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カテゴリー: ヨーロッパ

人生と運命(2)(3)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ワシーリー・グロスマン、 出版    みすず書房 
 スターリングラード。予備の兵力からやってきた部隊をよく考えずに先を急いでいきなり戦闘に投入したことを隠すために、部隊のほとんど無駄ともいえる死を隠すべく、士官は上層部にお定まりの報告を送った。
 「到着後、直ちに投入された予備の部隊の戦闘行動は、敵の進撃をしばし食い止め、本官に託された部隊の再編を実行可能にした」
 1937年.スターリンの粛清が続いている。前の晩に逮捕された人々の名前がほとんど毎日のように取りざたされていた。
 「今日、夜にアンナ・アントレーエヴナのご主人が病気になって・・・」
 そんなふうにして逮捕について互いに電話で知らせあっていた。スターリンの粛清。文通の権利剥奪10年の判決。これは銃殺を意味していた。ラーゲリのなかには、文通の権利剥奪10年の刑を受けている囚人は一人もいなかった。
ロシアの重砲、迫撃砲そして武器貸与法によってアメリカから入手したドッジとフォードのトラックの縦隊がスターリングラードの方向へ向かうのを数百万の人々が目にした。ドイツ軍は、スターリングラードへの部隊の移動を知っていた。だが、スターリングラードでの攻勢はドイツ軍には分からないままだった。スターリングラード地域でのドイツ軍包囲は、ドイツ軍の中尉と元師たちにとっては寝耳に水だった。
 スターリングラードの赤軍は、もちこたえ続けた。大量の兵員が投入されたにもかかわらず、ドイツ軍の攻撃は決定的な成果を上げなかった。じり貧状態のスターリングラードの赤軍諸連隊は、わずか数十人の赤軍兵士が残るだけだった。恐ろしい戦闘の極度の重圧をその身に引き受けた、この数十人の兵士こそが全ドイツ軍のすべての想定を狂わせる力だった。
 1941年12月、モスクワでのドイツ軍への勝利によって、ドイツ軍に対するいわれなき恐怖は終わった。スターリングラードでの勝利は、軍と住民が新しい自意識をもつ助けとなった。ソヴィエトのロシア人は、自分自身について、これまでとは違った理解をするようになった。
この時期、国家ナショナリズムのイデオロギーを公然と宣言するチャンスをスターリンに与えた。かつて、ドイツ人はロシアの百姓家の貧しさを笑いものにした。しかし、今の、捕虜のドイツ人はぞっとするほどひどかった。
 「ドイツ野郎たちには自業自得だ」
 「我々がドイツ人を呼んだわけではない」
 1000年のあいだ、ロシアは徹底した専制と独裁の国だった。ツアーリと寵臣たちの国だった。しかし、ロシア1000年の歴史に、スターリンの権力と似た権力はなかった。
 スターリン、偉大なるスターリン。もしかしたら、鉄の意志の男は誰よりも意志の弱い男であるのかもしれない。
 ええーっ、こんなことをまだスターリンが生きているうちに書いたソ連作家がいたなんて、信じられませんね。これでは発禁になるのも当然ですね。
スターリンが党大会の休憩時間にどうして懲罰政治の行き過ぎを許したりしたのかとエジョフに質問した。うろたえたエジョフは、スターリンの直接の指示を実行していたのですと答えた。スターリンは、取り囲んだ諸代表のほうを見ながら、悲しそうに、「こんなことを言うやつが党のメンバーなのだからね」と口にした。
 この『人生と運命』を書くことで、グロスマンは、ドイツのナチズムとソヴィエトのスターリン主義が同じ全体主義のカテゴリーにくくられるという結論にたどり着く。そのうえで人間の自由への希求が変わらぬままであることが、国家の独裁に対する人間の永久的な勝利を約束すると言い切った。
 ヒトラー・ドイツと戦ったスターリンのソ連が両者よく似た体質をもっていることを明るみに出しながら、同時進行でいくつものストーリーが展開していく大長編小説です。
(2012年3月刊。4500円+税)

灰色の地平線のかなたに

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ルータ・セペティス 、 出版   岩波書店
 第二次世界大戦の最中のことです。スターリン・ソ連の命令によってリトアニアの人々がいきなりシベリア送りになるのでした。私はそんなことがあったとは知りませんでした。スターリンが、気にくわない民族を勝手に動かしていたことは知っていましたが、そのなかにリトアニアの人々も対象になっていたのでした。
 この本はシベリアに送られたリトアニア人の苦難の日々が語られ、読みすすめられるのは辛いものがありました。多くの日本兵が戦後、シベリアに連行され、強制労働させられたのとまるで同じだと思いながら読みすすめていきました。
 1940年、ソ連はリトアニア、ラトヴィア、エストニアのバルト三国を占領した。そして、反ソビエト的と考えられる人々の名簿をつくり、殺すか、刑務所へ送るか、シベリアに追放して重労働に従事させるかした。人口の3分の1もの人々が亡くなった。
 追放されたリトアニア人は、シベリアで10年から15年間を過ごした。1953年にスターリンが亡くなり、1956年ころまでに故郷に戻ることができた。しかし、故郷にはソ連の人々が住みついていた。そして、シベリアでの辛い経験を口外することは許されなかった。
1991年、ようやくバルト三国は独立を取り戻した。50年間もソ連の残酷な占領下にあった。
本の表紙に書かれている一節を紹介します。
第二次世界大戦中のリトアニア。画家を目指していたら15歳のリナは、ある晩、ソ連の秘密警察に捕まり、シベリアの強制労働収容所へ送られる。
極寒の地で、過酷な労働と飢え、仲間の死に耐えながら、リナは、離ればなれになった大好きな父親のために、そして、いつか自由になれる日を信じて、絵を描きためていく。
不幸な時代を懸命に生きぬいた、少女と家族の物語。
作者は、父親がリトアニアからの亡命者だというアメリカ人です。取材して書きあげたというわけですが、実体験がそのまま紹介されていると思わせるほど迫真の描写です。
(2012年1月刊。2100円+税)

人生と運命(1)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ワシーリー・グロスマン  、 出版   みすず書房
 ソ連赤軍の従軍記者として名高いグロスマンのスターリングラード攻防戦を舞台とする長編小説です。グロスマンはユダヤ人の作家でしたから、必ずしも身の安全は保障されていませんでした。それを文才で乗り切ったのです。
 グロスマンのスターリングラードの従軍記事は、戦時中もっとも読まれた赤軍の週刊誌である『赤い星』に定期的に連載され、グロスマンの名前は軍においても銃後においても広く知られるところとなった。そのため、スターリンはグロスマンが好きではなかったにもかかわらず、それを『プラウダ』に転載するように命じた。
 グロスマンは好ましいソヴィエト作家というわけではなかった。戦時中から、グロスマンの作品のいくつかは党の精神にまったくそぐわないものだった。グロスマンはユダヤ人であり、しかも非党員のユダヤ人であった。グロスマンの作品は出版されなくなった。活字にするのがますます困難になっていくにもかかわらず、グロスマンは仕事をやめなかった。
 グロスマンの書いたものは1953年、スターリンの死後に初めて刊行された。しかし、それはまったく別の作品になっていた。そして、1961年に家宅捜索され、小説は没収された。1962年、グロスマンはフルシチョフに手紙を書いて訴えた。
 1962年、ソ連共産党の幹部であったスースロフがグロスマンを引見し、あなたの本を出版するのは不可能だと言い渡した。
 1964年9月、グロスマンは病死した。その直前、外国でもよいから出版してほしいと友人たちに最後の頼みをした。そして、ついに1988年、本書は出版された。
 本書はスターリングラード戦を舞台としているのに、戦闘場面は読者の期待を大きく裏切ってほとんど出てこない。グロスマンにとっての告白の書でもある本書には、多くの自伝的要素が率直に書かれている。
グロスマンの小説においては、運命は人々を非人間化したり従順な大衆に変えたりはするが、運命は自覚的な人間の選択なのである。
人間は際限のない暴力の前では従順になることを明確に知ったうえで、人間と人間の未来の理解のために意義のある最終結論を出す必要がある。
自由に対する人間の自然な希求は根強く、弾圧はできるが、根絶はできない。
全体主義は暴力を手放すことができない。暴力を手放せば、全体主義は死ぬのである。直接的あるいは偽装されたかたちで永遠に続く絶えざる圧倒的暴力が全体主義の基礎である。
人間は自らの意志で自由を放棄することはない。この結論のなかにこそ、われわれの時代の光、未来の光がある。
3巻本のうちの1巻で、ぎっしり500頁という大作です。
(2012年1月刊。4300円+税)
愛されている実感に乏しい子どもたち
 稚内の校長先生は、今の子どもたちは淋しい、愛されているという実感に乏しいと、何回も繰り返していました。
 また、最近は子どもたちが荒れない。それがかえって心配だといいます。そんな荒れる力まで失っているのではないか・・・。本当だったら、心配ですね。
 久しぶりに校舎に落書きがあり、トイレットペーパーが詰まらせた。あの子たちだなと見当がつく。その子たちへの指導のきっかけにしよう。非行のサインを見落とさず、しめしめと手ぐすねひいている校長。先生の話を聞いて、いかにも頼もしい教師集団だと思いました。
 人材育成なんていう、エリート養成ではなく、子どもたちをまるごと受けとめる教育実践が稚内にあるのを知って、心からうれしくなりました。教育委員が、それを上からの統制ではなく、下から支えているのです。

ローズ・ベルタン

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ミシェル・サポリ 、 出版   白水社  
 舞台はフランス大革命の前夜のフランスです。かの有名なマリー・アントワネットに仕え、モード大臣とも呼ばれた女性が主人公です。
 ローズ・ベルタンは奇抜なファッションで、当時の上流階級の女性を夢中にさせました。そして、宮廷が衣装に費やす費用は膨大なものとなったのです。といっても、モード大臣の下では大勢の庶民が働いていたのです。それはフランス国内だけでなく、イギリスの片田舎にまで及んでいました。冨はいくらか循環していたのです。
 フランスの片田舎に生まれて花の都パリに上ってきた貧しい女の子がお針子さんからブティックの店員そして王女の衣装係にまでなって、ついには全ヨーロッパの王室を相手として商売していたのです。その並外れた想像力(デザイン)はたいしたものですよね。
 王妃アントワネットに対して、母のマリア・テレジアは次のように忠告した。
「身だしなみには常に気をつけるように。あなたの年齢で身だしなみに関心がないなどというのは、もってのほかです。自分の立場をわきまえるように。フランスの王族方が長い間陥っている愚かな習慣に、あなたも染まってしまうようなことには、絶対になってほしくないのです。体型にも、体裁にも、決して怠慢な態度をとらないように。ヴェルサイユをリードするのは、あなたなのです」
 ローズ・ベルタンは、15年間、ほとんど毎日、王妃アントワネットと二人きりで顔をあわせた。国王のそばに商人が出入りするのは、宮殿の規則で厳しく禁じられていた。ところが、ベルタンは王妃の寝室に足を踏み入れていたようだ。
 1778年、ベルタンは宮廷で「モード大臣」の称号を得た。ベルタンは、間接的に現実の権力を手にした。アントワネットが王妃だった時代の女性の肖像画を見ると、ほとんどすべて、お気に入りのモード商ベルタンの衣装をまとっている。ベルタンの店は、「ムガール帝国」という名前だった。華々しいショーウィンドウによって道行く人々の目を楽しませ、購買意欲をかきたてた。店の正面には大きな字で「妃殿下御用達」と揚げていた。
 仕立て屋とモード商の違いは、石土と建築家との違いのようなもの。ベルタンは針をもったわけではなく、ひたすらアイデアを生み出した。
 ベルタンは、1776年9月に協同組合ができたとき、序列の頂点に立った。そこで、絶大な権力を行使し、絶対的な影響力をもって、政府に対しても商人たるブルジョワジーの一代表者となった。
モード商の仕事は製造業ではなく、職人たちが生産した商品をさらに輝かせること。ベルタンは固定給で終身雇用の社員を30人も雇っていた(1779年)。そして、取引先の業者は120(最大734)もいた。
フランスの大革命が始まるとさすがのローズ・ベルタンも没落してしまいますが、最後までマリー・アントワネットに差し入れしていたようです。偉いものですね。
 知られざるフランス大革命直前のパリのモード社会を知ることができました。
(2012年2月刊。2200円+税)

第一次世界大戦(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   ジャン・ジャック・ベッケール、 出版    岩波新書 
 今ではフランスとドイツが戦争するなんてとても考えられません。でも、わずか100年前は、両国民はお互いに敵とみて殺せ、殺せと叫んでいたのですよね。不思議な気がします。
 第一次大戦の根本的な特徴は、それが兵器の戦争になったこと。大砲が主役となった。フランスの戦死者の7%が砲弾によるものだった。フランス軍には、360万の負傷と280万人の負傷者が記録されている。これは、かなりの負傷者が2度以上、負傷していることを意味する。そして、フランスの負傷者の14%は顔面を負傷している。
毒ガスをつかいはじめたのは、1915年4月、ドイツ軍だった。しかし、多くのドイツ軍上級将校は、むしろ、それに抵抗しており、すすんで使用しようとしたのではない。
 1918年におけるドイツ軍の準備砲撃で使用された砲弾の4分の3がガス弾だった。フランス軍が始めてガス砲弾を使用したのは1915年9月からで、ドイツ軍が使ってわずか5ヵ月後だった。
 ドイツは大砲の砲弾に4万8000トンの化学物質を使用したのに対して、フランスは半分の2万3000トンだった。毒ガス被害者の数は限りなく大きかった。フランスの死傷者は13万人、ドイツは10万7000人だった。
 フランス軍とドイツ軍は塹壕で相対峙した。ときにわずか数メートル、一般に数百メートル離れていた。フランスの塹壕は完成度がもっとも低かった。最低の衛生条件。気候への隷属。冬の寒さ、季節の雨。泥は強迫観念となった。
 1916年のヴェルダンの戦闘は、フランスとドイツの間の恐るべき、空前絶後の殺戮の象徴になった。ヴェルダンでのドイツ軍の準備砲撃は「肉ひき器」と呼ばれたが、その砲火の雨にもかかわらず、敵を壊滅させるのに成功しなかった。
 1916年2月から12月までも続いたヴェルダンの戦闘において、フランス軍は戦死者16万人をふくむ40万人の兵士が犠牲となった。ドイツ軍は戦死者14万人をふくむ33万人が犠牲となった。全体として、1916年に130万人の兵士が死傷した。100万の戦死。
ドイツ軍から、1917年と1918年に10万人の脱走兵があった。これはドイツ兵全体の1320万人に比べると、驚くほど少ない。ドイツの軍事裁判官は48件しか死刑宣告しなかった。
 フランス軍では、反乱した兵士に対する554人の死刑判決のうち、執行されたのは49人のみ。反乱者の大部分は戦争に対して抗議したのではなく、しばしば無為に戦死させられるやり方に対して抗議していた。
 1918年、終戦による講和会議の展開と条約の条文はドイツ軍に憤慨を引き起こした。フランス人は喜んでよさそうだが、実際には違っていた。フランス人の態度は複雑だった。フランスの国会で条約は1919年10月、372対53票で批准された。反対票のうち49票は社会党だった。
 戦争が終わったとき、フランスとフランス社会は間違いなく貧しくなっていた。貧窮の主要な犠牲者は、中産階級だった。
フランスは戦勝国でありながら、勝利を祝うことはまれだった。
ドイツは、戦争で若者の相当な部分を犠牲にした。200万人の死者、400万人の負傷者である。戦争はドイツ領ほとんど及ばなかったため、日常生活から遠く、切り離されたものだった。よく理解されていないままの戦争だったから、勝者が求めた賠償金の金額に対するドイツ人の抗議は激しかった。戦後、700万の兵士がドイツへ復員した。ドイツでは、ワイマール共和国が存在した全期間を通じて不当な敗北の心の責任者という、左翼に対する非難は人々の心につきまとっていた。
 1919年1月にベルリンで起きたスパルタクス国の反乱の鎮圧は、この増悪にみちた暴力を反映している。社会民主党政権と共産党との関係は裂け目が常に刻印されていた。
 1933年のヒトラーの政権得票まで、左翼政党のあいだに討たれた裂け目を乗りこえることはできなかった。ワイマール共和国が受けた襲撃に対して共同戦争を作ることはできなった。そして、労働者が離れていった。
 なぜ、ヒトラーがドイツで選挙によって政権を握ったのか、少し分かったように思いました。
(2012年3月刊。3200円+税)
 アメリカの映画館のなかでバットマン映画の上映中に銃を乱射する男がいて、何人もの人が亡くなりました。
 これで銃規制が強まるかと思うと、かえって銃が一般市民に飛ぶように売れているとのことです。その発想は、映画館のなかで銃をぶっ放す男がいたら、そいつをすぐにうち殺せばいいんだというものです。でも、映画館内で撃ちあいになればなれば、さrに被害者は拡大するのは必至ですよね。
 アメリカって、つくづく野蛮な国だと思いました。

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