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カテゴリー: ヨーロッパ

灰色の地平線のかなたに

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ルータ・セペティク 、 出版 岩波書店
 バルト三国の一つ、リトアニアの15歳の少女がスターリンのソ連によって母国を追い出され、シベリアまで追いやられて辛じて生きのびたという実話にもとづくストーリーです。
リトアニアと日本の結びつきですぐに思い出されるのは、1940年、リトアニアの首都カウナスにいた日本人外交官・杉原千畝(ちうね)がナチスドイツのユダヤ人迫害の前に、6千人ものユダヤ系難民に対して、日本を通過するためのビザを発給し、アメリカなどへの亡命を助けたことです。スターリンは、ヒットラーと手を結んで、このバルト三国をソ連の領土とし、そこの知識人たちを邪魔者扱いにしてシベリアに追放したのでした。
 ソ連の秘密警察NKVDが突然、リストにあがった知識人の家に乗り込み、20分の猶予で有無を言わさず連行していきます。行先は告げられません。入れられたのは貨車、家畜運搬用です。1両に何十人も詰め込まれ、トイレは床にあいた穴を利用するしかありません。水と食料も満足には与えられません。途中で死んでくれたら、手間が省けてちょうど良いとNKVDは考えている様子。著者は母と姉の三人、いつも一緒に行動することにします。貨車には、外から「泥棒と娼婦」とペンキで表示されていることを知らされます。
列車は、ついにシベリアにたどり着き、そこの収容所での生活が始まります。
 NKVDは、著者たちに署名を迫ります。ソ連に対する国家反逆罪で有罪であることを認めること、犯罪者として25年の刑に服することです。
 とても認めるわけにはいきません。でも、認める人がついに続出します。どうしたらいいのでしょうか…。
リトアニアの人々がシベリアへ大規模な追放されたのは、1941年6月14日に始まった。追放されたリトアニア人は、10年から15年という年月をシベリアで過ごした。1953年にスターリンが死亡すると、ソ連の政策が変わり、シベリアで生きのびていたリトアニア人の1956年までに解放され、故郷に戻ることができました。
 しかし、故郷のリトアニアにはソ連の人々が勝手に占有していたのです。そして、不平不満を口にしようものなら、NKVDの後身であるKGBによって逮捕・投獄されかねません。だから、人々はシベリアでの体験を表向きに語ることは許されなかったのです。
バルト三国は、このソ連支配の時代に人口の3分の1以上を喪ってしまいました。
 この本は、いろんな人の実体験を総合した創作ですが、最後に登場するサチデュロフ医師は実在した医師とのこと。この医師が北極圏の収容所を訪れ、壊血病などで生命の危機に頻していた多くの人々をギリギリのところで救ってくれたのです。
お盆休みに400頁ほどの大作を必死の思いで読みすすめました。ヒットラーのナチスも絶対に許せませんが、スターリンの悪虐さもヒットラーに匹敵するものがあると実感させられました。いずれも、同時代の人々は強力なプロパガンダによって、この二人の「悪魔」を救世主であるかのように「敬愛」していたのです。まことに宣伝の力は恐ろしいです。
 アメリカのトランプ前大統領が自分本位の政治をして、一般国民に対して、いかにひどいことをしたか、客観的に明らかだと思うのですが、トランプ支援層には、まったく目に入らないそうです。同じことは、日本でも、自民・公明の大軍拡政治に「仕方ない」と多くの国民が思わされている現実があります。真実を見抜く目をもちたいものです。
(2012年1月刊。2100円+税)

隠れ家と広場

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 水島 治郎 、 出版 みすず書房
 オランダはナチス・ドイツの占領下で強制収容所へ10万7000人のユダヤ人が移送されたが、そのうち生還した人は1割にもみたず5000人ほどでしかなかった。オランダ国内での死亡者を加えると、ユダヤ人犠牲者は10万4000人にのぼる。
 オランダでは、ユダヤ人住民の7割強がホロコーストの犠牲になった。ベルギー40%、フランス25%に比べて、とびぬけて高い率だ。なぜなのか、オランダは寛容な国ではなかったのか・・・。この疑問を解明しようと実態に迫る本です。
 アムステルダムは、17世紀にはカトリック教徒たちにとって「隠れ家の町」だった。そして、20世紀、アンネたちユダヤ人にとっても「隠れ家の町」だった。
 アムステルダムに本格的にユダヤ人が初めて流入したのは、ポルトガル系ユダヤ人たちだった。哲学者スピノザの父親もそうで、貿易商だった。
 18世紀末、アムステルダムのユダヤ人は2万人をこえ、市の総人口の1割を占めた。ポルトガル商人の流れを引くセファルディムに対し、東方からやってきたユダヤ人(アシュケナージム)には貧困層が多かった。アムステルダムでユダヤ人は、貿易業、商業のほか出版業でも活躍した。
 非ユダヤ人のオランダ人画家レンブラントは、ユダヤ人も好んで描いている。
 アンネ・フランク一家が「隠れ家」に潜む前、アンネたちは、メルウェーデ広場を駆けめぐって遊んでいた。1939年6月12日、アンネの10歳の誕生日に、父オットーが撮った写真には着飾った9人の少女が肩を組んで一列になって笑顔でうつっている。アンネは、仲良しのハンネ、サンネと三人並んでいる。近所の人からは忌々(いまいま)しい「少女ギャング」ともみられていたという。よほど活発、恐いもの知らずの元気な女の子たちだったのでしょう。
 ところが、1940年5月のドイツ占領で平和な日は突然に終わった。アムステルダムに7万人のユダヤ人が住んでいたが、自殺者が激増した。脱出していくユダヤ人たちも多かったが、アンネ一家は潜伏することにした。
 オランダでは、ほとんどのユダヤ人がユダヤ人登録に応じた。これはベルギーやフランスで登録拒否者が多かったのに比べて特異。この住民台帳をもとに、ナチス・ドイツと当局はオランダのユダヤ人を死への強制移送が可能だった。
 この本では、ユダヤ人の子どもたちの一部がひそかに逃亡ルートに乗って安全な場所に匿われたことを明らかにしています。それでも助かったのは1割ほどで、9割の子どもたちは殺害されたようです。
 映画にもなった「シンドラーのリスト」は私も知っていましたが、別に「カルマイヤーのリスト」なるものがあるそうです。初めて知りました。ドイツ人法務官としてオランダのユダヤ人認定を審査する責任者だったカルマイヤーがユダヤ人認定を取り消す判定を下し、その結果、2659人の「ユダヤ人」が救われたとのことです。シンドラーが救ったユダヤ人は1200人ですから、その2倍以上というわけです。
どんな方法だったかというと、洗礼証明書によって、祖父母や父母が実はキリスト教徒であり、ユダヤ人の家庭で養子として育てられていただけだと判定したのです。この証明書は精巧にできた偽造文書もあったようですが、周囲の反ナチ的な人々とともに「客観的」な証拠によってユダヤ人でないと判定していったのでした。ただ、カルマイヤーには陰の部分もあるようです。
 アンネ・フランクは1929年6月12日生まれ、オードリー・ヘプバーンは同年5月4日生まれ。二人はひと月しか離れていない。「アンネの日記」が映画化されるとき、オードリーにアンネ役の打診があった。オードリーは悩んだ末に断った。「アンネのことは私の姉妹に起きたようなもの。私は自分の姉妹の人生を演じるなんて出来ない。あまりに身近すぎる」
 オードリー・ヘプバーンはユニセフの親善大使として活動するなかで、「アンネの日記」の一部を朗読した。オードリー・ヘプバーンがアンネ・フランクとほとんど同じころに生まれていたというのは初めて知りました。いろいろ発見と驚きのある本でした。
(2023年6月刊。3600円+税)

スペイン市民戦争とアジア

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 石川 捷治・中村 直樹 、 出版 九州大学出版会
 スペイン内戦は、1936年7月に始まった。フランコ将軍らが人民戦線政府に対して軍部クーデターを起こしたことによる。このとき、陸軍の半分、空軍と海軍の多くは政府を支持していた。この内戦は、人々の予想に反して長期化した。
 1939年1月にバルセローナが陥落し、4月1日、フランコは内戦終結を宣言した。それから1975年までフランコ独裁体制が続いた。
2年8ヶ月に及んだ内戦のなかで、フランコの反乱軍側はドイツ・イタリアのナチ・ファシスト政権から強力な支援を受けた。アメリカ・イギリス・フランスが「中立」と称して不干渉政策をとって政権側を支援しないなか、世界55ヶ国から4万人をこえる人々が「国際義勇兵」として政権側を支援した。
 スターリンのソ連軍も政権側を支援したが、アナキストたちと内部で衝突するなど、反乱軍に対抗する陣営は一枚岩ではなかった。
 この本で、著者は、スペイン内戦は、市民戦争に該当すると定義づけています。
そして、アジアからもかなりの人々がスペイン市民戦争に参戦したのです。日本人としては、北海道出身のジャック白井が有名です。アメリカに渡ってレストランで働いた経験を生かしてスペインではコックとして活躍していましたが、激戦の最中に戦死してしまいました。
 このジャック白井と同じマシンガン部隊にいたというジミー・ムーンさんに著者はロンドンで出会って話を聞いています。そして、スペインに渡ったイギリスの元義勇兵とパブで話し込んだ実感から、彼らは特別の人ではなく、ごく普通の人、正義感の強い、率直な市民・労働者だということを確信しました。ただし、一緒にスペインに渡った仲間の3分の1は戦死したし、イギリスに戻ってからは政治上、職業上の差別待遇を受けたということも判明したとのこと。なーるほど、ですね。
 国際義勇兵は、国際旅団を結成して、フランコ側の反乱軍と戦った。アメリカのヘミングウェイ、イギリスのジョージ・オーウェル、フランスのアンドレ・マルローやシモーヌ・ヴェイユなど、あまりに著名な文化人が参加した。幸い、これらの人々は全員、死ぬことはなかった。ただ、写真家キャパの恋人ゲルダは事故死した。
 スペイン市民戦争のなかで、共和国側の人々は70万人が死亡した。戦死したのは30万人で、残る40万人はフランコ派に捕えられて、処刑された。フランコ派による逮捕・処刑の続く日々を描いたスペイン映画をみたことがあります。朝鮮戦争の最中に起きたような同胞同士の殺し合いに似た、寒々とした状況です。
 日本政府は1937(昭和12)年12月1日、フランコ政権を正式に承認した。翌2日、フランコ政権は「満州国」を承認した。
フランコが死んだのは1975年11月。それから、すでに48年たち、スペイン社会も大きく変わった(らしい)。でも、いったいファシスト政権との戦いの意義を再確認しなくてよいのか、考えなおす必要があるように思えてなりません。
著者の石川先生から、最近、贈呈を受けました。ありがとうございます。
(2020年8月刊。1800円+税)

ヒトラー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ハンス・ウルリヒ・ターマー 、 出版 法政大学出版局
 アドルフ・ヒトラーは、人生の最初の30年間を、社会の片隅で無名の人間として過ごし、自伝における自己賛美とは逆に、職業教育や市民教育にほとんど真面目に取り組まなかった。ヒトラーは「目的のない生活」を過ごしていた。
 実際に政治的な「修業」をせずに、あれほど短期間のうちに大衆の指導者にのぼりつめた者はめったにいない。ヒトラーは準備がないまま突如としてドイツ帝国の首相となり、ごく短期間のうちに、並外れた個人的な権力まで拡大することができた者もまれだ。
 歴史によってヒトラーがつくられ、ついでヒトラーが歴史をつくった。
 ヒトラーは、思いやりと愛情に満ちた母親よりも、暴君的な父親からより多くの性格を受け継いだようだ。母親のあふれんばかりの愛情と寛大さが、若いヒトラーの、自分を過大評価し、無駄な努力はしない傾向を助長したように思われる。
 ヒトラーの幼少期で確実なのは、学業不振。数学と博物学では「不可」をとった。教師は、ヒトラーを「なまけ者」と判断した。地理と歴史も「可」だった。ヒトラーは、16歳で学校とおさらばし、それを喜んだ。
 ヒトラーはウィーンの芸術アカデミーには「デッサン不可、学力不足」と評価され、入学できなかった。オーストリアで徴兵検査を受けると、「不適格、身体虚弱」と判定された。
 ヒトラーは、バイエルン軍に志願し、兵役に就いた。ヒトラーは陸軍1等兵に昇進したが、伍長への昇格は断った。そして、伝令兵として行動した。
 1920年3月に除隊したヒトラーは、職業政治家となり、集会で演説するようになった。ヒトラーは、演説のテクニックに磨きをかけ、劇的に語った。聴衆の気分を感じとり、それをあおるかのように、初めは落ち着いて控え目な口調で、それから徐々に高揚し、ときに半狂乱になるほど聴衆の心をつかんだ。
 ヒトラーの演説は演劇のようで、身振・手振りや表情が発声と合ったとき、聴衆に向かってこれまで以上に激しく言葉をたたきつけるとき、声と身体は一体となって話に独特の効果を与えた。ヒトラーの仰々しいパフォーマンスと演説の政治的な内容は深く結びついて、互いに補いあった。その演説の力は、ヒトラーのカリスマ性を確立した。客席の前に、ヒトラーは嘘と欺瞞の世界をつくり出した。
 煽動家ヒトラーにとって、効果だけが重要だった。平和を愛する政治家とすら自己演出して納得させ、現在の悪に対する解決策を示し、漠然とした約束にすぎないが、よりよい未来を人々に期待させた。
ミュンヘンの社交界にデビューするとき、ヒトラーは、信じられないことに恥ずかしがり屋で、控え目な人物だった。おずおずと遠慮がちに肘掛け椅子にすわった。
 こんな描写を読むと、チャップリンの乞食紳士を連想させます。
ヒトラーには声の魔力と情熱があり、その振る舞いは素朴な印象を与え、教養ある社交界を魅了した。周囲はヒトラーを天才とみなし、反ブルジョア的な性格を称賛した。ヒトラーは猫をかぶっていたのでしょうね。
 1923年、ナチス党員は短期間のうちに10倍にふくれあがり、5万5000人を超えた。党員は、中産階級の人々が多かった。他の階級に属する人々も、ナチスの過激なプロパガンダや枚済のレトリックに心が動かされた。初期のナチス党の3分の1は労働者だった。
ヒトラーは1924年、9ヶ月間の収監生活を送ったが、それはホテルに滞在したようなものだった。35歳の誕生日を刑務所で迎えたヒトラーの前に、贈り物や花が山のように積み上がった。
ヒトラーは時流を読むのが得意だった。刑務所で執筆した『わが闘争』はつぎはぎだらけのお粗末な作品。この本は1925年7月に第一巻、翌26年12月に第二巻を刊行した。それほど売れなかったが、1930年の普及版は1932年に9万部も売れた。そして、翌33年末には100万部の大台をこえた。
 ヒトラーの憎悪は、国際主義、平和主義、民主主義に向けられた。この三つの仮想敵は、いずれも、マルクス主義とボルシェヴィズムへの挑戦と結びついていた。
 自信があって経験も豊富で、ヒトラーの上辺(うわべ)だけの魅力を見抜くような同年代の女性とは、明らかにうまくいきそうもなかった。
 ヒトラーは欺瞞の名手であり、大勢の聴衆の前での議論は避けた。質問に対して答弁しなければならないときには、のらりくらりとかわした。
ナチス党内の権力ゲームにおいては、互いに競いあわせて漁夫の利を得、忠実な取り巻きをつくろうとした。1931年末のナチス党員は80万人になった。
 「指導者は、まちがえてはならなかった」
 1932年のころ、総選挙でナチス党は200万票も失い、党の金庫は空(カラ)っぽ、だった。
 ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に指名したとき、ヒトラーはすぐに「お払い箱」になるだろう、多くの人がそう考えていた。このとき、ヒトラーは、まじめな政治家という印象を与え、不信感をもつヒンデンブルク大統領に取り入るべく、全力を尽くした…。
 ヒトラーの任命は、形式的には合法に見えても、憲法の精神に大きく反していた。1933年1月30日、ヒトラーは独帝国首相に就任した。
1934年4月までに数百人のユダヤ人大学教員、4000人ものユダヤ人弁護士、300人の医師、2000人の公務員が退職していった。
「本が燃やされるところでは、最後には、人間も燃やされる」
これはハインリヒ・ハイネのコトバ。まったく、そのとおりですよね。
ヒトラーの生い立ち、権力を握る過程でのエピソードなど、ヒトラーの真実に迫る本だと思いました。一読を、おすすめします。
(2023年4月刊。3800円+税)

沈黙の勇者たち

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 岡 典子 、 出版 新潮選書
 ヒトラー・ナチス支配下のドイツで1万2千人ほどのユダヤ人が地下に潜伏し、その半数近い5千人が生きて終戦を迎えた。これは驚異的な生存率ですよね。
ユダヤ人の潜伏に手を貸したドイツ市民は少なくとも2万人をこえると推測されている。彼らは、隠れ場所を提供し、食べ物や衣服を与え、身分証明書を偽造し、あらゆる非合法手段によって、ユダヤ人を匿(かくま)った。
 それはどんな人々だったかというと、その多くがごく平凡な「普通の人々」だった。職業もさまざま、年齢は老人も子どももいた。強固な思想の持主ばかりではなかった。圧倒的多数のドイツ国民がユダヤ人迫害に加担し、あるいは「見て見ぬふり」に終始するなかで、彼らは自分や家族を危険にさらしてまでユダヤ人に手を差し伸べた。
 1933年の時点で、ドイツ国内にいたユダヤ人はわずか52万5千人。ところが、ユダヤ人は、政財界、学問、文化、芸術などの分野で中心的な役割を担っていた。医師にも弁護士にもユダヤ人は多かった。これは現代アメリカでも言えることのようです。ユダヤ人は子弟の教育にことのほか熱心な民族だと言われています。潜伏期間においても、ユダヤ人は子どもたちには学問の機会を保障しようとしたようです。
ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)がユダヤ人狩りに出動するときの80%は一般市民からの密告だった。また、ナチスは、いち度つかまえたユダヤ人を転向させナチスの協力者(「捕まえ屋」)に仕立てあげた。
 「地下に潜る」とは、ユダヤ人であることを隠し、別人になりすまして生きること。本当の名前を捨て、ユダヤ人の身分証明書を捨て、家を捨て、監視の目をかいくぐり、偽名を使って仕事を見つけ、闇で食料を手に入れ、家族と離れ離れになってでも生き抜く覚悟が必要だった。
 身分証明書を手に入れるのは、救援者から譲り受ける(譲った人は紛失として届け出て、再発行してもらう)、闇で入手する、あるいは盗む。この三つしかない。
ある親衛隊高官は、自分の娘が潜伏ユダヤ人と恋仲になったことから、そのユダヤ人青年を自宅に匿い、親衛隊員の身分証明書を偽造し、制服まで支給してやった。いやあ、そんなことがあったのですか…。
ユダヤ人弁護士カウフマンのユダヤ人救援者ネットワークは総勢400人というもので、最大規模でした。このカウフマンはユダヤ人として生まれながら、親の方針でキリスト教徒として育てられ、プロテスタント教会で洗礼も受けていた。カウフマンが何より強制収容所に入れられなかったのは、貴族階級出身のドイツ人女性と結婚したから。
 カウフマンのネットワークは身分証明書を大量に偽造していた。身分証明書の偽造に関わったのは22人、食料配給券の調達者は34人もいた。
 1943年8月19日、カウフマンは逮捕された。ゲシュタポへの密告によるものだった。そして、翌1944年2月17日、ザクセンハウゼン強制収容所で射殺された(58歳)。
潜伏ユダヤ人を助けた人々の善行は長いあいだ埋もれていました。これは、ドイツ国民の多くがホロコースト(ナチスによるユダヤ人の大量虐殺)を知らなかったとされてきたが、実は多くのドイツ国民はユダヤ人大量虐殺を知り、それに加担し、利益を得てきたことがあきらかになってきたことに関わるものなので、いわばタブーだったことによる。ひるがえって、日本でも今でも「南京大虐殺」なんてなかったという嘘が堂々とまかり通っていますので、共通するところがあります。
 本書は「沈黙の勇者」について統合的な形で日本人に示してくれるものとなっています。ご一読をおすすめします。
(2023年5月刊。1750円+税)

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