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カテゴリー: ヨーロッパ

スペインのユダヤ人

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    エリー・ケドゥリー 、 出版    平凡社 
 中世ヨーロッパにおけるユダヤ人迫害史です。
 1492年、ユダヤ人はスペインから追放された。まもなく、ポルトガルからも追放された。そのころ、ユダヤ人は、イベリアの諸国王の中で卓越した地位を得ていた。資金の提供者として、また徴税官として財政面で中心的な役割を担った。社会生活全般に関与し、都市でも農村でも、追放される直前まで、あらゆる生活の場にユダヤ人はいた。
1492年3月、フェルナンドイザベルによってユダヤ人追放令が出された。
 15世紀のスペインにはコンベルソがいた。コンベルソとは、宗教的理由による迫害と、まさに追放を逃れるために改宗した人々である。
ユダヤ人追放令は、1391年。暴動に始まる一連の事件の最終結末だった。恐怖と迫害のなかで、多くのスペインのユダヤ人がキリスト教に改宗した。
 スペインの異端審問所の判決は大変に厳しかった。有罪であるとされたコンベルソには死刑が言い渡されることがあった。そして、有罪判決は、有罪とされた人物の財産を国益のために没収することを意味した。
 1481年から1488年のあいだに700人以上のコンベルソが火焙りとなり、5000人以上が教会と和解した。スペインの異端審問が廃止されたのは1834年のこと。1808年までに、3万2000人の異端者が火刑になったと推定されている。その大部分がコンベルソであったと思われる。
火刑になると分かっていても、自分の信仰は捨てなかった人が、こんなにいたのですね・・・。驚きます。それにしても25年間で3万2000人の火刑だなんて、1年間にすると1280人。1ヵ月に100人以上だなんて、いくらなんでも大変な火刑ですよね。
ポルトガルの王は、ユダヤ人を一括して強制的に改宗したことにした。だから、ポルトガルのユダヤ人全体が一気に新キリスト教徒になった。こうした緊急避難的な改宗のために、ポルトガルでは、ユダヤ教の知識・伝統・社会的ネットワークが、禁圧と秘密主義の被いの下に生き残った。
16世紀末から、アムステルダムに、ポルトガルのユダヤ人たちが定住し、なんの妨げもなくユダヤ教が許された。ポルトガルからオランダに逃れてきた隠れユダヤ教徒は、新キリスト教徒として1世紀以上も暮らしたあと、真のユダヤ教にもとづくユダヤ人共同体をアムステルダムに再建することができた。
ユダヤ人がスペインの国庫と金融業の大半を支配したというのは誤解である。しかし、その一方、最有力のユダヤ人が他の追随を許さない技術力と才覚をもっていたことも事実である。金融業の才覚のまったくないユダヤ人もいたし、キリスト教徒の金融業者もたしかに存在した。
 ユダヤ人は、生まれながらにしてキリスト教徒以上の金融業者として才覚を有していたわけではなかった。しかし、親族関係に支えられて金融業に携わったので、一度この業務に習熟すると、その才能は代々継承されていった。
 「奴隷」としてのユダヤ人は、しばしば王権の保護下に置かれ、ユダヤ人共同体は内政面での広範な自治権を保障された。
 15世紀初めのスペインのアラゴン王の宮廷にはユダヤ人の用人たち、金融家。占星技術士師、ライオン使い、医者がいた。15世紀のスペインにおいて、都市ではユダヤ人の徴税請免人や医者はごく普通の存在だった。
 1492年以前から、側近にユダヤ人の財務官や医者を抱えていた国王は、1492年以降も改宗したユダヤ人を顧問官に置き、1508年には、行政におけるコンベルソへの信頼を公然と表明している。反ユダヤ主義はイベリア社会で持続した。だが、追放令の目的は、ユダヤ人を排除することではなく、彼らを強制的に教会のメンバーに入れさせることだった。コンベルソの企業家たちは、新世界、アフリカ、そして極東に支店を置き、香料、砂糖、コーヒー、カカオ豆、奴隷プロゲード、刺繍製品その他を輸入し、取引した。
コンベルソは、どこにいっても異端審問所に追いかけられた。異端審問所は、メキシコシティー、リマー(ペルー)、コロンビア、ブラジルそしてゴアに裁判所をもっていた。
イベリア半島からのユダヤ人追放令のもっとも恐るべき結果は、コンベルソの増加にあった。多くのユダヤ人は流涙の民になるより残留を選択した。スペインのキリスト教徒は、異端審問所を介して改宗者を以前の宗教であるユダヤ教から完全に引き離そうと努めた。
 しかし、コンベルソは、このあと3世紀にわたって、常にフダイサンテ、つまり隠れユダヤ教徒として多くの人々から疑惑の目で見られた。
 1494年から1530年にバレンシアで有罪判決を受けた1997人のうち909人(45.5%)は死刑が宣告され、うち754人は実際に処刑された。多数のフダイサンテが現実に存在していた。
 また、貴族のメンバーで、コンベルソの先祖をもたない者はほとんどいなかった。
 キリスト教徒とユダヤ人との意外に微妙な関係を知ることができる本でした。
(1995年12月刊。2816円+税)
 一日ゆっくり神田の書店街を歩いてきました。今回は、古書店はざっと眺めるだけにして、新書を売る大きな店に入りました。福岡にも、もちろんありますが、あまりにも大きな書店に入ると、大量の本に圧倒されて、かえっていい本にめぐりあわないことがあります。神田の裏通りにある本屋は独特の並べ方をしていて、ここには何かいい本に出会える、そんな期待をもたせてくれます。
 いい本は背文字で訴えてきます。それが手積みされていて、表紙まで見れたら、強烈な自己アピールを感じます。そのオーラを感じたらすぐに手を伸ばし、手にとってみます。写真があったら、それを眺め、目次をみて、ぱらぱらと本文をめくってみます。
 感じるときには、もう手放せません。勘定場に直行します。あのとき、買っておけばよかったなんてあとで後悔しないようにするためです。

ネゴシエイター

カテゴリー:ヨーロッパ

著者    ベン・ロペス 、 出版    柏書房 
 さすが、交渉のプロは目のつけどころが違うなと感嘆しながら読んだ本です。テーマは身代金目的の誘拐事件で、犯人といかに冷静に交渉するか、というものです。
 誘拐事件は、毎年2万件が報告され、当局に通報されるのは1割のみ。
誘拐事件の半数以上がラテンアメリカで起きている。メキシコでは毎年7000件の誘拐事件が報告されている。実際には、もっと多い。コロンビアでは1日に10件の誘拐事件が発生している。
 ラテンアメリカで救出作戦によって無事に生還する人質は21%。誘拐事件の7割は身代金の支払いで解決している。力ずくでの人質救出は10%のみ。誘拐は、ウィークデイの午前中、被害者の自宅ないし仕事場あたりで起きる。
 誘拐の被害にあうのは地元の人間であって、海外居住者や旅行者ではない。
ロンドンでは、誘拐に備える保険の保険料が年間1億3000万ドルにもなる。ブラジルは、年間の誘拐発生件数が世界第3位。サッカー選手の家族が狙われるようになった。
 ネゴシエイター(交渉人)には、破るべからず大切な二つの黄金律がある。一つは銃を使わないこと。二つ、自分自身で交換をおこなわないこと。
現場に出た交渉人は待つことに耐えなくてはならない。誘拐犯がもつ最強の武器の一つが待たせること。誘拐犯が再び連絡してくるまで、何週間もかかることがある。数ヶ月あるいは数年ということもある。たいていの場合、待つのは拷問に等しく、コンサルタントに大きなプレッシャーがかかる。しかし、どんなときにもどっしりかまえていなければならない。少なくとも、そう見えるようでなくてはいけない。
交渉人は話し上手でなければならないと思われている。しかし、もっと重要なことは、聞き上手であること。電話で、向こうの言うのに耳を傾けることだ。
睡眠を奪うことは、誘拐犯が使用できる、きわめて効果的な拷問手段だ。
 人質は、たいてい、もっとも基本的な人間の機能を奪われる。そして内に秘めた不屈の精神をくじかれる。もし、誰かを手なずけたければ睡眠を奪うのが、何よりてっとり早く、有効な方法だ。
個人富裕層を狙った誘拐は、かなり高度な計画が求められる。犯罪者たちは、時間をかけて標的となる人物の習慣や日課、警備状況などの情報を集める。
交渉人として事件を担当することを合意して最初にすることは何か?それは、小便である。合意した瞬間から、次はいつ小便するチャンスがあるか分からないからだ。
スケジュールはサディスト的にすさまじいものになり、全エネルギーと時間を事件の解決に集中させることになる。交渉人のいる部屋は、危機管理室となり、一般人の立ち入り禁止、鍵がかかり、無期限で24時間つかえ、電話とインターネットがつながっていて、コンピュータープリンターそれから、たくさんの電源ソケットがあり、誘拐犯との会話はすべて録音できることが必要だ。さらには、防音装置のあることが望ましい。
 生存確認のもっとも良い方法は、電話で人質と話すこと。人質しか答えを知りえない質問する。
 決して、こちらから電話を切らない。常に誘拐犯が電話を切るのを待つ。彼らが切り忘れる可能性があり、いつの間にか犯人たちの個人的な話が聞こえてきて、交渉の場で優位に立てるかもしれないからだ。
 交渉人は、ふつうは誘拐犯の言い値の10%にまで下げさせる。時間は交渉人の味方である。
 誘拐犯との交渉を指揮官にさせてはならない。その下位にいるものなら、「まずボスに相談しなければ・・・」と言って牛歩戦術を使える。
なーるほど、誘拐犯との交渉にあたる交渉人が職業として成り立つ理由がよく理解できました。
(2012年7月刊。2200円+税)

人生と運命(2)(3)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ワシーリー・グロスマン、 出版    みすず書房 
 スターリングラード。予備の兵力からやってきた部隊をよく考えずに先を急いでいきなり戦闘に投入したことを隠すために、部隊のほとんど無駄ともいえる死を隠すべく、士官は上層部にお定まりの報告を送った。
 「到着後、直ちに投入された予備の部隊の戦闘行動は、敵の進撃をしばし食い止め、本官に託された部隊の再編を実行可能にした」
 1937年.スターリンの粛清が続いている。前の晩に逮捕された人々の名前がほとんど毎日のように取りざたされていた。
 「今日、夜にアンナ・アントレーエヴナのご主人が病気になって・・・」
 そんなふうにして逮捕について互いに電話で知らせあっていた。スターリンの粛清。文通の権利剥奪10年の判決。これは銃殺を意味していた。ラーゲリのなかには、文通の権利剥奪10年の刑を受けている囚人は一人もいなかった。
ロシアの重砲、迫撃砲そして武器貸与法によってアメリカから入手したドッジとフォードのトラックの縦隊がスターリングラードの方向へ向かうのを数百万の人々が目にした。ドイツ軍は、スターリングラードへの部隊の移動を知っていた。だが、スターリングラードでの攻勢はドイツ軍には分からないままだった。スターリングラード地域でのドイツ軍包囲は、ドイツ軍の中尉と元師たちにとっては寝耳に水だった。
 スターリングラードの赤軍は、もちこたえ続けた。大量の兵員が投入されたにもかかわらず、ドイツ軍の攻撃は決定的な成果を上げなかった。じり貧状態のスターリングラードの赤軍諸連隊は、わずか数十人の赤軍兵士が残るだけだった。恐ろしい戦闘の極度の重圧をその身に引き受けた、この数十人の兵士こそが全ドイツ軍のすべての想定を狂わせる力だった。
 1941年12月、モスクワでのドイツ軍への勝利によって、ドイツ軍に対するいわれなき恐怖は終わった。スターリングラードでの勝利は、軍と住民が新しい自意識をもつ助けとなった。ソヴィエトのロシア人は、自分自身について、これまでとは違った理解をするようになった。
この時期、国家ナショナリズムのイデオロギーを公然と宣言するチャンスをスターリンに与えた。かつて、ドイツ人はロシアの百姓家の貧しさを笑いものにした。しかし、今の、捕虜のドイツ人はぞっとするほどひどかった。
 「ドイツ野郎たちには自業自得だ」
 「我々がドイツ人を呼んだわけではない」
 1000年のあいだ、ロシアは徹底した専制と独裁の国だった。ツアーリと寵臣たちの国だった。しかし、ロシア1000年の歴史に、スターリンの権力と似た権力はなかった。
 スターリン、偉大なるスターリン。もしかしたら、鉄の意志の男は誰よりも意志の弱い男であるのかもしれない。
 ええーっ、こんなことをまだスターリンが生きているうちに書いたソ連作家がいたなんて、信じられませんね。これでは発禁になるのも当然ですね。
スターリンが党大会の休憩時間にどうして懲罰政治の行き過ぎを許したりしたのかとエジョフに質問した。うろたえたエジョフは、スターリンの直接の指示を実行していたのですと答えた。スターリンは、取り囲んだ諸代表のほうを見ながら、悲しそうに、「こんなことを言うやつが党のメンバーなのだからね」と口にした。
 この『人生と運命』を書くことで、グロスマンは、ドイツのナチズムとソヴィエトのスターリン主義が同じ全体主義のカテゴリーにくくられるという結論にたどり着く。そのうえで人間の自由への希求が変わらぬままであることが、国家の独裁に対する人間の永久的な勝利を約束すると言い切った。
 ヒトラー・ドイツと戦ったスターリンのソ連が両者よく似た体質をもっていることを明るみに出しながら、同時進行でいくつものストーリーが展開していく大長編小説です。
(2012年3月刊。4500円+税)

灰色の地平線のかなたに

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ルータ・セペティス 、 出版   岩波書店
 第二次世界大戦の最中のことです。スターリン・ソ連の命令によってリトアニアの人々がいきなりシベリア送りになるのでした。私はそんなことがあったとは知りませんでした。スターリンが、気にくわない民族を勝手に動かしていたことは知っていましたが、そのなかにリトアニアの人々も対象になっていたのでした。
 この本はシベリアに送られたリトアニア人の苦難の日々が語られ、読みすすめられるのは辛いものがありました。多くの日本兵が戦後、シベリアに連行され、強制労働させられたのとまるで同じだと思いながら読みすすめていきました。
 1940年、ソ連はリトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト三国を占領した。そして、反ソビエト的と考えられる人々の名簿をつくり、殺すか、刑務所へ送るか、シベリアに追放して重労働に従事させるかした。人口の3分の1もの人々が亡くなった。
 追放されたリトアニア人は、シベリアで10年から15年間を過ごした。1953年にスターリンが亡くなり、1956年ころまでに故郷に戻ることができた。しかし、故郷にはソ連の人々が住みついていた。そして、シベリアでの辛い経験を口外することは許されなかった。
1991年、ようやくバルト三国は独立を取り戻した。50年間もソ連の残酷な占領下にあった。
本の表紙に書かれている一節を紹介します。
第二次世界大戦中のリトアニア。画家を目指していたら15歳のリナは、ある晩、ソ連の秘密警察に捕まり、シベリアの強制労働収容所へ送られる。
極寒の地で、過酷な労働と飢え、仲間の死に耐えながら、リナは、離ればなれになった大好きな父親のために、そして、いつか自由になれる日を信じて、絵を描きためていく。
不幸な時代を懸命に生きぬいた、少女と家族の物語。
作者は、父親がリトアニアからの亡命者だというアメリカ人です。取材して書きあげたというわけですが、実体験がそのまま紹介されていると思わせるほど迫真の描写です。
(2012年1月刊。2100円+税)

人生と運命(1)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ワシーリー・グロスマン  、 出版   みすず書房
 ソ連赤軍の従軍記者として名高いグロスマンのスターリングラード攻防戦を舞台とする長編小説です。グロスマンはユダヤ人の作家でしたから、必ずしも身の安全は保障されていませんでした。それを文才で乗り切ったのです。
 グロスマンのスターリングラードの従軍記事は、戦時中もっとも読まれた赤軍の週刊誌である『赤い星』に定期的に連載され、グロスマンの名前は軍においても銃後においても広く知られるところとなった。そのため、スターリンはグロスマンが好きではなかったにもかかわらず、それを『プラウダ』に転載するように命じた。
 グロスマンは好ましいソヴィエト作家というわけではなかった。戦時中から、グロスマンの作品のいくつかは党の精神にまったくそぐわないものだった。グロスマンはユダヤ人であり、しかも非党員のユダヤ人であった。グロスマンの作品は出版されなくなった。活字にするのがますます困難になっていくにもかかわらず、グロスマンは仕事をやめなかった。
 グロスマンの書いたものは1953年、スターリンの死後に初めて刊行された。しかし、それはまったく別の作品になっていた。そして、1961年に家宅捜索され、小説は没収された。1962年、グロスマンはフルシチョフに手紙を書いて訴えた。
 1962年、ソ連共産党の幹部であったスースロフがグロスマンを引見し、あなたの本を出版するのは不可能だと言い渡した。
 1964年9月、グロスマンは病死した。その直前、外国でもよいから出版してほしいと友人たちに最後の頼みをした。そして、ついに1988年、本書は出版された。
 本書はスターリングラード戦を舞台としているのに、戦闘場面は読者の期待を大きく裏切ってほとんど出てこない。グロスマンにとっての告白の書でもある本書には、多くの自伝的要素が率直に書かれている。
グロスマンの小説においては、運命は人々を非人間化したり従順な大衆に変えたりはするが、運命は自覚的な人間の選択なのである。
人間は際限のない暴力の前では従順になることを明確に知ったうえで、人間と人間の未来の理解のために意義のある最終結論を出す必要がある。
自由に対する人間の自然な希求は根強く、弾圧はできるが、根絶はできない。
全体主義は暴力を手放すことができない。暴力を手放せば、全体主義は死ぬのである。直接的あるいは偽装されたかたちで永遠に続く絶えざる圧倒的暴力が全体主義の基礎である。
人間は自らの意志で自由を放棄することはない。この結論のなかにこそ、われわれの時代の光、未来の光がある。
3巻本のうちの1巻で、ぎっしり500頁という大作です。
(2012年1月刊。4300円+税)
愛されている実感に乏しい子どもたち
 稚内の校長先生は、今の子どもたちは淋しい、愛されているという実感に乏しいと、何回も繰り返していました。
 また、最近は子どもたちが荒れない。それがかえって心配だといいます。そんな荒れる力まで失っているのではないか・・・。本当だったら、心配ですね。
 久しぶりに校舎に落書きがあり、トイレットペーパーが詰まらせた。あの子たちだなと見当がつく。その子たちへの指導のきっかけにしよう。非行のサインを見落とさず、しめしめと手ぐすねひいている校長。先生の話を聞いて、いかにも頼もしい教師集団だと思いました。
 人材育成なんていう、エリート養成ではなく、子どもたちをまるごと受けとめる教育実践が稚内にあるのを知って、心からうれしくなりました。教育委員が、それを上からの統制ではなく、下から支えているのです。

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