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カテゴリー: ヨーロッパ

楽園のカンヴァス

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  原田 ハマ  、 出版   新潮社
 著者には大変申し訳ありませんが、まったく期待せずに読みはじめた本でした。私の娘がキュレーターを目ざしているので、親として少しは知識を得ようと思って、いわば義務の心から読みはじめたのです。
 ところがところが、なんとなんと、とてつもなく面白いのです。あとで、表紙の赤いオビに山本周五郎賞受賞作と大書されていることに気がつき、なるほどなるほど合点がいきました。江戸情緒こそ本書にはありませんが、パリのセーヌ川(らしき)の情緒はたっぷりなのです。 
推理小説では決してありませんが、その仕立てだと思いますので、粗筋も紹介しないでおきます。博物館や美術館にいるキュレーターの仕事の大変さが、ひしひしと伝わってくる本ではあります。
画家を知るためには、その作品を見ること。何十時間も、何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいない。
キュレーター、研究者、評論家、誰もコレクターの足もとには及ばない。
待って。コレクター以上にもっと名画に向き合い続ける人間がいる。誰か? 
美術館の監視員(セキュリティ・スタッフ)だ。監視員の仕事は、あくまでも鑑賞者が静かな環境で正しく鑑賞するかどうかを見守ることにある。監視員は、鑑賞者のために存在するのではなく、あくまで作品と展示環境を守るために存在している。
この本は、アンリ・ルソーの『夢』そして『夢を見た』という絵画がテーマになっています。どちらかが真作ではなく、偽作だという疑いがかかっています。それを7日間のうちに見抜かなければいけないし、それに勝てばたちまち億万長者になるというのです。
1908年、第一次世界大戦が始まる(1914年)前のフランス・パリを舞台とする描写があります。アンリ・ルソーはピカソとも親交があったようです。そして、『夢』が描かれる経緯が紹介されます。
果たして、この絵は本物なのか、偽作なのか。偽作だとしても誰が描いたのか・・・・。謎はますます深まっていくのでした。
なかなかに味わい深い絵画ミステリー小説でした。
一つの絵の解説本としても面白く読めます。巻末に参考文献も紹介されていますが、これをちょっと読んだくらいで書ける本ではないと思いました。底が深いのです。一読をおすすめします。
(2012年5月刊。1600円+税)

チェルノブイリ原発事故がもたらした人体被害

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   核戦争防止国際医師会議 、 出版   合同出版
 1986年、チェルノブイリ原発で大事故が発生しました。
 その処理作業に従事した人々をリクビダートル(後始末する人)と呼び、83万人いる。
 今日、大勢のリクビダートルが白血病や肺がんなどに苦しんでいる。リグビダートルとして働いたあと、車の運転中に眠りに落ちてしまうことが続いたため、仕事を辞めるしかなかったドライバーが大勢いる。発語障害、うつ病、記憶機能障害、集中力低下に苦しんでいるリグビダートルは数万人存在する。統合失調症も増加している。
 リクビダートルは、50~200ミリシーベルトの放射線に被曝していたが、これは原発労働者が10年間に受ける線量とほぼ同じである。
 ベラルーシでは、発ガン率が有意に4割増加した。とりわけ増加したガンは、大腸がん、肺がん、胆のうガン、甲状腺ガンだった。女性の乳ガン発生率も増加し、乳ガン発症年齢が若年化している。
 ところが、1991年春、200人の西側科学者と500人のロシア科学者は、放射線被曝による健康被害は発生しておらず、検診を受けた子どもたちの健康は概して良好だったという結論を出した。
 これって、日本のマスコミで、「すぐには健康被害は心配ない」と言い続けた学者と政府要人と同じですね。無責任の極みです。
 1986年、ベルリンでは異常な乳幼児死亡率の増加がみられた。
 ウクライナでは、1987年から1992年の間に、内分泌疾患は125倍、脳神経疾患は6倍、循環器疾患および神経疾患は53倍も増加した。そして、子どもと若者のI型糖尿病も急増した。
 ドイツではチェルノブイリ事故のあと、ダウン症候群をもつ新生児が有意に増加した。チェルノブイリ原発事故によって死亡した乳幼児は5000人。ドイツのバイエルン地方だけでも、1000人から3000人の先天性奇形児が超過発生した。西ヨーロッパでは1万人から2万人が流産した。
 がんの多くは、発病するまでには25~30年かかる。リクビダートルには、前立腺がん、胃がん、白血病、甲状腺がんが増えている。
日本では原発再稼働を民主党政権が執拗に企図しています。電力業界を中心とする経済界がお金にあかせて強力に後押ししているのです。そして、マスコミは経済界と一体となって電力不足キャンペーンを張って、今なお日本は原発に依存するしかないなんていう嘘を恥ずかしげもなくまき散らしています。そんなとき、チェルノブイリ原発事故によってヨーロッパとロシアで何が起きたのかを冷静に明らかにした本書を紹介するのは大きな意義があります。
 原発事故の恐ろしさには目をふさいでしまいたいのは私も同じ気分です。でも、怖いもの見たさではなく、本当に何が起きるのか知る必要があると思って読みすすめました。あなたもぜひ、手にとってお読みください。
(2012年3月刊。1600円+税)
日曜日、年2回、恒例のフランス語検定試験(1級)を受けました。試験会場となっている大学に大勢の人が入っていくのですが、それは漢検のほうでした。
 この日は、朝6時に起きて、仏検の過去問10年分を復習し、頭の中をフランス語モードに切り替えます。出張先の鹿児島から新幹線に乗って福岡に出かけ、車中でも一心不乱にフランス語に集中します。残念なことに、前に習って覚えた単語もすっかり忘れていて新鮮です。何とかフランス語の勘を取り戻したいと必死にがんばるなかで本番が始まりました。
 いつものように、文法はからきしダメです。歯が立ちません。今日はいったい何をしに来たのか、自分がみじめになります。長文読解のところで、少し分かり、作文はなんとか書き、書き取りはまあうまくいきました。
 3時間の長丁場が終わったときにはぐったり疲れました。自己採点で56点(120点満点)でした。初めて4割を超えていると思います。緊張の一日でした。

ナチスの知識人部隊

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   クリスティアン・アングラオ 、 出版   河出書房新社
 ナチスのユダヤ人をはじめとする虐殺の実行部隊を指揮したのは、頭脳明晰な大学出の若きエリートたちだった。彼らは美男で、輝かしく、知的で、教養があった。にもかかわらず、人間にあるまじき、人間として絶対に許されない殺戮を続けていたのです。なぜか?
 本書は、そのような80人ほどの大学出の若者たちを分析しています。
 ナチス親衛隊の保安情報機関に採用されたのは、その知性を買われてのこと。情報の収集や分析に、人文科学の知識が必要だった。また、ナチスのイデオロギーに学問的な裏づけを与え、それを正当化するのも、知識人の重要な役目だった。
 そして、SS保安部(SD)や国家保安本部(RSHA)で中心な役割を担い、その保安業務の一環として東部へ派遣されて、処刑部隊の先頭に立った。
 敵への「恐怖」や暴力に対する「慣れ」によって、人は誰でも残虐行為をエスカレートさせる可能性があることを、本書は証明しています。
これら80人の知識人たちに共通しているのは第一次世界大戦が子ども時代の根源的なトラウマになっていること。およそ10年間、日常生活は混乱をきわめた。その10年間に多感な子ども時代そして青年時代を過ごした。そして、ドイツ国民の半数が、近親者と死別する経験をした。
 1万人の学生のうち9400人、講堂やゼミナールや研究室にただ通って、自分の勉強や試験に追われているだけである。進取の気性に富む学生は600人ほどで、そのうち400人は超国家主義(ナチス)であり、残りの200人は共産主義、社会民主主義、民主主義に分かれている。
 SSの上層部は、ドイツ民族が消えようとしている。さらには抹殺されようとしていると考えていた。ロシアのボリシェヴィズムの強迫観念にもとづくパニック的な恐れがそこにあった。
 ユダヤ人といえば、混乱をひき起こし、残虐行為をおこない、放火犯であり、共産主義体制の主要な支持者であるといった三段論法的表現によって、ユダヤ人がドイツの侵略に対する潜在的レジスタンスの尖兵であるという考え方が増幅するにつれ、15歳から60歳までのユダヤ人男性が組織的に銃殺されていった。
 ところが、ユダヤ人を銃殺する処刑隊員の神経も病んでいくのでした。当然ですよね。飲酒したくらいで気が晴れるはずはありません。
 ガス・トラックにしても、死体を運び出さなければならないという重大な問題があった。それで、トラックを使うのを止めた。死刑執行人立ちの心に傷を負わせてしまうのである。
ナチスのユダヤ人大量虐殺の中心にドイツの知識人青年がいたことの意味は重いと改めて思いました。
(2012年1月刊。3200円+税)

情熱の階段

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   濃野 平 、 出版   講談社
 スペインで日本人闘牛士が孤軍奮闘しているなんて、ちっとも知りませんでした。ユーチューブで、その活躍ぶりがきっと見られるのでしょうね。見てみたいものです。
 著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士です。一人前の闘牛士になるための悪戦苦闘ぶりが生々しく、その苦しい息づかいとともに伝わってくる迫力ある本でした。なにより、単なる成功譚で終わっていないところが素晴らしい。決してハッピーエンドの世界ではなく、これからも闘牛士として苦難の道が続くことを想像させます。がんばれ、日本人青年。つい、こう叫んでしまいました。
 私は、この動物を殺す。剣の一撃によって。食べるためではない。毛皮を剥(は)ぐためでもない。この大きな角をもった猛獣を、大勢の観客の前でただ殺す。
人によっては、血に飢えた残酷な者たちによる野蛮な儀式だという。
 人によっては、危険な恐れない勇者たちによる偉大な芸術であるという。
 スペイン闘牛、それは生と死をめぐる見世物だ。その舞台上では、動物への感傷が入る隙間はない。
 著者は世界唯一の現役の日本人闘牛士。
牡牛の前に立っているときは、それほど怖さを感じない。やるべきことや考えるべきことが多くて、恐怖を味わう暇があまりないからだ。むしろ、恐怖は闘牛の始まる前と終わってしばらくしたころにやって来る。
 この試合さえ無事にすんだら、もう二度と闘牛なんかやらないから、自分を護ってほしいと、何かに祈ってすがりつきたくなることもある。牡牛は怖い。大怪我をする危険はいつだってある。観客は、もっと怖い。そこにあるのは、自分自身とのたたかいだ。その背中、肩甲骨の間の小さなくぼみ、そこに剣を正しい角度で突き入れると、牡牛は死ぬ。
 過去に日本人でプロ闘牛士の世界に足を踏み入れたのは2人だけ。著者は3人目になります。
闘牛士が優れた縁起で観客の心をつかみ、「真実の瞬間」と呼ばれる仕留めをうまく決めることができれば、褒賞として牡牛の耳一枚が与えられる。それ以上の価値がある闘牛であったと判断されたら、耳二枚、さらに尻尾まで闘牛士に贈られる。
 闘牛士たちは一頭あたり20分、全6頭からなる2時間あまりの興行がつづく。闘牛につかわれる牡牛の血統は、乳牛や食用牛などの飼い慣らされたおとなしい動物ではない。自己防衛本能により、あらゆる外敵に対して攻撃を仕掛ける性質がもともと備わっている。自分以外に動く、あらゆる対象物へとためらうことなく攻撃を仕掛けるのが大きな特徴だ。
 スペイン全土には1300をこえる闘牛牧場がある。そして闘牛場はスペイン全土に500もある。それは3つの格式にクラス分けされている。闘牛は年間2000回も開催されている。ただし、入場料は高い。田舎町で3~4000円もする。
牛は、たった一度しか闘牛に使えない。牛は闘牛士と10数分ほど対峙することによって、闘牛士本人とおとりであるカポテやムレタとの区別がつくようになり、2度目は迷わず闘牛士の体を攻撃する。だから、闘牛で使われた牡牛は、演技終了後に殺されて食肉となる。闘牛場内で直ちに解体されて、販売される。
 牡牛の死に至るまでの過程こそが、もっとも重要視される。
面白い闘牛に出会うのは簡単なことではない。10回みて、1回か2回、面白い闘牛があれば良いほうだ。
 闘牛術は、あくまでも勇気という前提条件の上に成り立っている。闘牛士には、自らがもつ本能的な恐怖を理性によって抑えることが求められている。だから、実際には、闘牛士と牡牛とのたたかいでは決してない。牡牛は、闘牛士のつくり出す作品の素材にすぎない。恐怖心に負けず果敢におのれの限界にまで挑む、自らの弱い心と常に争い続ける闘牛士の内部にこそある。つまり闘牛とは、自分自身との闘いなのだ。
 試合に出される牡牛は、過去に一度も闘牛士と対峙していない牡牛から選ばれる。
闘牛術の習得の難しさは、生きた牛相手の練習機会を得ることが、きわめて難しい点にある。
 なーるほど、そうなんですか。私はてっきり、あの牛たちは何回も挑戦しているとばかり思っていました。
闘牛士として挑戦するためには大変なお金がいります。そのため、著者はオレンジ農場で働いたり、日本に戻って東京の築地市場でアルバイトをしたりしていました。
スペイン闘牛界において、闘牛収入だけで生計を立てられる闘牛士は、スペイン全土でわずか数十人程度でしかない。
いやはや、とんでもない厳しい世界です。そんななかで、よくも日本人闘牛士として頭角をあらわしたものですね。すごいものです。日本人の青年(ここでは男性)もたいしたものではありませんか。この本を読むと、思わず力が入り、また、元気が出てきます。のうのさん、体に気をつけてがんばってくださいね。
(2012年3月刊。1400円+税)

最後の子どもたち

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   グードルン・パウゼヴァング 、 出版   小学館
 平穏な毎日を過ごしているなかで、突然、原爆が落ちたら、社会と生活はどうなるのか。そのことを実に事細かに分からせてくれる貴重な小説です。
 3.11のフクシマのあと、私たち日本人の少なくない人々が原発事故の恐ろしさに目をふさいでいるように感じます。今でも「電力不足」を本気で心配している人がいますが、それって、本当に心配しなくてはいけないことなのでしょうか。お互い、多少の不便を耐えしのんでも、次々世代にわたって安全に生きられることを優先して考えるべきではないでしょうか。
 ある日突然、原爆が近くの村に投下され、その付近一帯は消滅してしまった。こんな情景から物語はスタートします。福島第一原発で事故が起きたのとまるで同じです。
 しかし、人々は事態の本当の恐ろしさを信じようとしません。それまでどおりの日常生活を過ごしたいのです。
 病院はすぐに満杯になります。食べるものもなくなっていきます。弱い子どもたちが次々に死んでいくなかで、孤児となった子どもを収容する施設もつくられます。でも、誰がどうやって面倒をみるというのでしょうか。
 原爆症のために亡くなる人が続出します。白血病、腸の出血そして吐血。みな放射能による病気です。
 死んだものを埋める、葬る。これが生き残った者の主な仕事になってしまった。その朝、葬る側にいるのは、もうたくさんだと思った。むしろ、やっと安らぎを得た死者がうらやましかった。
 核戦争が起きる前の数年間、人類をほろぼす準備がすすんでいくのを、大人たちは何もせずに、おとなしく見ているだけだった。大人たちは、そんなことを言ってもしょうがないと、あきらめていた。また、核兵器があるからこそ平和のバランスが保てるんだと飽きもせずに、大人たちは主張していた。心地良さと快適な暮らしだけを求めて、危険が忍び寄るのに気がつきながら、それを直視しようとしなかった。
 子どもは大人に対して、あなたは平和を守るために何かしたのですかと問いかけた。大人たちは、黙って首を横に振るだけだった。
 こんなふうにならないように、今こそ声を大にしてあまりにも危険な原発なんかなくせと叫ぶ必要があるのではないでしょうか。
 この本は今から30年も前にドイツ(当時の西ドイツ)で出版された本です。反核運動を大いに励ましたそうです。いま読み通して(わたしは初めて読みましたが)、フクシマの恐ろしさを伝えるのに絶好の本だと思いました。
(1984年5月刊。780円+税)

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