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カテゴリー: ヨーロッパ

灰色の狼、ムスタファ・ケマル

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ブノアメシャン   出版  筑摩書房
 トルコの国は、いま大きく揺らいでいるようです。クーデター騒ぎのあと、強権的政治が強まり、EU加盟の条件として廃止された死刑が復活するかもしれないとも報道されています。
 この本は、オスマン・トルコ帝国のあと、苦難の道をたどったトルコの「救世主」と言われているケマル・パシャの一生をたどっています。
 ムスタファ・ケマルが登場したのは、没落がその最低点に達し、オスマン・トルコの最後の足跡が世界地図から抹殺されようとしていたときである。
 トルコのムスタファ・ケマルとサウジアラビアのイワン・サウドは、誕生日がわずか数週間ちがうだけの同世代である。
 ムスタファ・ケマルと呼ぶときのケマルというのは、「満点」を意味する。それだけ優秀な成績をとっていたということ。士官学校の校長は次のようにコメントした。
 「気むずかしく、非常に資質に恵まれた性格の青年。しかし、この性格では、他人と深い交りを、結ぶことは不可能である」
 1905年、ケマル中尉は、陸軍大尉の肩書で陸軍大学を卒業した。24歳のときのこと。
 ムスタファ・ケマルはコーランに基礎を置く司法組織を忌み嫌った。それは邪悪にみち、愚劣きわまる掟という掟をこの世にのさばらしているから。
 1921年8月、トルコ軍はギリシャ軍に攻めたてられた。サカリアの作戦である。両軍は死闘を展開した。最後にトルコ軍が勝利したのは、ムスタファ・ケマルの強力な個性による。彼がそこにいるということで、兵士たちは振い立った。
 ムスタファ・ケマルの意思は、兵士たちに歯を食いしばり、石にしがみつき、ひとかけらの土地も渡すまいとして抵抗する勇気を与えた。
 トルコ軍がついに勝利したあと、トルコ議会はムスタファ・ケマルに対して、「ガージ」つまり「キリスト教徒の破壊者」の称号を授けた。これはイスラム教徒に与えうる最高の栄誉にみちた称号である。
 ムスタファ・ケマルは、民族主義者であるという枠内で、卓絶した反帝国主義者だった。
 戦争に勝利したあと、戦いは軍事面から政治面へ移った。
 1923年10月、トルコは共和国が宣言され、ムスタファ・ケマルは初代大統領となった。
 「独立した、団結した、同質のトルコ国民」。これがムスタファ・ケマルの目指した目標だった。国民の同質性を脅かしていたのは、クルド人、アルメニア人、ギリシャ人という三種の住民集団だった。
 クルド人の虐殺、アルメニア人の絶滅、ギリシャ人の追放は、ムスタファ・ケマルの生涯において、光栄あるものではなかった。
 ムスタファ・ケマルは、こう言った。
 「血は流れた。それは必要なことだった。諸君、革命は流血のなかで、築かなければならない。血のなかにに築かれない革命など、決して長続きはしない」
 ケマル・パシャは独裁者として、自らに反抗する人々を多く死に追いやったようです。同時に、新生トルコのために大変革に取り組んでいます。農業改革、教育改革、女性の解放などなどです。
 ムスタファ・ケマルは、1938年に57歳で亡くなりました。
 新生トルコの再生を閉ざした英雄の光と影を知ることのできる本です。
 四半世紀前に書かれた本ですが、トルコという国の歴史を知ることができました。
(1990年12月刊。2470円+税)

ゲルダ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  イルメ・シャーバー   出版  祥伝社
 解説を沢木耕太郎が書いていますので、キャパの撮ったとされている例の有名な写真「崩れ落ちる兵士」に至る状況もよく理解できます。その意味では、『キャパの十字架』(文芸春秋)を先に読んでおいたほうがいいと思います。
 この本は、この有名な写真をとったのはキャパではなく、パートナーだったフランス人女性、ゲルダ・タローだとし、その一生を明らかにしています。
 ゲルダ・タローの本名はゲルダ・ポホリレ。オーストリア西部のユダヤ人の娘としてドイツで生まれた。そして、コミュニスト(党員)ではなかったが、そのシンパとして、行動をともにしていた。だから、ゲルダは、女性であり、コミュニストであり、ユダヤ人であるというマイナス三要素をもつ存在だった。そのせいか、ゲルダはキャパの名声の影に埋もれてしまった。
 若く美しく、27歳になる寸前に、スペイン内戦を取材中、戦闘の混乱状況から味方の戦車にひかれて死亡した。
 ユダヤ人であるゲルダの家族はホロコーストによって全滅している。両親や兄弟がどこで亡くなったのかという記録すらない。
 ヒトラーが政情を握った1933年当時のドイツの状況が次のように描写されています。
 「誰かが怯(おび)えると、しだいに皆が怯えるようになった。災難がふりかかるのは自分なのか、それともあの人なのか・・・。社会主義者が知人にいる、親戚が共産主義者だ。そんな理由で、人々は次は自分も何らかの責任を問われるのではないかと思い始めた。そんな不安は新たな状況を生み出した。そのような状況下では、政治的な活動によって自分の存在を示さなくてはいけない・・・。」
 ゲルダはフランスに逃れることが出来た。率直で人なつっこいゲルダの性格は、最大の長所だった。ゲルダは両親に周囲から信頼される人間になるように育てられた。
 ゲルダは子ども時代から、大人の中で定位置を見つけ、自己主張を身につけなくてはならない環境にいた。そこでは自身や適応力が必要とされ、自分は誰と与(くみ)すればよいのかという判断力や、繊細な感受性が表れた。
ゲルダとキャパは、パリで日本人のジャーナリスト(川添浩史、井上清一)や岡本太郎(タロー)と面識があったようです。ゲルダ・タローのタローは岡本太郎に由来するようなのです。
 戦場で、いい写真をとるため、キャパもゲルダも、かなりの無茶をしたようです。
「きみがいい写真を撮れないのは、十分に近づいていないからだ」
これはキャパの言葉です。
 戦争(戦場)写真を撮るには、かなりの無謀さが求められるのです。
 キャパも戦争写真家として世界的に有名になりましたが、1954年5月、ベトナムで地雷に触れて亡くなりました。
 ゲルダ・タローは、戦場ではかなり無謀な行動をとっていたようですが、それも、いい写真を撮りたかったからなのでしょう。
 27歳の誕生日の寸前に事故死してしまい、ずっとキャパの名声に隠れてきましたが、こうやって少しずつ再評価されるのは、うれしいことです。美人であり、愛想もよかったゲルダは自由奔放に生きた女性でもあったことを知り、より一層の親近感を与えました。
(2016年6月刊。1300円+税)

エンゲルス

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  トリストラム・ハント 、 出版  筑摩書房
 大学生のころ、マルクスやエンゲルスの本をむさぼるように読みました。そして、ぐいぐいと目を開かせてもらったものです。
この本は、生身のエンゲルスをたっぷり紹介しています。理想像ではなく、等身大の人間として、紹介されています。エンゲルスだって、生身の人間ですから、いろいろ問題はあったのです。それでも、彼がなしとげた理論的功績が、そのことによって帳消しになるわけでは決してありません。
エンゲルスは、自らはイギリス産業革命の揺籃地であるマンチェスターで家業の綿工場を経営していた。そのお金で、40年にわたって友人のカール・マルクスとその家族の生活を支えた。マルクスが亡くなったあと、その生前に刊行できなかった『資本論』の2巻と3巻を完成し、刊行した。
エンゲルスはヴィクトリア朝中期にマンチェスターで綿企業を経営し、南アメリカの大農園からランカシャー州の工場やイギリス支配下のインドにまでおよぶ世界貿易の経済連鎖に日々たずさわっていたため、グローバル資本主義の仕組みに関する経験をもった。それが、マルクスの『資本論』に盛り込まれた。
エンゲルスは、マンチェスターではチャーチスト運動に関与し、1848年から49年にかけてドイツでバリケードによる市街戦に加わり、1871年にはパリ・コミューン支持者たちを鼓舞し、1890年のロンドンではイギリスの労働運動の難度を目の当たりにした。
人生の盛りの20年という長い年月にわたって、エンゲルスはマンチェスターの工場経営者としての自己嫌悪に陥る立場に耐え、マルクスが『資本論』を書きあげるための資金と自由を保障した。
エンゲルスは、プロイセン(ドイツ)の裕福なカルヴァン派貿易高の御曹司として生まれ育った。軍人であると同時に、知識人でもあったエンゲルスは、まさに将軍だった。
資本主義の最大の罪は、それが人間の楽しみを否定することによって、人の魂を傷つけたことだった。より具体的にいうと、快楽が金持ちだけのものとなった。
エンゲルスが24歳のときに書いた『イギリスにおける労働者階級の状態』は、20世紀になって都市化するイギリスの恐怖、搾取、それに階級闘争を簡潔に記した読み物となっている。この本は、共産主義理論の草分けとなる文献だった。
マルクスとエンゲルスは、プロイセン(ドイツ)のライン地方出身という同じ背景をもち、ひどく異なる点はあるものの、二人は相互に補いあう性格として認めあった。エンゲルスのほうが明るく、歪みの少ない、協調性のある気質であり、身体的にも知的にも、エンゲルスのほうが利いて回復力に富んでいた。
1848年2月の『共産党宣言』は、発刊された当時は、なんの衝撃ももたらさなかった。
エンゲルスが最後にいちばん期待をかけていたのは1861年のアメリカ南北戦争だった。
マルクスとエンゲルスは手紙をやりとりしていた。その手紙から、マルクスが『資本論』に関する考えを、エンゲルスと相談しながら発展させていったことが分かる。『資本論』の初期の推進力の多くは、エンゲルス自身によるものだった。
久しぶりにマルクス・エンゲルスの本を読み直してみようと思ったことでした。
(2016年3月刊。3900円+税)

アウシュヴィッツの囚人写真家

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ルーカ・クリッパ 、マウリツィオ・オンニス  出版 河出書房新社  
アウシュヴィッツ強制(絶滅)収容所で、収容者の顔写真を撮り続けていたポーランド人がいたのです。幸い戦後まで生き延び、撮った写真も全部ではないようですが、残りました。
悪魔の医師・メンゲレの顔写真もあります。そして、収容所内で結婚式をあげたカップルの写真まであるのです。もちろん、絶滅収容所へ連行され、ガス室へ送られる直前の人々も撮っています。
人々の顔写真は3枚組です。横から、正面、そして斜め上を見上げています。本の表紙にもなっている少女はポーランド人政治犯ということですが、いかにも聡明です。こんな女の子を無残にもナチスは殺してしまったのでした。
主人公(ヴィルヘルム・ブラッセ)はポーランド人の政治犯。ユダヤ人ではない。写真館で働いていた経験とドイツ語が話せることから、ドイツ兵(ワルター曹長)の下で名簿記載犯に入って働くことになった。
撮影室に入ってきた中年のユダヤ人女性。ウェーブのかかったブロンドの髪に、カメラのレンズまで明るく照らしそうな眼差しをしている。いかなる困難に遭おうとしても決してへこたれない母親の眼差しだ。絶対にあきらめるわけにはいかないという、ただそれだけの理由ですべてを耐え抜くのだ。圧倒的な力に屈する前に、息子や娘、兄弟姉妹、そして夫や両親を救わなければならない。母親たちは、そんな思いにすがりつくようにしてアウシュヴィッツを生き抜いていた。
このような貴重な人材がみすみすナチス・ヒトラーによって惨殺されていったのですね・・・。本当に許せません。残念です。
収容所に到着した人々の残した荷物から、まず現金と貴金属をより分ける。そして、その残りを洋服、洗面用具、食器、新聞雑誌などに分類する。これらを写真に撮る。
一連の写真は、アウシュビッツで日々くり広げられている収容所風景をありのまま物語っている。
収容所の副所長・カール・フリッチェは、次のように訓示した。
「諸君、ここは保養所ではない。強制収容所だ。ここでは、ユダヤ人の命は2週間、聖職者は3週間、一般の囚人は3ヶ月。全員がいずれ死ぬことになる。それをしっかり頭に叩き込んでおくのだ。それさえ忘れなければ、苦しみも少なくてすむ」
アウシュヴィッツ収容所の中にも抵抗するグループが存在していました。すごいことです。焼却炉で働いている囚人の協力を得て、ポータブルカメラを名簿記載犯から借り受け、収容棟の窓から秘密裏に写真を撮った。この写真によって、進行中の惨劇を世界に伝える。アウシュヴィッツの内部にも、抵抗をあきらめていない者がいた。誰もが生き延びることだけを考えているわけではなかった。
アウシュヴィッツにも愛があった。さまざな形の愛があった。男と女が恋に落ちることもあったし、他の収容者を救うために自らを犠牲にする者もいた。誠実な友情もあったし、祖国愛もあった。
1917年に生れた主人公は2012年まで生きていました。アウシュヴィッツから解放されたあとは、写真を撮ろうとすると、ナチスの犠牲者の亡霊が脇に立っていて、とても写真は撮れないと悟り、カメラは置いたとのこと。
この本を読み終わった日に、天神で映画『アイヒマン・ショー』をみました。ユダヤ人大虐殺を推進したナチ親衛隊の将校アイヒマンをアルゼンチンから連行してきてイスラエルで裁判にかけたとき、全世界に向けてテレビで放映した実話を映画化したものです。前にこの裁判をずっと傍聴していたアンナ・ハーレントを主人公とする映画もみましたので、アイヒマン裁判の状況をさらに認識することができました。
アイヒマンは、被告人席でほとんど表情を変えることもなく、証人や実写フィルムなどを見続けていくのです。この部分は実写フィルムですので、迫力が違います。
自分は他人よりも優秀だと考えるフツーの人間は、どんな残酷なことでも平気でするということを実感させてくれる映画でした。
(2016年2月刊。2600円+税)

ブラッドランド(上)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ティモシー・スナイダー 、 出版  筑摩書房
20世紀の半ば、ナチスとソ連の政権は、ヨーロッパの中央部で1400万人を殺害した。その犠牲者は、ポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、ロシア西部、すなわちブラッドランド(流血地帯)に居住していた。
この1400万人もの人々が殺されたのは、ヒトラーとスターリンの双方が政権を握っていた1933年から1945年までの、わずか12年という短期間のこと。彼らは、戦争ではなく、殺害政策の犠牲者である。この1400万人には、戦闘任務についていた兵士は含まれていない。そのほとんどが女性か、子どもか高齢者だった。誰も武器をもっておらず、多くの人が所持品や衣類を奪われた。
ヒトラーが排除したがっていたのは、ユダヤ人だけではなかった。ヒトラーは、国家としてのポーランドとソ連を抹殺し、この二つの国の支配層を消滅させ、何千万人ものスラヴ民族、つまりロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人、ポーランド人を抹殺したいと願っていた。
戦時中、ドイツ人は、ユダヤ人と同数の非ユダヤ人を殺した。ロシア人捕虜300万人以上、占領した都市の住民100万人以上を餓死させ、「報復」と称して、民間人(ベラルーシ人、ポーランド人)50万人以上を銃殺した。ナチス・ドイツがユダヤ人の殺害政策を実行していた地域は、戦後、ソ連に占領された。アウシュヴィッツ、トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ、ヘウムノ、マイダネクの収容所を解放したのは、ソ連赤軍だった。
1933年から1945年までに流血地帯で殺された1400万人のうち3分の1は、ソ連によって命を奪われた。
流血地帯(ブラッドランド)とは、ヨーロッパ・ユダヤ人の大半が暮らしていた土地であり、ヒトラーとスターリンの覇権主義政策が重複した領域である。そこは、ドイツ国防軍とソ連赤軍がたたかった戦場であり、ソ連の秘密警察NKVDとナチス親衛隊が集中的に活動していた地域でもあった。
餓死が一番多く、次に銃殺、そしてガス殺が続く。1937年から38年にかけてのスターリンの大テロルでは、70万人ものソ連国民が銃殺された。
ポーランドの独ソ分割統治の時代には、30万人ものポーランド人が両国によって銃殺された。
スターリンが行動家であったのに対し、ヒトラーは扇動家だった。スターリンは革命を組織し、一党独裁国家の指導者として不動の地位を築いた。それに対して、ヒトラーは周囲の組織を拒絶することにより、政治家としての実績を積んでいった。
ヒトラーにとってもスターリンにとっても、ウクライナは食糧生産地以上の意味を持っていた。伝統的な経済原則をうちこわし、自分の国を貧困と孤立から救い、ヨーロッパ大陸を思いどおりのイメージにつくり変えることのできる土地だった。
ヒトラーとスターリンの政策と権力は、ウクライナの肥沃な土壌と数百万人もの農業労働者を支配できるか否かにかかっていた。
 1933年の大量餓死を引き起こしたのは、1928年から32年にかけて実行されたスターリンの第一次5ヶ年計画である。この政策によって、数万人が処刑され、数十万人が疲労による衰弱死をとげ、数百万人が餓死の危険にさらされた。
ウクライナでは、思春期前の子供や十代の少年少女50万人が監視塔から大人たちを見張っていた。親が不正を働いたときにも、報告しなければいけなかった。
 ソ連の飢饉は、1934年に終息した。ヒトラーの台頭は、むしろソ連をヨーロッパ文明の守護者のように見せる好機でもあった。
ヒトラーは、自分の敵を「マルキスト」と呼び、スターリンは「ファシスト」と呼んだ。どちらにも中間がないという点で同じだった。
 1941年末までに捕虜となったソ連人は300万人にのぼった。ドイツ軍は戦争捕虜について準備していなかった。
ヒトラーとスターリンの方針は、捕虜になったソ連兵を本国に連れ戻っても、人間以下の存在に突き落とすだけだった。
ドイツ軍は、50万人ものソ連人を銃殺した。餓死等で死なせたのは260万人。
ヒトラーとスターリンって、20世紀の二大巨悪として名を残したのは当然のことです。
(2016年2月刊。2800円+税)

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