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カテゴリー: ヨーロッパ

第一次世界大戦(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ジャン・ジャック・ベッケール 、 出版   岩波新書
 第一次世界大戦、とりわけフランスとドイツとの戦争の実相を両国の学者が共同して描いています。
 1900年の人口はドイツ5600万人、フランス3800万人。いずれも人口数は停滞していた。
植民地征服のかなりの部分は必ずしも明確な経済的理由をもっていなかった。国家の目的は、しばしば国民感情によって直接的な支持を受けていた。単純に経済的次元に限定するのは不十分である。
フランス軍もドイツ軍も、動員のためには準備期間が必要であり、奇襲攻撃など不可能であった。
 ドイツの社会主義者たちは、フランス社会党の指導者との合意の下、1913年3月、軍国主義の反動に対する巨大なポスターを作成した。このポスターは、ドイツ語とフランス語で書かれていた。両国の社会主義政党は、軍国主義の過剰に対しては抗議をするが、祖国防衛には決して反対しないと書かれていた。
 1914年、社会主義者たちに平和への意思を放棄させ、危機に瀕する祖国防衛を受け入れさせたのは、間違いなくロシアこそが主要な侵略者であるという確信だった。
 1914年7月の時点では、フランスのCGT(労働総同盟)や社会民主主義者の幹部たちは戦争の勃発を阻止すべく行動していた。しかし、翌8月1日に、フランス政府が動員令を布告すると、戦争への抵抗は止んだ。フランス世論は、全体としてドイツによる侵略を信じた。自分たちが、何ものによっても正当化されえない侵略の犠牲者であるという確信こそが、動員され出征していく兵士たちの決心を支えていた。彼らにとって、この戦争は脅威にさらされた祖国を守るということだった。
 社会主義者が入閣するうえでの障害はもはや存在しかなかった。社会主義者たちは、緊急事態であるということを理由に、この入閣の誘いを受け入れ、それによって第二インターが禁じていた「ブルジョワ政府」への参画を実行した。
 1914年8月のドイツ人たちは、ほぼ例外なく、攻撃を受けた祖国を防衛することは正当であると考えた。
 1914年9月、軍部がフランス全体を統制下に置いていた。軍部独裁とまでは言えないが、実態はそれに近いものだった。議会のメンバーが前線に出かけて戦況を視察することが不可欠だったが、軍部はこれにきわめて強力に反対した。すべての選挙は、戦争状態の終了後まで延期された。
 軍部の統制下におかれ選挙権も奪われていたフランス市民は、何よりも情報の制約の犠牲者だった。検閲は、政府が反対派を沈黙させるための都合の良い手段となりえた。
開戦後、初めの数ヶ月間はフランスの社会主義者の立場に変化は見られなかった。彼らは神聖なる団結と祖国防衛を支持していた。しかし、戦争が続くなか、動揺する社会主義者たちの数は増える一方だった。
ドイツの司教教書は、開戦を物質的な文化の病的な雰囲気を一掃するものとして歓迎した。ドイツの「戦争文化」は、自らが正当な防衛の立場にあるのだということをドイツが繰り返し主張しなければならなかったという状況にも影響されていた。
フランスの側では、祖国が侵略され、一部占領されているという事実は、極端なまでの暴力的な言説をもたらした。それは、戦争の体験とそこから生まれる強迫観念や幻想を直接反映するものだった。フランス人に対して、ドイツ「文化」の内在的な暴力性を確信させるのに、たいした労力は必要とされなかった。
 一方、ドイツ人は戦場から離れており、自国の地を敵に踏ませていないという誇りから、「敵にあふれた世界」に対して自分たちの文明を守らなければならないのだという信念に固執していた。
 1914年から1918年にかけてのフランス人とドイツ人の日常生活の行動を規定していた要素はいろいろあるが、その最大は犠牲の巨大さである。その実数は国家の秘密事項であり、戦後に判明した。ドイツの死者は203万人、フランスは132万人だった。ロレーヌでは、1914年8月20日から23日までの戦闘で4万人が戦死したが、そのうち2万7千人は8月22日の一日だけの死者である。
 1914年11月末までに、フランス軍は45万4000人を戦死・行方不明・捕虜として失った。それはドイツ軍も同じようなものだった。ドイツ軍は開戦後1年間に66万5千人を戦力として失った。しかし、戦争は死者だけではなく、大量の戦傷者も生み出した。
 フランスでは食糧不足による騒乱や暴動は起きなかった。ドイツは事情が異なり、住民に対する食糧供給は、戦争の長期化とともに最重要の問題となっていた。1917年になると、パリで大規模なデモが行われ、人々を驚かせた。ドイツでは、既に1916年5月にベルリンでデモが開催され、そこでカール・リープクネヒトが逮捕された。1917年5月にベルリンで起こったストライキには20万人の労働者が参加した。
 1917年のロシア改革は、ドイツ国民の士気の回復に大いに貢献した。フランスと同様、ドイツの大衆も士気は低下した。しかし、ドイツ人にとって1917年はフランス人ほど絶望的な年ではなく、むしろ逆に勝利、あるいは平和の到来に対する期待に満ちていたため、士気は全体として依然として維持されていた。最終的にドイツが大戦中に動員した兵力は1300万人に及んだ。
 戦争はまた、機関銃の戦争でもあった。無骨だが頑丈なホッチキス機関銃が使われ、開戦当初の5100台が終戦時には6万台となっていた。1日に600万発の銃弾がつくられ、全体では60億発にもなっていた。5万2000機もの飛行機と9万5000台のエンジンを製造した。1918年には2500台の戦車が実践に投入された。そして、化学産業の申し子である毒ガス兵器もつかわれはじめた。
フランス人は税金を使って戦争をするつもりはなかった。しかし、お金を貸すことは嫌いではなかった。そこで、国債が発行された。戦争終結時にフランスの金保有量はほとんど減っていなかった。それは、個人に対する金の回収運動の成果だった。
戦争の需要はドイツの産業界に莫大な利益をもたらした。さらに、戦時社会の最も顕著な発展の一つが、女性労働の飛躍的な増加だった。
 この本を読んで、最近みたスピルバーグ監督による映画『戦火の馬』を思い出しました。第一次世界大戦も経済事情というより両面のプロパカンダに一般大衆が乗せられ、「祖国防衛」という実体のない叫びの下に、大量の戦死・犠牲者を出していったということを改めて認識しました。いわば、慎太郎・橋下流ポピュリズム政治が結果としてもたらすものを予見させる怖さです。
(2012年3月刊。3200円+税)

ナチ戦争犯罪人を追え

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著者   ガイ・ウォルターズ 、 出版   白水社
 ナチの残党の逃亡を助けるオデッサと呼ばれる組織(オデッサファイル)があり、南米に逃亡して大農場で豊かに暮らしているところを、ジーモン・ヴィーゼンタールのようなナチ・ハンターによって追跡されて摘発・逮捕された。これが私の理解でした。ところが、それがほとんど嘘っぱちだったというのです。
 オデッサなる組織はなく、南米でナチの残党が暮らしていたのを摘発したのはジーモン・ヴィーゼンタールではなかったのでした。では、いったい、誰がどうやってナチ残党の逃亡を助け、そして摘発したというのか。その点を徹底解明した500頁もの大作です。スリル小説を読んでいるような迫力さえある本でした。
ジーモン・ヴィーゼンタールはとても長いあいだ世俗の聖人扱いされてきたが、アイヒマン狩りでの自分の役割を捏造したし、それだけでなく、いくつものエピソードをでっちあげた。
 本書で、著者は、ヴィーゼンタールは嘘つき、しかもひどい嘘つきであって、その名声は砂の上に築かれていると断言しています。
ノーベル平和賞の候補者に4回もなり、フランスのレジオン・ドヌール勲章を授けられているヴィーゼンタールは、1100人もの元ナチを捕らえた。なによりアイヒマンの所在を突きとめた「功績」で有名だ。それが、みんな嘘だったなんて・・・?!
 ヴィーゼンタールが具体的に書いているとき、そのほとんどが嘘をついている。うひゃあ、ここまで断言されるとは・・・。こたえますね。
 煙に包まれているナチ逃亡援助機関は、実際には校友会組織に似ている。煙の下に一つの大きな火があったわけではなく、多くの小さな火があったのだ。
 オデッサについてのヴィーゼンタールの情報源は、疑わしい信頼できない男のものでしかない。オデッサは、作家フレデリック・フォーサイスの作った完全なフィックションだった。
 アイヒマンは、ハンブルグ近くで森林管理人として働いていた。そして、かつてアイヒマンが迫害していた者たちが彼を助けた。オーストリアへ逃げ、ジェノヴァに出て、そこで赤十字の旅券を受けとった。
 そして、ヨーゼフ・メンゲレも1949年8月に、南米のブエノスアイレスに到着した。
 アイヒマンも同じブエノスアイレスの近くに住み、ドイツから家族を呼び寄せた。ブエノスアイレスのドイツ風レストランで二人は会ったことがある。しかし、メンゲレは洗練されていて、アイヒマンは中産階級の下と目されていた。
 そして、1960年5月11日、アイヒマンは捕まった。イスラエルから派遣されてきた男たちによって・・・。ヴィーゼンタールは、アイヒマンの居所を突きとめるのに関わってはいない。厚顔無恥に自分の手柄にしたというだけのこと。
 では、誰がアインヒマンの存在を明るみに出したのか・・・?
ここで答えを書くと、アインヒマンの息子が交際していた女性がユダヤ人であって、彼の名前がアインヒマンだということを知って、遠くドイツの検察官に手紙を書いたということです。
 悪いことをしたら、いつかはそれが明るみに出るものだということですね。
(2012年3月刊。3800円+税)

楽園のカンヴァス

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著者  原田 ハマ  、 出版   新潮社
 著者には大変申し訳ありませんが、まったく期待せずに読みはじめた本でした。私の娘がキュレーターを目ざしているので、親として少しは知識を得ようと思って、いわば義務の心から読みはじめたのです。
 ところがところが、なんとなんと、とてつもなく面白いのです。あとで、表紙の赤いオビに山本周五郎賞受賞作と大書されていることに気がつき、なるほどなるほど合点がいきました。江戸情緒こそ本書にはありませんが、パリのセーヌ川(らしき)の情緒はたっぷりなのです。 
推理小説では決してありませんが、その仕立てだと思いますので、粗筋も紹介しないでおきます。博物館や美術館にいるキュレーターの仕事の大変さが、ひしひしと伝わってくる本ではあります。
画家を知るためには、その作品を見ること。何十時間も、何百時間もかけて、その作品と向き合うこと。コレクターほど絵に向き合い続ける人間はいない。
キュレーター、研究者、評論家、誰もコレクターの足もとには及ばない。
待って。コレクター以上にもっと名画に向き合い続ける人間がいる。誰か? 
美術館の監視員(セキュリティ・スタッフ)だ。監視員の仕事は、あくまでも鑑賞者が静かな環境で正しく鑑賞するかどうかを見守ることにある。監視員は、鑑賞者のために存在するのではなく、あくまで作品と展示環境を守るために存在している。
この本は、アンリ・ルソーの『夢』そして『夢を見た』という絵画がテーマになっています。どちらかが真作ではなく、偽作だという疑いがかかっています。それを7日間のうちに見抜かなければいけないし、それに勝てばたちまち億万長者になるというのです。
1908年、第一次世界大戦が始まる(1914年)前のフランス・パリを舞台とする描写があります。アンリ・ルソーはピカソとも親交があったようです。そして、『夢』が描かれる経緯が紹介されます。
果たして、この絵は本物なのか、偽作なのか。偽作だとしても誰が描いたのか・・・・。謎はますます深まっていくのでした。
なかなかに味わい深い絵画ミステリー小説でした。
一つの絵の解説本としても面白く読めます。巻末に参考文献も紹介されていますが、これをちょっと読んだくらいで書ける本ではないと思いました。底が深いのです。一読をおすすめします。
(2012年5月刊。1600円+税)

チェルノブイリ原発事故がもたらした人体被害

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著者   核戦争防止国際医師会議 、 出版   合同出版
 1986年、チェルノブイリ原発で大事故が発生しました。
 その処理作業に従事した人々をリクビダートル(後始末する人)と呼び、83万人いる。
 今日、大勢のリクビダートルが白血病や肺がんなどに苦しんでいる。リグビダートルとして働いたあと、車の運転中に眠りに落ちてしまうことが続いたため、仕事を辞めるしかなかったドライバーが大勢いる。発語障害、うつ病、記憶機能障害、集中力低下に苦しんでいるリグビダートルは数万人存在する。統合失調症も増加している。
 リクビダートルは、50~200ミリシーベルトの放射線に被曝していたが、これは原発労働者が10年間に受ける線量とほぼ同じである。
 ベラルーシでは、発ガン率が有意に4割増加した。とりわけ増加したガンは、大腸がん、肺がん、胆のうガン、甲状腺ガンだった。女性の乳ガン発生率も増加し、乳ガン発症年齢が若年化している。
 ところが、1991年春、200人の西側科学者と500人のロシア科学者は、放射線被曝による健康被害は発生しておらず、検診を受けた子どもたちの健康は概して良好だったという結論を出した。
 これって、日本のマスコミで、「すぐには健康被害は心配ない」と言い続けた学者と政府要人と同じですね。無責任の極みです。
 1986年、ベルリンでは異常な乳幼児死亡率の増加がみられた。
 ウクライナでは、1987年から1992年の間に、内分泌疾患は125倍、脳神経疾患は6倍、循環器疾患および神経疾患は53倍も増加した。そして、子どもと若者のI型糖尿病も急増した。
 ドイツではチェルノブイリ事故のあと、ダウン症候群をもつ新生児が有意に増加した。チェルノブイリ原発事故によって死亡した乳幼児は5000人。ドイツのバイエルン地方だけでも、1000人から3000人の先天性奇形児が超過発生した。西ヨーロッパでは1万人から2万人が流産した。
 がんの多くは、発病するまでには25~30年かかる。リクビダートルには、前立腺がん、胃がん、白血病、甲状腺がんが増えている。
日本では原発再稼働を民主党政権が執拗に企図しています。電力業界を中心とする経済界がお金にあかせて強力に後押ししているのです。そして、マスコミは経済界と一体となって電力不足キャンペーンを張って、今なお日本は原発に依存するしかないなんていう嘘を恥ずかしげもなくまき散らしています。そんなとき、チェルノブイリ原発事故によってヨーロッパとロシアで何が起きたのかを冷静に明らかにした本書を紹介するのは大きな意義があります。
 原発事故の恐ろしさには目をふさいでしまいたいのは私も同じ気分です。でも、怖いもの見たさではなく、本当に何が起きるのか知る必要があると思って読みすすめました。あなたもぜひ、手にとってお読みください。
(2012年3月刊。1600円+税)
日曜日、年2回、恒例のフランス語検定試験(1級)を受けました。試験会場となっている大学に大勢の人が入っていくのですが、それは漢検のほうでした。
 この日は、朝6時に起きて、仏検の過去問10年分を復習し、頭の中をフランス語モードに切り替えます。出張先の鹿児島から新幹線に乗って福岡に出かけ、車中でも一心不乱にフランス語に集中します。残念なことに、前に習って覚えた単語もすっかり忘れていて新鮮です。何とかフランス語の勘を取り戻したいと必死にがんばるなかで本番が始まりました。
 いつものように、文法はからきしダメです。歯が立ちません。今日はいったい何をしに来たのか、自分がみじめになります。長文読解のところで、少し分かり、作文はなんとか書き、書き取りはまあうまくいきました。
 3時間の長丁場が終わったときにはぐったり疲れました。自己採点で56点(120点満点)でした。初めて4割を超えていると思います。緊張の一日でした。

ナチスの知識人部隊

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著者   クリスティアン・アングラオ 、 出版   河出書房新社
 ナチスのユダヤ人をはじめとする虐殺の実行部隊を指揮したのは、頭脳明晰な大学出の若きエリートたちだった。彼らは美男で、輝かしく、知的で、教養があった。にもかかわらず、人間にあるまじき、人間として絶対に許されない殺戮を続けていたのです。なぜか?
 本書は、そのような80人ほどの大学出の若者たちを分析しています。
 ナチス親衛隊の保安情報機関に採用されたのは、その知性を買われてのこと。情報の収集や分析に、人文科学の知識が必要だった。また、ナチスのイデオロギーに学問的な裏づけを与え、それを正当化するのも、知識人の重要な役目だった。
 そして、SS保安部(SD)や国家保安本部(RSHA)で中心な役割を担い、その保安業務の一環として東部へ派遣されて、処刑部隊の先頭に立った。
 敵への「恐怖」や暴力に対する「慣れ」によって、人は誰でも残虐行為をエスカレートさせる可能性があることを、本書は証明しています。
これら80人の知識人たちに共通しているのは第一次世界大戦が子ども時代の根源的なトラウマになっていること。およそ10年間、日常生活は混乱をきわめた。その10年間に多感な子ども時代そして青年時代を過ごした。そして、ドイツ国民の半数が、近親者と死別する経験をした。
 1万人の学生のうち9400人、講堂やゼミナールや研究室にただ通って、自分の勉強や試験に追われているだけである。進取の気性に富む学生は600人ほどで、そのうち400人は超国家主義(ナチス)であり、残りの200人は共産主義、社会民主主義、民主主義に分かれている。
 SSの上層部は、ドイツ民族が消えようとしている。さらには抹殺されようとしていると考えていた。ロシアのボリシェヴィズムの強迫観念にもとづくパニック的な恐れがそこにあった。
 ユダヤ人といえば、混乱をひき起こし、残虐行為をおこない、放火犯であり、共産主義体制の主要な支持者であるといった三段論法的表現によって、ユダヤ人がドイツの侵略に対する潜在的レジスタンスの尖兵であるという考え方が増幅するにつれ、15歳から60歳までのユダヤ人男性が組織的に銃殺されていった。
 ところが、ユダヤ人を銃殺する処刑隊員の神経も病んでいくのでした。当然ですよね。飲酒したくらいで気が晴れるはずはありません。
 ガス・トラックにしても、死体を運び出さなければならないという重大な問題があった。それで、トラックを使うのを止めた。死刑執行人立ちの心に傷を負わせてしまうのである。
ナチスのユダヤ人大量虐殺の中心にドイツの知識人青年がいたことの意味は重いと改めて思いました。
(2012年1月刊。3200円+税)

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