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カテゴリー: ヨーロッパ

独裁者は30日で生まれた

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 H・Aターナー・ジュニア   出版 白水社
 
  ヒトラーが首相になったのは、ヒンデンブルク大統領ほかとの対人関係のなかで生まれたものだということを明らかにした面白い本です。
  ヒトラーは、本人以外は誰も首相になれるとは思っていなかったのに、同じく落ち目だったパーペンと手を組んで、逆転して首相になったのでした。本当に悪運の強い男です。そして、それによって全世界にとんでもない災いをもたらすのでした。
  ヒトラーを嫌っていて、渋々、首相に任命したヒンデンブルク大統領について、次のように評しています。
  ヒンデンブルクには、強靭な独立不羈の精神が欠如しており、自分から滅多なことでは主導権を握らなかった。その全生涯を通じて、ヒンデンブルグは周囲の助言に大いに依存し、その特徴は年とともに一層顕著になった。無感動に見えるその外見とは裏腹に、ヒンデンブルクはストレスがかかると感情の爆発に負け、口ごもり、とめどもなく涙を流した。ヒンデンブルクは、軍事問題以外には知的関心をまったくもたず、政治をふくめて極度に単純化された見解以上のものをめったに持っていなかった。
  ヒトラーのナチスは、通常の意味での政党ではなかった。それは、ヒトラーが繰り返し主張したように、党員に党への全面的かつ無条件の献身を要求する運動だった。ヒトラーはビヤホール一揆が失敗して1年以上も刑務所生活を余儀なくされたが、その後は、武力で共和国を制圧するという希望を捨て、合法的に選挙によって権力を奪取しようとした。
  ドイツにおける大恐慌が数百万人の不安と絶望を引き起こしたとき、ヒトラーは見境のない扇動と計算し尽した嘘八百を並べ立てて、多くの支援者を獲得した。まるでアベですね。
  熟練の写真家に自分の実物以上の、ひたすら自らの大義に殉する人物として撮影してもらうことによって、深遠な思想を伝え、無私の精神によって、困窮した数百万のドイツ人のために尽力するというイメージを作りあげた。
  ヒトラーは、不安感と偏見を巧みに利用した長広舌の情熱的な演説によって、影響を受けやすい聴衆を大衆ヒステリーに近い状態に投げ込み、言葉の奔流で圧倒し、翻弄した。
  ヒンデンブルクは、ヒトラーを非公式には「伍長」と呼び、深い不信感を抱いていた。1931年11月の国会選挙は、ヒトラーとナチスにとって痛撃となった。多くの国民が、とどまることを知らないナチ突撃隊の暴力行為に仰天した。このとき投票所に向かったドイツ人のうちの3分の2以上がナチズムを拒否した。
ヒトラーの狙いは、議会主義にもとづく内閣の首相ではなく、大統領府内閣の首相となること。他党との連合に依存する必要がなく、大統領緊急令によって統治できるもの。
  ナチ突撃隊は40万人。ベルサイユ条約によって制限された小さなドイツ国防軍(10万人)を4対1の割合で上回った。
  1932年暮れ、ナチス党のナンバー2(シュライヒャー)がヒトラーに反対した。このとき、ヒトラーはパニック寸前の状態にあった。
  1933年1月、ヒトラーは43歳だった。ヒトラーは自墜落で、半ボヘミアン的な生活を送っていた。ヒトラーは不況に苦しめられていた多くのドイツ人が夢想すらできないような贅沢三昧の生活を過ごしていた。
  ヒトラーは権力の共有ができない、壮大な使命感に燃えた狂言者だった。
  1933年1月、ヒトラーは小さなリッペ州で大博打に出た。ヒトラーはドイツの苦しみの犯人は、ユダヤ人とマルクス主義者に支配される共産主義的な「体制」にあると非難した。そして、人種的に純血で誇り高い強力なナチ化されたドイツを建設すると公約した。
  ヒトラーは40万人いる突撃隊内部の不満の増大に直面した。党内の士気喪失と対決しなければならなかった。そして、ヒトラーとナチスは、リッペ州で4割の得票を得て、21議席のうち9議席を占めることに成功した。
  1933年1月、ナチ陣営は、まさしく危機に瀕していた。このころ当時のドイツ首相・シュライヒャーは、ヒトラーを飼い慣らせるという幻想を抱いていた。ナチ党が慎重かつ理性的に行動するという幻想だ。しかし、ヒトラーは、尋常な政治家ではない。そして、シュライヒャーはヒトラーが政治的に孤立していると考えていた。
  1933年1月22日、警官隊が共産党本部を襲撃した。ナチスは、法と秩序を維持する警察権力と協力して共産主義者に対抗する、社会的に信用できる党という評判を獲得した。これは、ドイツ左翼への痛撃となった。警察はナチスと暗黙の協定を結んだ。この協定によって、警察は、この数年、首都その他のドイツの都市の街頭で傷害致死事件を引き起こしてきた凶悪犯の保護者となった。
1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーをドイツ首相に任命した。いかなる客観的な基準から見ても、偽誓行為であったが、ナチ党指導者・ヒトラーは、長年にわたって粉砕すると誓ってきた共和国の憲法と法律を守り、維持すると宣誓した。これはまるで、アベ首相が明らかに憲法に違反する安全法制法を憲法に違反しないと国会で答弁したのと同じことです。つまり、ヒトラーもアベも二人とも国民をだます点で共通しています。
  民主主義の不倶戴天の敵が首相になったにもかかわらず、共和国の擁護者たちは、ナチ党指導者(ヒトラー)が首相になったことに抵抗したり、示威行動を行ったりしなかった。
  ナチスが暴力に訴えることは前から予想していたが、政治的暴力がこの社会の常態となっていたので、彼らは油断した。多くの政治評論家たちは、内閣においてナチス3人に対して保守派の大臣が数のうえで勝っていることに安堵した。甘かったのです。
  一般のドイツ人がヒトラーの首相任命に対して示した当初の反応は、現実に生起したことのとてつもない重大性を考えてみれば、驚くほどに無関心だった。このころ、次から次への首相交代は珍しいことではなかったので、一般の多くのドイツ人は興味を失っていた。映画館で流されるニュース映画でも、新内閣の発足は6つの出来事の最後だった。
  首相に任命されるほんの1ヶ月前、ヒトラーは終わったと思われていた。ヒトラーの党は最後の選挙で大きな後退を余儀なくされ、3人に2人がヒトラーの党を拒否した。
  そして、経済回復の兆しが、不況以来、ヒトラーが巧みに利用してきた問題を奪おうとした。ところが、それから30日後、ヒトラーを繰り返し非難してきたヒンデンブルク大統領が、正式にヒトラーを首相に任命したのである。ヒトラーは、万事休したと思われた、まさにそのときに自分が救済されたこと自ら驚いた。
  1933年1月30日は、ヒトラーによる権力の掌握だったという見解は見せかけにすぎない。実際には、ヒトラーは権力を掌握したのではなかった。それは当時のドイツ運命を左右した人間によってヒトラーに手渡されたのだ。
  ヒトラーは2月1日、議会を解散した。2月末の国会議事堂放火事件のあと、内閣の権限を大幅に拡大した。それでも、3月の選挙でナチスは過半数はとれなかった。44%の得票率だった。
3月23日、ヒトラーは共産党の国会議員を追放し、脅迫と虚偽によって全権委任法に必要な3分の2の議席を国会に確保した。
  このようにヒトラーは1933年1月、選挙で選ばれて首相になったのではない。ヒンデンブルク大統領が首相その他の大臣の任命権を有していた。
  1933年3月の全権委任法によって、ドイツ・ワイマール共和国憲法は失効した。
  この全権委任法は、市民の基本権を停止するものであり、社会民主党や共産党の国会議員を強制的に排除して、暴力的に成立したものである。
  いいかげんな答弁を繰り返し、自席から品のない汚ない野次を飛ばすアベ首相の姿をテレビで見るたびに、情けないやら、腹だたしいやら、本当に身もだえしてしまいます。
  それにしても、マスコミのひどさはなんとかなりませんか。アベ様のNHKであってよいはずがありません。日本国憲法の持つ力を今こそ生かしたいと思います。
(2015年5月刊。2700円+税)
 シルバーウィークは、ずっと仕事をしていました。人が動くときには、じっとしているのが私の若いころからの習性です。
 たまった書面をやりあげ、排戦中の小説を書き足し、庭の手入れをしてチューリップを植え付けました。
 そして、最終日の23日は北九州まで出かけました。安保法制法を廃止させようという市民集会に参加したのです。
 北九州市役所前の勝山公園には大勢の市民が参加していました。年配の参加者がほとんどでしたが、前の舞台で活躍していたのは若者たちです。私も、若者から元気をもらいました。
 団塊世代の私たちだって、20歳前後は、毎日のように集会やデモ行進をしていましたが、あのころはリーダーに率いられた大衆の一人でしかありませんでした。今日の若者は、みな自分の言葉で語っているところが素晴らしいと思います。
 私は大学生のころ、何百人とか何千人という大勢の前で発言したことはありませんし、考えたこともありません。アジテーターは、いつも決まっていました。そして、私の知る限り、そのアジテーターは、今、ほとんど沈黙してしまっています。残念なことです。
 やはり、みんなで、少しずつでも、自分の言葉で語るのが大切なんだと思います。
 それにしてもアベ政権の強引な安保法制の成立は許せません。憲法違反の法律は、誰がなんと言っても無効です。その無効を国会でも早く表明させたいものです。

奴隷のしつけ方

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 マルクス・シドニウス・ファルクス   出版 太田出版
 
ローマには奴隷であふれている。イタリア半島の居住者の3,4人には1人は奴隷だ。ローマ帝国全体では8人に1人が奴隷。首都ローマの人口100万人のうち、少なくとも3分の1は奴隷。
奴隷とは、戦争捕虜か、女奴隷が産んだ子。このほか貧しい者が借金返済のために自らを売ることもあれば、人買いにさらわれてきて奴隷になる者もいる。
ローマという大帝国を支配してきた者の多くは、実は奴隷の子孫なのである。
奴隷は家族をもたず、結婚の権利と義務から切り離され、存在理由そのものを主人から押しつけられ、名前も主人から与えられる。
奴隷は自分の個人財産をもつことが一般的に許されていた。ただし、法律上はあくまで主人の所有者とされた。結婚も、法律上は認められなかったものの、一般的には主人が事実婚を認めていた。
主人の措置に耐えかねたとき、奴隷が神殿に逃げ込むことが許されるようになった。
奴隷による反乱はまれだった。そして、スパルタクスの反乱を例外として、たやすく鎮圧された。スパルタクスたちは、奴隷の大国を目ざしたのではない。できるかぎりの略奪をして、なんとか地方の故郷に帰ろうとしただけ。背景にあったのは、奴隷所有者たちの行きすぎた残 忍性だった。
奴隷の解放は、ただではない。奴隷価値の5%を税金として納めなければならなかった。つまり、多くの奴隷が解放されると、それだけ国の税収も増える仕組みになっていた。
解放奴隷のなかには、人並みはずれた頭脳の持ち主もいて、学術研究に多大の貢献をなした。解放奴隷とは、これ見よがしに富をひけらかすのが好きな連中だ。
ローマ帝国は大量奴隷の存在を抜きにしてありえなかったようです。
(2015年6月刊。1800円+税)

古代ローマの庶民たち

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ロバート・クナップ 、 出版  白水社
 ローマ帝国で庶民がどんな生活をしていたのかについて、多角的に明らかにした本です。
 なにより驚かされたのは、ローマの公衆浴場が、実は不潔だったという記述です。お風呂に入るというと、日本では、かけ流しの温泉のイメージで、清潔そのものというイメージです。ところが、マルクス・アウレリウスは、入浴の汚さを次のように記している。
入浴とは、油、胸の悪くなるような臭いのごみ、汚物まみれの水、吐き気がするようなものすべてある。
 なんだか恐ろしい浴場ですよね・・・。
何もかもが混ざった場が接触感染者を蔓延させていた。病気を治すはずの場から、人々は新しい病気をもらっていた。それでも、ローマにおいて浴場は、貴重な社交の場になっていた。日々の生活の根本的な部分だった。酒と女と浴場こそが人々の楽しみだ。
 ローマには正規の警察組織はなかった。ローマに住む人々にとって、窃盗は重大な関心ごとだった。あらゆる種類の物品が盗まれた。泥棒も多種多様だった。
ローマの女性は、法的な地位がなく、投票できず、高等教育からも排除されていた。
 結婚は、男中心の性質のものだったが、女性は積極的な伴侶だったし、背景に押し込められてはいなかった。
女性は3人か4人の子どもの母親になることで、完全な司法上の人格を獲得することができた。そして、財産の所有権や契約書・遺言状の作成ができた。嫁資をもつことで、結婚したあとで夫の支配力を和らげるのに役立った。
古代ローマだからといって、現代に生きる私たちとまったく別次元で生きていたわけではないということも、よく分かる本となっています。
(2015年6月刊。4800円+税)

フランスの美しい村

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  粟野 真理子 、 出版  集英社
 このところフランスに行っていません。残念です。この夏は、アベ世間の戦争法案をつぶすために汗を流そうと決意しましたから仕方がありませんが、来年は久しぶりに行きたいなと考えています。フランス語も、毎朝、聞きとり、書きとりは欠かしていません。仏検だって6月に受けましたし、11月にも受けるつもりです。語学ほどボケ防止になるものはありません。
 フランスには「もっとも美しい村」に認定された村が156もあるということです。私も、そのうちいくつかは行ったことがあります。この本には、私の行った村も紹介されています。
 アメリカには、もう久しく行っていませんが、まったく行く気がしません。戦争する国・アメリカというイメージというより、「食(しょく)を大切にしない国」というイメージが嫌やなのです。どでか過ぎるステーキ、そして甘ったるくてボリューム満点すぎるアイスクリーム。いずれも私の好みではありません。
 その点、フランスはどんな辺ぴな村に行っても、美味しい郷土料理があり、口当たりのいいワインを堪能できるという楽しみがあります。しかも、安いのですよ・・・。
 ディジョンのマルシェ脇のレストランには、2晩かよいましたが、エスカルゴもフォアグラも天下一品でした。また、ぜひ行きたいものです。
 映画「ショコラ」の舞台になったのはフラヴィニー・シュル・オズランです。私はディジョンからタクシーで行きました。小さな村の真ん中に、いかにも古ぼけた教会があります。映画にも出てきます。8世紀の建立というのですから、古ぼけているのも当然です。ここには昔ながらのアニス・キャンディがあります。そして、教会前の広場に面したレストランでは、地元の人たちが料理を提供してくれます。牛肉赤ワイン煮込みが名物です。
 もう一つ。南仏にあるレ・ボー・ド・プロヴァンスです。「レ・ボー」は、ごつごつした岩山からなる有名な観光地です。松本清張の本の舞台にもなりました。ここにも、私はアヴィニヨンからタクシーで行きました。レンタカーでまわる勇気がなければ、「美しい村」めぐりにタクシーは欠かせません。レ・ボーに行ったときには、迎えのタクシーが時間どおりに来てくれるか、私は心配してしまいました。だって、他には何の選択肢もないのですから・・・。
このレ・ボーは、フランスではモン・サン・ミッシェル、そしてゴルド(私は行ったことがありません)に次いで3番目に観光客が多いそうです。たしかに大平原にぽこっとそそり立つ岩山は奇岩城を思わせます。レ・ボーには中世の吟遊詩人をしのばせるものがあります。
風景写真だけでなく、おいしそうな料理の写真まである、楽しいフランス旅行に誘う本です。
(2015年5月刊。1800円+税)

クリミア戦争(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

                                                                          (霧山昴)
著者  オーランドー・ファイジズ 、 出版  白水社
 戦場に冬が到来したとき、イギリス軍とフランス軍に差があらわれた。軍隊の経営能力が証明された。フランス軍は辛くも合格したが、イギリス軍は惨めな不合格点をとった。
 両軍ともクリミア半島の冬の気温がどこまで下がるかの認識すらなかった。フランス軍は、兵士に好きなだけ重ね着することを許した。イギリス軍は兵士に常に「紳士らしい」外装を要求した。そして、兵士が風雨をしのぐための居住環境について何ら配慮しなかった。
 フランス軍は、士官と兵士の生活条件にはほとんど差がなかった。これに対して、イギリス軍は高級な将校は快適な生活を送っていたが、兵士たちは悲惨な生活を強いられていた。泥の中で眠っていた。
 フランス軍とちがって、イギリス軍には、組織的にタキギを集めるというシステムがなかった。
 フランス軍には糧食の供給と調理、負傷者の手当てなど、兵士の基本的な需要にこたえる専門家がすべての連隊に随行していた。すべての連隊に一人のパン焼き職人と数人の料理人がいた。酒保と軍隊食堂の経営は女将に任されることが多かった。
 フランス軍の食事は、共同調理と集団給食が普通だった。フランス軍の食事の眼目はスープ。そしてコーヒー豆も十分な量が供給された。フランス人はコーヒーなしでは生きられない。
 フランス軍の兵士に供給される肉はイギリス兵の3分の1でしかなかったが、健康を維持しえた。フランス兵は農村出身者が多く、食べられるものなら、どんなものでもカエルやカメでも捕まえて料理して食べた。
 イギリス兵は、その大半が土地をもたない都市貧困層の出身者だったので、自分の手で食料を調達し、自力で窮状を切りぬけるという習慣がなかった。イギリス軍に随行する女性がフランス軍に比べて多かったのは、この理由による。イギリス兵には肉とラム酒が十分に供給されていた。しかし、イギリス兵の食事は、フランス軍に比べて貧弱だった。
 フランス軍の病院は、清潔さ、快適さ、看護の手厚さで、イギリス軍よりはるかに優れていた。フランス軍の病院には陽気な生命力が感じられた。
 戦場の外科医療システムを世界に先駆けて確立したのはロシア軍だった。手術の緊急性に応じて患者を区分するシステムであるトリアージを始めたのは、ニコライ・ピロゴーフ。
 ピロゴーフは麻酔術を導入し、1日7時間に100件以上の切断手術をこなした。そして、腕の切断手術を受けたロシア兵の生存率は65%にまで向上した。
 クリミア派遣軍には、看護婦が随行していなかった。ナイチンゲールはロンドンの女性のための病院で無給の院長をつとめていた。ナイチンゲールは、優れた管理能力の持ち主だった。ナイチンゲールは、下層階級出身の年若い女性を採用したが、中産階級の善意の女性は採用しなかった。感受性の敏感な中流夫人の「扱いの難しさ」を恐れていたからである。そして、看護の経験をもつカトリックの修道女たちを採用した。
 蒸気船と電信の出現によって、戦争特派員は記事を書いて新聞記事になるまで5日かかっていたのが、ついには、数時間にまで短縮された。人々が最大の関心を寄せたのは、写真と挿絵だった。
インケルマンで敗北してから、ロシア軍の最高指導部は、権威と自信の両方を失くしていた。皇帝ニコライ一世は司令官たちへの信頼を失い、前にもまして意気消沈して陰うつな顔つきになり、戦争に勝利する希望を失ったばかりか、そもそも戦争を始めたこと自体を後悔しはじめていた。
 休戦状態になったとき、イギリス軍とロシア軍の将兵はタバコを分け合い、ラム酒を飲み交わした。気晴らしに射撃ゲームを始める者もあった。
 パリ和平条約によってロシアは領土の一部を失った。しかし、それよりもむしろ重大だったのは国家の威信が失われたことである。クリミア戦争の敗北は、ロシア国内に深刻な影響を残した。軍隊への信頼が揺らぎ、国防を近代化する必要性が痛感された。鉄道の開発、工業化の促進、財政の健全化を求める世論が高まった。
 トルストイも改革を求める人々のひとりだった。そんな人生観と文学観は、クリミア戦争の経験を通じて形成されたトルストイは将校の無能ぶりと腐敗墜落を目撃した。そして、将校は兵士を残忍に虐待していた。一般兵士の勇敢さと粘り強さに心を動かされたトルストイは、農奴出身の兵士たちに親近感をかんじはじめた。
ロシア農民兵士は、ほぼ全員が読み書き能力をもたず、近代的な戦争に適さないことが明らかになった。
 クリミア戦争には、31万人のフランス人が兵士として動員され、そのうち3人に1人が帰らぬ人となった。クリミア戦争に出征したイギリス兵は10万人近く。生きて帰れなかった2万人の80%は傷病死だった。
クリミア戦争は、兵士に対するイギリス国民の見方に大きな変化をもたらした。兵士は国の名誉と権利と自由を守る存在であるという近代的な国民意識の基礎が築かれた。将軍たちの愚かな失態にもかかわらず、一般兵士が英雄として扱われる時代がはじまった。勇敢に戦ってイギリスに勝利をもたらしたのは平凡な兵士であるという伝説はクリミア戦争から始まった。
 貴族階級出身の戦争指導部が犯した過誤は、中流階級が自信を強める契機にもなった。中流階級が新たに獲得した自信をもっともよく体現していたのはナイチンゲールだった。クリミア戦争は、イギリスの国民性に大きな影響を与えた。クリミア戦争についての上下2冊の大部な本ですが、無謀にも戦争を始めてしまった皇帝と将軍たちの戦争遂行上の愚かな過ちの下で悲惨な目にあう兵士たちの苦難がよく紹介されています。教訓としてひき出すべきものも大きいと思いました。ご一読をおすすめしたい本です。
(2015年6月刊。3600円+税)

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