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カテゴリー: ヨーロッパ

「走れ、走って逃げろ」

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ウーリー・オルレブ 、 出版  岩波少年文庫
 第二次大戦前、ポーランドに住んでいたユダヤ人の少年が苛酷すぎる状況を生きのびていく実話です。私は、この本を読む前に、映画『ふたつの名前を持つ少年』をみていました。
 ひとつの名前は愛を、もうひとつは勇気をくれた。
 1942年、ポーランドのワルシャワにあったゲットー、ユダヤ人の居住区から8歳の少年が逃げ出した。どこへ行けば安全なのか・・・。
 ユダヤの少年は、本当の名前スルリックからユレク・スタニャックというポーランドの名前に変える。そして、キリスト教徒らしく祈りの作法を教えてもらう。それでも、ユダヤ人の割礼は隠せない。裸になったときに、それを見せられて、通報される。そして、逃げる、逃げる。森へ逃げて、子どもたちの集団に入り、また一人きりで生きのびる。
 わずか8歳か9歳の少年が、森の中で一人きりで過ごすという状況は、信じられません。
 助けると思わせてゲシュタポ(ナチス)に連れ込む農民がいたり、重傷の少年をユダヤ人と知ると手術もせずに放置する医師がいたり、ひどい人間がいるかと思うと、なんとかして少年を助けようとする大勢の善良な人々がいるのでした。そんなこんな状況で、ついにユダヤの少年は戦後まで生きのびることができました。でも、右腕を失っていたのですが・・・。
 少年役が、ときどき表情が違うのに、違和感がありました。あとでパンフレットを買って読むと、なんと性格の異なる一卵性の双子の少年を場面に応じてつかい分けていたというのです。なーるほど、と納得できました。
 いかにも知的で可愛らしい少年ですから、本人の生きようとする努力とあわせて、視た人に助けたいと思わせたのでしょうね・・・。
 逆にそう思われなかったり、チャンスを生かせなかった無数の子どもたちが無惨にも殺されてしまったのでしょう。戦争は、いつだって不合理です。安倍首相による戦争法は本当に許せません。
 この本は、映画の原作本です。もっと詳しいことが判りますし、子ども向けになっています(団塊世代の私が読んでも面白いものですが・・・)。
 なにしろ、森の中で、どうやって生きのびろというのか、私にはとても真似できそうもありません。子どものうちに、こんな本を読んだら今の自分の生活がぜいたくすぎることを少しは反省するのでしょうか・・・?
 でも、戦争を始めるのは、いつだって大人です。子どもは、その犠牲者でしかありません。
(2015年6月刊。720円+税)

ヒトラーとナチ・ドイツ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 石田 勇治   出版 講談社現代新書
 
日本の国会で、首相が平然とウソをつき、与党が拍手かっさいして、大手マスメディアがそれを無批判にたれ流して、世論を操作しようとしています。
憲法違反の安保法制法が「成立」してしまいました。今の日本では、憲法が改正されてもいないのに、憲法に明らかに反する法律によって安倍政権は世の中を動かしていこうとしてます。 こんなとき、ヒトラーの手口に学べばいいんだという元首相(副首相)のコトバが「生きて」きます。本当にとんでもない世の中になりました。
「おかしいだろう、これ」。新潟県弁護士会会長の一口コメントに、多くの共感の声が上がったのも当然です。
この本は、ヒトラー台頭からナチス・ドイツが残虐の限りを尽くしたうえで自滅していくまでを、とても分かりやすくたどっています。
ヒトラーはオーストリア生まれ。父親は、非嫡出子だった。ヒトラーは、このことを生涯ひた隠しにした。母親は乳がんのため苦しくて亡くなった。
大都会ウィーンでヒトラーは青年時代を過ごしたが、貧しかったわけではない。徴兵検査・兵役を逃れるため、ヒトラーはホームレスの一時収容所に入っていたこともある。 
第一次世界大戦が始まると、25歳でドイツ帝国陸軍に志願兵として入営した。ヒトラーは危険な前線にはいかず、比較的安全な後方勤務に就いた。
ヒトラーの演説は、すべて巧みな時事政談だった。
世界を善悪二項対立のわかりやすい構図におきかえ、情熱的に語る。
聴衆の憤りは、おのずと悪に向かう。その悪の具現者こそ、ユダヤ人、マルクス主義者、そしてワイマール共和国の議会政治家だった。
ヒトラーは、ナチ党の実権を握ると、独裁権力を行使した。
ヒトラーがナチ党の党首となったのは、優れた演説家であり、宣伝家であったから。集会活動に力点をおくナチ党にとって、ヒトラーのたぐいまれな観客=聴衆動員力は、ナチ党を他の急進右派勢力から際立たせると同時に、ヒトラーをカリスマと感じる人々に根拠と確信を与えた。
ナチ党には、党の意思決定の場としての合議機関は存在せず、党首を選出する規則も任期も定められていなかった。入党条件は、ヒトラーに無条件に従うことだった。
ヒトラーの肖像写真を撮ることを許された唯一の写真家がいた。その名は、ハインリヒ・ホママン。
ヒトラーの「我が闘争」(1925年)は、獄中でヒトラー自らタイプライターをたたいて執筆したもの。ヒトラー自身は、「嘘と愚鈍と臆病に対する四年半の戦い」というタイトルを望んでいた。この本は、累計1245万部も売れた。「我が闘争」は、虚実とりまぜて語るヒトラー一流のプロパガンダの書である。
この本が売れたため、首相としての給料はヒトラーにとって不要なほどだった。
ナチ党は、全国進出にあたって弁士不足という問題に直面した。そこで、1929年6月、ヒトラー公認の弁士養成学校を開校した。開校してから1933年までに6000人の全国弁士を送り出した。
ナチ党躍進のカギは、国民政党になったことにある。すべての社会階層にまんべんなく支持される大政党になった。
1933年1月30日に、ヒトラーはヒンデンブルグ大統領によって首相に任命された。このころ、ナチ党は得票数をかなり減らし、党勢は明らかに下降局面に入っていた。
1932年7月の国会選挙で第一党になかったが、同年11月の選挙では200万票も失い、議席数も196と後退していた。このとき、ドイツ共産党は躍進していた。その一審の原因は、ヒトラーのカリスマ性の限界だった。ヒンデンブルグ大統領が1月に成立させたヒトラー政権は、国会に多数派の基盤のない「少数派政権」だった。
ヒトラーは首相になってすぐ、ラジオで演説した。このときは穏やかで信心深い政治家を装った。そして、ヒトラーは3月に選挙を行った。機能不全に陥った国会をよみがえらせるためではなく、終わらせるために・・・。
1933年2月27日夜、国会議事堂が炎上した。翌日には、共産党の国会議員などを一網打尽に逮捕した。非常事態宣言、大統領緊急令によるものだった。
そして、1933年3月、授権法が成立した。これによって、国会は有名無実になった。このとき反対したのは、社会民主党の94人の議員のみ。4年間の時限立法のはずだったのが、1945年9月まで効力があった。授権法は、国会と国会議員だけでなく、政党の存在理由も失わせた。共産党の議員はすでに逮捕されていたが、続いて社会民主党も非合法化された。こうして、14年間続いていたワイマール共和国の議会制民主主義は、わずか半年でしかも合法性の装いを保ちながら、ナチ党の一党独裁体制にとって代わられてしまった。
この本は、なぜ文明国ドイツで、こんなヒトラーのような野蛮な独裁者にみんなが従ってついていったのかと問いかけ、その謎を解明しています。国民の大半が、あきらめ、事態を容認し、目をそらした。様子見を決め込んで動かなかったものが大勢いた。甘い観測と、安易な思い込みがあった。教会も、学者もヒトラー支持をうちだしたことも大きかった。そして、ヒトラーは既成エリートとの融和をすすめた。
いまの日本は安倍政治によって危険な曲がり角に立たされています。このとき、誰かが何かをしてくれるだろう。安倍政治はいずれ行き詰まるだろうから、もう少し様子を見ておこうなんて言っているときではないと私は思います。今こそ私も、あなたも黙っていることなく、声を上げるべきなのではないでしょうか・・・。
この本を読みながら、そのことを私はひしひしと痛感しました。
(2015年6月刊。920円+税)
 

独裁者は30日で生まれた

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 H・Aターナー・ジュニア   出版 白水社
 
  ヒトラーが首相になったのは、ヒンデンブルク大統領ほかとの対人関係のなかで生まれたものだということを明らかにした面白い本です。
  ヒトラーは、本人以外は誰も首相になれるとは思っていなかったのに、同じく落ち目だったパーペンと手を組んで、逆転して首相になったのでした。本当に悪運の強い男です。そして、それによって全世界にとんでもない災いをもたらすのでした。
  ヒトラーを嫌っていて、渋々、首相に任命したヒンデンブルク大統領について、次のように評しています。
  ヒンデンブルクには、強靭な独立不羈の精神が欠如しており、自分から滅多なことでは主導権を握らなかった。その全生涯を通じて、ヒンデンブルグは周囲の助言に大いに依存し、その特徴は年とともに一層顕著になった。無感動に見えるその外見とは裏腹に、ヒンデンブルクはストレスがかかると感情の爆発に負け、口ごもり、とめどもなく涙を流した。ヒンデンブルクは、軍事問題以外には知的関心をまったくもたず、政治をふくめて極度に単純化された見解以上のものをめったに持っていなかった。
  ヒトラーのナチスは、通常の意味での政党ではなかった。それは、ヒトラーが繰り返し主張したように、党員に党への全面的かつ無条件の献身を要求する運動だった。ヒトラーはビヤホール一揆が失敗して1年以上も刑務所生活を余儀なくされたが、その後は、武力で共和国を制圧するという希望を捨て、合法的に選挙によって権力を奪取しようとした。
  ドイツにおける大恐慌が数百万人の不安と絶望を引き起こしたとき、ヒトラーは見境のない扇動と計算し尽した嘘八百を並べ立てて、多くの支援者を獲得した。まるでアベですね。
  熟練の写真家に自分の実物以上の、ひたすら自らの大義に殉する人物として撮影してもらうことによって、深遠な思想を伝え、無私の精神によって、困窮した数百万のドイツ人のために尽力するというイメージを作りあげた。
  ヒトラーは、不安感と偏見を巧みに利用した長広舌の情熱的な演説によって、影響を受けやすい聴衆を大衆ヒステリーに近い状態に投げ込み、言葉の奔流で圧倒し、翻弄した。
  ヒンデンブルクは、ヒトラーを非公式には「伍長」と呼び、深い不信感を抱いていた。1931年11月の国会選挙は、ヒトラーとナチスにとって痛撃となった。多くの国民が、とどまることを知らないナチ突撃隊の暴力行為に仰天した。このとき投票所に向かったドイツ人のうちの3分の2以上がナチズムを拒否した。
ヒトラーの狙いは、議会主義にもとづく内閣の首相ではなく、大統領府内閣の首相となること。他党との連合に依存する必要がなく、大統領緊急令によって統治できるもの。
  ナチ突撃隊は40万人。ベルサイユ条約によって制限された小さなドイツ国防軍(10万人)を4対1の割合で上回った。
  1932年暮れ、ナチス党のナンバー2(シュライヒャー)がヒトラーに反対した。このとき、ヒトラーはパニック寸前の状態にあった。
  1933年1月、ヒトラーは43歳だった。ヒトラーは自墜落で、半ボヘミアン的な生活を送っていた。ヒトラーは不況に苦しめられていた多くのドイツ人が夢想すらできないような贅沢三昧の生活を過ごしていた。
  ヒトラーは権力の共有ができない、壮大な使命感に燃えた狂言者だった。
  1933年1月、ヒトラーは小さなリッペ州で大博打に出た。ヒトラーはドイツの苦しみの犯人は、ユダヤ人とマルクス主義者に支配される共産主義的な「体制」にあると非難した。そして、人種的に純血で誇り高い強力なナチ化されたドイツを建設すると公約した。
  ヒトラーは40万人いる突撃隊内部の不満の増大に直面した。党内の士気喪失と対決しなければならなかった。そして、ヒトラーとナチスは、リッペ州で4割の得票を得て、21議席のうち9議席を占めることに成功した。
  1933年1月、ナチ陣営は、まさしく危機に瀕していた。このころ当時のドイツ首相・シュライヒャーは、ヒトラーを飼い慣らせるという幻想を抱いていた。ナチ党が慎重かつ理性的に行動するという幻想だ。しかし、ヒトラーは、尋常な政治家ではない。そして、シュライヒャーはヒトラーが政治的に孤立していると考えていた。
  1933年1月22日、警官隊が共産党本部を襲撃した。ナチスは、法と秩序を維持する警察権力と協力して共産主義者に対抗する、社会的に信用できる党という評判を獲得した。これは、ドイツ左翼への痛撃となった。警察はナチスと暗黙の協定を結んだ。この協定によって、警察は、この数年、首都その他のドイツの都市の街頭で傷害致死事件を引き起こしてきた凶悪犯の保護者となった。
1月30日、ヒンデンブルク大統領はヒトラーをドイツ首相に任命した。いかなる客観的な基準から見ても、偽誓行為であったが、ナチ党指導者・ヒトラーは、長年にわたって粉砕すると誓ってきた共和国の憲法と法律を守り、維持すると宣誓した。これはまるで、アベ首相が明らかに憲法に違反する安全法制法を憲法に違反しないと国会で答弁したのと同じことです。つまり、ヒトラーもアベも二人とも国民をだます点で共通しています。
  民主主義の不倶戴天の敵が首相になったにもかかわらず、共和国の擁護者たちは、ナチ党指導者(ヒトラー)が首相になったことに抵抗したり、示威行動を行ったりしなかった。
  ナチスが暴力に訴えることは前から予想していたが、政治的暴力がこの社会の常態となっていたので、彼らは油断した。多くの政治評論家たちは、内閣においてナチス3人に対して保守派の大臣が数のうえで勝っていることに安堵した。甘かったのです。
  一般のドイツ人がヒトラーの首相任命に対して示した当初の反応は、現実に生起したことのとてつもない重大性を考えてみれば、驚くほどに無関心だった。このころ、次から次への首相交代は珍しいことではなかったので、一般の多くのドイツ人は興味を失っていた。映画館で流されるニュース映画でも、新内閣の発足は6つの出来事の最後だった。
  首相に任命されるほんの1ヶ月前、ヒトラーは終わったと思われていた。ヒトラーの党は最後の選挙で大きな後退を余儀なくされ、3人に2人がヒトラーの党を拒否した。
  そして、経済回復の兆しが、不況以来、ヒトラーが巧みに利用してきた問題を奪おうとした。ところが、それから30日後、ヒトラーを繰り返し非難してきたヒンデンブルク大統領が、正式にヒトラーを首相に任命したのである。ヒトラーは、万事休したと思われた、まさにそのときに自分が救済されたこと自ら驚いた。
  1933年1月30日は、ヒトラーによる権力の掌握だったという見解は見せかけにすぎない。実際には、ヒトラーは権力を掌握したのではなかった。それは当時のドイツ運命を左右した人間によってヒトラーに手渡されたのだ。
  ヒトラーは2月1日、議会を解散した。2月末の国会議事堂放火事件のあと、内閣の権限を大幅に拡大した。それでも、3月の選挙でナチスは過半数はとれなかった。44%の得票率だった。
3月23日、ヒトラーは共産党の国会議員を追放し、脅迫と虚偽によって全権委任法に必要な3分の2の議席を国会に確保した。
  このようにヒトラーは1933年1月、選挙で選ばれて首相になったのではない。ヒンデンブルク大統領が首相その他の大臣の任命権を有していた。
  1933年3月の全権委任法によって、ドイツ・ワイマール共和国憲法は失効した。
  この全権委任法は、市民の基本権を停止するものであり、社会民主党や共産党の国会議員を強制的に排除して、暴力的に成立したものである。
  いいかげんな答弁を繰り返し、自席から品のない汚ない野次を飛ばすアベ首相の姿をテレビで見るたびに、情けないやら、腹だたしいやら、本当に身もだえしてしまいます。
  それにしても、マスコミのひどさはなんとかなりませんか。アベ様のNHKであってよいはずがありません。日本国憲法の持つ力を今こそ生かしたいと思います。
(2015年5月刊。2700円+税)
 シルバーウィークは、ずっと仕事をしていました。人が動くときには、じっとしているのが私の若いころからの習性です。
 たまった書面をやりあげ、排戦中の小説を書き足し、庭の手入れをしてチューリップを植え付けました。
 そして、最終日の23日は北九州まで出かけました。安保法制法を廃止させようという市民集会に参加したのです。
 北九州市役所前の勝山公園には大勢の市民が参加していました。年配の参加者がほとんどでしたが、前の舞台で活躍していたのは若者たちです。私も、若者から元気をもらいました。
 団塊世代の私たちだって、20歳前後は、毎日のように集会やデモ行進をしていましたが、あのころはリーダーに率いられた大衆の一人でしかありませんでした。今日の若者は、みな自分の言葉で語っているところが素晴らしいと思います。
 私は大学生のころ、何百人とか何千人という大勢の前で発言したことはありませんし、考えたこともありません。アジテーターは、いつも決まっていました。そして、私の知る限り、そのアジテーターは、今、ほとんど沈黙してしまっています。残念なことです。
 やはり、みんなで、少しずつでも、自分の言葉で語るのが大切なんだと思います。
 それにしてもアベ政権の強引な安保法制の成立は許せません。憲法違反の法律は、誰がなんと言っても無効です。その無効を国会でも早く表明させたいものです。

奴隷のしつけ方

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 マルクス・シドニウス・ファルクス   出版 太田出版
 
ローマには奴隷であふれている。イタリア半島の居住者の3,4人には1人は奴隷だ。ローマ帝国全体では8人に1人が奴隷。首都ローマの人口100万人のうち、少なくとも3分の1は奴隷。
奴隷とは、戦争捕虜か、女奴隷が産んだ子。このほか貧しい者が借金返済のために自らを売ることもあれば、人買いにさらわれてきて奴隷になる者もいる。
ローマという大帝国を支配してきた者の多くは、実は奴隷の子孫なのである。
奴隷は家族をもたず、結婚の権利と義務から切り離され、存在理由そのものを主人から押しつけられ、名前も主人から与えられる。
奴隷は自分の個人財産をもつことが一般的に許されていた。ただし、法律上はあくまで主人の所有者とされた。結婚も、法律上は認められなかったものの、一般的には主人が事実婚を認めていた。
主人の措置に耐えかねたとき、奴隷が神殿に逃げ込むことが許されるようになった。
奴隷による反乱はまれだった。そして、スパルタクスの反乱を例外として、たやすく鎮圧された。スパルタクスたちは、奴隷の大国を目ざしたのではない。できるかぎりの略奪をして、なんとか地方の故郷に帰ろうとしただけ。背景にあったのは、奴隷所有者たちの行きすぎた残 忍性だった。
奴隷の解放は、ただではない。奴隷価値の5%を税金として納めなければならなかった。つまり、多くの奴隷が解放されると、それだけ国の税収も増える仕組みになっていた。
解放奴隷のなかには、人並みはずれた頭脳の持ち主もいて、学術研究に多大の貢献をなした。解放奴隷とは、これ見よがしに富をひけらかすのが好きな連中だ。
ローマ帝国は大量奴隷の存在を抜きにしてありえなかったようです。
(2015年6月刊。1800円+税)

古代ローマの庶民たち

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ロバート・クナップ 、 出版  白水社
 ローマ帝国で庶民がどんな生活をしていたのかについて、多角的に明らかにした本です。
 なにより驚かされたのは、ローマの公衆浴場が、実は不潔だったという記述です。お風呂に入るというと、日本では、かけ流しの温泉のイメージで、清潔そのものというイメージです。ところが、マルクス・アウレリウスは、入浴の汚さを次のように記している。
入浴とは、油、胸の悪くなるような臭いのごみ、汚物まみれの水、吐き気がするようなものすべてある。
 なんだか恐ろしい浴場ですよね・・・。
何もかもが混ざった場が接触感染者を蔓延させていた。病気を治すはずの場から、人々は新しい病気をもらっていた。それでも、ローマにおいて浴場は、貴重な社交の場になっていた。日々の生活の根本的な部分だった。酒と女と浴場こそが人々の楽しみだ。
 ローマには正規の警察組織はなかった。ローマに住む人々にとって、窃盗は重大な関心ごとだった。あらゆる種類の物品が盗まれた。泥棒も多種多様だった。
ローマの女性は、法的な地位がなく、投票できず、高等教育からも排除されていた。
 結婚は、男中心の性質のものだったが、女性は積極的な伴侶だったし、背景に押し込められてはいなかった。
女性は3人か4人の子どもの母親になることで、完全な司法上の人格を獲得することができた。そして、財産の所有権や契約書・遺言状の作成ができた。嫁資をもつことで、結婚したあとで夫の支配力を和らげるのに役立った。
古代ローマだからといって、現代に生きる私たちとまったく別次元で生きていたわけではないということも、よく分かる本となっています。
(2015年6月刊。4800円+税)

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