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カテゴリー: ヨーロッパ

消えた将校たち

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  J・K・ザヴォドニー 、 出版  みすず書房
カチンの森虐殺事件について書かれた本です。その残虐さでは、ヒトラーに匹敵するスターリンによる大虐殺事件が起きました。そして、ソ連はナチス・ドイツによるものだと言い張ったのです。驚くべきことに、アメリカもイギリスも、スターリンの機嫌を損ねたくないため、そのソ連の詭弁を受け入れ、真相究明をしませんでした。
 なぜスターリンは、カチンの森虐殺事件を起こしたのか?
その答えが本書で明らかにされています。要するに、スターリンはポーランドをソ連の支配下に置きたかった。それを邪魔するようなポーランドの知識階級(指導階級)を地上から抹殺しようと考えたということです。
 ソ連軍に捕らわれたポーランド軍1万5000人が行方不明となった。そのうち8000人以上が将校だった。
 ナチス・ドイツは1943年4月、多数のポーランド軍将校がソ連に殺害されているのを発見したと発表した。これに対して、ソ連側は、直ちにポーランド軍捕虜を殺したのはナチス・ドイツだと反論した。
カチンの森には、死体でいっぱいの、深さ3メートルほどの集団墓穴が8つ発見された。死体は顔を下に、両手は両脇にそってか、背中でしばりあげられ、足はまっすぐに伸び、9層から12層に重なりあって積み上げられていた。そして、後頭部を銃で撃ち抜かれていた。その銃弾はドイツ製だった。
 ポーランド将校は丈長の長靴をはいていた。それは威信や地位の象徴だった。
 墓穴の上には、わざわざトウヒの若木が植えてあった。
ソ連は逮捕したポーランド軍将兵を共産主義者に転向させるべく、思想強化に努めた。しかし、この思想強化は全体として失敗に終わった。ポーランド人は、共産主義教義を公然と拒否した。そこでソ連(NKVD)は、まだ可能性があると判断した448人を選び出し、あとは抹殺することにした。
 しかし、この448人も大多数はソ連の強化に応じなかった。50人だけが応じたが、彼らは村八分にあった。残りは、結局、強制収容所へ送られた。
 1940年当時、NKVDと呼ばれたソ連秘密警察は、ソ連国家が内部の敵と戦うための楯であり、剣であった。スターリン時代、その警戒行動には限界がなかった。
スターリンの支配するソ連共産党政治局は、ソ連秘密警察NKVDに命じて、ポーランドの将校と知識階級2万2000人(2万5000人)をロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)の各地で1940年4月から7月にかけて組織的に一斉に殺害した。
カチンの森虐殺事件と呼ばれていますが、虐殺現場はカチンだけではなかったということです。スターリンの犯罪は本当に信じられないほどひどいものです。絶対に許せません。
(2012年12月刊。3400円+税)
 土曜日から日曜日にかけて、久留米で九州のクレジット・サラ金被害者交流集会があり、参加してきました。270人もの参加があり、盛況で、内容としても大変勉強になりました。
 私は、この交流集会の原始メンバーの一人ですが、各地のクレサラ被害者の会は、いま相談者が激減して活動を停止している状況にあります。
 これも貸金業法が改正されて、規制が厳しくなったことの成果という面もあります。それでも、ヤミ金をはじめ、まだまだ借金をかかえて泣いている人、困った人はたくさんいます。そのような人に、家計管理をきちんとして、生活を立て直してもらえる場として被害者の会は有効な場でした。なんとか代わりを考える必要があります。

トロツキー(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロバート・サーヴィス 、 出版  白水社
レーニンは、死ぬ前に「スターリンはあまりに粗暴である」という遺言を書いて、書記局から排除することを提言した。レーニンは、自分が死んだあとは、集団指導体制をとることを願った。スターリンは、レーニンの遺言を無視し、公開しなかった。
 トロツキーは、スターリンをあまりに軽視しすぎていたようです。
スターリンは、トロツキーからみて、常に政治的に凡庸で、知的にはとるに足らない人物だった。
 ところが、レーニンの死後に開かれた1924年5月の党大会のときは、トロツキーは分派主義に走っていて、スターリンは現状の指導部のためにしっかり忠実に働いていて文句のつけようがなかった。この党大会で、トロツキーは、投票権すらなかった。
 スターリンとブハーリンはトロツキーを追い落とすべく密接に協力していた。
 1926年10月、トロツキーは政治局を解任された。ジノヴィエノは前に解任されていた。
 トロツキーは、個人としての他人を思いやる気持ちが基本的に欠けていた。トロツキーには人間性がない。トロツキーをよく知る人は、このように言っていた。
 これではトロツキストが盛況になるはずはありませんよね。
 トロツキーは、公的にも私的にも、頭の悪い人物には冷たいどころか、一切容赦がなかった。
1927年から28年の冬、ソ連は政治的に緊急事態にあって、経済が崩壊しつつあった。都市の倉庫の小麦・ライ麦の備蓄は危険なまでに少なくなっていた。
1928年1月、トロツキーはカザフスタン(アルマ・アタ)へ送られた。
 1929年1月、トロツキーを国外へ追放することが決定された。トルコ当局は、トロツキーの亡命を認めるにあたって、ソ連に極秘の条件を課した。それは、トルコでトロツキーを暗殺しないということだった。そして、トルコは、トロツキー本人にも、トルコの地元政治に干渉しないこと、トルコ国内で出版しないことを求めた。
 この本を読んでいると、トロツキーは、自己の安全について、あまりに楽観視していたようです。これも過剰な自己過信のあられなのでしょうか・・・。
 トロツキーによると、各国の共産党の指導部は絶望的だった。トロツキーはドイツのエルンスト・テールマンとフランスのモーリス・トレーズは愚の化身としていた。
 1937年からトロツキーはメキシコに居住した。メキシコ警察はトロツキーに24時間体制で警護をつけ、その動向を定期的に政府に報告した。アメリカも同じように情報を収集していた。メキシコ共産党はトロツキーを監視し、モスクワに情報を提供していた。
 1936年当時、世界のトロツキズムは、ソ連のスターリンが想像していたよりも、はるかに規模は小さかった。トロツキストは、構成員の統計の公開を嫌った。オランダ2500人、アメリカ1000人、ドイツは150人。ヒトラーが政権を握る前には750人。フランスは分裂を重ねて不明。イギリスも3つの小集団に分かれていた。
トロツキーは他人の気持ちに配慮する性質ではなかったが、妻に対しては例外で、夕食の席で妻の望みや要求にいつもこたえた。
 スターリンによる1936~38年のモスクワ裁判は、茶番だったが、トロツキーには試練となった。被告人は拷問を受けていた。スターリンにあくまで抵抗した人は証言台に姿をあらわすことなく処刑されていた。
 1940年8月、暗殺犯によってトロツキーの生命は奪われました。トロツキーは、いつものとおり、あきれるほどめでたく、何の疑念も抱かなかったというのです。暗殺犯はトロツキーの臨時秘書の恋人でした。トロツキーの頭にレインコートに隠しもっていたピッケルを手早く打ち込んだのです。そして、この暗殺犯は1960年に20年の懲役刑を終えて、モスクワに英雄として迎えられ、ついにはキューバに渡って、1978年に死亡したとのことです。
 対立の絶えないトロツキストたちは、モスクワの指導部に従った共産党と戦うより、仲間内で議論するほうが多かった。モスクワにおけるトロツキーの立場を回復したのは、第四インターナショナルではなく、ゴルバチョフだった。
トロツキーは、スターリンとの政治闘争で究極の犠牲をはらったが、その前にトロツキー自身も高い地位について血なまぐさい弾圧をしている。肉親のほとんどはトロツキーのせいで死に追いやられた。娘のニーナは結核で亡くなり、ジーナは自殺した。息子のリョーヴァは医療ミスで死んだ可能性がある。
等身大のトロツキーを知ることのできる本でした。それにしても、今でも、昔ながらの過激派はいるようです。驚きます。でも、もう誰もトロツキストとは呼ばないのでしょうね・・・。
(2013年4月刊。4000円+税)

戦時下のベルリン

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ロジャー・ムーアハウス 、 出版  白水社
ナチス・ドイツ支配下のベルリンの市民生活を詳しく紹介した本です。
ベルリンには、最後まで少なくないユダヤ人が隠れ住んでいました。それも、ベルリンに革新的な土壌があったからだというのです。ナチス・ヒトラーの一色で染めあげられていたのではなかったというわけです。
 戦時中のドイツで、1万2000人ほどのユダヤ人が地下に潜ったと推定されている。その大部分は、匿名性を保つのが容易な大都市に隠れた。左翼的・自由主義的伝統と、ユダヤ人が定住した歴史のあるベルリンが生きのびる最大の機会を提供した。地下に潜ったユダヤ人の半分、7000人ほどが首都ベルリンにいたと考えられている。
潜ったユダヤ人は、自分の外観を代えるのが急務だった。地下の生活の黄金律は、「だらしない身なりをしないこと」で無精ひげを生やしていたり、襟が垢だらけだったりすると、必ず人の注意を惹く。生きのびるためには困難な状況にもかかわらず、自信にみちた、「普通の」態度をしていなければならなかった。
 ユダヤ人の「潜水夫」は雄々しい自助努力をしたけれど、ほとんどの場合、アーリア人の協力者にすっかり頼っていた。独りの逃亡ユダヤ人を助けるのに、平均7人のドイツ人の協力が必要だった。
ユダヤ人女性で、ナチスのまわし者になって逃亡ユダヤ人を密告してまわったシュテラという人物が紹介されています。ゲシュタポはシュテラとの約束を破り、両親をアウシュビッツに送り、シュテラも捕まった。しかし、戦後まで生きのび、1994年、シュテラは72歳で自殺した。うむむ、裏切り者は必ずいるものなんですね・・・。
 1943年夏、ベルリンには40万人もの外国人強制労働者がいた。ベンツ、AEG、ボッシュ、ジーメンス、ドイツ鉄道で働いていた。労働者はヨーロッパ各地からやって来た。10万人がドイツ軍占領地区から、かつてのソ連軍占領地区からやって来た。占領下のフランスから6万5000人、ベルギーから3万人、オランダとポーランドからも同数が来た。
 ベルリンの外国人労働者の3分の1は西ヨーロッパから来た。その3分の1は女性だった。「東労働者」が病気だと申出るのは、自殺の遺書を書くのに等しかった。
 1941年秋、ベルリンのゲットーのは20万人のユダヤ人が押し込まれて住んでいた。
 大部分のベルリン市民は、ホロコーストの陰惨な真実を、たとえ知っていたとしても、信じるのは難しかっただろう。信じたがらないことが多かった。ある人種が「工業規模」で組織的に殺されるというのは、大方の人間の想像力をこえていた。そんなことは信じがたいという気持ちが蔓延していた。それは本当にそうなんだろうなと私も思います。
ラジオのもつプロパガンダの側面は、ナチにとってきわめて重要だった。1938年に始まったイギリスBBCのドイツ語放送に、多くのドイツ人は自国の放送より高く評価していた。ドイツ人の3分の2が外国放送を定期的に聞いていると推定された。
 ゲシュタポの絶頂期でさえ、ベルリンにいた工作員とスパイは800人をこえなかった。450万人の都市において、1人のスパイが5600人のベルリン市民を相手にしていた。
ベルリンはナチスの第三帝国に対する抵抗の中心だった。自由主義的、コスモポリタン的性格をもち、ユダヤ人が大勢住み、伝統的に左翼の稜堡であったベルリンは、ナチにとって有利な選挙区ではなかった。ヒトラーに投票した人は全国平均を下回った。ナチが選挙で大躍進した時でさえ、いくつかの地区では一般の投票数の半分しか得られず、ベルリンのナチが獲得した投票数は合計の3分の1以上には達しなかった。ただし、多くの普通のベルリン市民にとって、しっかりと組織化された抵抗運動に加わるのは、自殺に等しいと思われていたに違いない。
 1943年2月、首都に残っていたユダヤ人が一斉に逮捕された。そして、ユダヤ人の夫をもつアーリア人の妻たちが抗議に集まった。600人から1000人の女性が、「私達に夫を返して」と叫んだ。ローゼン通りに何時間も、毎晩毎晩、壁のように立って叫んだ。そして、ついに一週間後、「特権的ユダヤ人」つまり異人種間結婚していたユダヤ人たちは家に帰された。ローゼン通りで自由になったのは1800人。1943年のドイツ、ベルリンで公然と抗議の示威行動があり、要求を勝ちとったというのは驚くべきことだ。
ベルリンは英国空軍から大空襲を受けたが、ドイツの民間人の士気は、それほど失われなかった。広い並木道と石造りの大通りは簡単には燃えなかった。それでも、ナチに抱いていた信頼感が次第に薄らいだのは確かだった。
 1943年、スターリングランドの敗北のあと、ベルリン市民は無気力状態に陥り、なんとかして戦争を生きのびたという単純な願望になった。
 1945年4月、ベルリンをソ連赤軍が占領した。ソヴィエト兵によって強姦された女性は13万人をはるかにこえると推測されている。強姦された女性の1割が自殺した。1946年にベルリンで生まれた子どもの5%がロシア人の子どもだと推定されている。
 多くのベルリン市民は、戦争の経験とナチ体制と共犯関係にあったことで、すでに傷ついていたので、輪をかけた屈辱を受けいれるのが難しかった。
 戦争というのは、まことに多面的な状況をうみ出すものだと痛感させる本でもありました。
(2013年3月刊。4000円+税)

キャパの十字架

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著者  沢木 耕太郎 、 出版  文芸春秋
戦勝写真家として名高いキャパの写真「崩れ落ちる兵士」の真相を追求した本です。とても説得力があり、すっかり感嘆しました。
 推理小説ではありませんので、ここで結論をバラしてしまいます。あの写真はキャパが撮ったのではなく、パートナーの女性が撮ったものであり、兵士は撃たれて崩れ落ちたのではなく、足元の悪い斜面で足をとられてあおむけに崩れ落ちたのだということです。この点について著者は現地に何回も行って、見事に論証しています。たいしたものです。
問題の写真の舞台は、スペイン戦争です。共和国政府に対して、ナチス・ドイツなどが後押しするファシスト派が叛乱を起こし、結局、共和国政府は打倒されてしまいます。そのスペインの叛乱の渦中に起きた「出来事」(兵士の死の瞬間)が迫力ある写真として世界に紹介されました。
 そして、この兵士の氏名まで判明したのです。ところが、実は、この兵士は撃たれて死んだのではなく、キャパたちの求めに応じて演じていたのでした。
 キャパの本名はエンドレ・エルネー・フリードマン。両親はユダヤ系のハンガリー人。夫婦で婦人服の仕立て屋を営んでいた。そして、ナチス・ドイツが台頭してきて、フランスはパリに逃れた。そこで、同じユダヤ人女性、ゲルタ・タローにめぐり会った。このタローという名前は、岡本太郎にもらったものだそうです。当時、彼女はモンパルナスで同じ芸術仲間だったといいます。
 キャパの相棒だった、このゲルダ・タローは、1937年7月に共和国軍の戦車が暴走して事故死してしまいます。まだ27歳という若さでした。
 「崩れ落ちる兵士」は銃弾によって倒れたのではない。しかし、ポーズをとったわけではなく、偶然の出来事によって倒れたもの。そして、その場には2台のカメラがあり、カメラマンが二人いた。このあたりは、たしかにそうだろうと思えました。というのも、あの有名な写真のほかに、連続してとられた多数の写真があり、状況を再現することが可能だったからです。
 キャパは、ついにベトナムの戦場で地雷を踏んで死んでしまいました。アメリカのベトナム戦争の被害者になってしまったわけです。
 でも、その前、第二次大戦中のノルマンディー上陸作戦にも参加して、死にかけたのでした。戦場カメラマンというのは本当に危険な職業ですね。今の日本にもいますし、そのおかげで居ながらにして戦争の悲惨な状況を写真で知ることができるわけです。それにしても、キャパの写真をここまで執念深く追求したというのは偉い。つくづくそう思いました。
(2013年2月刊。1500円+税)

成功する人の「語る力」

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著者  フィリップ・コリンズ 、 出版  東洋経済新報社
イギリスのブレア元首相のスピーチライターによるスピーチ原稿のつくり方を紹介する手引書です。
 優れたスピーチを書く技術を身につけたければ、書く内容が定まっていなのに書きはじめたり、内容そのものよりも耳に心地よいスピーチをすることは避けなければならない。
 いいスピーチは、骨組みがしっかりしている。
 スピーチは、いちばん核となるテーマを一行で表してみること。もし、一行でまとめられないのなら、自分のテーマがまだ分かっていないということ。
スピーチが果たす基本的な機能は、情報性、説得力と刺激の三つである。
 スピーチとは、一度マイクの前に立ったら、誰かに邪魔されることなく、20分は話ができる素晴らしい機会である。
 スピーチでは、できるだけわかりやすく明確に話すことが必要だ。
スピーチに最適なのは午前11時ころ、最悪なのは昼食直前だ。聴衆は、まだ話をきく態勢になっていない。
効果的に説得するにはコツがある。まずは寛大な態度を示す。そのうえで、論理立てて相手の意見を切り崩していくこと。初めから反対論者を叩きのめそうとしてはいけない。
 スピーチするとき、あなたという人格が伝わることが大切だ。そして、聴衆が遠くからでもわかるように、あなたの個性をわざと目立たせる工夫も必要だ。
 ひとたびステージにあがったら、ゆったりとふるまう。前口上は短く終わらせ、やや長めの間を取って、これからスピーチを始めるのだと聴衆に知らせよう。
 ステージ上では、少々大げさに話す。いつもの調子で話してしまうと、迫力に欠け、あまりやる気ないように見えてしまう。そして、話すペースに変化をつける。
オバマ大統領の秘密は、すべてその声にある。オバマは歌うように言葉を発する。オバマの原稿を読んでも、それほどの感動はない。
とても実践的なスピーチ原稿のつくり方の本でした。
(2013年4月刊。1500円+税)

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