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カテゴリー: ヨーロッパ

天、共に在り

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  中村 哲 、 出版  NHK出版
アフガニスタンで30年がんばっている著者の話を読むと、心が震える思いがします。
 日本の自衛隊をアフガニスタンへ派遣するなんて有害無益だ。
 著者が国会でこのように述べたとき、自民党の議員たちは野次を飛ばし、著者に対して発言の撤回を求めたそうです。とんでもない議員たちです。なんでも軍事力で解決できると思い込んでいるのですから怖いです。
 中村哲氏は医師としてアフガニスタンへ渡り、医療を施しているうちに、まずは清潔な水が必要。それさえあれば病気の子どもたちの多くは助かると気づいたのでした。そして、大人たちが村を出ていくのは、農業が出来ないから。それでは、井戸を掘り、また用水路をひっぱってこよう。すごいですね。発想しただけでなく、行動に移したのです。写真がありますので、井戸そして用水路のある前と現在の比較が出来ます。
 荒涼たる砂漠が、緑したたる平野に変わっているのを見ると、つい涙が出てしまいます。もらい涙というか、うれし涙です・・・。
 アフガニスタンの人口は2000万人とも2400万人とも言われるが、正確な数字は不明。農民が8割以上、遊牧民が1割。
 幼児が餓死していく。空腹で死ぬのではない。食べ物不足で栄養失調となり、抵抗力が落ちる。そこに汚水を口にして下痢症などの腸感染症にかかり、簡単に落命する。病気のほとんどが十分な食糧と清潔な飲料水さえあれば防げるものだった。
 マルワリード用水路の総工費14億円は、すべてペルシャワール会に寄せられた会費と募金によってまかなわれた。すごいですね。日本人の善意がアフガニスタンの荒野を緑したたる平野にして、農業そして生活と健康をもたらしているのです。
 なにしろ長さ5キロメートルに砂防林だけで20万本の木を植林したといいます。
 写真が壮観です。
ドクター・サブ(お医者様)として、著者の安全は地元住民が最大限の保護をしています。それでも、アメリカ軍の「誤爆」など、危ない目にもあわれたことでしょう。本当に応援したい活動です。著者の自宅は大牟田市にあります。筑後川の堰づくりが活かされているのを知って、うれしくなります。
(2013年11月刊。1600円+税)
 今年は激動の年でした。日本国憲法が本当に危うい状況です。なりふりかまわず戦争する国へ変えようとする安倍政権の執念は恐ろしいばかりです。でも、それに抗する力も大きくなっているように思います。
 日弁連でも憲法問題対策本部をたちあげて本腰を入れて取り組む体制がつくられようとしています。私も及ばずながら全力を挙げるつもりです。
 この1年のご愛読に感謝しつつ、新年も引き続きお読みいただくようお願いします。
 新年がよい年であることを願っています。

ブルゴーニュ公国の大公たち

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ジョセフ・カルメット 、 出版  国書刊行会
ボルトーと並んで有名なワインの名産地、ブルゴーニュ地方には中世に大きな公国があったのでした。その首都デイジヨンには大きな館があり、今では市庁舎と立派な美術館になっています。昔の栄華をしのばせる偉容には圧倒されます。
そして、デイジョンもボーヌも、まさしく美食の町です。星があろうとなかろうと、心ゆくまで美味しい食事を堪能することができます。ボーヌには2度行きましたが、ぜひまた行きたいところです。
初代ブルゴーニュ公のフィリップ・ル・アルディは、1342年生まれ。背が高く、頑健で、よい体付きをし、丸々と太っていて。色の黒い醜男だった。明敏な洞察力こそは、機を見るのに敏な感覚、決心とあいまって、公の主な長所とも言えた。
 二代目ブルゴーニュ公のジャン・サン・プールは、勇敢で大胆で、ひねくれ者で、際限のない野心家だった。1407年11月、ルイ・ドルレアンがジャンによって暗殺された。ジャン・サン・プールは、野望をみたすためには、目的のためには手段を選ばず、緊迫した情勢を解決できるなら、犯罪であってもやってのける政治家だった。逆にオルレアン公の方がブルゴーニュ公の暗殺を図っていた。だから、正当防衛しただけのことだと喧伝された。
 英国軍がヘンリー5世の下にアザンクールでフランス軍を大敗させた。ジャン・サン・プールはヘンリー5世と結んだ。そして、1419年9月、ルイ・ドルレアン公殺しの張本人が、モントロー橋の上で暗殺された。
 三代目のブルゴーニュ公は、フィリップ・ル・ボンである。背は高く、風采は立派、人並みすぐれ、見栄えする容姿の持主だった。その私生活は庶外れの自由奔放さで、30人の愛人がいて、公認の私生子は17人いた。
 このフィリップ・ル・ボンの時代に、あのオルレアンの少女、ジャンヌ・ダルクが登場する。ジャンヌ・ダルクは、金貨1万エキュという巨額でもって英国人に売られた。裁判長のピエール・コションは、残忍な対英協力派、何でもやってのける聖職者だった。フィリップ・ル・ボンはジャンヌ・ダルクの裁判をちゃんと知らされていた。
 四代目で最後のブルゴーニュ大公は、シャルル・ル・テメレール(突進公)である。
 自分にも、他人にもきびしく我慢を知らず、粗暴で執念深く、すぐに逆上した。
 ブルゴーニュ公国では、民衆的な劇が非常に好まれ、数多くの俳優がいた。まばゆいばかりのロマネスク芸術の一派が花を咲かせた。
ブルゴーニュ宮廷は、15世紀に、稀にみる輝きを発した。祝宴は、公家のお得意芸の一つだった。パントマイム、人体を組みあげてくるお城、軽業の見世物などが宴会にはつきものだった。たえず工夫をこらしていることが決まりだった。
 ブルゴーニュ公国には、制度上の一体性はまったくなかった。
ブルゴーニュ公国は、現在のフランス、ベルギー、オランダ(の一部)、ルクセンブルクなどにまたがった広大な版土を有していた。
そんな中世のフランス公国を知ることのできる本格的な歴史書です。
(2000年5月刊。6500円+税)

目撃者

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  エルンスト・ヴァイス 、 出版  草思社
麻生元首相が、ナチスがワイマール憲法を静かにナチス憲法に変えていった教訓に日本も学べと講話したことが大きく報道されました。
 ヨーロッパをはじめ世界からはなんて非常識な発言だと糾弾されましたが、安倍内閣は本人がすぐ撤回したので問題なしとし、日本のマスコミもあまり騒ぐことはありませんでした。こうやって改憲への足慣らしがされていくのか思うと、寒気すら炎暑のなかで覚えてしまいます。この本は、まさしくヒトラーが政権を握るまでに起きたことがテーマとなっています。
 この小説のすごいところは、ヒトラーが第一次世界大戦で負傷し、失明した兵士となり、精神科医による治療によって再び目が見えるようになったという実話をもとにしているところです。
 1918年10月、ベルギー戦線でイギリス軍のガス攻撃を受けて負傷したヒトラー上等兵は、北ドイツの野戦病院に運び込まれた。患者をみたフォルスター医師は「ヒステリー症状を伴う精神病質者(いわゆる性格異常者)」と診断した。フォルスターは、ヒトラーに睡眠治療を施して、眼が見えるようにしたばかりか、「君は救世主キリストだ。ドイツを救うのは君しかない」と強烈な暗示かけて娑婆に戻した。そのあと、ヒトラーは、それまでとはまったく別人のようになって強烈なカリスマ性を発揮し、誰もが知るような独裁者への階段を駆け上がっていく。そして、ヒトラーの過去の秘密を知るフォルスターは1933年にナチスが政権をにぎると、ゲシュタポに狙われ、同年9月、追いつめられて自殺した。ところが、フォルスターは、自殺する前、パリに逃れ、そこでユダヤ系亡命作家サークルにヒトラーの診断書を託した。
 この小説は、このときのヒトラー・カルテをもとにしているのです。
彼にとって、この戦争は大歓迎だった。彼自身を救うばかりか、世界を救うことでもあった。彼は、ウィーンで貧しい画家志望の学生だった。食い詰めたときには、建築現場でペンキ屋の仕事をした。彼は、路上生活者となり、ときどき「気のいいヤクザのあんちゃん」や、住む家のないさすらい人から、わずかばかりの小銭やパイのかけらを恵んでもらっていた。
 ヒステリー性の失明に見舞われた人間の運命は、常に過酷きわまるものである。ひとに認められたいと望む、この男の自己顕示欲、自分は上だと思い込む自己陶酔、そして過激なエネルギー、こうした要素とこの男がかかえる苦しみをつなぎ合わせて、一筋の道を見つけ出し、それによってこの男を病気から救い出してやろう。運命をあやつり、神を演じ、そうして一人の眠れない失明者に再び視力と眠りを取り戻してやった。
 悲しいかな、このころワイマール政府の頼みの綱は将校団しかなかった。というのも、本来、共和制を支えるべき労働者たちが、かたや保守・自由・ブルジョア派に、かたや革命・プロレタリアアート・インターナショナル派に分裂してしまい、一致団結して政府を支えようとしなかった。
 この将校団のうながしにより、軍隊に所属する者たちには選挙権が与えられず、共和制党および革命政党の党員になることも禁じられた。あの偉大なる11月の無血革命は、将校団のあいだでは、ただの屈辱、敵前逃亡、敗れざるドイツの背筋に突き刺された亡者でしかなかった。
 ひとは、容易にだまされてしまうものだ。
 1923年11月の一揆が勃発した。国防軍は、Hの組織するこの反乱は、自分たちに有利に展開するだろうと信じていた。また、保守的なブルジョア層やフォン・カールのような高級官吏たちは、Hに資金援助してこれを影で支えていたが、彼らは能天気にも、この反乱が反革命を呼びおこし、古きなつかしき王家が復活するだろうくらいに思っていた。だが、Hの思惑は、まったく自分本位のものだった。だれもHは、そこまでやるとは思っていなかったし、恐らくH本人もそこまでやれるとは思っていなかっただろう。二度までも軌跡を起こすことになろうとは・・・。
ヒトラーの権力掌握の愚を日本でくり返しては絶対にいけません。その意味で、麻生元首相の講話は反面教師とすべきものと考えます。
(2013年5月刊。2800円+税)

暮らしのイギリス史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  ルーシー・ワースリー 、 出版  NTT出版
イギリスにはまだ行ったことがありません。大英博物館には、ぜひ行ってみたいのですが・・・。
 かつて寝室は雑魚寝(ざこね)状態でやすむ、半ば他人との公共の場であった。睡眠とセックスだけに特化するようになったのは、たかだか19世紀になってからにすぎない。同じように、浴室も19世紀末まで、独立した部屋として存在すらしなかった。
 その昔、人生最大の悩みと言えば腹を満たせるものがあるか、あたたかい寝床で眠れるか、結局、この二つの問題に尽きていた。
 何百年にもわたり、国王や貴族は寝室では肌着姿で通した。下着姿の王は、召使の注視に慣れる必要があった。もともと下着は、あえて人目を意識して、垣間見せるようにもできていた。
 王の衣服を暖炉の前で温め、王が袖を通すまで暖かい状態に保っておくのは、信頼あつく地位の高い召使のみに任された仕事だった。
 女王は、他人の助力なしに服を着ることができなかった。中世の騎士は、下着としてのパンツを着用しなかった。チューダー朝の宮廷人は、下剤を偏愛していた。
中世は男性が不能になれば、離婚もやむなしという時代だった。国王や貴族の子づくりは、国事行為に似て、きわめて重要であり、半ば公的性格も帯びていた。
公共浴場は男女「混浴」であり、中世の人々は、大挙して同時に入浴していた。ひとりで入浴する習慣はなかった。
 16世紀になると、浴場の評判はかげり出し、浴場という言葉は売春宿と同義になっていた。そして、18世紀になって入浴は徐々に復活してきた。
18世紀まで、歯医者という職業はこの世に存在しなかった。チューダー朝の理髪師は外科医を兼ね、散髪、抜歯そして手足切断まで行っていた。
 王が臣下とはいえ人前で用足しをするものだから、貴族も人前で何らはばかることなく用を足した。
 17世紀になると、豪邸・宮廷には水洗便所が四方八方に設けられていた。チューダー朝からスチュアート朝を通じて、イギリス人口の30%が人生の一時期に召使として働いていた。召使として働くことは何ら恥ずべきことではなかった。主人との縁故は、社会的特権をうみ出し、生活の庇護にもつながった。主人と召使は生活全般にわたって文字どおり一体であり、中世の居間では寝食を共にするのが常態だった。
 結婚は万人の義務だった。17世紀末、イギリスは結婚を通じて国家財政を潤すため、婚姻税が導入された。
 中世の農民は、鹿などの狩猟を法律で禁じられていた。こうした動物は、地主や王侯貴族の楽しみのためにとっておかれた。農夫にとって、牛や羊肉などの赤身の肉は夢でもおがむことのできない贅沢品だった。
 果物は、生野菜と同じく、卑賤な食べ物と考えられていた。
 中世イギリスの人々の生活の実態を教えてくれる本です。意外なこともたくさんありました。
(2013年1月刊。3600円+税)

ヴェルサイユの女たち

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  アラン・バラトン 、 出版  原書房
ヴェルサイユ宮殿には2回行ったことがあります。もう20年も前のことです。電車を降りて歩いていくと、平地の向こうに大宮殿らしきものが見えます。ともかく広大な宮殿です。鏡の間などを見学したあと、広い庭に出て、それからずっと右奥のほうにあるプチ・トリアノンにまわりました。マリー・アントワネットが農村ごっこをしたという場所です。
 この本では、ヴェルサイユ宮殿で活躍した女性たちが主役です。
ヴェルサイユの利点は、パリからブルターニュに抜ける最初の拠点だった。未開発でじめじめした沼地が多かった。そして、野生動物が豊で、狩りにうってつけだった。
 パリの中心地からヴェルサイユまでは、わずか20キロしか離れていないが、都とは別世界が広がっていた。当時、ヴェルサイユに行くのは、ちょっとした旅行だった。
 ルイ13世の幼少期は幸せとは言い難かった。9歳のときに王位を継いだが、母のマリー・ド・メディシスは摂政として、「身体的にも精神的にも弱すぎる」との烙印を押して、政権から遠ざけた。
当時のフランスでは、修道院に入らない大人の女性が独身でいるのは、非常に珍しいことだった。
 ルイ14世は、道路を整備して、パリとヴェルサイユ間を6時間で行けるほどに近代的な道にした。
 当時は、太っていることは健康の印、やせているのは貧乏人の印だった。
 この当時、男性を夢中にさせるのには、ふくらはぎをちらっと見せるだけで足りた。女性は胸であわば惜しげなく乳首近くまで見せたが、足は夫か愛人にしか見せなかった。乳首を両方とも見せるのは、売春婦だった。
王とベッドを共にすることは、どんな結婚よりもその後の安定した生活を保証してくれた。王の肝入りで、そっと資産家に嫁いだ例も珍しくはない。だから、上陸階級は率先して体を売る商売に励んだ。ルイ14世の治世は、この商売を花開かせた。宮殿を囲む森は、さながら野外の売春宿の風を呈していた。
 ヴェルサイユ宮殿には、ふたつの空間がある。式典のための広間や「鏡の間」のような絢爛豪華な外向きの空間と、もうひとつ、実際にはだれも知らない、迷宮のような私的な空間だ。
 ポンパドール夫人は20年以上にわたってルイ15世の宮廷に君臨し続けた。その秘密は、王を満足させるためならどんな犠牲も払ったからだ。うつ気質のルイ15世をリラックスさせるため、小部屋の劇場で演劇を催し、自ら舞台に上がって見事に役を演じ、歌劇を演出し、バレエやコンサートも企画した。
 ポンパドール夫人が亡くなったとき、残されたのは涙にくれる王と空っぽの金庫だった。プチ・トリアノンはポンパドール夫人の希望でつくられたが、彼女が感性を見ずに他界してしまったため、そのままになっていた。
 庭師として、ヴェルサイユを知り尽くしている著者による、宮廷で活躍した女性の話でした。
(2013年3月刊。2600円+税)

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