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カテゴリー: ヨーロッパ

強制収容所のバイオリニスト

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ヘレナ・ドゥニチ・ニヴィンスカ 、 出版  新日本出版社
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所に入れられたポーランド人女性がバイオリニストとして生き延びた体験記です。なにより驚くのは、95歳になって書いた回想記で、100歳になって日本語訳が刊行されることについてメッセージを日本人読者に向けて送ってくれていることです。まさに奇跡としか言いようがありません。
ポーランドはショパンの祖国であり、ショパンの祖国がポーランドである。日本人は、ショパンの音楽を愛していることを知っている。
著者のメッセージには、そのように書かれていますが、まさしくそのとおりですよね。
著者が生まれたのは、1915年7月。ウィーンだった。音楽好きの父親のもとで、著者はバイオリンを学びはじめ、結局、それが身を助けることになります。
著者は強制収容所に入れられ、裸にされ、男性囚人の前に立たされます。そして、囚人生活が始まるのです。
1943年秋、ドイツは東部戦線の戦況悪化により節約を強いられていた。強制収容所で殺害されたユダヤ人の衣類の良い物は列車でドイツ本国へ送られ、ドイツ市民の需要を満たした。
レンガ造りのブロックの建物の最下段で寝る。湿気を含んだレンガが地面にじかに並べられているだけで、寝具は何もない。頭と足の位置を交互にして横たわるのみ。二枚の灰色の毛布は、汚れでべとべとし、シラミがたかっている。とても寒いので夜は衣類を全部身に着けたまま眠った。横になるとすぐに、寝棚の板や毛布に群らがっていた南京虫と衣ジラミがすぐに這い寄ってくる。そのうえ、寝ている身体の上をハツカネズミやドブネズミがはね回る。
ユダヤ人は人間以下の存在と考えたナチスにとって、トイレットペーパーは与えられるものではなかった。
ビルケナウで著者が生きのびられたのは、労働隊そして音楽隊に入ることができたから。女性音楽隊は、1943年春に、親衛隊女性司令官マリア・マンデルが設立した。このとき女性囚人は、1万数千人いた。
マンデルは、男性収容所に音楽隊が存在しているのに対抗して、同じような女性音楽隊をつくった。これには、アウシュヴィツ総司令官アドルフ・ヘスの好意も、うまく重なった。
女性音楽隊の監督(カポ)には、戦前は小学校で音楽教師をしていたゾフィア・チャイコフスカが就任した。チャイコフスカは、さまざまな国籍の、統制のとれない若い音楽家たちをまとめ、秩序ある状態に導いていった。
強制収容所に設置された死体焼却炉から昼夜を問わず、もうもうと上がる炎と黒い煙を背にして、娯楽のためにの音楽を演奏していたのです。
これは、どういうことなのか、考えてみれば、深刻なフラストレーションとなった。それは、そうでしょうね・・・。本来、同じ境遇のはずなのに、私は安全で、あなたは安らかに殺されてこいという音楽を演奏するなんて、耐えられませんよね。
音楽隊は、見かけのうえでは楽なコマンドという印象を与えていたかもしれないが、実際には、非常な骨折りと精神的緊張という対価を支払っていた。恐ろしい悪が凝集する場所で音楽を演奏するという道徳的な苦しみに襲われていた。
理不尽があたりまえという極限状態で楽しい音楽を演奏していたという若い女性集団のなかで生きのびたという貴重な体験記です。心して読みつがれるべきものだと思いました。
(2016年12月刊。2300円+税)
 山田洋次監督の映画「家族はつらいよ」パートⅡをみてきました。
 土曜日午後、博多駅にある映画館は「昔青年」の観客で満足でした。なかなかシリアスな話が笑わせながら進行していきます。さすがは山田監督です。山田監督も85歳だそうですから、もちろん他人事ではないことでしょう。私にしても同じことです。
 「この国は70歳を過ぎても道路で旗振りさせている」というセリフがあります。弁護士の私としては70歳すぎても働けるとのは大変ありがたいことなのですが、一般には年金で悠々自適の生活が保障されるべきですよね。

いのちの証言

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 六草 いちか 、 出版  晶文社
ナチスの時代をドイツ国内で生きのびたユダヤ人、それを支えた日本人がいた、この二つをドイツに住む日本人女性が実例をあげて紹介した本です。
ベルリンには、かつて16万人以上のユダヤ人が暮らしていた。たとえば電話帳にユダヤ人特有の名前であるコーン姓の人は、1925年版では5頁、1300世帯がのっていた。ところが、1943年版には、わずか28世帯でしかなかった。
終戦まで生き残ったユダヤ人は、わずか6千人だった。そのうち2千人は、ドイツ人の妻や夫や親をもっていた人たち。ゲッペルスのユダヤ人一掃作戦に抗議したドイツ人女性たちによって救われた。残る4千人は、市民が個人的に隠し通した人たちだった。
そして、実は、ベルリンにあった在独日本大使館にもユダヤ人女性がいて、大使館が守っていたというのです。
ドイツ人の女性タイピスト2人は実はユダヤ人だ。あえて日本大使館は、彼女らを雇用していた。ドイツ人が日本大使館に雇われていたら安全だと承知して頼み込んできた。そういうドイツ人は、反ナチ、反ヒトラーの感情をもっていた。
近衛文麿の弟である近衛秀麿は、オーケストラの指揮者としてドイツでも活躍していた。その近藤秀麿は、ユダヤ人家族の少なくとも10家族の国外脱出を助けた。優秀、有能な人を輩出したユダヤ人をヒトラー・ドイツは抹殺しようとしていたわけですが、日本が何人も身を挺してその救出にあたっていたことを知ると、身体が震えるほど、うれしくなります。
ところが、最近、日本のなかで「日本人で良かった」とかいう変なポスターを貼り出す日本人がいるというので、呆れて反吐が出そうです。中国人や韓国人を見下して、日本民族は優秀だ。なんて、まるで馬鹿げた考えです。その心の狭さには開いた口がふさがりません。
弱者いじめをする人は、幼いころから親と周囲から大切に育てられてこなかった、愛情たっぷりのふりかけごはんを食べられなかった気の毒な人たちだという分析がありますが、私もそうだと思います。でも、気の毒な人たちだと哀れんでいるだけではすみません。彼らが害毒をたれ流すのは止める必要があります。
「みんな違ってみんないい」(金子みすず)
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(日本国憲法前文)
日本国憲法って、ホント、格調高いですよね。それに比べて、自民党の改憲草案は信じがたいほど下劣です。
(2017年1月刊。1900円+税)

写真家ナダール

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 小倉 孝誠 、 出版  中央公論新社
この本で、アレクサンドル・デュマ、ヴィクトル・マゴー、ジョルジュ・サンドなどのくっきりした肖像写真に接し、彼らの人柄を初めて具体的にイメージすることができました。
詩集『悪の華』で有名な詩人ボート・レールが、「ナダールは生命力のもっとも驚くべき表現である」と高く評価したという写真家ナダールを紹介した本です。豊富な写真のあるのがうれしい限りです。
ナダールは1820年に生まれ、第一次世界大戦の始まる前の1910年に亡くなっていますので、19世紀フランスに生きた人だと言えます。
ナダールはボヘミアン的作家、ジャーナリスト、風刺画家、そして写真家であり、気球冒険家でした。1857年に初めて気球に乗ったナダールは気球から地上の写真も撮っています。そして、写真家としては、パリの地下水路やカタコンベ(地下墓地)まで撮影しているのです。
アレクサンドル・デュマは『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』で名高い作家ですが、その肖像写真は、「根拠ある自信にあふれた表情」というキャプションがついています。なるほど、今にも何か話しかけてきそうな顔写真です。
シャルル・ボードレールはナダールの親しい友だちでしたが、何かもの言いたげな表情をしています。
パリ・コミューンを圧殺した政治家であるティエールは、権力欲に取りつかれた野心たっぷりの表情です。そのほか、エミール・ゾラ、ギ・ド・モーパッサン、オーギュスト・ロダン、クロード・モネなど、当時のフランスを代表する著名人の顔写真がたくさん紹介されていて飽かせません。
(2016年9月刊。2600円+税)

ヤズディの祈り

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 林 典子 、 出版  赤々舎
イラクの少数民族ヤズディをイスラム過激派のISI(イスラム国)が攻撃していることを知った日本人カメラマンが現地に出かけて撮った貴重な写真集です。
ISIの拠点となっているモスルからわずか直線距離で80キロしか離れていない、クルド人自治区の中心都市エルビルにたどり着きます。そして、そこから、イラクにあるシンガル山の頂上にあるヤズディたちが避難生活を過ごしている場所に出向くのです。なんと勇気ある女性でしょう。おかげで、こうやって写真を通してその悲惨な状況をいくらか想像できるわけです。
ISI(この本ではダーシュと呼ばれています)は、ヤズディの男たちは皆殺しにて、女性は暴行し、奴隷として売り飛ばすのです。
生きのび、被害にあった女性たちの話は、どれも同じパターンです。男たちはどこかへ連れ去られて、銃声がして、もう戻ってこないのです。そして、女性は一ケ所に集められ、シャワーを使わせられて、一人ひとり売られていくのです。そして、この本に登場するのは、それでも脱出できた人たちだということでした。
この写真集に救いがあるのは、生き残った女性の表情が絶望に沈んではいないということです。美容師になるつもりだった女性が、今では、カラシニコフ(ロシア製の銃)を抱いて戦う兵士になったのです。
日本人の私たちの知らないヤズディの女性たちの気高さを知ることも出来る写真集でもあります。最初は写真だけ。キャプションもありません。後半に解説というか、自己紹介の文章があり、写真の意味が分かります。ぼやけた顔写真は、わざと識別できにくいようにしてあるわけですので、文句は言えません。
(2016年12月刊。2800円+税)

小説・ライムライト

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 チャールズ・チャップリン 、 出版  集英社
チャップリンって小説も書いていたのですね。まさしく天才って、何でも出来るという見本のようなものです。
この本は映画「ライムライト」の制作過程も丹念に明らかにしていて、興味深いものがあります。チャップリンが打合せのときに言った言葉もちゃんと記録され、ペーパーとして残っているようです。
チャップリンは、推敲に推敲を重ねていて、その手書きの校正の過程も紹介されます。
異常なほどのこだわりがあったようです。そのおかげで私たちは超一流の芸術作品を今日も楽しむことができるわけです。
映画「ライムライト」の先行試写会が催されたのは1952年8月2日。その翌月の9月17日、チャップリンはイギリスへの船旅に出た。ところが、アメリカ司法長官はチャップリンの再入国許可を取り消した。FBIのフーバー長官と共謀して、チャップリンを「アカ」と決めつけての措置だった。
当時、アメリカでは「アカ狩り」旋風が吹いていたのですね。今でも、アメリカではその偏見がひどいようです。なにしろ、国民皆保険を主張すると、そんな人には、みな「アカ」というレッテルを貼られるというのですから、狂っています。それだったら、ヨーロッパなんて、オール「アカ」になってしまいます。とんでもないことです。
チャップリンがアメリカに渡ったのは、20年後の1972年。このとき、アカデミー特別名誉賞が贈られ、チャップリンはようやくアメリカと「和解」した。
トランプ大統領に象徴されるような、アメリカの「影」の部分ですね。
1936年、チャップリンは、ジャン・コクトーに、映画は木のようなものだと語った。
揺さぶれば、しっかりと技についていないもの、不必要なものは落ち、本質的な形のみが残る。
チャップリンが家で新しいアイデアを考えているあいだ、撮影が中断されることはよくあった。それができたのは、プレッシャーがなかったからだ。スタジオはチャップリンの持ち物であり、スタッフは常駐していたし、未使用の映画フィルムは廉価だった。
『黄金狂時代』は撮影に170日、全体で405日かかった。『街の灯』は撮影に179日、全体で683日だった。そして、『殺人狂時代』は80日、『ライムライト』は59日で撮影された。
チャップリンが延々と書きものを続ける形でアイデアを発展させ、磨きあげ、記録していく。実際には、秘書に対して長時間口述するという作業があり、そのあと出来あがったタイプ原稿に対して、チャップリンが改訂を加え、それがまた新しいタイプ原稿とさらなる改訂につながる。このプロセスが問題なく続いていく。チャップリンは、なかなか満足しない性質だった。
チャップリンのこだわりぶりは際だっていた。
チャップリンは気の利いたフレーズを手放しで喜んだし、それがとりわけ自分の創作したものであったときには、なおさらだった。
チャップリンは映画に自分の子どもたちや、妻、兄などの家族も登場させていたのですね。知りませんでした。スイスにチャップリンの邸宅だったところが博物館になっているそうですね。ぜひぜひ一度みてみたいと思います。
映画「ライムライト」は忘れていますので、DVDを借りてみてみたいと思いました。
(2017年1月刊。3500円+税)

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