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カテゴリー: ヨーロッパ

ノルマンディー上陸作戦(上)

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著者  アントニー・ビーヴァー  、 出版  白水社   
 1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦を多角的に描いた大部の労作です。連合軍内部の葛藤にみちた内情、迎えうつドイツ軍のあたふたぶりとヒトラーの狂信的指示の内幕が活写されていて、果たして上陸作戦はうまくいくのか、上陸したあとナチス・どいつ軍によってダンケルク戦のように海へ押し戻されてしまうのか、ずっと予断を許されない厳しい戦闘行動が続いていたことを知りました。
 連合軍の最高司令官であるアイゼンハワーに対して、イギリス軍のトップは高い評価を与えていなかった。モントゴメリー(モンティ)は、上官であるアイクにたいして経緯のかけらすら見せなかった。
 有力な将軍・提督たちの政治的ライバル関係や個人的な対抗意識をアイゼンハワーは常に意識し、そのバランスに配慮しなければならなかった。
 モントゴメリー将軍は、演出のコツを非常に心得た軍人だった。そして、軍事のプロとして高い能力をもち、また部隊の訓練にあたって第一級の仕事をこなしてきたが、「際限なきうぬぼれ」という欠点も抱えていた。
 アメリカ陸軍は、第一歩兵師団を除いて、ほとんどすべての部隊が「要求基準に合致せず」と評価されていた。
アイゼンハワーは上陸作戦が失敗に終わったときに発表する短い声明文も用意した。そこには、「この試みに、もしなんらかの問題もしくは欠点があったとすれば、ひとえに私ひとりの責任である」と書かれていた。
 アメリカのルーズベルト大統領はド・ゴール将軍を不信の目で見ていた。ド・ゴールという男はへたすると独裁者になりかねない人物である。連合軍はなにもド・ゴールを権力の座につけるためにフランスへ侵攻するわけではないとした。
 アイゼンハワーの声明文には、ド・ゴール将軍による臨時政府の権威をどんな形にしろ認めていなかった。
ヒトラーは、連合軍の侵攻作戦はヒトラーが築いた「大西洋の壁」によって必ず粉砕されると信じていた。ヒトラーは、ロンメル将軍の提案を却下した。空軍のゲーリング海軍のデーニッツの強い働きかけもあって、ヒトラーは本能的に今の現状を維持するのが望ましいと判断した。ライバル関係にある、それぞれの軍組織を互いに競い合わせることで、その上位に君臨する自分が全てをコントロールできると考えていた。
 フランス国内のレジスタンス組織の大半はド・ゴール将軍と共闘していたが、必ずしもド・ゴール主義者ではなかった。
 ノルマンディー上陸作戦に参加した艦船は5000隻ほど。全体で13万人の兵士が参加した。6隻の戦艦、23隻の巡洋艦、104隻の駆逐艦、152隻の護衛艦、277隻の掃海艇が出動していた。
 誰もがみな、もっとも知りたいのは、果たしてドイツ軍が、現在進行形のこの事態をすでに把握し、手ぐすね引いてまっているのかどうか、ということだった。
 午前1時アメリカ海軍は、上陸作戦に参加する兵士に朝食を出した。常軌を逸する大盤振る舞いだった。ありったけのステーキポーク、チキン、アイスクリーム、キャンディーが供された。ソーセージ、豆料理、コーヒー、ドーナツが食べ放題となった。そして、大揺れの船のなかで、兵士たちはゲロを吐き、豪華な食事を後悔するに至った。
 ノルマンディーの戦いにおける連合軍、ドイツ軍双方の損耗率はひどかった。それは、東部戦線における同時期のをはるかに上回っていた。
東部戦線意おいてソ連赤軍の苛烈きわまる砲撃を相手したため、ドイツ軍は守勢に回ったとき、損失をいかにして最小限どにおさえるか、さまざまな対処法を実地に学んでいた。その教訓がノルマンディーの戦いで十分に生かされた。そして、ドイツ軍は戦機をとらえるのがうまい。
 アメリカ軍の兵士の損耗度は高く、やがて本国から補充兵がやってきた。補充兵は、しばしばもっとも危険な任務を割り当てられた。どの小隊も、経験を積んだベテラン兵士をムダにしたくはなかった。
イギリス空軍が北部の町カーンを空爆したがこれは2重の意味で失態だった。第一に、カーン 北部にあるドイツ軍陣地を叩けなかった。第二に、都市部に大打撃を与えてしまった。
戦争の現場がきれいごとではいかないことを知り、改めて衝撃を受けました。
映画『史上最大の作戦』は私が高校生のころに映画館で上映されているのを見に行った記憶があります。映画でも連合軍が苦労していたように描かれていましたが、現実はもっと悲惨で、どうしようもない状態だったようです。
(2011年8月刊。3000円+税)

ヒトラー『わが闘争』がたどった数奇な運命

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   アントワーヌ・ヴィトキーヌ 、 出版   
 ヒトラーの『わが闘争』を読んだことはありません。本の名前を知っているだけです。
この本が1200万部も売れたというのに驚くほかありません。この本は内情を探り、その意味をじっくり考えています。
政治の分野で『わが闘争』ほど発行部数の多い本はこれまでにない。
1933年、ヒトラーが権力の座につくまでに、既に10万部が売れていた。第3帝国において、1200万部という恐るべき発行部数を達成していた。今でも、英語版だけで、毎年2万部の売り上げになる。
 1920年2月、ドイツ労働者党の集会で30歳のヒトラーは弁舌の才で注目を集めた。
 1921年7月、ヒトラーは国家社会主義ドイツ労働者党の党首になった。ヒトラーは、軍の命令で党に潜伏した若き放浪者だったが、古参党員を抑えて大抜擢された。
 1923年11月。ミュンヘン一揆にヒトラーは失敗し、逮捕された。このとき、ナチス側の死者は16人、警官も4人が死んだ。ところが、クーデターは失敗したものの、ヒトラーは一躍、有名人になった。そして、刑務所には収監されたものの、独房は簡素ながらも清潔な部屋であり、食堂を自由に使うことも許された。収監されている間、ヒトラーは仲間たちと豪勢な食事をとり、何不自由なく暮らした。日に2回は面会があり、10人もの面会者があった。そこでヒトラーは『わが闘争』を自らタイプライターを打ち、ときに口述筆記させた。ヘスとの共同執筆ではなく、ヒトラーが語り、ヘスは筆記しただけである。
 1920年代、テレビはまだなく、ラジオはNSDAPにとって手の届かないメディアだった。出版物や新聞こそがプロパンガンダの主要手段だった。
 ヒトラーの書いたものを、近しい者が文章を直し、手を入れ、文体を整え、思想を明確にする作業をすすめた。そして、ついに700頁に及ぶ『わが闘争』が刊行された。
 ヒトラーはインテリでも文学家でもなく、学歴もない。学校の成績は悪く、早々に学業を投げ出している。しかし、ヒトラーは書物を通して膨大な情報を集め、その際に立った記憶力で自分のものにした。
『わが闘争』には欠けている視点がある。経済力だ。当時、ヒトラーは、すでに実業家たちから援助を受けており、彼らを敵にまわすのは避けた。ヒトラーは社会主義色を薄め、クルップやティッセンといった大企業との関係を隠そうとはしなかった。
 『わが闘争』の中で使用頻度が最も高い言葉は「ユダヤ人」である。
 ヒトラーのユダヤ人嫌悪は、実に根深く、絶対的なものだ。ヒトラーはユダヤ人を非人間的な存在と見なし、人間とは異なる、動物に近い別生物のようにとらえている。
 ヒトラーは『シオンの長老の議定書』というまったくのでっちあげの本を真に受けた。この本はロシアの秘密警察がつくりあげたデマだったのに・・・。
 ドイツ国民が抱える挫折感、ヒトラー個人の挫折感などあらゆる挫折感に対して、すべてはユダヤ人のせいなのだという答えを見つけたというのが『わが闘争』であり、だからこそドイツ国民に受け入れられた。
ゲッペルスは、もともとはヒトラーに好意をもたず、ヒトラーと対立する派閥に属していた。しかし、『わが闘争』を読むと、たちまちヒトラーを「天才」とみて、その信奉者となった。
 1932年、ドイツの経済危機が政治危機を呼んだ。この政治危機こそ、ヒトラー、そしてNSDAPを権力の座に導いた最大の要因だった。「恐慌」がドイツを襲い、人々はみな不安を抱えていた。地位を失う不安、共産党に対する不安、新進勢力への不安があった。1932年末、『わが闘争』の売り上げ部数は23万部に達した。
 ヒトラーは首相になっても国費から給料をもらわないと公言し、実際に約束を守った。金融危機のもたらした多大の損失に苦しんでいたドイツの小市民たちは、ナチスの誇大宣伝を通して、ヒトラーのこの禁欲的態度を知り、大いに共感を覚えた。だが、ヒトラーは既に金持ちだったから、首相の給料など必要としなかった。『わが闘争』の印税収入だけで、数十億円もあった。
 『わが闘争』を扱う出版社であるエーア出版は従業員3万5000人という大企業となり、ドイツ国内の出版社の75%を傘下におさめていた。『わが闘争』は、ヒトラーにとって「儲かる商売」であったことは間違いない。
 ヒトラーは続編を企画したが、政権を握ったとき、「手の内」を明らかにしすぎることになるのを恐れて、続編の刊行を中止した。
ドイツ共産党は『わが闘争』に対して、まったくと言っていいほど無関心だった。
 ヒトラーと『わが闘争』の運命は驚くほど似ている。どちらも、初めのうちは信じがたいほど過小評価され、そのことがのちの運命を決めた。
 1933年、この1年だけで、100万人のドイツ人が『わが闘争』を自分の意思で購入した。企業家たちも、ヒトラーのご機嫌をとろうとして、『わが闘争』を購入して社員に配布した。クルップ、コメルツ銀行、そしてドイツ国鉄である。
 ヒトラーは、ドイツ国民が『わが闘争』を注意深く読むことを恐れた。ヒトラーが戦争を望んでいることがばれてしまうから。『わが闘争』は、「白日にさらされた陰謀」だった。あまりにも大量にばらまかれたことで人々はかえって著者の意図を明確にとらえることができなくなった。
 『わが闘争』の子ども向け版そして絵本も登場した。しかし、翻訳版については慎重に対処した。要するに、排外的なことを書いているため、それが外国人にバレるのを防ごうとしたわけです。
ヒトラーは裁判所に訴え出ることをいとわなかった。ヒトラーは、またもや民主主義を悪用し、民主的な思想を撃破した。
 ヒトラーを再評価しようという動きが世界的にあるそうです。とんでもないことだと私は思います。
(2011年5月刊。2800円+税)

特殊部隊ジェドバラ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ウィル・アーウィン    、 出版  並木書房 
 映画『史上最大の作戦』そして『プライベート・ライアン』で有名なノルマンディー上陸作戦の前に、連合軍はドイツ軍の後方撹乱のためにフランス各地に特殊部隊を送り込み、現地のレジスタンスを応援しつつ活動していたのでした。その部隊名をジェドバラと呼びます。
 アメリカ人のジェドバラ隊員は戦略事務局(OSS)に所属し、イギリス人隊員は特殊作戦執行部(SOE)の出身だった。そして、もう一人のフランス人はドゴール将軍の自由フランス軍に属していた。3人一組で、最大100組の混成チームがフランス各地に投下された。
 高高度で編隊飛行するために設計された鈍重な重爆撃機を勘と経験をたよりに低空飛行させる。目標を見つけると、対地高度180メートルで進入を開始し、失速ぎりぎりの時速約200キロにまで減速させる。そして、一人ずつ落下していく。
 ジェドバラ隊員は、ゲリラ戦では機動性が重要であると教えられ、1ヶ所に長くとどまらず、常に動きまわるように叩き込まれていた。地上では地元のレジスタンス勢力と接触し、彼らの協力を取りつけることになっていたが、レジスタンスについては、ごくわずかしか分かっていなかった。
 ジェドバラ隊員には、当然のことながら道徳心と身体をはった勇気が求められていた。そのほかにも、度胸や自信、健全な判断力、ある程度の抑制された勇猛さ、秘密情報の慎重な扱いなどを示す必要があった。任務を完了するために、隊員たちは機略縦横でなければならなかった。たとえ通信と補給が立たれた場合でも、刻々と変化する状況に順応する必要があった。
 状況をすばやく認識できる機敏な頭脳が必要だった。決断力があって、創意に富んだ頭脳と、精神的なスタミナが肉体的な持久力におとらず重要だった。また、分別と安定した感情と自制心は、ストレスの多い状況下や長期間の孤立状態のときに人ががんばり続けるために必要になる。外国人とすすんで協力する態度と適性は絶対に不可欠だった。洞察があって、説得力に富み、必要とあらば断固主張し、人あしらいに長けていなければならなかった。階級の違いをこえて他人と協力し合えることが求められていた。
 情報網を構築し、運営する方法、偽造文書の使いかた、監視のやり方、気づかれずに誰かをつける方法、つけられているときにそれを見分ける方法、そして、その対処法。すごいですね。こういうのを私も身につけてみたい気もします・・・・。
 レジスタンスのなかにはドイツ軍のスパイも潜入していた。そして、レジスタンス内部で抗争があっていた。パリではレジスタンスの大部分が共産党だった。ドゴール派は、共産党に戦後の政権をとられたくなかった。
 少し前にイギリスの看護師(ケイト・ブランジェット)がフランスに潜入してレジスタンスを支援するという映画(『シャーロット・グレイ』)を見ましたが、まさにそれと同じ活動を描いたノンフィクションでした。
(2011年4月刊。2200円+税)

慈しみの女神たち(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

慈しみの女神たち(下)
著者   ジョナサン・リテル   、 出版  集英社 
 プロパガンダは、確かにある役割を果たしているが、実際はもっと複雑だ。SS看守が乱暴になり、サディストになるのは、被拘禁者が人間でないからではない。逆に、被拘留者が他人から教わったような下等人間であるどころか、詰まるところは彼自身と同じ一人の人間なのだと気づくときに、看守の怒りは激化してサディズムに変化する。看守に耐えられないのは、他者が無言で持続していることなのだ。
 看守は自分たちと共通する人間性を消し去ろうとして、被拘留者を殴る。もちろんそれは失敗に終わる。なぜなら、看守は殴れば殴るほど、被拘留者が自らを非=人間とは認めまいとしていることに気づかずにいられないからだ。ついに、看守は相手を殺すより外に解決法がなくなるが、それは取り返しのつかない失敗の証なのである。
 ユダヤ人を殺すことによって、私たちは私たち自身を殺し、私たちのなかのユダヤ人を殺し、私たちのなかにある私たちのユダヤ人についての考えに似たものをすべて殺したかったのよ。私たちのなかのブルジョワ、お金を勘定し、名誉を追いかけて、権力を夢想する、そんな太鼓腹をしたブルジョワを殺し、ブルジョワ階層の偏狭で強固な道徳を殺し、勤倹を殺し、服従を殺し、奴隷の隷属根性を殺し、ご立派なドイツ的美徳をすべて殺す。なぜかというと、下劣さ、無気力、吝嗇、貪欲、支配欲、安っぽい悪意などと称して、私たちユダヤ人に特有とみなしている性質は、実は完全にドイツ的な性質であるし、ユダヤ人がそういう性質を身につけているのは、彼らがドイツ人に似たようになりたい、ドイツ人でありたいと渇望してきたからである。
 これって、言い得て妙なる指摘ではないでしょうか。ユダヤ人とはドイツ人そのものだったと私にも思われます。
元ナチ親衛隊将校の回想記という体裁の小説です。2段組400頁を超し、改行もない文章が続きますので、読みにくくもありますが、そこで描かれる生々しくも残酷な現実が目を逸らさせません。いえ、目をそむけるのを許さないのです。
 主人公は戦中を生きのびて、戦後はフランスで何十年も平穏な生活を過ごしたという設定になっています。戦争犯罪の追及が甘かったということを意味するのでしょうか・・・・・。
(2011年5月刊。4000円+税)

囁きと密告(下)

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著者  オーランド・ファイジズ     、 出版  白水社 
 スターリンの大テロルの直接の犠牲者は大人たちですが、当然のことながら子どもたちも犠牲となりました。大量の親なし子が生まれたのです。
 大テロルは家庭を押しつぶし、家族をバラバラに引き離したが、生き残りのメンバーを再び結び合わせる努力の中心には、いつも祖母たちの働きがあった。ロシアのおばあちゃんも、たくましいのです。当局を前にして一歩も引かずに孫たちを守り通していったのでした。
両親の無実を一瞬たりとも疑ったことはなかった。両親への信頼を維持することができたのは祖母のおかげだった。祖母はソヴィエト権力の本質を理解しており、何を言われても負けなかった。革命が起こったとき、祖母は既に40歳に近かったからだ。
多くの場合、親が逮捕されると、残された子どもは一夜にして大人になった。
 両親が逮捕されたとき、頼る先をもたない子どもの数は数百万人を下らなかった。多くは孤児院に収容されたが、中には浮浪児となって街をうろつく子どももいた。少年ギャング団が出来た。
 孤児たちは、自分たちが世界で一番幸福な孤児だと思い込んでいた。なぜなら、すべての子どもを愛する国父スターリンに率いられる国家が孤児たちにすべてを与えてくれるからだ。なんという皮肉でしょうか・・・・。
10代後半の年齢を迎えた「人民の敵」の子供たちにとって、「ソヴィエト市民」としての社会復帰を象徴する最大の出来事はコムソモール(青年共産同盟)への加盟だった。流刑地や特殊居住地で育った「クラーク」の子どもたちにとって、出征の汚点を克服する唯一の道は、ソヴィエト社会の価値観を全面的に受け入れることだった。
 1938年終わりころから政策が変更された。「クラーク」の子どもたちの「鍛え直し」と社会復帰が強調され始めた。
1939年8月、スターリンは英仏両国への期待を維持できなくなった。スターリンは欧州戦争が勃発することを確信していたが、同時に現状ではナチス・ドイツに抵抗する軍事力がソ連にないことも理解していた。とくにかなりの兵力を満州国境に配置しなければならないという条件が対独戦争を困難にしていた。そこで、スターリンはヒトラーと協定を結ぶ以外に選択肢はないという結論に達した。独ソ不可侵条約を結んだのは、長期的な計算からではなく、目の前に発生していた事態への対応策だった。
独ソ戦が始まったときのソ連の壊滅的敗北は、スターリンが情勢の把握に失敗して防衛体制の準備を怠ったというだけでなく、それまでのスターリンのテロル支配が恐怖と不信を生み、その結果、国家の有機的な防衛能力が事実上の機能不全に陥っていたことによる。
 赤軍の指導部に対して発動されたテロルは指揮官たちの権威を失墜させ、彼らを萎縮させていた。指揮官たちは処罰されることを恐れ、彼らの一挙手一投足を監視しているコッミサールなどの政治将校たちによって告発されることをひたすら避けようとしていた。そのような指揮官が適切な軍事的判断を下し、主導権を発揮することは不可能だった。指揮官たちは、いきおい消極的になり、上部からの命令を待つだけになった。しかし、命令は常に遅きに失し、現場の軍事情勢に能動的に対処するには、何の役にも立たなかった。
 1942年9月、スターリングラードの戦いのとき、優勢なドイツ軍に圧倒されながらも、廃墟となった街路とビルを守ろうとして必死に戦うソヴィエト軍兵士の異常なほど高い士気は記者を驚かせた。厳しい軍規によっても、イデオロギーによっても説明のつかないこの戦意こそがスターリングラード戦の帰趨を左右し、ひいては戦争全体の命運を決した。
 テロルより効果的だったのは、ソヴィエト国民の愛国的心情に訴えるというやり方だった。兵士の圧倒的多数は農民の息子だった。彼らには農村を破壊したスターリンや共産党に対する忠誠心はなかった。彼らが愛していたのは、家族と故郷であり、イメージのなかの「祖国」だった。政府は国民の愛国的心情に訴えかけようとして、そのプロパガンダから、次第にソヴィエト的なシンボルを引っ込め、古い「母なるロシア」のイメージを全面に押し出した。
 国民が自己犠牲の精神に慣れ親しんでいたことこそがソ連邦の最大の武器だった。とりわけ1941年夏の開戦から1年後、ソ連が全面的な敗北をこうむりつつもなんとかして生き延びようと悪戦苦闘していた時期に、国民の自己犠牲の精神は決定的に重要な役割を果たした。軍事指導部の度重なる失策と政府機能のほぼ全面的な麻痺状態を埋め合わせたのは、膨大な数の兵士と一般市民の自己犠牲だった。自己犠牲の精神がなかでも強かったのは、1910年代から20年代前半にかけて生まれた人々だった。つまり、国家のために自己を捨てたソヴィエトの英雄たちの神話を常に聞かされて育った世代だった。
 兵士がその開戦能力を最大限に発揮するのは、何のために戦うのかを知っているときであり、自分自身の運命と戦争の目標を一体のものとして意識するときである。
 1943年からソヴィエト軍に勝利をもたらした要因は、兵士の勇敢さと粘り強い抵抗力に加えて、赤軍内部の指揮系統が変更されたことも重要だった。スターリンは開戦後1年間のみじめな敗北を経験して、軍事指導権に対する党の介入が(最高司令官としての自分自身をふくめて)戦闘能力を引き下げていること、軍人たちを信頼して一任するほうが有効であることを認めざるをえなくなった。
 1942年8月、スターリンはジューコフ将軍を最高司令官代理に任命して、自分は軍事指導から一歩引き下がった。戦略計画と戦争努力遂行の責任は、次第に政治家の手から参謀本部の軍事評議会の手に移り、主導権を握った参謀本部は党指導部に情報を伝えるだけとなった。コミッサールらの政治将校が軍事的な意思決定に関与する機会は大幅に減少した。党による監視と管理から解放された軍事司令部は新たな自信を獲得した。自立性が勇気ある発意につながり、安定した軍事専門家集団を生み出した。
 戦時経済の発展には、グラーグ管理下の収容所の労働力が大きく貢献した。ソヴィエト軍の全弾薬の15%、軍服の大部分、軍の糧食のかなりの部分が労働収容所の囚人労働によって生産されていた。収容者人数は1941年から43年にかけて減少した。50万人の囚人が「罪をあがなうために」前線に送られた。
 戦争中、党は党員数でこそ倍増したが、戦前の党の特徴だった自発的精神は大幅に失われた。党の中核を形成していたボリシェビキの多くが1941~42年に戦場で消えていった。1945年になると、600万人の党員の半数以上が軍人であり、3分の2は戦争中に入党した党員だった。党の気風は1930年代とは大きく変わった。
 テロルによって労働収容所に入っていた母親と、孤児院育ちの子どもが再会しても、それまでの人生で受けた傷が深すぎて、互いに心を開くことができず、親密な関係になれなかった。
 戦後スターリンは、すばやく手を打って、政治改革を求めるあらゆる動きを抑制した。終戦直後の最初の粛清の標的としてスターリンが選んだのは、赤軍幹部と党指導部だった。まず、赤軍幹部が狙われた。ジューコフ元帥は改革を求める国民の希望の星だった。そのジューコフは降格され、左遷された。レニングラードの指導者たちも狙われた。
終戦と同時に、国家が無給で利用できる労働力は膨大な規模に増大した。既に存在していたグラーグ管理下の囚人と労働軍に徴用された労働者に加えて、200万人のドイツ軍捕虜とその他の枢軸国軍の捕虜100万人が手に入った。戦後のソ連経済はグラーグ経済と通常の民生経済とが分かち難くからみあう形で発展した。
ソヴィエト・ロシアで生き残るためには、どの 時代であれ、自己を隠して偽装する技術が必要だった。しかし、仮面をかぶって自己を偽る技術が完成の域に達したのは戦後期になってからだった。人々は人前での演技があまりにもうまくなったので、ついには自分が演技をしているのか、それとも、それが本来の自分の姿なのかの区別がつかなくなる有り様だった。ソヴィエト国民の典型的な心理状態は自己分裂だった。
新しいソヴィエト官僚は、必ずしも党と党の理想の信奉者ではなかった。ただし、党の命令に忠実に従うという意味で従順な出世主義者だったことは間違いない。スターリン体制は大小の権力者を通じて機能していた。
スターリンの死が何を意味するにせよ、大多数のソ連国民にとって、それは恐怖からの解放ではなかった。むしろ、恐怖が強まった。次に何が起きるのか分からないという恐怖だった。
囚人たちがスターリンの牢獄から帰還しはじめると、彼らを収容所に送り込んだ側の人々は、当然ながら、恐怖におののいた。
自分たちの運命を左右する力が何であるかを知らないソヴィエト国民の大多数は、依然として混乱したまま、自制心を発揮し、過去についての沈黙を維持していた。
この本で描かれていることの多くは、決してスターリン体制下のソ連だけのものではないと思いながら最後まで興味深く一心に読みふけりました。おかげで、上下2巻の紹介がこんなにも長くなりました。それほど、刺激的な本なのです。この労作を書き、また翻訳した人たちに心から拍手を送ります。
(2011年5月刊。4600円+税)

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