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カテゴリー: ヨーロッパ

指導者は、こうして育つ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  板倉 康夫 、 出版  吉田書店
 フランスの高等教育、グランゼコールを紹介した本です。
 グランゼコールの一つ、シアンスポはパリの中心部、カルチェラタンにあります。実は、今、私の娘がそのすぐ近くに下宿しているのです。この夏、パリに行ったときに娘の住所を探しているうちにシアンスポを発見したのでした。シアンスポは、ニコラ・サルコジ大統領の出身校でもあります。シアンスポとは、パリ政治学院のことです。
グランゼコールとは、大学とは別のエリートを選抜するための高校教育機関である。そこに入るには猛烈に勉強しなければいけない。
フランスで大学に進学するにはバカロレアに合格しなければいけない。いま同世代の66%ほどがバカロレアに合格し、その82%が大学に進学する。それとは別に存在するグランゼコールは、300校、全国で12万4000人の学生が在学する。フランス全土の大学生132万人の1割以下である。
 グランゼコールの卒業生がフランスの支配層を形づくっていると言われています。官庁も企業も、彼らによって占められているのです。
 私の好きなポール・ニザンもグランゼコール(パリの名門のひとつであるアンリ四世校)の卒業生でした。ここでサルトルと知り合い、激しい首席争いをしたのです。
 そして、ポール・ニザンは共産党に入り、教員となったあと徴兵され、ダンケルクから撤退する途中で戦死したのでした。
 20歳がひとの人生で一番美しい年齢だなどとは言わせない。これは「アデン・アラビア」の一節ですが、私も大学一年生のとき(まだ20歳になる前のことです)に読み、感銘を受けました。
 フランスのようなエリート・システムを日本も真似してよいのかどうかは疑問がありますが、フランスという国を知るには、このグランゼコールを知らなければいけないと私も思います。それにしても、バカロレアの試験問題があまりに哲学問答なのに驚かされます。この点については日本も真似てよいと思います。
(2011年9月刊。1900円+税)

みえない雲(コミック)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   グードルン・パウゼヴァング、アニケ・ハーゲ 、 出版   小学館文庫
 ドイツを脱原発へ導いた話題の小説をコミック化したものです。映画にもなっているようです。恐ろしいマンガです。背筋がひたすら寒くなってきます。
 ドイツにも原発があります。そこで事故が起きて放射能が漏れ出します。付近住民は避難を命じられますが、道路はどこもかしこも渋滞します。
 両親が留守だったので、14歳の少女は小学2年生の弟を連れて脱出を図ります。自転車に乗って、ひたすら遠くを目ざします。ところが、弟は猛スピードで走る車にはねられて死んでしまうのでした。
放射能は臭いもせず、色もないので、不気味さばかり漂っています。
 大勢の人が逃げまどう様は哀れとしか言いようがありません。病院は、既に病人で満杯です。
 頭の髪の毛が抜けていきます。放射能で汚染されてしまったのです。学校では、そのことで、差別され、いじめられます。子どもたちから将来を奪ってしまうのが原発です。
 私は東電の歴代の社長を実刑にして刑務所に入れられないようでは、日本の司法の力って、口ほどのこともなく、たいして機能していないようにしか思えません。
 わずか1000円足らずの万引きで懲役1年の実刑という事件が珍しくなくなっています。何万人もの人々を突然家から追い出し、慣れない仮設住宅などでの生活を余儀なくさせているのは東電です。予見可能性はありました。予見する能力も十分です。単に利潤第一主義に走って、それらを怠っただけです。それなら、当然、東電の歴代の社長は懲役10年程度の実刑に処すべきではないでしょうか。東電の会長は居座ったままですが、それを許していて、この社会の秩序は維持できるのでしょうか。社会正義はどこへ行ったのでしょうか。いまこそ東京地検特捜部への出番なのではないでしょうか。
東電の社長がいなくても補償対策は十分にできると思いますし、原発事故対応も可能だと思います。
 皆さん、東電の歴代社長の刑事責任を問わなくていいと思いますか、おたずねします。
(2011年10月刊。543円+税)

パリ日記

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   エルンスト・ユンガー 、 出版   月曜社
 1940年6月14日、パリはドイツ軍に占領された。以来、1944年8月25日までの4年2ヵ月あまり、その占領は続いた。
 エルンスト・ユンガーは、現代ドイツ文学の巨峰、100歳を過ぎてなお、執筆活動を続けた。そのユンガーは、1941年2月から1944年8月まで、途中の転出を除いても3年半のあいだパリに駐留していた。そのときの日記が本書で紹介されています。
 ユンガーは、ナチスとは距離をとり続けていたため、ゲシュタポから家宅捜索を受けたこともある。パリでは、参謀本部付きの将校としてホテルに宿泊していた。
 この本によると、ユンガーは文学サロンに出入りしていて、ジャン・コクトーなどの文人と広く付きあって文学論をたたかわせ、ピカソやブラックのアトリエも訪れています。当時、ユンガーは48歳、まさに男盛りでした。
 この日記には、何度もクニエボロという人物を批判する記述が出てくるので、誰のことかなと不思議に思っていたところ、巻末でヒトラーのことだと分かりました。つまり、著者は一貫して反ヒトラーだったのです。
 ただ、1944年7月20日のヒトラー暗殺計画には直接の関わりはなかったようです。それにしても、この日記には、ヒトラー批判派の人々が多く登場してきます。彼らの多くは7月20日事件で逮捕され、処刑されたのでした。
 ドイツ国防軍の上層部に反ヒトラーの気分が少なくなかったことが、この日記からも十分にうかがえます。たとえば、1944年までフランス派遣軍総司令官だったシュテルプナーゲルはヒトラーに反乱しようと失敗し、処刑されてしまいます。ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺についても目撃者となり、また、そのおぞましい真相を聞いています。
 ユンガーは1942年7月17日のパリでのユダヤ人の大量逮捕・移送についても、パリで見聞しています。先日、日本でも公開された映画が、この事件を扱ったものでした。
 両親がまず子どもたちから切り離され、悲嘆の声が町中で聞かれた。私は不幸な人たち、骨の髄まで苦悩に満たされた人たちに取り囲まれたことを一瞬たりとも忘れることができない。そうでなくても、私は何という人間、何という将校なのであろう。
 1944年6月の連合軍によるノルマンディー上陸作戦もパリにいて情報を得ています。
 1944年6月12日の日記にユンガーは次のように書いています。
 クニエボロ(ヒトラー)と彼らの一味は、まもなく戦争に勝つと予言している。再洗礼派の領袖とまったく同じである。賤民は、どのような人物たちの後ろについて走るのだろうか。一切を包括して衆愚になってしまったのは、どうしてだろうか。
 この日記を読んでいると、どこで戦争があっているのだろうかと思えるほど優雅なパリ生活をユンガーは過ごしていると思えます。それだけ、ドイツのインテリの頭脳の一端が分かる本として、面白く読み通しました。
(2011年6月刊。3800円+税)

令嬢たちのロシア革命

カテゴリー:ヨーロッパ

齋藤 治子 、 岩波書店
 ロシア革命にいたるまでの帝政ロシア末期に貴族の令嬢たちが勇猛果敢に社会革命に挑んでいたことを明らかにした本です。刮目される本とは、まさに、このことでした。私はロシアに、もちろんモスクワに行ったことがありませんが、モスクワの有名な赤の広場にあるレーニンの遺体をおさめるレーニン廟への見学者の列は今も一番長いそうです。ロシアが復活してレーニン廟は既に解体されたのかと思っていましたが、そうでもないのですね。
 著者はロシア改革とは何だったのか、女性の視点から分析しています。
 ロシア革命の発端は、1917年3月8日の国際女性デーの街頭デモだった。
 ロシアで自らの道を選択できた女性は、高等教育を受け、経済的にも余裕があり、社会的差別を認識できる余裕のある貴族出身の女性だった。
 この本では、5人の令嬢の生き様が紹介されています。みんな、すごいのですよ。男まさり、なんていう言葉には、とてもおさまりきれません。
 フェミニストの先陣をきってカデット(立憲民主党)に入り、ソヴェト権力に反対を貫いたアリアドゥナ・ティルコーワ。女性解放を目ざしながらもフェミニズムを批判し、社会主義運動に入り、帝国主義戦争反対を革命に結びつけたアレクサンドラ・コロンターイ。そのコロンターイを革命運動に引き入れ、令嬢の中の令嬢でありながらボリシェヴィキの優等生だったエレーナ・スターソワ。レーニンの秘書的役割をつとめ、レーニンとその妻ナジェージダ・クループスカヤとの不思議な三角関係を結んだイネッサ・アルマンド。エスエル(社会革命党)の闘士として国際的にも名を知られ、ボリシェヴィキと連帯し、そのあと闘争することになったマリーヤ・スピリドーノア。
 ロシアの女性には、事故の財産の所有権、相続権が認められていた。親の財産は娘も相続できる。結婚のときに持ってきた嫁資は自分の財産として所有する。夫の不動産の3分の1、動産の4分の1を妻は相続する。これらは、当時のヨーロッパでは珍しかった。
 ロシアの女性は、家政において、夫に負けない発言権を持っていた。
 女性フェミニストたちは、まず慈善活動に取り組んだ。売春婦の救済にも取り組んだ。また、工場労働者のための日曜学校をつくって、読み書きと計算を中等教育を受けていない労働者に無料で教えた。
 ロシアでは、仕事を持ちたい貴族女性は偽造結婚に憧れた。というのも、パスポート制のロシアでは、就職も修学も、父または夫の同意が必要だった。未婚の女性は社会的に独立するのが非常に難しかった。
 1878年にペテルブルグ市の長官を狙撃したのは、28歳の貴族令嬢であるヴェーラ・ザスーリチだった。
 「私は、自分の身を犠牲にしても、人間をないがしろにするような人を許してはいけないと思いました」
 このように述べたザスーリチは陪審裁判で無罪となった。
 うむむ、なんと、すごい発言ですし、よくも、これで無罪になったものですね。
1881年3月1日、ロシア皇帝アレクサンドル2世が爆弾が投げつけられて暗殺された。運河の対岸で指示していたのが、いつも静かで周りの人にやさしく、あどけない丸い顔つきのベロクスカヤ(26歳)だった、4月、彼女は処刑(絞首刑)された。
 1870年にリストアップされた革命家5664人のうちの8分の1が女性だった。1873から77年に検挙された女性革命家のうちに貴族出身は67%を占めていた。このように、貴族の令嬢たちがロシア革命の重要な一翼を担っていたことを示している。
 このあと先ほどの5人の女性の活躍ぶりが詳しく紹介されますが、ここでは割愛させていただきます。
 それにしても、レーニンが妻と愛人という問題をかかえていたことを知りました。そんな人間臭いレーニンですが、歯切れのいい文章をもう一度、学生のころに戻って精読してみたいと思いました。
(2011年4月刊。3800円+税)

ヒトラーの最期

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  エレーナ・ルジェフスカヤ  、 出版  白水社   
 ソ連軍の若き女性通訳がソ連軍とともにベルリンに攻め入り、そこでヒトラーの遺骨を手にするまでの過程が詳細に記述されている貴重な大作です。ヒトラーの遺骨を入手しながらも、スターリンはヒトラー逃亡説を発表させたり、ヒトラーの遺骨を入手していたことを隠していたというのですから、不思議な話です。
 著者はモスクワの大学生から通訳になったユダヤ人女性です。よくぞスターリン圧制の犠牲になることなく、生きのびたものです。
 ドイツ軍兵士を捕虜としたとき、士官だったらドイツ軍側から見たソ連軍の長所を尋ねることが義務づけられていた。その答えは、T-34戦車、兵士の頑強さ、ジューコフだった。ソ連軍兵士が粘り強く戦うのには、ナチス・ドイツ軍の将兵も驚嘆していたようです。
ドイツ軍のバルバロッサ作戦を狂わせた原因の一つに、小国ギリシャが意外に抵抗したことがある。うひゃあ、そういうこともあったんですね。
著者は前線で入手したドイツ軍将校の日誌を引用して、戦闘の悲惨さを語らせています。
 ドイツ軍兵士の心得。きみには心、神経がない。戦争ではそれらは無用である。すべてのロシア人を殺せ。きみの前に老人、女性、子どもがいても止まるな、殺せ・・・・。
 ポーランドではワルシャワの手前でソ連軍は留まり、ワルシャワ蜂起が目の前でナチスドイツによって無惨にも鎮圧・虐殺されているのを座視します。スターリンの冷酷な計算による行動です。
 敵の手紙は前線では常に重視された。それらの手紙には何か重要なこと、ときには予想外に重要なことが含まれていることが珍しくなく、これをもとに諜報資料が作り上げられた。手紙には、気分、事実、雰囲気、出来事、希望、状況、不安、脅威、苦境、変化が含まれている。
 ドイツ軍は敗色濃いなかで、新型兵器にいちるの望みをかけていた。しかし、それを信じていない兵士もまた多かった。ロンドンを空襲したV・ロケットのようなものをヒトラーは匂わせていたのでしょうね。
 ヒトラーには影武者はいなかった。5月4日、ヒトラーと妻エヴァ・ブラウンの遺体は一度発見されたが、そのときは識別されなかった。そして、あとで、同じ穴の中に2匹の死んだ犬が発見されたが、このこともヒトラーの遺体だと判明するのに役立った。ヒトラーは青酸カリの効用を試すために、先に愛犬に使ってみたのでした。
 5月6日、総帥官邸の庭からヒトラーとエヴァ・ブラウンの焼けこげの遺体をシーツにくるんで運び出した。
 ヒトラーは4月29日深夜、エヴァ・ブラウンとの結婚式を行った。ところが、そのときヒトラー自らが取り決めた結婚にあたっての必要書類は無視された。ヒトラーは、戦争に敗れたとき、ドイツ人は生きるには値しないとしていた。
 ゲッペルスは浮気者であり、妻は離婚したがっていた。しかし、ヒトラーは離婚を許さなかった。そこで、彼らはドイツ国民の前では模範的な子沢山の家庭を演じていた。
ヒトラーは最期にこう言った。
私の死後、私の遺体は焼却されねばならない。私は自分の遺体が後に見世物にされるのを望まない。
これは、ムッソリーニがパルチザンに銃殺され、ミラノの広場で逆さ吊りにされたことをヒトラーが知っていたからの言葉である。
ヒトラーの遺骸には、顎骨と歯がそのまま残っていた。そして、著者は、ヒトラーの歯の入った小箱を預けられた。そして、この小箱に入った歯をヒトラーが生前にかかっていた歯科医(助手)にみてもらって確認した。
 ヒトラーの死(自殺)の状況が確認される状況は信頼できると思いました。
(2011年6月刊。4000円+税)

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