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カテゴリー: ヨーロッパ

ワニの黄色い目

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  カトリーヌ・パンコール 、 出版  早川書房
いかにもフランスの小説だな、そう思いつつ上下2巻の本を読みすすめていきました。大人の男女の絡み合いが複雑なうえに、若い男女もからんできてストーリーはややこしく展開していきます。
 しかも、そのときどきで語り手が代わり、その視点で物語がすすんでいきますので、ますます、ややこしくなります。
 一般に、小説は読み手が本の登場人物に感情移入することが大切だといわれていて、モノ書き志向の私もそれを心がけているのですが、この本は、そんなルールなどお構いなしに、目まぐるしく視点が変転しながら、どんどん話が展開していき、ついていくのが大変です。上下2巻からなるこの本はフランス人の女性作家の手になるもので、フランスの女性に大受けして、3部作シリーズはなんと400万部を突破したというのです。これはすごいことですよね。
 監訳者のあとがきを紹介します。まさしく、そのとおりの本なのです。
恋愛あり、不倫あり、夫の家出や、ねじれた母親との関係あり、娘との葛藤あり、はては殺人事件までありと、登場人物のさまざまな女性が経験する人生のドラマを、ときには深刻に、ときにはユーモアをまじえながら、軽妙に描いた三部作の一作目。
 ロイヤルファミリーの大変さが語られるかと思うと、小説を書くことの大変さまで、そしてゴーストライターやら、本の販促など、さまざまなテーマが怒濤のように進行していくので、しまいには何がなにやら理解するのも困難になるうちに大団円を迎えてしまうのでした。
 私には、とてもこんなマネは出来ないなと思いつつ、著者に敬意を表して紹介してみました。
(2011年10月刊。1600円+税)

レニングラード封鎮

カテゴリー:ヨーロッパ

著者   マイケル・ジョーンズ 、 出版   白水社
思わず涙が出てくる、つらい話が続く本です。スターリンの非道さにも怒りが湧きあがってきます。
 3年ものあいだ(900日間)、ナチス・ドイツ軍に包囲されたレニングラード攻防戦の顛末が語られています。なにしろ市民の犠牲者100万人のうち餓死者が80万人というのです。半端な数字ではありません。これはヒトラーが力攻めをあきらめたこと、スターリンの作戦指導が間違っていたことによります。
 人口250万人のレニングラードを包囲したナチス・ドイツ軍は意図的に市民を餓死に追い込んだ。1941年冬までにレニングラード市民のパン配給量は1日125グラムでしかなかった。略奪と人肉食(カニバリズム)が蔓延した。封鎮中に、少なくとも300人がカニバリズムのかどで処刑され、1400人以上がこの罪名で投獄された。しかし、レニングラードは、驚くべきことに崩壊はしなかった。
 恐怖のただなかで、他人を助けることが生き残る鍵となった。人々は親戚や友人達と一緒に住み、互いに助けあった。もっとも絶望的な状況のなかで、士気とやる気がとても重要だった。市民たちの挑戦の最大のシンボルが驚くべきオーケストラ演奏会だった。このコンサートの象徴的な意義は絶大だった。ショスタコーヴィチの交響曲第7番が演奏された。ホールは、いつも満員だった。この演奏を包囲していたナチス・ドイツ軍の将兵も聞いていた。この音楽を聞いて、彼らはレニングラードを決して落とせないだろうという実感を抱いた。
レニングラードは、ヒトラーにとって主要な目標だった。
レニングラードの陥落は、ソビエト国家から、その革命のシンボルを奪うことになる。
 ヒトラーはこのように語った。実は、ドイツ軍兵士がレニングラードを占領したときには、疫病の深刻な危険があると、ヒトラーは警告されていた。
 ソ連軍の総司令官ヴォロシーロフは無能だった。61歳という老齢の元帥は、赤軍随一の脳なしと後年にフルシチョフが評した。それでもスターリンは、ヴォロシーロフを、その地位に留めおいたのは、信頼できる男だったからである。ここにレニングラード市民にとっての悲劇が始まるのです・・・・。
 トハチェフスキー将軍は、ヴォロシーロフを軽蔑していたが、その政治的陰険さを見くびっていた。スターリンは、トハチェフスキーなど、有能な元帥を次々に銃殺していった。
 1937年から、1938年にかけて、3万人をこすレニングラード市民が逮捕され、処刑あるいはシベリアの強制収容所へ送られた。これがナチス・ドイツ軍によるレニングラード包囲戦を戦うのに困難をもたらした。
 レニングラードの司令官としてジューコフが派遣されてきた。このジューコフは、人命損失をまったく気にかけることがなかった。人命の犠牲を度外視して、敵のドイツ軍への攻撃を次々に命令し続けた。
 ジューコフ将軍は、ノモンハンで日本軍(関東軍)とたたかいますが、このときも同じ人命軽視の戦術を強行したようです。
レニングラード図書館はずっと開館していた。
 新任の司令官はドイツ軍前線にむけてスピーカーで、オーケストラの演奏するショスタコーヴィチの交響曲第7番が容易に聴けるように手配した。演奏会の前には、ドイツ軍砲台に向けて集中砲火を浴びせて沈黙を強いていた。
 飢餓のなかでも、人間は気高く生きることができるのですね・・・・。
 もっと知られていい歴史だと思いました。しっかり読みごたえのある本です。
(2013年2月刊。3800円+税)

チャーチル

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ポール・ジョンソン 、 出版  日経BP社
チャーチルの伝記です。実は、あまり期待せずに読みはじめたのでした。ところが、意外に面白くて、つい一気に読み終えました。
 チャーチルが人生で何度も失敗したことも、率直に語られています。そして、チャーチルが両親に愛されずに育ったこと、それをカバーしてくれる女性(乳母)がいたことは驚きでした。父親はチャーチルをこの子は頭が悪いと決めつけ、母親は社交界に忙しかったのです。
チャーチルの顕著な特徴は、精神的で、冒険好きで、野心的で、複雑な知性をもち、情に厚く、勇気があり、打たれ強く、人生のあらゆる側面に強い情熱をもつといった点は、どちらかといえば母親から受け継いでいる。
 母親は社交界一の華でありたいという強い欲求を実現した。母親は、この地位を10年以上にわたって維持した。
 イギリスの政治家のなかで、英語をチャーチルほど愛した人はいない。またキャリアを築くため、キャリアが傷ついたときに名誉を回復するために英語の言葉の力をここまで一貫して利用した人もいない。チャーチルは生涯にわたって原稿料が主な収入源になった。
 言葉をお金に変える点で、決定的な役割を果たしたのは母親だった。
 若きチャーチルは戦争を探した。特別許可を得て、記者として、あるいは兵士として戦場に赴く。新聞記事を書き、本を執筆する、これがチャーチルの行動パターンになった。チャーチルは26歳で国会議員に当選した(1900年)。急速に名誉と地位を獲得したが、他方で数多くの批判者や敵もつくった。軽率で傲慢で生意気で反抗的で自慢げな跳ね返りものだと言われた。
 チャーチルは下院議員になった。出世が目的であったことは間違いない。チャーチルは、当時もその後も、矛盾の塊だった。
 戦場にいたチャーチルは、捕虜収容所に入れられ、脱走した体験をもっていたので、機会あるごとに戦争の恐ろしさを同僚の下院議員に警告した。
 チャーチルは下院の選挙で6つもの肩書きを変えた。保守党、自由党、連立派、立憲派、挙国一致派、国民保守党。
 チャーチルは、演説原稿を用意し、すべて暗記し、練習し、間合いを計算して、何ごとも偶然には任せないようにした。原稿なしに話していて、突然、次の言葉が出てこなくなるという大失態を演じたからである。これって、よくあるんですよね。いきなり頭のなかが真っ白になってしまうのです・・・・。
海軍の高級将官はチャーチルをとんでもない政治家だと嫌った。しかし、士官や下士官、水兵たちはチャーチルを英雄として歓迎し、給与・待遇を改善したあとは、とくに信奉した。
 チャーチルは生涯にわたってフランスびいきだった。しかし、ドイツ軍の演習を視察すると、フランスよりドイツ軍の方が比べものにならないほど良いことを理解した。
 チャーチルは、ユダヤ社会と密接な関係を築いた。一貫して、ユダヤ人寄りだった。イスラエルの建国にチャーチルは貢献した。
 チャーチルはシャンパンを好んだ。そして、いつも葉巻を手にしていた。吸っていたわけではない。喫煙までの所作が好きだったのだ。
 チャーチルは演説の前に酸素を2缶用意して吸入し、気分を高めた。
 1925年、チャーチルは財務相になったとき、予算演説をするときは、公邸から下院まで歩いた。山高帽をかぶり、襟が毛皮の大きなコートを着て、蝶ネクタイをつけ、家族をしたがえ、笑みを浮かべ、手を振って、自信と成功を発散させる。
 チャーチルは日本がイギリスに敵対することはないと信じ込んでいた。チャーチルのこの間違いはイギリスに悲劇をもたらした。
 日本がイギリスと戦う理由はない。日本との戦争の可能性は、理性的なイギリス政府が考慮しなければならないことではない。
 これは、チャーチルの残念ながら間違った言葉です。日本人として複雑な気持ちです。
 1929年のアメリカ・ウォール街の大暴落によって、チャーチルも元手の大金を失っただけでなく、巨額の借金を負うことになった。そこで、チャーチルは、執筆料を2倍に増やし、新しい契約を交渉し、演説旅行した。
 インドのガンジーについて、重要な人物であることを見抜けず、チャーチルはガンジーを「半裸の乞食僧」にすぎないと切り捨ててしまった。
 そして、1932年12月、チャーチルは交通事故で重傷を負った。
 交通事故によって精神的、肉体的な激しい苦痛を味わった。だが、どれも耐えられないものではない。自分を哀れむ時間はないし、力もない。後悔したり、恐れたりする余地はない。自然は慈悲深く、人間にしろ獣にしろ、その子どもたちにそれぞれの力を超えるような試練を与えることはない。危険な人生を歩み、起こることを受け入れるべきだ。何も恐れることはない。すべてはうまくいくのだ。
 1935年。チャーチルは、午前中を執筆と自宅(別宅)の煉瓦積みですごした。1日に200個の煉瓦を積み、2000語の文章を書いた。チャーチルはヒトラーの『我が闘争』を読み、そこに書かれていることはヒトラーの明確な意図だとみた。
 1930年代のイギリスは、平和主義が大流行していた。武装解除に多くの国民が賛同していた。だからチェンバレン首相は、ヒトラーにころりとだまされたのでした。
 チャーチルは独裁者ではなかった。その命令は一つの例外もなく、文書で行い、明快に指示した。口頭の命令も、すぐに文書で確認した。これに対して、ヒトラーはすべて口頭で命令した。
チャーチルは第二次大戦が始まったとき65歳。終わったとき70歳。1日16時間はたらいた。チャーチルには、優先順位を正しくつかむ特異な能力があった。
 チャーチルの生涯で、絵を描く以上の楽しみはなかった。チャーチルの絵は素人離れしているとのことです。ぜひみてみたいものだと思いました。
 チャーチルは人に対する憎しみをもたなかった。そのため、生涯を通して、大きな喜びを手にすることができた。
 私も、人を憎まないようにすることを心がけています。大切な教訓がたくさん盛り込まれている興味深い本でした。
(2013年4月刊。1800円+税)

古代ローマ帝国1万5000キロの旅

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  アルベルト・アンジェラ 、 出版  河出書房新社
古代ローマ帝国の実態を克明に紹介した画期的な本です。この本によっていくつも新しい知見を得ました。なかでも怖いなと思ったのは、古代ローマでは誘拐が頻繁だったということです。
ローマ人の誘拐の主な目的は、さらった相手を奴隷にすることにあった。奴隷は毎年50万人も新しく加えられていた。どうやってか・・・。第一に戦争によって、第二に国境の外での人間狩り、第三に誘拐によって。
誘拐はどこでも起きる可能性があり、安全な場所などなかった。パン屋のあるじがお客を、宿屋が泊まり客を誘拐して奴隷として売り飛ばすことさえあった。路上も危ない。帰宅の途中、仕事への途中で誘拐されることさえあった。そして大農園のなかで、劣悪な労働環境の下で、死ぬまで働かされた。誘拐は、手っとり早く、ただ奴隷を手に入れる手段になっていた。誘拐犯が好む相手は子どもだった。古代ローマでは、出かけるときには誰もが外で誘拐にあうという危険な認識をしていなければならなかった。うへーっ、こ、これは怖いことですね。
 話は変わりますが、私はフランスのポン・デュ・ガールに行ったことがあります。南フランスのアヴィンヨンからバスで1時間ほどのところにありました。古代ローマの水道橋なのですが、実に状観です。三段になったアーチ型の優美かつ壮大な水道橋です。本当に圧倒されます。高さ48メートル、長さ370メートルというものです。2000年前のものが今もそのまま残っているなんて、すごいことですよね。
 水道橋ですから、要するに水を流していたわけです。どうやってか・・・。勾配をつけていたのです。水源から町までの50キロメートルを、山あり、谷あり、川ありの所を一定の勾配で水を通したのです。その勾配は1キロメートルあたり25センチというのです。1センチの誤差もなく、50キロにわたって導水管を通していたというのですから、古代ローマ人の土木技術の水準の高さには開いた口がふさがりません。それをわずか15年で完成したというのです。ここまでくると、いやはや、何とも言いようがありません。
古代ローマ人の造ったもっとも偉大な建造物は、何か・・・。それは、道路である。全長8万キロ以上になる。地球を2周できる計算だ。
そして、これは軍事目的でつくられた道路だ。古代ローマの道路は、水はけがよく、水がたまらない。道幅は4メートルあって、2台の馬車が行き違えるようになっていた。
古代ローマの女性は、法律上夫や兄弟に干渉されることなく、家族の遺産や財産を自由に使うことができた。女性も男性と同じように寝そべって食事するし、公共浴場に行くし、飲酒もする。そして、容易に離婚できたので、次から次に離婚した女性も少なくなかった。
古代ローマの女性は、大きな権力と夫からの自立を得ていた。離婚も、数人の証人の前で宣言するだけでよかった。離婚するときには、基本的に持参金の金額が女性に返還された。
古代ローマのスタジアムには15万人も収容できるものがあった。現代のスタジアムでも、その規模のものはない。映画『ベン・ハー』は、古代ローマの競技用戦車そのものを再現しているのではない。あれでは、あまり重すぎて、レースに参加することはできない。
古代ローマ人の生活をまざまざと再現してくれる面白い本です。
(2013年2月刊。3200円+税)

コリーニ事件

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  フェルディナント・フォン・シーラッハ 、 出版  東京創元社
日本とはかなり異なる弁護士事情です。私は弁護士生活40年になりますが、刑事裁判で無罪判決をもらったのは、たったの2件しかありません。うち1件は検事控訴されることなく一審で無罪が確定した詐欺事件でした。もう一件は検事控訴されて二審は逆転有罪となり、最高裁で有罪が確定した公選挙違反事件(演説会の案内ビラを配布したのが戸別訪問とみなされた事件です。こんなのが罪になるなんて、公選法のほうが間違っていると、今も考えています)です。残る事件は、いわゆる情状弁論を主とするものばかりです。したがって、ドイツ流に言うと、私は「勝てない弁護士」ということになりそうです。でも、本人も周囲もそんなふうには思っていません。
 この本は、ドイツの現職弁護士が書いた殺人事件の顛末を描いた推理小説です。ですから、ネタバレは禁物です。とは言っても、少しだけ紹介します。
弁護士は新米で、法廷での手続もよく分かっていません。
 経済界の大物経営者が突然、見知らぬ男に殺害されてしまいます。男は殺害後、すみやかに自首します。そうすると、弁護人として一体何ができる、何をするのでしょうか・・・。
 この本のオビによると、「ドイツでは35万部突破!」ということです。
 殺人行為を被告人が否定せず否定する意欲もないとき、そのとき、弁護人は何をしたらよいのか・・・。
 実は、被害者は元ナチスの高官だったのです。そして、この本の著者も有名なナチス高官のシーラッハの3世です。そうなんですね。ナチス高官の3世たちが今のドイツで活躍しているというわけです。ヒトラー暗殺未遂で首謀者だったドイツ国防軍の高官の3世も紹介されています。
ドイツでこの本が35万部売れたというのは、それだけナチス・ドイツが単なる過去の問題ではないことを意味しています。ひるがえって、日本ではどうなんでしょうか、過去への反省があまりにも足りないように思います。安倍さんのように開き直りが目立ちすぎますよね。これでは国際社会に受け入れられません。日本が侵略戦争したことをきちんと反省してこそ、日本の生きる道はあるのです。それは自虐史観などと言うものでは決してありません。加害者は忘れても被害者は忘れないのです。
(2013年4月刊。1600円+税)

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