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カテゴリー: ヨーロッパ

トロツキー(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロバート・サーヴィス 、 出版  白水社
大学生時代、私にとってトロツキストというのは暴力学生であり、権力と通じて街頭で派手に暴れまわり、心ある人々を困らせる存在というイメージでした。この本は、トロツキーの素顔に迫っています。大変興味深く読みました。ただし、上巻だけで400頁もの大作です。
 トロツキーは、政治の空を駆け抜けるまばゆい彗星のようだった。誰が見ても、トロツキーはロシア革命でもっとも弁舌の立つ人物だった。トロツキーは10月に臨時政府を打倒した軍事革命委員会を率いた。赤軍の創設に誰よりも貢献した。トロツキーは、レーニンとお互いに反目もした。
 トロツキーは1929年にソ連を追放され、ソビエト国家のどこがおかしくなったのか、というトロツキーの分析は外国では影響力を持ち続けた。トロツキストは、政治状況が許せば、どこでも登場した。
 スターリンは、トロツキーを十月革命の敵として描き、1936~38年の見世物裁判で有罪宣告をし、ソビエト諜報機関に暗殺を命じた。そして1940年、暗殺に成功した。
存命中のトロツキスト集団は政治的にはごくわずかな影響力しか及ばさなかった。そして、トロツキーの死後、運動はジリ貧となった。
1968年にヨーロッパとアメリカの学生運動が起きて、一瞬だけトロツキーは復権したが、年末には沈静化した。これが私の大学生のころのことです。一瞬だけ、だったんですね・・・。
ソ連では嫌悪され続けたが、1988年にゴルバジョフがトロツキーの政治的な名誉を回復した。西側のトロツキストは、相変わらず従党を組んで遁走に明け暮れ、しばしばトロツキーなら飛びあがったはずの思想を喧伝した。トロツキーは、暗殺されたことによって政治的な殉教者となり、おかげで通常なら疑問を抱いたはずの著述家も好意的に解釈してくれた。
 スターリン、トロツキー、レーニンは、反目する部分より、共通する部分のほうが多かった。スターリンではなく、トロツキーがソビエトの至高の指導者になっていたとしたら、ヨーロッパにおける大流血のリスクは大幅に高まっただろう。
トロツキーの傑出した能力には疑問の余地はない。見事な演出家で、オルグ家としても指導者としてもすばらしかった。だがトロツキーだって聖人君子などではない。独裁権力と恐怖政治への指向は、内戦時代には露骨なほどだった。
 トロツキーは、23歳までレイバ・ブロンシュテインだった。自分がユダヤ人の出身なのを否定はしなかった。両親は、その地方で有数の農民だった。
 ブロンシュテイン家は、近所でもっとも豊かなユダヤ人だった。父親は、あまり熱心なユダヤ教徒ではなかったので、子どもをキリスト教の学校に平気で通わせた。
 レイバは、いったん教わったことは、ほとんど忘れなかった。
 トロツキーは、1902年、パリに到着した。そこでトロツキーは演説し、華々しい大成功をおさめた。聴衆を魅了する才能を示した。そして、人もうらやむ速筆ぶりだった。
 どこへ行っても、トロツキーは大成功をおさめた。
 プレハーノフは、心底からトロツキーを嫌った。老いたプリマドンナは頭角をあらわし始めた新しいプリマドンナを嫌うものだ。
 1904年に日露戦争が始まると、トロツキーは、日本との戦争は国益全般に被害を与えたと主張した。トロツキーは、日露戦争は革命の見通しを高めたと判断した。トロツキーはレーニンに刃向かい、そのことによってボリシェヴィキの敵対者たちからの評価を高めた。
 1908年、ロンドンにいたトロツキーは、どの派閥にも属さないと宣言し、メンシェヴィキとボリシェヴィキの双方の戦略を糾弾した。だから、トロツキーは、党中央委員に選出されなかったが、それも当然だった。それでもトロツキーは、党内に居場所を失ってはいなかった。相変わらず、党全体の融和を主張していた。だが、党内の多くの人にとって、トロツキーは、日和見主義に見えた。どちら側の意見もオープンに聞くトロツキーは、多くの敵をつくり、信用できない人物とされた。
 1917年、トロツキーは、ニューヨークに着いた。演壇に上ると、そこにいるのが天才弁士だと言うことは誰の目にも明らかだった。
 1917年、ロシアにトロツキーは戻った。トロツキーの話し方は、文法どおりだった。その流暢さは非凡だった。冷笑的で、説得力があり、情熱的だった。もじゃもじゃの赤褐色の髪が風にそよぐ。スリーピースのスーツを着て、いつもこざっぱりとしていた。聴衆のほとんどよりも背が高く、聴衆を揺り動かすための言葉やテーマを選び出しつつ、しなやかに動いた。トロツキーは身振りを多用した。そして、論点を強調したいときは、右腕を前にはねあげて、人差し指で聴衆を指さした。トロツキーは、ロシアの新しい「政治」を明らかに楽しんでいた。
 「レーニンはどんなに賢くても、トロツキーの天才と並ぶと、かすんで見える」
 これは当時の評である。しかし、レーニンのほうは急進左派に自分のライバルがいるなどと心配はしていなかった。
 1915年5月。トロツキーは、デマゴギー的な戦術をためらったことはなかった。
 9月。主要なボリシェヴィキが党代表として登場するとき、みんなが見聞したいのは、トロツキーだった。ボリシェヴィキのなかで、カーメネフも、大衆的な人気の点では、トロツキーの足元にも及ばなかった。このころレーニンはヘルシンキに隠れており、新聞論説でしか影響力を行使できなかったが、ほとんどの人は新聞など読まない。
 トロツキーは執筆し、演説し、議論した。組織をまとめた。革命ロシアで最高の万能活動家だった。レーニンとトロツキーはロシアの政治における不可分の存在となった。一心同体で、敵に対しては国家テロルを含む容赦ない手段を使う決意だった。
 トロツキーは、レーニンとのパートナーシップを楽しんでいたため、党の指導部内でどれほどの恨みを買っているか、気がついていなかった。
 今や、レーニンが統治問題のあらゆる重要な点の相談相手はトロツキーだった。
 世間的な名声でトロツキーはいい気になってしまった。トロツキーは、もともと組織への忠誠などで動く人間ではなかった。
 1918年2月、トロツキーは、自分の信念のために戦い、そして闘争に負けた。トロツキーは、ロシアがもはやまともな軍隊を持っていないと知っていたくせに、みんなに「革命戦争」が可能だと思わせようとした。
 1918年8月、トロツキーは、いやいや戦っていたのではない。人道的な面などまったく考慮せず、政治革命を暴力的手段で嬉々として深めていった。
 1918年12月、赤軍が総崩れとなった。白衛軍がロシア中心を目ざした。モスクワへの進路を防衛する軍をまとめられるのはトロツキーしかいなかった。スターリンですら、これは否定しようがなかった。
十月革命と内戦で世間の賞賛を集めつつ、トロツキーは党内で、かなりの嫉妬と疑惑を引き起こしていた。そしてトロツキー本人は、これにほとんど気をつかわなかった。
 ありとあらゆる問題について、正しいのは自分だと思っていたトロツキーは、党を自分の見方に無理矢理従わせるのが義務だと考えていた。トロツキーは自分の地位を当然のものと思っていた。
 トロツキーがレーニンと反目しあっていたこと、そしてレーニンと一緒に内戦を乗り切ったこと、スターリンがそれを若々しく思っていたことなどが上巻で紹介されています。下巻が楽しみです。
(2012年4月刊。4000円+税)

バルザックと19世紀パリの食卓

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  アンカ・シュルシュタイン 、 出版  白水社
フランス大革命はレストランを流行させたのですね。
 「食卓」の重要性を意識していたバルサックは、偉大なる食通ではなかった。エキセントリックな「食べる人」だった。バルサックは、ほとんど食事をとらずに長時間にわたって執筆に没頭した。そして原稿を書き終えると、そのお祝いに、はかり知れぬほどのワインやカキ、肉料理やヴォライユの料理に身をゆだねた。
 バルサックは、8歳から6年間を寄宿舎で過ごした。幼い生徒にとって、食事は喜びではなく、屈辱だった。バルサックは親からプレゼントをもらえず、孤独を感じていた。寄宿舎で過ごした数年間、バルサック少年は食事のかわりに読書に情熱を傾けていた。
 バルサックは17歳で代訴人(弁護士)事務所の見習いとなった。この事務所で、バルサックは家庭内の悲喜こもごもに出会い、それが、あとで小説のネタとなった。
バルサックにとって不幸なことに、使う金額以上に稼げたことが一度もなかった。この大作家は最期まで、借金のために牢屋に入れられるのではないかと心配しながら生活していた。
バルサックは書くのが早かった。債務者たちにせつかれ、豊かな想像力に駆り立てられ、仕事に取りかかるやいなや扉を閉ざす。日に18時間も働き、2ヶ月には名作の原稿が完成していた。
創作に打ち込んでいるあいだは水しか飲まず、果物で栄養をとっていた。バルサックは、かなり濃いコーヒーを大量に飲んでいた。眠気を追い払い、自身を興奮状態に保ち想像力を増すためだった。
 バルサックは借金のためではなく、国民衛兵として使えるという義務を何度も繰り返し怠ったため、牢獄生活を余儀なくされた。
フランス大革命の前、上流階級の人々は1日に3回の食事をしていた。朝6時から8時のあいだに何か詰め込み、午後2時にディネをとり、夜9時以降に夜食をとっていた。
 これに対して、農民や職人は一日2回の食事ですませていた。夜食は、夜会や感激に行く特権階級に限られたものだった。
当時の人々は膨大な量の酒を飲み、水を飲むのはまれであった。
 夕食会は3時間をこえてはならなかった。さっさと片づけることがとても重要だった。
 フランスでシャンパンへの趣向が高まったのは非常に遅い。イギリスよりも、はるかに後のこと。ポンパードール夫人はシャンパンを高くし評価した女性の一人であり、彼女がワインを流行らせた。
夕食のとき、料理を次から次に給仕するのを、バルサックは好まなかった。というのも、この方式だと食べることが大好きな人々にとって、ものすごく食べることを強いるし、最初の料理で食欲が収まってしまう小食の人たちには、もっとよいものをなおざりにさせてしまう欠点があった。
 フランス大革命のころの食習慣を知ることができました。バルサックの奔放な生き方には圧倒されます。
  (2013年2月刊。2200円+税)

アフガン侵攻 1979-89

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロドリク・ブレースウェート 、 出版  白水社
ソ連のアフガニスタン侵攻の始まりから撤退までを詳細に明らかにした本です。ベトナム侵略戦争におけるアメリカのみじめな敗退と同じことをソ連もやったわけです。
アフガニスタンには、機能する統一国家を築くための土台となる国家的組織体という観念はなきに等しい。地方から中央まで、あらゆるレベルの政治と忠誠は、各集団間の対立と取引によって規定される。それは末端の一族同士でも同じである。
 アフガニスタンは、世界でもっとも古くから人々が暮らしてきた地域の一つである。アレクサンドロス大王が支配し、ペルシア帝国の支配を受けたあと、13世紀にチンギス・ハン、
14世紀にティムールによって完全に征服された。この二人の子孫であるバーブルが16世紀にムガール帝国を築きあげた。
 アフガニスタンの国民はパシュトン人、タジク人、ウズベク人、ハザラ人、その他の弱小民族集団に分かれ、さらにいくつもの部族に細分化する。そして、アフガニスタン人の大部分はスンニー派のイスラム教徒である。
アフガニスタンで史上初の政治運動を生み出したのは大学だった。1965年に創設された共産主義政党であるアフガニスタン人民民主党の創設メンバーである、ヌール・ムハンマド・タラキ、バフラク・カルマル、ハフィズラ・アミンの3人もそうである。そして、ラバニ、ヘクマティアル、サヤフ、マスードは、全員がカブール大学で学んでいる。
 1978年4月、ダウド大統領はアフガニスタンの共産主義勢力に打倒され、無残な最期を遂げた。4月のクーデターは悲劇の始まりだった。
ソ連にとって、アフガニスタンの共産主義勢力は、はじめから悪夢だった。1968年、人民民主党(PDPA)の党員はわずか1500人だったが、ソ連は彼らを無視できなかった。PDPAは理論を一掃し、権力の奪取と行使に専心した。さらに悪いことに、PDPAは、はじめから分裂状態にあり、パルチャム派とハルク派に分かれ、ときに血の闘争をくり広げていた。パルチャム派のリーダーはカルマル。パシュトン人で、陸軍の将軍の息子だ。ハルク派は、地方やパシュトン人部族から支援を集めた。リーダーは、タラキとアミン。
 狂信に支配されていたアフガニスタンの共産主義者たちは、いかに保守的で、誇り高い独立国であっても、銃を突きつけて無理やり言うことを聞かせれば近代化させることが出来ると確信していた。カンボジアのポルポト政権とよく似ている。しかし、カンボジアとは異なり、アフガニスタンの国民は、政府のそのような扱いを耐え忍ぶつもりはなかった。アフガニスタンの共産主義政権は、イスラム教の力と国民への影響力を過小評価するという致命的なミスを犯した。
 1979年3月、アフガニスタン政府からの軍事介入要請は、考えれば考えるほど、ソ連指導部にとっては望ましくないように思えた。しかし、完全に排除しようとする者はいなかった。そこで、最終的には結論として、軍需品といくつかの小部隊を送ることにした。
 1979年、アフガニスタン全土で、情勢が悪化し、共産主義政権に対する武力抵抗が拡大を続けるなか、主流派であるハルク派の内部抗争が激化していた。
 ソ連のKGBは、パルチャム派に巨額の資金を提供し、自分達の意見を反映させようとした。しかし、パルチャム派は、PDPAの党員1万5000人のうち、わずか1500人でしかなかった。それ以外は全てハルク派だった。ハルク派は陸軍の共産主義将校の大多数が所属する派閥であり、アミンは特別の努力を払って、この将校たちとの関係を築き上げていた。
 タラキ殺害で重要な役割を演じたのは大統領警護隊だった。アミンの指示によるタラキ殺害は、ソ連の意見決定プロセスにおいて決定的な転換点となった。とくにブレジネフは、そのニュースに衝撃を受けた。タラキを守ると約束していたからである。
 ソ連のカブール駐在の主席軍事顧問は、アミンを高く評価していた。アミンは、強固な意志をもち、非常に勤勉で、その組織化の手腕は並外れており、ソ連の友人を自称しているが、狡猾なウソつきで、血も涙もない弾圧者である。それでも、ソ連が手を組むとしたら、アミンしかないという結論だった。
 軍事介入に懐疑的なソ連の幹部たちは、わきに押しやられるか、無視された。アフガニスタンの首都に駐在するソ連幹部の大半は、この国で過ごしたことがほとんどないものばかりになっていた。アミンの支配下にあったのは国土のわずか20%にすぎず、しかも、その割合は徐々に縮小しつつあった。
 アフガニスタン人は、国内に外国人が駐留することを許容したことがない。ソ連軍部隊は否応なしに軍事活動に引きすりこまれるだろう。
 ソ連軍参謀長は、このようにブレジネフに進言したが、聞きいれられなかった。
 ソ連は、武力介入によって生じる不利をすべて予見していた。激しい内戦に巻き込まれ、多くの血が流され、巨額の費用がかかり、国際的に孤立することは分かっていた。
 1979年12月、アフガニスタンへの介入は最終決定が下されたとき、すでに介入は避けがたい状況になっていた。それは重大な政策ミスであったが、決して不合理な決断ではなかった。
 ソ連の軍事専門家は、アフガニスタンの安定化を図るためには、30~35個師団が必要だとみた。ソ連軍がカブールを制圧したとき、カルマル本人は、KGBの保護下にあった。
 カブール在住の多くのソ連民間人は、何が起きているかまったく知らなかった。アミン殺害作戦のなかで、民間人の犠牲者は一人も出さなかった。ソ連軍は航空兵力を使わなかったから。
 このころ、アメリカは、テヘランでアメリカ大使館員が人質にとられるという事件が起こった、ばかりだった。カーター大統領は、ソ連のアフガニスタン侵攻を公然と非難した。
 ソ連の武力介入の目的はPDPA内の残虐な抗争に終止符を打ち、共産政権による、恐ろしい逆効果を招いた極端な政策を根本的に変えさせることにあった。つまり、アフガニスタンを征服あるいは占領することが目的ではなかった。アフガニスタン政府が責任を引継げる状態になったらすぐにでも撤退するつもりだった。しかし、これは非現実的な願望にすぎなかった。アフガニスタンの問題は、政治的な手段で解決できないことを、ソ連は十分理解していた。ソ連は、その武力で体制を維持できないと思っていた。それでもソ連は、安定した政府、法と秩序などをアフガニスタン国民が最終的には歓迎してくれるだろうと期待していた。
 だが、やがてソ連は、アフガン人の大多数が己の道を行くことを望んでいて、神を認めぬ外国人や国内の異教徒どもに何か言われて気が変わることはないのだと悟った。ソ連は、この根本的な戦略問題に対処せず、また対処できなかった。
ソ連が目の当たりにした残虐な内戦は、侵攻のはるか以前に始まり、撤退後も7年間続き、1996年、タリバンの勝利でやっと終結した。
 ソ連軍は、いつかは国に帰る。そのことは、ソ連側もアフガニスタン側も分かっていた。
 ソ連政府の内外で失望が広がるにつれ、この残虐で犠牲の大きい、無意味な戦争を続けようという指導部の意思は後退していった。
 ソ連軍とソ連国家が受けた屈辱は大きく、将軍たちは愕然とした。それが、ソ連崩壊と新ロシア誕生の政治的動きのなかで重要な役割を演じた。
 ソ連軍のアフガニスタン侵攻を検証した画期的な本です。アフガニスタン政府の要請によってソ連軍は進駐したのだ、なんていう嘘が見事に暴露されています。また、ソ連軍とソ連の人々の受けた打撃の大きさもよく記述されていて、大変興味深く読み通しました。
(2012年1月刊。4,000円+税)

メドベージェフvsプーチン

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  木村 汎 、 出版  藤原書店
現代ロシアの政治がどう動いているのかを知りたくて読みました。450頁もある大作ですが、とてもスッキリ明快な語り口なので、よく理解できました。
タンデムのハンドルを握っているのはプーチンであり、メドベージェフは子ども席に座らされている。この実情がよく分かります。
 プーチンが2012年5月に大統領に返り咲くまでに、ロシア政治の基本やその行方を左右する最高指導者をめぐる人事は、一人の人間によって決定された。与党の「統一ロシア」は次期大統領の候補者選びにまったく関与しなかった。同党は討論も票決も一切行うことなく、まるで盲印を捺すかのようにプーチンの決定を承認した。
 ロシアでは、法や制度などフォーマルな取極めが物事を決めているのではない。その代わりに、特定の人間がもっとも重要な決定を行う。別の言葉で言えば、地位(椅子)そのものよりも、そのポスト(椅子)に一体誰が座っているか、このことがロシアではより一層重要な意味をもつ。すなわち、一握りの少数指導者が強力な権力を握る。彼らは、非公式の場(密室)で、彼ら相互間の力関係にしたがい、いわば臨機応変のやり方で決定をくだす。彼ら指導者、とりわけ最高権力指導者がおこった決定は絶対で、「垂直権力」の原則にしたがい、下部へと伝達される。ロシアでは、法律よりも個人による統治がおこなわれている。
メドベージェフは、歴代指導者のなかにあって、けっしてナンバー1と呼べる指導者ではなかった。実質上はナンバー2でしかなかった。しかし、メドベージェフは、プーチン首相のたんなる操り人形に終始することをいさぎよしとしなかった。
メドベージェフはプーチンより13歳も若い、大統領になったとき42歳、辞職時に46歳だった。メドベージェフとは、熊を意味する。身長は162センチしかない。プーチンは168センチである。
 メドベージェフはユダヤ系とみられるが、そのことについて一切口をつぐんでいる。メドベージェフは、両親ともに教授という知識人の家庭に生まれた。プーチンは下層労働者階級の出身者。メドベージェフとプーチンは、ともにレニングラード国立大学法学部を卒業している。プーチンは正真正銘のシロビキ。KGBなど、治安関係の出身者。メドベージェフは、母校で民法を高ずる大学助手だった。
 プーチン首相は2010年10月、若返り効果を狙って顔面の整形手術を受けた。しかし、これは逆効果だった。ロシア人が嫌うアジア人(中国人)のように釣りあがった孤眼になったから。メドベージェフはインターネットが大好き。プーチンは、ケータイさえもっていないテレビ党。
プーチンがメドベージェフを選んだのは、自分と対蹠的なタイプの人間だから。
 メドベージェフは権力基盤、その他の点で脆弱な人物である。だからこそ、プーチンによって便利な中継ぎとして選抜された。メドベージェフの弱みこそ、彼の力になっている。
 プーチン自身がエリツィン前大統領の政策の多くを変更し、また反古にした人物である。だから、メドベージェフが大統領になって同じことをする危険を心配した。
プーチンは、ロシア首相と「統一ロシア」党首という二つの重要ポストを兼任することによってメドベージェフ大統領の行動様式を監視し、操作できる立場にたった。
メドベージェフには側近や部下がいない。メドベージェフは、周囲にいる優秀な同僚や仲間を内閣はもちろん大統領府内にすら登用しえなかった。その人事を主導したのがボスのプーチンだったから。プーチンの作成した人事案を丸呑みする以外の選択肢は与えられなかった。
 メドベージェフは4年間の大統領在任中、最後まで、マスメディアを掌握できなかった、プーチンがマスメディアを独占的に支配していた。テレビで報道されるときのプーチンとメドベージェフの座る位置は、プーチン大統領のときと同じだった。テレビ対話は、大統領との対話から首相との対話に名前を変えただけで、プーチンが4年間そのまま続けた。
 ロシア、グルジア「5日間戦争」はメドベージェフがプーチンと変わらぬ対外強硬論者であることを証明した。「リベラル」というイメージを完全に打ち砕いた。
ロシア・グルジア戦争は、CIS諸国にロシアに対する恐怖感をもたらし、異質感を増大させた。ロシアに逆らうと、深刻なマイナスをこうむる。しかし、だからといってロシアの言いなりになれば、別のマイナスを覚悟せねばならない。
ロシアのグルジア軍事侵攻によって驚かされた欧米諸企業は、ロシア市場へ投下していた資本を一斉に引き揚げた。そのことによってロシア経済がこうむったダメージは、予想外に大きかった。
ロシアはエネルギー資源大国である。石油、天然ガス、金、ダイヤモンド、鉄鉱石などの埋蔵量で世界第一位。
 ロシアは世界規模の経済危機に無関係どころか、そのもっとも深刻な犠牲者だった。なぜか。それはロシア経済がもっぱらエネルギー資源の輸出の大きく依存する事実上の「モノカルチャー経済」であることによる。ロシア経済の国際競争力は、上昇しないどころか復退した。航空機事故が多発し、ロシアはコンゴよりも「世界でもっとも危険な国」となっている。
年金生活者は、民主主義的指権利の保障よりも、社会の安定や秩序を望む。プーチン支持層の中核をなしている。
 プーチン主義は、政治や経済の運営を下からの国民のイニシアティブに委ねることなく、「権力の垂直支配」の名のもとに国家による上からの指導でおこなう。とりわけ、ロシアが豊富に所有するエネルギー資源を、軍需産業同様、重要な国の基幹産業とみなして、政府の厳格な監督、管理下におく。そして、その余剰利益(レント)を側近間で分配する。
 現ロシアでは汚職は歴然として存在している。いや、それどころか、ソビエト時代に比べてさらに増大する勢いである。
 プーチンは、KGB勤務によってつちかったフレキシブルな思考法のおかげで、数々の難局や危機を乗りこえてきた。
 大変わかりやすく、ロシアの現状を鋭く分析した本でした。
(2012年12月刊。6500円+税)

深い疵(きず)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ネレ・ノイハウス 、 出版  創元推理文庫
本の扉にあらすじが紹介されています。推理小説ですから、ネタバレは許されませんが、以下は扉にあるものですから許されるでしょう。
 ドイツ、2007年春、ホロコーストを生き残り、アメリカで大統領顧問をつとめた著名なユダヤ人の老人が射殺された。凶器は第二次大戦記の拳銃で、現場に「16145」という数字が残されていた。しかし、司法解剖の結果、遺体の入れずみから、被害者がナチスの武装親衛隊員だったという驚愕の事実が判明する。そして、第二、第三の殺人が発生、被害者らの隠された過去を探り、犯行に及んだのは何者なのか。
刑事オリヴァーとピアは幾多の難局に直面しつつも、凄然な連続殺人の真相を追い続ける。ドイツ本国で累計200万部を突破した警察小説シリーズ・開幕!
 ドイツには今もネオ・ナチがうごめいているようです。でも、日本だって同じようなものですよね。安倍首相なんて、戦前の日本への回帰を臆面もなく言いたてていますので、ドイツを批判する資格もありません。
 それにしても、ナチス親衛隊員が戦後、ユダヤ人になりすましていたなんて、信じられません。そして、残虐な殺人劇が続いていくのです。
 警察内部の人間模様も描かれていますが、やはり本筋はナチス・ドイツの残党が今なおドイツ国内でうごめいていることにあります。
 読ませるドイツの推理小説でした。
(2012年7月刊。1200円+税)

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