道は、ソヴィエト社会の価値観を全面的に受け入れることだった。
 1938年終わりころから政策が変更された。「クラーク」の子どもたちの「鍛え直し」と社会復帰が強調され始めた。
1939年8月、スターリンは英仏両国への期待を維持できなくなった。スターリンは欧州戦争が勃発することを確信していたが、同時に現状ではナチス・ドイツに抵抗する軍事力がソ連にないことも理解していた。とくにかなりの兵力を満州国境に配置しなければならないという条件が対独戦争を困難にしていた。そこで、スターリンはヒトラーと協定を結ぶ以外に選択肢はないという結論に達した。独ソ不可侵条約を結んだのは、長期的な計算からではなく、目の前に発生していた事態への対応策だった。
独ソ戦が始まったときのソ連の壊滅的敗北は、スターリンが情勢の把握に失敗して防衛体制の準備を怠ったというだけでなく、それまでのスターリンのテロル支配が恐怖と不信を生み、その結果、国家の有機的な防衛能力が事実上の機能不全に陥っていたことによる。
 赤軍の指導部に対して発動されたテロルは指揮官たちの権威を失墜させ、彼らを萎縮させていた。指揮官たちは処罰されることを恐れ、彼らの一挙手一投足を監視しているコッミサールなどの政治将校たちによって告発されることをひたすら避けようとしていた。そのような指揮官が適切な軍事的判断を下し、主導権を発揮することは不可能だった。指揮官たちは、いきおい消極的になり、上部からの命令を待つだけになった。しかし、命令は常に遅きに失し、現場の軍事情勢に能動的に対処するには、何の役にも立たなかった。
 1942年9月、スターリングラードの戦いのとき、優勢なドイツ軍に圧倒されながらも、廃墟となった街路とビルを守ろうとして必死に戦うソヴィエト軍兵士の異常なほど高い士気は記者を驚かせた。厳しい軍規によっても、イデオロギーによっても説明のつかないこの戦意こそがスターリングラード戦の帰趨を左右し、ひいては戦争全体の命運を決した。
 テロルより効果的だったのは、ソヴィエト国民の愛国的心情に訴えるというやり方だった。兵士の圧倒的多数は農民の息子だった。彼らには農村を破壊したスターリンや共産党に対する忠誠心はなかった。彼らが愛していたのは、家族と故郷であり、イメージのなかの「祖国」だった。政府は国民の愛国的心情に訴えかけようとして、そのプロパガンダから、次第にソヴィエト的なシンボルを引っ込め、古い「母なるロシア」のイメージを全面に押し出した。
 国民が自己犠牲の精神に慣れ親しんでいたことこそがソ連邦の最大の武器だった。とりわけ1941年夏の開戦から1年後、ソ連が全面的な敗北をこうむりつつもなんとかして生き延びようと悪戦苦闘していた時期に、国民の自己犠牲の精神は決定的に重要な役割を果たした。軍事指導部の度重なる失策と政府機能のほぼ全面的な麻痺状態を埋め合わせたのは、膨大な数の兵士と一般市民の自己犠牲だった。自己犠牲の精神がなかでも強かったのは、1910年代から20年代前半にかけて生まれた人々だった。つまり、国家のために自己を捨てたソヴィエトの英雄たちの神話を常に聞かされて育った世代だった。
 兵士がその開戦能力を最大限に発揮するのは、何のために戦うのかを知っているときであり、自分自身の運命と戦争の目標を一体のものとして意識するときである。
 1943年からソヴィエト軍に勝利をもたらした要因は、兵士の勇敢さと粘り強い抵抗力に加えて、赤軍内部の指揮系統が変更されたことも重要だった。スターリンは開戦後1年間のみじめな敗北を経験して、軍事指導権に対する党の介入が(最高司令官としての自分自身をふくめて)戦闘能力を引き下げていること、軍人たちを信頼して一任するほうが有効であることを認めざるをえなくなった。
 1942年8月、スターリンはジューコフ将軍を最高司令官代理に任命して、自分は軍事指導から一歩引き下がった。戦略計画と戦争努力遂行の責任は、次第に政治家の手から参謀本部の軍事評議会の手に移り、主導権を握った参謀本部は党指導部に情報を伝えるだけとなった。コミッサールらの政治将校が軍事的な意思決定に関与する機会は大幅に減少した。党による監視と管理から解放された軍事司令部は新たな自信を獲得した。自立性が勇気ある発意につながり、安定した軍事専門家集団を生み出した。
 戦時経済の発展には、グラーグ管理下の収容所の労働力が大きく貢献した。ソヴィエト軍の全弾薬の15%、軍服の大部分、軍の糧食のかなりの部分が労働収容所の囚人労働によって生産されていた。収容者人数は1941年から43年にかけて減少した。50万人の囚人が「罪をあがなうために」前線に送られた。
 戦争中、党は党員数でこそ倍増したが、戦前の党の特徴だった自発的精神は大幅に失われた。党の中核を形成していたボリシェビキの多くが1941~42年に戦場で消えていった。1945年になると、600万人の党員の半数以上が軍人であり、3分の2は戦争中に入党した党員だった。党の気風は1930年代とは大きく変わった。
 テロルによって労働収容所に入っていた母親と、孤児院育ちの子どもが再会しても、それまでの人生で受けた傷が深すぎて、互いに心を開くことができず、親密な関係になれなかった。
 戦後スターリンは、すばやく手を打って、政治改革を求めるあらゆる動きを抑制した。終戦直後の最初の粛清の標的としてスターリンが選んだのは、赤軍幹部と党指導部だった。まず、赤軍幹部が狙われた。ジューコフ元帥は改革を求める国民の希望の星だった。そのジューコフは降格され、左遷された。レニングラードの指導者たちも狙われた。
終戦と同時に、国家が無給で利用できる労働力は膨大な規模に増大した。既に存在していたグラーグ管理下の囚人と労働軍に徴用された労働者に加えて、200万人のドイツ軍捕虜とその他の枢軸国軍の捕虜100万人が手に入った。戦後のソ連経済はグラーグ経済と通常の民生経済とが分かち難くからみあう形で発展した。
ソヴィエト・ロシアで生き残るためには、どの 時代であれ、自己を隠して偽装する技術が必要だった。しかし、仮面をかぶって自己を偽る技術が完成の域に達したのは戦後期になってからだった。人々は人前での演技があまりにもうまくなったので、ついには自分が演技をしているのか、それとも、それが本来の自分の姿なのかの区別がつかなくなる有り様だった。ソヴィエト国民の典型的な心理状態は自己分裂だった。
新しいソヴィエト官僚は、必ずしも党と党の理想の信奉者ではなかった。ただし、党の命令に忠実に従うという意味で従順な出世主義者だったことは間違いない。スターリン体制は大小の権力者を通じて機能していた。
スターリンの死が何を意味するにせよ、大多数のソ連国民にとって、それは恐怖からの解放ではなかった。むしろ、恐怖が強まった。次に何が起きるのか分からないという恐怖だった。
囚人たちがスターリンの牢獄から帰還しはじめると、彼らを収容所に送り込んだ側の人々は、当然ながら、恐怖におののいた。
自分たちの運命を左右する力が何であるかを知らないソヴィエト国民の大多数は、依然として混乱したまま、自制心を発揮し、過去についての沈黙を維持していた。
この本で描かれていることの多くは、決してスターリン体制下のソ連だけのものではないと思いながら最後まで興味深く一心に読みふけりました。おかげで、上下2巻の紹介がこんなにも長くなりました。それほど、刺激的な本なのです。この労作を書き、また翻訳した人たちに心から拍手を送ります。
(2011年5月刊。4600円+税)

キリスト教とホロコースト

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    モルデカイ・パルディール  、 出版   柏書房
 ヒトラーによるユダヤ人絶滅作戦が進行するなかで、自らの生命を賭してユダヤ人を救った人がいたのを知るのは本当に救いです。
 ホロコーストの時代、ナチからユダヤ人を救命するために自分の生命を賭した非ユダヤ人2万1000人以上が「正義の人」として栄誉をたたえられている。残念ながら、日本人はセンポチウネただ1人である。
 キリスト教の聖職者は、そのうち600人ほどです。本書は、その聖職者を主として紹介しています。
 ユダヤ教とキリスト教の関係は、まぎれもなく親密な性格を有している。そもそも、キリスト教の崇敬の主たる対象は、ユダヤ人に生まれユダヤの信仰を実践し、唯一かつ万物の造り主である神と同じ位格の神であり人であると考えられる一人の人物である。彼の直の弟子は皆ユダヤであったし、最初に彼の復活と再臨を信じたのは数千人の人々であった。
 彼の故郷ナザレにおいてのみ受け容れられなかったが、その行く先々で群衆は彼を追った。宗務当局は彼を逮捕しようとしたが、群衆の人気に押されて手を下せなかった。
 イエスについて、人々は好意的に受けとめるのが通例だった。
中世のカトリック神学者の一人であるトマス・マクィナスをはじめとする神学者たちはユダヤ人が教勢促進も挑発もせず、騒々しい戦いを避ける以外に何も望まなかったにもかかわらず、ユダヤ人を激しく非難し続けた。プロテスタントの偉大な改革者であるマルティン・ルターは、後期中世のもっとも悪質なユダヤ人迫害者の一人として突出している。うひゃあ、そうだったのですか、ちっとも知りませんでした。
 1933年1月、ヒトラーが権力を握ったとき、ドイツ全土にユダヤ人は52万人ほど、ベルリンに7割近い38万人がいた。ユダヤ人の多くはドイツ人の暮らしの中に完全に同化していた。
 ヒトラーは、自らの反キリスト教の見解を表明するのは注意深く、公衆の面前では教会の忠実な支援者という建て前を装った。
 推定で2万人のユダヤ人がドイツ国内で生きのびた。そのうちの1万5000人は地下生活に潜ることなく、非ユダヤ人配偶者との結婚によって保護された。推定5000人近くのユダヤ人が潜伏して生きのびた。
 ドイツでは、ほとんどのプロテスタント聖職者、とりわけルター派が1937年1月のヒトラーの権力掌握に際して、強い高揚感を表明した。
 フランスには30万人のユダヤ人がいて、パリには18万人いた。ビシー政府はドイツの圧力を待たずにユダヤ人を差別する法律を布告した。フランスの解放までに7万5000人以上のユダヤ人がドイツに引き渡された。フランス警察が、ドイツ軍以上に多くのユダヤ人を逮捕した事実は、フランスの名と民族的名声に汚点を残している。しかし、ユダヤ人を助けるため、カトリック司祭とプロテスタント牧師が共に連携して動いたことも事実である。フランスにおけるユダヤ人の生存率は、他の西側諸国に比べて相対的に高かった。
 1980年代のフランス映画『さよなら子どもたち』は私もみましたが、ユダヤ人の子どもたちを救おうとするフランスの取り組みが描かれています。
ゲシュタポは、ユダヤ人の所在の通報者には報奨金100から1000フランを約束していた。重要人物については5000フランだった。当時の平均月収は3000フランだったので。月収に匹敵するものだったが、人々は応じなかった。
イタリアのユダヤ人の80%はドイツ軍の占領時代を生きのびた。ファシストと呼ばれるムッソリーニ政府が1943年9月にドイツによって占領されるまでユダヤ人をナチスに引き渡すことがなかったことをはじめて知りました。イタリア人は、ナチの論理にしたがって、ユダヤ人として生まれたことだけを理由として人間の命を奪い取る気になれなかった。そのため、官僚的な口実や嘘をふくめ、想像しうる限りのありとあらゆる計略、逃げ口上を弄して、ドイツの要求に応じなかった。
 うへーっ、すっかりイタリア人を見直しましたよ。たいしたものです。
 イオニア海にあるザキントス島では、ドイツ人将校がやって来てユダヤ人の引き渡しを求めたとき、カトリックの主教がユダヤ人リストに自分の名前を目の前で書き加え、「あなたは私を逮捕できる。それで満足できないのなら、私もユダヤ人と共にガス室に直行するつもりだ」と宣言した。ドイツ軍将校はあっけにとられ、折れた。
 560頁もの大部な本です。キリスト教会がユダヤ人絶滅にいかに関与したのか、よく分かる本となっています。
 バチカンはユダヤ人絶滅策が進行していることを熟知していたにもかかわらず、公にホロコーストを非難することはなかった。しかし、イタリア全土のカトリック施設に数千人のユダヤ人をかくまっていた事実はある。
 ユダヤ人絶滅について、キリスト教会が全体として手をこまねいていたことは争いようのない事実です。しかし、そのなかでも、個々の聖職者は自分の生命と家族を危険にさらすことを承知しながらユダヤ人の救出にあたっていたのでした。その矛盾をどう考えたらいいのかを改めて考えてみました。
(2011年5月刊。4800円+税)

慈しみの女神たち(上)

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著者  ジョナサン・リテル    、 出版  集英社 
 ずっしり重たい本です。読みすすめるのが辛くなる物語です。
 上巻だけで上下2段組、500頁あります。ユダヤ人を大量虐殺したナチ親衛隊将校の手記という構成なので、大虐殺状況を目撃して、それをずっとずっと語っていくのです。気が滅入ってしまいます。
いくらユダヤ人を豚以下の存在だと言われても、目の前にいるユダヤの人々はやはり同じ人間なのだから、どうしても、そこにためらいが生じる。
女性や、それ以上に子どもたちの場合、私たちの仕事はときに非常に困難で、胸を抉られるようなものとなった。兵士たちは絶えず不満を漏らしており、とりわけ家族のいる年長のものたちがそうだった。無防備なあの人々、子どもたちを護ることもできず、ただ殺されるのを見ていなければならない。そして子どもたちとともに死ぬことしか出来ないあの母親たちを前にして、わが軍の兵士たちは極度の無力感に苛まれ、自分たちもまた無防備であることを感じていた。
このような状況に何ヶ月もさらされたなら、健康な精神の持ち主であれば、後遺症、それもときに重大な後遺症に見舞われないことは不可能なのだ。
あるSS少尉は正気を失い、幾人もの将校を殺害したのちに、自らも射殺された。上層部は前代未聞の命令を下した。良心からにせよ、弱さからにせよ、ユダヤ人を殺すことを自らに課すことが出来ないものは、他の任務への配属や、さらにはドイツの送還のために全員が幕僚部へ出頭しなければならないというもの。
恐るべき虐殺が証明していることがひとつあるとすれば、逆説的なことに、それはまさに人類の、痛ましい、変わることのない連帯である。
 どんなに獣のようになり、どんなに慣れてしまっても、我々の兵士の誰ひとりとして、自分の妻、妹、あるいは母を思うことなしにユダヤ女性を殺すことはできないし、目の前の穴に自分自身の子どもたちの姿を見ることなしにユダヤ人を殺すことはできない。
彼らの反応、彼らの暴力、アルコール中毒、神経衰弱、自殺、私自身の悲しみ、これらすべてが証(あかし)立てているのは、他者が存在すること、他者として、人間として存在することであり、また、どんな意志も、どんなイデオロギーも、どれだけの量の愚行やアルコールも、細いけれども堅固なこの絆(きずな)を断ち切ることはできないということだ。これは事実であって、意見ではない。
38歳のアメリカ人が大量の本を読みつくして4ヶ月で書きあげたというのです。恐るべき筆力です。
(2011年2月刊。1000円+税)

ノーザン・ソングス

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ブライアン・サウソールほか  、 出版   シンコーミュージック・エンタテインメント
 なつかしのビートルズの著作権をめぐる本です。ビートルズは私が高校生のころ一世を風靡しました。「イエスタデイ」とか「ミッシェル」と言ったポール・マッカートニーのバラードなんかも最高でしたね。
 夏に市営プールで泳いでいると、ビートルズの「イエローサブマリン」の曲が流れてきたことを今も鮮明に記憶しています。これは高校生というより中学生のときかもしれません。
 ジョン・レノンがアメリカで射殺されたのもショックでしたね。アメリカって、本当に恐ろしい国だと思いました(実は今も思っています)。
 音楽の分野で天才だった四人組も、商売の分野ではなかなか苦労したようです。
音楽出版の世界において著作権ほど重要なものはない。ソングライターと出版社にとって、「著作権は絶対に手放すな」という金言は不変である。
レノン&マッカートニーは、自分たちの曲の著作権を実際に放棄したわけではなかった。相次ぐ契約によって、作品がどんどん資産価値を上げていく渦中で、気がつくと手元から消え失せてしまっていたのだ。
 音楽出版社と契約をかわすことで、ソングライターは楽曲の所有権(つまり著作権)の一部を譲渡する。その代わりに出版社は、その楽曲を売り込み、そこから得られた収入をソングライターと事前に合意した割合にもとづいて分配する。通常は50対50がいいところだが、売れ行きによっては作家側の取り分が増えることもある。普通は純利を分配するので、音楽出版社側はデモ録り、事務所経費、交通費などの費用を控除することができる。したがって、作家とり分50%というのは、総収入を100としたときの50ということではない。
 出版社と作家が受けとる使用料を徴収するのは著作権管理団体であり、その徴収の範囲は、演奏、放送、録音に及ぶ。
 スナックがカラオケを無断で利用していると、この著作権管理会社から請求書が届き、裁判を起こされるというのは、日本でもよくあります。
 1962年の音楽ビジネスは、現在と同じくロンドン中心部に拠点をもつレコード会社と音楽出版社を中心に回っていた。彼らは業界を何十年にもわたって支えてきた不動の原理原則を行使し、才能あふれる若きミュージシャンたちの運命を握っていた。そこでは、クリエイティブな人間よりも、決定権を持つ企業が常に優位な立場にあった。
 1963年、わずか2枚のヒット・レコードを出しただけなのに、ビートルズは既にイギリス業界を席捲しつつあった。ツアーは売り切れ、テレビやラジオに出演すると、ティーンエイジャーにとって、それは「絶対に見なくてはならない」ものになった。たしかに、すごい熱狂でした。
 1963年、「シー・ラブズ・ユー」は数週間のうちに100万枚をこえて売れた。
 1964年の「キャント・バイ・ミー・ラブ」は英米で250万枚の予約注文数を記録した。
 1965年の時点で、四人組は若き大金持ちになっていた。
ところが、イギリスの高額所得税は83%、それに異進付加税として、さらに15%が足された。なんと98%の税率です。これは、いくらなんでもたまりませんね。
そこで、節税対策が始まります。しかし、それはそれで四人組の仲間割れにもつながるのでした。四人組が全員そろってレコーディングスタジオに入ったのは1969年8月が最後だった。
 そして、その結果、ポール・マッカートニーが自分の出演映画で「イエスタデイ」を使おうとすると、会社(ATVミュージック)に許可申請しなければならなかったのです。なんということでしょう。曲をつくった人が自分の曲を自由に使えないなんて・・・。
 音楽著作権の世界の難しさをなんとなく実感させられる本でした。
(2010年4月刊。2400円+税)

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