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カテゴリー: ヨーロッパ

シンドラーに救われた少年

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  レオン レイソン 、 出版  河井書房新社
 映画「シンドラーのリスト」は感動に震えました。この本は、そのシンドラーのリストに載せられた一家がどうやって生き延びたかを語っています。
 ナチス・ドイツがポーランドを1939年9月に占領したとき、著者は10歳。解放されたときも、まだ15歳だった。
 オスカー・シンドラーが1940年に雇った250人の労働者のうち、ユダヤ人にはわずか7人だけ。残りは全員キリスト教徒のポーランド人だった。
シンドラーはポーランド人低い賃金で雇えたし、ユダヤ人にはただ働きをさせた。人件費を最小にして、軍需品を生産したため、シンドラーは莫大な利益をあげた。
 著者は絶滅収容所に入れられながらもなんとか生きのびていきました。
 そして、シンドラーのリストに載って助けられるはずのところ、その名前が棒線で消されていました。そのとき、少年はどうしたか・・・。
 「ぼくはリストに載っています。それなのに、誰かがぼくの名前を消したんです」
 「母もリストに載っています」
 「父と兄は、もう向こうにいるんです」
ドイツ語で少年が言うと、ナチスの将校は、シンドラーのキャンプに向かう集団に入れるように合図したのです。見かけはドイツ人そっくりの、いかにも賢こそうな10歳ほどの少年が正面からドイツ語で訴えたので、ナチ将校も無視することができなかったのでしょうね・・・。下手すると、その場で射殺されたかもしれない危険な賭けに、少年は勝ったのです。
 シンドラーは、工場に入ると、あちこちで労働者と話した。シンドラーはたくさんの人々の名前を記憶できる不思議な能力があった。ナチスにとって、ユダヤ人は名前をもたない存在に過ぎなかったが、シンドラーは違った。ユダヤ人一人ひとりを気にかけていた。シンドラーは人間としての敬意をもってユダヤ人に接し、ユダヤ人を底辺の存在とする序列を築いたナチスの人種差別イデオロギーに抵抗していた。
 著者は2013年に83歳で亡くなっています。ユダヤ人には賢い人が多いとよく言われますが、イディッシュ語、ポーランド語、ヘブライ語、ドイツ語を自在に操り、ソ連占領下のクラクフで亡命ロシア人かと疑われて逮捕されるほど流暢なロシア語を使い、難民キャンプではハンガリー人から同国人と思われるほど自然なハンガリー語を話し、そのうえチェコ語や日本語(戦後、アメリカ軍の一員として沖縄にもいました)、そしてスペイン語も少し話しました。もちろん英語はアメリカの大学で教員として学生に教えていたほどです。さらに、柔道は黒帯、テニスもうまく、ボウリングも得意でした。
 著者はシンドラーについて、英雄だと断言しています。英雄とは最悪の状況で、最善をなす、ごく普通の人間だという定義にしたがってのことです。
 シンドラーのリストにのった最年少の少年がアメリカで活躍していたことを初めて知りました。読んで元気の湧いてくる本です。
(2016年4月刊。1650円+税)

女騎兵の手記

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 N・A・ドゥーロワ 、 出版 新書館 
ナポレオンのロシア遠征戦争のころ、ロシア軍に従軍した騎兵の手記です。
この本を読みながら、私は前にも紹介しました『戦争は女の顔をしていない』(群像社)を思い出しました。その本をまだ読んでいない人は、ぜひ手にとって読んでみて下さい。戦争の悲惨さが惻々と伝わってくる、心をゆさぶられる忘れえない本です。その本は、ヒトラー・ドイツ軍に抗してソ連軍の一員として戦った女性兵士の話です。
この本の著者は、ナポレオン軍と戦うロシアの騎兵将校の一員として大活躍し、ロシア皇帝から勲章をさずかり、総司令官の伝令までつとめました。
ところが、なんと男装した女性騎兵だったのです。どうして女性が騎兵将校になったのか、また、なれたのか・・・。その生い立ちに理由があります。貴族の家に生まれ、幼いころから父親の影響から乗馬を得意とし、騎兵を志したのでした。ところが、それを母親は認めようとしません。女の子は刺しゅうをして、男性に従属した地位に甘んじるのが幸せだという考えです。母と娘は決定的に対立しました。娘は14歳のときに家を出て、コサック連隊にもぐり込み、ついにロシア正規軍に入るのでした。
やはり、女性でも昔から兵隊に憧れる人はいたのですね・・・。
いま、アメリカでも日本でも、女性兵士、自衛官は少なくないようです。そして、軍隊・自衛隊内のセクハラ・レイプ事件が頻発しています。人間らしさを奪われた存在は、女性を自分と同じ人間とは思わなくなってしまうのですね・・・。
ナポレオン軍は、ロシア遠征のときに家族連れだったことを初めて知りました。そして、ナポレオン軍がロシアから敗走するとき、たくさんの家族が置き去りにされたようです。そのなかで例外的に生命拾いをしてロシア人の家庭で育てられたフランス人の少女の話も登場しています。
本棚の奥にあり、気になっていた未読の本をひっぱり出して読んでみたのです。
(1990年12月刊。2000円+税)

灰色の狼、ムスタファ・ケマル

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ブノアメシャン   出版  筑摩書房
 トルコの国は、いま大きく揺らいでいるようです。クーデター騒ぎのあと、強権的政治が強まり、EU加盟の条件として廃止された死刑が復活するかもしれないとも報道されています。
 この本は、オスマン・トルコ帝国のあと、苦難の道をたどったトルコの「救世主」と言われているケマル・パシャの一生をたどっています。
 ムスタファ・ケマルが登場したのは、没落がその最低点に達し、オスマン・トルコの最後の足跡が世界地図から抹殺されようとしていたときである。
 トルコのムスタファ・ケマルとサウジアラビアのイワン・サウドは、誕生日がわずか数週間ちがうだけの同世代である。
 ムスタファ・ケマルと呼ぶときのケマルというのは、「満点」を意味する。それだけ優秀な成績をとっていたということ。士官学校の校長は次のようにコメントした。
 「気むずかしく、非常に資質に恵まれた性格の青年。しかし、この性格では、他人と深い交りを、結ぶことは不可能である」
 1905年、ケマル中尉は、陸軍大尉の肩書で陸軍大学を卒業した。24歳のときのこと。
 ムスタファ・ケマルはコーランに基礎を置く司法組織を忌み嫌った。それは邪悪にみち、愚劣きわまる掟という掟をこの世にのさばらしているから。
 1921年8月、トルコ軍はギリシャ軍に攻めたてられた。サカリアの作戦である。両軍は死闘を展開した。最後にトルコ軍が勝利したのは、ムスタファ・ケマルの強力な個性による。彼がそこにいるということで、兵士たちは振い立った。
 ムスタファ・ケマルの意思は、兵士たちに歯を食いしばり、石にしがみつき、ひとかけらの土地も渡すまいとして抵抗する勇気を与えた。
 トルコ軍がついに勝利したあと、トルコ議会はムスタファ・ケマルに対して、「ガージ」つまり「キリスト教徒の破壊者」の称号を授けた。これはイスラム教徒に与えうる最高の栄誉にみちた称号である。
 ムスタファ・ケマルは、民族主義者であるという枠内で、卓絶した反帝国主義者だった。
 戦争に勝利したあと、戦いは軍事面から政治面へ移った。
 1923年10月、トルコは共和国が宣言され、ムスタファ・ケマルは初代大統領となった。
 「独立した、団結した、同質のトルコ国民」。これがムスタファ・ケマルの目指した目標だった。国民の同質性を脅かしていたのは、クルド人、アルメニア人、ギリシャ人という三種の住民集団だった。
 クルド人の虐殺、アルメニア人の絶滅、ギリシャ人の追放は、ムスタファ・ケマルの生涯において、光栄あるものではなかった。
 ムスタファ・ケマルは、こう言った。
 「血は流れた。それは必要なことだった。諸君、革命は流血のなかで、築かなければならない。血のなかにに築かれない革命など、決して長続きはしない」
 ケマル・パシャは独裁者として、自らに反抗する人々を多く死に追いやったようです。同時に、新生トルコのために大変革に取り組んでいます。農業改革、教育改革、女性の解放などなどです。
 ムスタファ・ケマルは、1938年に57歳で亡くなりました。
 新生トルコの再生を閉ざした英雄の光と影を知ることのできる本です。
 四半世紀前に書かれた本ですが、トルコという国の歴史を知ることができました。
(1990年12月刊。2470円+税)

ゲルダ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  イルメ・シャーバー   出版  祥伝社
 解説を沢木耕太郎が書いていますので、キャパの撮ったとされている例の有名な写真「崩れ落ちる兵士」に至る状況もよく理解できます。その意味では、『キャパの十字架』(文芸春秋)を先に読んでおいたほうがいいと思います。
 この本は、この有名な写真をとったのはキャパではなく、パートナーだったフランス人女性、ゲルダ・タローだとし、その一生を明らかにしています。
 ゲルダ・タローの本名はゲルダ・ポホリレ。オーストリア西部のユダヤ人の娘としてドイツで生まれた。そして、コミュニスト(党員)ではなかったが、そのシンパとして、行動をともにしていた。だから、ゲルダは、女性であり、コミュニストであり、ユダヤ人であるというマイナス三要素をもつ存在だった。そのせいか、ゲルダはキャパの名声の影に埋もれてしまった。
 若く美しく、27歳になる寸前に、スペイン内戦を取材中、戦闘の混乱状況から味方の戦車にひかれて死亡した。
 ユダヤ人であるゲルダの家族はホロコーストによって全滅している。両親や兄弟がどこで亡くなったのかという記録すらない。
 ヒトラーが政情を握った1933年当時のドイツの状況が次のように描写されています。
 「誰かが怯(おび)えると、しだいに皆が怯えるようになった。災難がふりかかるのは自分なのか、それともあの人なのか・・・。社会主義者が知人にいる、親戚が共産主義者だ。そんな理由で、人々は次は自分も何らかの責任を問われるのではないかと思い始めた。そんな不安は新たな状況を生み出した。そのような状況下では、政治的な活動によって自分の存在を示さなくてはいけない・・・。」
 ゲルダはフランスに逃れることが出来た。率直で人なつっこいゲルダの性格は、最大の長所だった。ゲルダは両親に周囲から信頼される人間になるように育てられた。
 ゲルダは子ども時代から、大人の中で定位置を見つけ、自己主張を身につけなくてはならない環境にいた。そこでは自身や適応力が必要とされ、自分は誰と与(くみ)すればよいのかという判断力や、繊細な感受性が表れた。
ゲルダとキャパは、パリで日本人のジャーナリスト(川添浩史、井上清一)や岡本太郎(タロー)と面識があったようです。ゲルダ・タローのタローは岡本太郎に由来するようなのです。
 戦場で、いい写真をとるため、キャパもゲルダも、かなりの無茶をしたようです。
「きみがいい写真を撮れないのは、十分に近づいていないからだ」
これはキャパの言葉です。
 戦争(戦場)写真を撮るには、かなりの無謀さが求められるのです。
 キャパも戦争写真家として世界的に有名になりましたが、1954年5月、ベトナムで地雷に触れて亡くなりました。
 ゲルダ・タローは、戦場ではかなり無謀な行動をとっていたようですが、それも、いい写真を撮りたかったからなのでしょう。
 27歳の誕生日の寸前に事故死してしまい、ずっとキャパの名声に隠れてきましたが、こうやって少しずつ再評価されるのは、うれしいことです。美人であり、愛想もよかったゲルダは自由奔放に生きた女性でもあったことを知り、より一層の親近感を与えました。
(2016年6月刊。1300円+税)

エンゲルス

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(霧山昴)
著者  トリストラム・ハント 、 出版  筑摩書房
 大学生のころ、マルクスやエンゲルスの本をむさぼるように読みました。そして、ぐいぐいと目を開かせてもらったものです。
この本は、生身のエンゲルスをたっぷり紹介しています。理想像ではなく、等身大の人間として、紹介されています。エンゲルスだって、生身の人間ですから、いろいろ問題はあったのです。それでも、彼がなしとげた理論的功績が、そのことによって帳消しになるわけでは決してありません。
エンゲルスは、自らはイギリス産業革命の揺籃地であるマンチェスターで家業の綿工場を経営していた。そのお金で、40年にわたって友人のカール・マルクスとその家族の生活を支えた。マルクスが亡くなったあと、その生前に刊行できなかった『資本論』の2巻と3巻を完成し、刊行した。
エンゲルスはヴィクトリア朝中期にマンチェスターで綿企業を経営し、南アメリカの大農園からランカシャー州の工場やイギリス支配下のインドにまでおよぶ世界貿易の経済連鎖に日々たずさわっていたため、グローバル資本主義の仕組みに関する経験をもった。それが、マルクスの『資本論』に盛り込まれた。
エンゲルスは、マンチェスターではチャーチスト運動に関与し、1848年から49年にかけてドイツでバリケードによる市街戦に加わり、1871年にはパリ・コミューン支持者たちを鼓舞し、1890年のロンドンではイギリスの労働運動の難度を目の当たりにした。
人生の盛りの20年という長い年月にわたって、エンゲルスはマンチェスターの工場経営者としての自己嫌悪に陥る立場に耐え、マルクスが『資本論』を書きあげるための資金と自由を保障した。
エンゲルスは、プロイセン(ドイツ)の裕福なカルヴァン派貿易高の御曹司として生まれ育った。軍人であると同時に、知識人でもあったエンゲルスは、まさに将軍だった。
資本主義の最大の罪は、それが人間の楽しみを否定することによって、人の魂を傷つけたことだった。より具体的にいうと、快楽が金持ちだけのものとなった。
エンゲルスが24歳のときに書いた『イギリスにおける労働者階級の状態』は、20世紀になって都市化するイギリスの恐怖、搾取、それに階級闘争を簡潔に記した読み物となっている。この本は、共産主義理論の草分けとなる文献だった。
マルクスとエンゲルスは、プロイセン(ドイツ)のライン地方出身という同じ背景をもち、ひどく異なる点はあるものの、二人は相互に補いあう性格として認めあった。エンゲルスのほうが明るく、歪みの少ない、協調性のある気質であり、身体的にも知的にも、エンゲルスのほうが利いて回復力に富んでいた。
1848年2月の『共産党宣言』は、発刊された当時は、なんの衝撃ももたらさなかった。
エンゲルスが最後にいちばん期待をかけていたのは1861年のアメリカ南北戦争だった。
マルクスとエンゲルスは手紙をやりとりしていた。その手紙から、マルクスが『資本論』に関する考えを、エンゲルスと相談しながら発展させていったことが分かる。『資本論』の初期の推進力の多くは、エンゲルス自身によるものだった。
久しぶりにマルクス・エンゲルスの本を読み直してみようと思ったことでした。
(2016年3月刊。3900円+税)

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