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カテゴリー: ヨーロッパ

死の都の風景

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  オトー・ドフ・クルカ 、 出版  白水社
 10歳のユダヤ人少年がアウシュビッツ強制収容所に両親ともども入れられます。なぜか、ずっと家族一緒のままです。アウシュビッツ収容所では、入り口で選別され、男と女は別、家族はバラバラ、そして老人子どもは、直ちに「選別」と称する「死」の行進へ連れ出されていったはずなんですが・・・。
 ともかく、主人公の少年は奇跡的に助かります。そして、戦後、イスラエルに渡り、歴史学者になるのでした。1978年、ポーランドで国際学術会議が開かれ、参加した後アウシュビッツに「見学」に出かけます。
 そして静寂があった。圧倒的な静寂だった。そこでは、鳥の声すら聞こえなかった。そこは音のない、空虚な場所だった。驚くことに、あれだけぎっしりと人々が詰め込まれ、まるで蟻のように、おびただしい奴隷の群れが歩を進めていた風景が静けさに包まれていた。見捨てられていた。しかし、すべては、そこにあったのだ。
著者がアウシュビッツに到着したのは、1943年だった。父親は1942年からアウシュビッツにいた。そして、家族収容区に入れられ、家族みんなで生活できた。なぜか?
 子どもたちへの教育があった。劇が上演され、コンサートが開かれた。子どもたち全員でオペラを演じた。歴史の授業があった。第一次、第二次ペルシア戦争、サラミスの海戦、テルモピェライの戦い、栄光の知らせを携えたマラトンの走者・・・。この出会いがあとで著者を歴史学へ導いた。
収容区には有刺鉄線があった。その通電柵には、本当に電気が流れているのか。子どもたちは知りたかった。誰もが有刺鉄線に触れて生きのびられるか、競いあった。
 山積みにされた遺体は日常的な光景だった。それは骨と皮しかなかった。黄ばんだ皮膚のみに覆われた骸骨だった。
 子ども棟のバラックには、合唱団の指揮者がいた。巨人のような大男で、名前をイムレと言った。ベートーヴェンの「歓喜の歌」をみんなで歌った。なぜ、この歌だったのか?
収容所から脱走しようとしたロシア兵捕虜の公開処刑を目撃させられた。
 絞首台に追い立てられた捕虜の最後の叫びは、「スターリン万歳、故郷万歳」だった。
 収容所のなかで、著者は20歳くらいの若い囚人から教わった。ドストエフスキーの『罪と罰』の本を著者に貸し、ベートーヴェンやゲーテ、シェイクスピアについて解説し、ヨーロッパの人道主義について教えてくれた。
 20歳前後の若い女性がガス室に入れられる前に紙束をカポに渡した。
 三つの詩が紹介されています、いずれも、心に深々と突き刺さる詩です。
野ざらしにされた絶望のドクロが鉄条網の上で震え、わたしたちの灰は四方へ散り無数の骨壺に収まる。わたしたちは大地をめぐる鎖を作り、風で舞い散る種を生む。わたしたちは月日を数える。わたしたちは待つ。時は、わたしたちを急がさない。
 そして、ここにわたしたちは殖えゆく。わたしたちは日に日に膨らんで大きくなる。あなたたちの野原はもうわたしたちで溢れんばかりで、ある日、あなたたちの土地は弾け飛ぶ。
そしてそのとき、おぞましい群をなして、わたしたちは姿を現す。わたしたちの頭骨と脚骨の上に、ドクロをひとつ乗せて。
 そして、あらゆる人々の前でわたしたちは咆哮をあげる。
 わたしたち、死者は、告発する!
 すごい、迫力のある詩です。詩と言うより、心の底からの叫びです。
 神は、どこにいるのですか?
 ユダヤのラビであり、カポであり、教師であり、権威であり、人々の心の拠りどころとなった男は、こう答えた。
 「そうした質問をするのは禁じられています。そのような質問は、永遠に禁じられているのです」
 最後に、アウシュビッツになぜ、このような家族収容区が存在したのかという理由が明らかにされています。
 それは、ジュネーブの億歳赤十字本部から代表団が視察に来たとき、ユダヤ人虐殺なんて嘘だという「生きた見本」として存在したのでした。ですから、赤十字団が訪問したあと、家族収容所はたちまち一掃されてしまったのです。それでも、運が良いことに著者のように生きのびることが出来た人がいたというわけです。
 10歳から12歳を絶滅収容所のなかで過ごした少年が大人になってから、自分の体験を振り返った貴重な本です。
(2014年5月刊。2200円+税)

古代ローマ人の愛と性

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 アルベルト・アンジェラ、出版 河出書房新社
 「古代ローマ人の24時間」などに続くシリーズ第3弾です。驚くことの多い古代ローマ人の生活です。
古代ローマ人には、奇妙な慣習があった。夫は妻からのキスを受ける権利があると定めた「接吻制度」があり、妻は毎日、夫の口にキスすることが法律で義務づけられていた。その主な目的は、女性がワインを飲んでいないかを調べることにあった。
 女性は絶対にワインを飲んではならず、妻が夫に隠れて純粋なワインを飲んだら、夫は妻を殺す権利があった。女性がワインを飲むことは、姦通と同等の罪だとみなされていた。ええーっ、そんな嘘でしょ・・・。こんなことが、本当に守られていたとは思えません。
 手へのキスには、敬意と服従と示すという明確な意味があった。人前では、身体と身体が触れあう行為は、いかなるものでも破廉恥とみなされ、道徳や貞操に反するとされていた。
 良家の女性は、一人で出歩くようなことは決してなかった。外出するときには、コメスと呼ばれる信頼のおける奴隷か親族によって常に警護されていた。夫たちは、こうして妻を監視していた。
 富裕層の娘にとって、結婚前に男性と性的関係をもつことは考えられなかった。女性は処女のまま結婚式にのぞむことが義務づけられていた。
夫に先立たれた女性は、再婚するを1年のあいだ禁じられていた。
古代ローマ社会で、もっとも自由を享受していたのはおそらく解放奴隷の女性たちだった。
 しかし、名門既婚女性(マトローナ)は、厳格な行動規範を平気で無視していた。若い男性を求め、行きずりのセックスや一夜限りのアヴァンチュールを好む熟年女性がいた。
 富裕層の女性は12~14歳で結婚した。下層の女性は16~18歳だった。
ローマ時代には、離婚がとても容易だった。離婚にあたっては、現代と異なり、法的な手続きは一切必要なかった。死別より離別のほうが多かった。
 古代ローマでは、夫が妻を殴ることは日常茶飯事だった。妻を殴っても、殺してしまわないかぎり、夫が裁判にかけられることはなかった。妻に対するDVは、中・下層階級において、より一般的だった。
 古代ローマ人の私生活の様子を知ることのできる面白い本です。
(2014年4月刊。2500円+税)

ナチ・ドイツの精神構造

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  宮田 光雄 、 出版  岩波書店
 安倍内閣の副首相が日本の政治もナチスに習ってやればいいと放言して顰蹙を買いましたが、この本を読んで、ナチス・ドイツを反面教師とすることが今求められていると痛感しました。
ナチ党は1932年秋の選挙で最初の衰退の徴候をみせ、6月の国会選挙と比較すれば得票率を14.6%も減少させた。党財政は逼迫し、組織の弱体化に直面していた。
 ヒトラーが政治取引においてあくまでも固執して譲らなかったのは、独裁的条項の非常大権を行使しうる大統領内閣首相としての地位だった。
 1933年1月30日、いわゆる「合法的」路線の上に政権にたどり着いたヒトラーとナチズムにとって、この時点から、ようやく本来の意味での「権力獲得」が始まった。「合法性」戦術を、本来の「反革命」戦略と結合し、政治的・社会的・思想的な対抗勢力を短期間に出し抜き一掃する、独自の権力掌握の技術が編み出されなければならない。ここに、敵をも同盟者をも欺瞞する第二の合い言葉が「国民革命」の観念が登場した。
新たに成立したヒトラー政権は1933年3月の授権法による権力的基礎の確立まで、最初の数週間、「国民革命」「国民的高揚」のスローガンのもとに行動した。ヒトラーは、ナチ政権の首相としてではなく、「国民革命」の連立政権首相として演技してみせた。
 ポツダムの日(1933年3月21日)、元帥服をまとった老大統領ヒンデンブルクの前に、ヒトラーは無帽のまま頭を下げ、「旧き偉大さと若き力の婚姻」を宣言した。
 ヒトラーは首相就任宣誓後、数時間もしないうちに国会の即時解散を断行した。ヒトラーの計画は、掌中に握った国家戦力の全手段を投入して総選挙を実施することにあった。
 2月初頭、新聞・言論の自由を厳しく制限し、2月末の国会炎上事件をきっかけとして憲法の規定する基本権を停止させた。
 「国民と国家の防衛のための緊急命令」は、ナチ政権の政治的敵対者に対するテロと迫害の合法的手段を提供した。
 3月5日の国会選挙は、政府の弾圧と干渉のもとに左翼政党は必要な広報手段を奪われ、世論は閉塞させられた。他方、ナチ党は、組織的な宣伝戦を展開し、ラジオをはじめとするマス・メディアをほとんど無制限に動員した。それでも、投票の結果、ナチ党は得票率44%で、単独支配できず、他党と同盟せざるをえなかった。左翼も30%以上の支持を得た。
この選挙の得票率は88%にのぼり、1932年秋の国会選挙(得票率80%)に参加しなかった350万人が得票動員された。550万もの新しいヒトラー支持票の半分が従来の棄権者から成り立っていた。
「授権法」は、首相ヒトラーの当初からの目標だった。1933年3月23日、「国民と国家の艱難を除去する法律」が圧倒的多数の賛成(449票対94票)で可決された。この「授権法」によって、ヒトラー政権は、今後4年間にわたって議会の協働なしに、しかも、「憲法と異なった」立法をもなしうる権限を与えられた。
 「授権法」の結果、大統領の非常大権は不要となり、大統領の指示に依拠する非ナチ系閣僚の比重は低下した。
「授権法」は、1943年5月の総統布告によって延長され、「第三帝国」全期間を通じて妥当し、事実上、「国会炎上緊急命令」とともに「ナチ憲法」を構成した。
 7月の「新政党組織禁止法」、そして12月の「党と国家との一体性の確保に関する法律」によって、ナチ党による一党制国家が布告された。
 無制限の権力掌握の過程は、イタリア・ファシズムでは7年を必要としたのに対して、ドイツでは、わずか10ヵ月をもって完了した。
 1934年9月のナチ党大会において、ヒトラーは、改めて変革的過程としての「ナチ革命」の終結を宣言した。
 1938年以降、政府そのものが指導的機能を失い、閣議が召集されることはなかった。
 全将兵から閣僚をふくむ全官僚が、憲法への宣誓の代わりに、「ドイツ国および国民」の指導者ヒトラーに対して忠誠誓約を行うようになった。
 1933年から1938年まで、国民投票が5回も実施されたが、それは確実な成功を予見したうえでなされたものであった。
 国民投票って、必ずしも民主的意思の発言とか、民主的統制の手段ではなく、独裁者の行為を正当化するものとして多用されるというわけです。恐ろしいことです・・・。
 反ユダヤ主義は、現実の支配体制に由来する一切の政治的害悪と大衆的不満を無力な少数者に転嫁し、社会的緊張を解放することに役立った。大衆暗示のもつ魔術的効果こそ、ナチ政治宣伝の最大の関心事であり、一切の思考や個性を殺し巨大な大衆集会や大衆行進は、明らかに人間を画一化する魔術的儀式にほかならない。
 収容所を秘密のヴェールにつつみ、テロの噂を断片的に流布させるナチズムの手口がいっそう戦慄すべき未知なるものへの一般的不安を亢進させた。
 現実の敵が一掃されたあと、いまや「潜在的」敵に対する追跡が開始され、テロは社会全体に向けられた大衆テロに発展する。いたるところにテロの雰囲気が広がり、全体的不安が全生活を支配した。
 テロは、批判的知性を無力感と孤立感に陥れる。それは、集団全体の匿名性のなかへ自己を埋没させようとする避難性向を強めずにはいない。
 445頁もの、ずっしりと重い本格的なナチ・ドイツの研究書です。いま、多くの人に一読をおすすめしたい本です。
(1991年4月刊。5631円+税)

新・ローマ帝国衰亡史

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  南川高志 、 出版  岩波新書
 ローマ帝国とは何か、改めて認識することが出来ました。
 ローマの征服軍が要塞の周辺には、軍に関係する民間人の定住地ができた。これをカナバエという。カナバエは発展して村落となり、軍が移動したあとの要塞敷地も含みこんで拡大した。
 境界地帯での移動を前提としていた正規軍団は、次第に一定の基地を得て長く駐屯するようになる。そして、軍を退役した兵士は故郷に戻らず、在勤中に非公式にもうけていた妻子とともに基地の近くに定着し、カナバエから発展した町で暮らし、その有力者となる者も出てきた。
 軍隊は新しく「ローマ人」を生み出すうえで大きな役割を果たした。「ローマ人」とは、ローマ市民権をもつ「ローマ市民」のことであり、故地ローマ市と結びついていた。国家が拡大してからは、新市民はローマ市の郊外地区に登録され、政治的な意味はなくなる。それでも、「ローマ人」であるためには、ローマ市民権の取得が前提だった。
 皇帝政府は、ローマ市民権をもたないため正規軍団に入れない部族の男性を補助軍として組織した。補助軍といってもローマ人指揮官の下、正規軍団とともにローマ軍の一翼を担ったから、指揮命令系統と訓練は、ローマ式になされる。そして無事に兵役をつとめあげるとローマ市民権が与えられ、その子はローマ市民として正規軍団に入隊して、ローマ社会の階悌を上がっていくことができた。
 こうやって、ローマ帝国は辺境において、兵員を確保するだけでなく、ローマ帝国に対する忠誠心を期待できる人材を養成していた。
 ローマ社会は、人々やその集団を出自によって固定させてしまうカースト的な社会ではなく、流動性があった。そのため、奴隷に生まれても、主人の遺言などによって奴隷の境遇から解放されて解放奴隷となり、その子孫は都市の有力者となって都市参事会員として活躍し、さらには実力と幸運に恵まれて騎士身分に状況し、元老院議員にまでのぼりつめる可能性があったし、実際にもそうした上昇例は多かった。
 属州に生まれてローマ市民でなかった者も、外部世界から属州に入って市民権を得た者も、実力と幸運に恵まれたら、社会の最上層にまで到達できたのだ。
 ローマ帝国は、国家として硬直した存在ではなかった。担い手である「ローマ人」は法の民であり、法にもとづく国家の制度をもち、奴隷制と身分制を備えた社会に生きていた。ローマ人とは、きわめて柔軟な存在であって、排他的な生活を有していなかった。
 ローマ帝国が「幻想の共同体」でなかった第一の要素は、軍隊の存在である。
 次に、「ローマ人」としての生き方である。ラテン語を話し、ローマ人の衣装を身につけ、ローマの神々を崇拝し、イタリア風の生活様式を実践すること。
 広大なローマ帝国を統治するうえで中央行政を担当していたのは、わずか300人ほどの「官僚」だった。
 ローマ異国を実質化する第三の要素は、外部世界の有力者たちの共犯関係にあった。
 今日では、ローマ人対ゲルマン人という二項対立の図式は適切ではないと考えられている。
 「ゲルマン人」と呼ばれる集団は、今日、固定的で完成された集団とは考えられていない。非常に流動性の高い集団で、そのときどきの政治的な利害によって離合集散を繰り返し、その構成員や集団のアイデンティティが形づくられていったと理解されている。
 古代ローマ帝国が柔構造をもつ社会だったことを初めて知りました。
(2014年5月刊。760円+税)

台頭するドイツ左翼

カテゴリー:ヨーロッパ

著者  星乃 治彦 、 出版  かもがわ出版
 日本の左翼は、少なくとも国会の議席数をみる限り、元気がありません。それでも、国会外の動きでは、それなりに復調傾向にあると思われます。国会の外の世論の動向が国会の議席数に反映するためには、今の小選挙区制を撤廃するしかありません。完全比例代表制にしたらいいと私は思います…。
 ドイツでは左翼が、このところ健闘しているようです。この本はその実情と克服すべき問題点を分かりやすく伝えています。2009年の選挙で、ドイツの左翼は515万票、76議席を獲得した。2013年の連邦議会では、若干の後退をしたが、連邦議会内の第三党になった。いくつかの州では、連立政権の一翼を担っている。ドイツ左翼党は、旧東ドイツ地域で25%の得票率を占め、全体としても12%の票を集めた。
 ドイツ左翼党は、ドイツにおける五党体制を定着化させている。
 ひところは消滅するとまで思われていた東ドイツの政権党が、なぜ生き残ったのか、そして今、躍進しているのか・・・?
 1990年~1991年の湾岸戦争のとき、ドイツ左翼党の前身であるPDS(民主的社会主義党)は、緑の党さえ戦争支持に転じるなかで、平和主義の立場から発言する唯一の野党としての顔をもった。
 PDSは、1994年の選挙で、政策的に一致できる人を選挙リストに組み入れていくという、オープン・リストで対応し、「左翼ブロック」を模索した。
 ドイツ左翼党の党員は7万人前後で推移してきた。東西の比率は、かつて7対3だったが、今では2対1にまで是正された。左翼党は、今や、ドイツ全体における社会的弱者の党へ変貌している。
ドイツ左翼党では、中央集権的構造力がなく、下部組織の自律性が非常に強い。「上」からの指導がないだけに市民の意見をとり入れやすい。
 そして、左翼党の指導部は確固として統一性をもっていない。左翼党内には、さまざまな左翼的潮流をかかえこんでいる。現在の左翼党は、自分たちの活動の源泉をレーニンに求めていない。レーニン的前衛党論はとっていないのだ。
 近くて遠い、ドイツの政治をのぞいてみた気がしました。
(2014年1月刊。2600円+税)

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