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カテゴリー: ヨーロッパ

「ヒトラーの裁判官、フライスラー」

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ヘルムート・オルトナー 、 出版 白水社
第二次対戦下のドイツでヒトラーに反対して声をあげた「白バラ」グループに死刑を言い渡したナチスの裁判官として有名なフライスラーの人生をたどった本です。
「白バラ」グループとして捕まった学生たちは死刑判決を受けた、その日のうちにギロチンにかけられました。むごいものです。
フライスラーは51歳で敗色濃いベルリンで空襲にあって死亡しますが、その妻は裁判官の配偶者として戦後も長く年金を受給しました。つまり、フライスラーは死後も資格を剥奪されることなく「裁判官」だったわけです。同じように、ナチス時代の裁判官たちは、戦後の東西ドイツで司法界にとどまっていたのです。まあ、この点は、日本と共通していますね・・・。
ドイツ弁護士会は、ナチスが政権をとると、まもなく、「民族および帝国の健常化に貢献するために」全力を傾注することをナチス政府に確約した。
1933年10月初め、ライプツィヒで開催されたドイツ法曹大会には、全国から2万人以上の法律家が参集したが、次のようにナチスに誓った。「我々はドイツ民族の魂に誓わん。我々がドイツ法曹人として、我らが、総統閣下に付き従い、我々の日が尽き果てるまで、ともに歩み続けるであろうことを」
日本も、大日本弁護士報国会をつくって戦前の弁護士たちは戦争に協力していきました。
1933年に、ドイツの弁護士1万9500任のうち、4394人、22%がユダヤ系だった。大都市では、もっと比率が高かったし、弁護士会の役員にもユダヤ人弁護士が幹部を占めていた。ドイツにはたくさんの優秀なユダヤ人弁護士がいたのに、全員、資格が奪われてしまったのです。
大都市では裁判官の10%をユダヤ人が占めていた。
フライスラーにとって、政治犯は最悪の裏切り者であり、国家の敵であった。24時間以内に起訴がなされ、24時間以内に判決が下され、犯罪者は直ちに処罰されなければならない。情状酌量を認めた時代は、もう終わらせなくてはならない。
人民法廷は、第一審かつ最終審であり、判決についての法的救済手段は一切認められなかった。被告人には起訴状が渡されず、弁護人は裁判の直前に起訴の内容を知るだけで、あらかじめ準備することは出来なかった。審理が終わると、弁護人は、起訴状を返還しなければならなかった。
したがって、ナチスの権力者にとって、いかなる形であれ、反対者を徹底的に排除し、せん滅させる場として、人民法廷に全幅の信頼を置くことが出来た。
1943年1月から1944年1月まで、「防衛力破壊」を理由として124件の死刑が宣告され、即時執行された。
1943年2月のスターリングラードでの敗戦以降、たいて死刑が言い渡された。「公正な判決」など、論外だった。
フライスラーが単独で裁判長をつとめた1943年上半期、1730件の有罪判決が出され、そのうち804件で死刑判決、無罪判決はわずか95件のみ。
死刑があまりにも多すぎて、刑務所のなかには死刑が追いつかないほどだった。親族には決して通知されず、死刑囚の遺書は捨てられた。
人民法廷の長官として、フライスラーは、数千人も人々を死へ送り込んだ。まさしく法服をまとった殺人鬼だった。人民法廷が1942年に言い渡した1200件の死刑判決のうち、半分以上の650件がフライスラーの第一部が下したものだった。1943年の1662件の死刑判決のうち、約半数の779件がフライスラーの第一部によるもの。1944年の2100件の死刑宣告のうち第一部が下したのは866件だった。
では、何が死刑判決の根拠になったのか。本書にはその死刑判決の理由がいくつか紹介されています。気心の知れた仲間内でヒトラーに対して漠たる疑念を冗談めかして語っただけの人がいます。それが密告によって、人民法廷にひきずり出され、見せしめ的に「国家反逆罪」「防御力破壊罪」といったものものしい罪名のもとで死刑が言い渡されたのです。
つい先日、日本で成立してしまった共謀罪の恐ろしさを実感させられます。
ほかにも、他愛のないジョークでしかないもの、今からみたら的を射た洞察が、その正しさゆえに、国家の存続を脅かす危険思想の発露とみなされて、死刑を言い渡され、即日、ギロチンで処刑されていったのです。まさしく、嘘でしょ、こんな冗談で死刑になるなんて・・・、と叫びたくなります。密告者だって、まさか死刑にまでなるとは思っていなかったことでしょう…。
ナチス・ドイツの反省にアベ政権下の日本人として、大いに学ぶところがあるように思いました。日本の裁判官って本当に大丈夫なんでしょうか・・・。ゾクゾクしてきました。
(2017年4月刊。3400円+税)
 フランス語検定試験(一級)の結果通知が届きました。もちろん不合格なのですが、得点は64点で、自己採点を11点も上まわっていました。仏作文が少し評価されたのでしょう。150点満点ですから、4割をこえたところでした。合格点は87点ですから、やはり6割をとる必要があります。
 めげず、くじけず、引き続き毎日フランス語の書きとりを続けます。そして車中はフランス語の聴きとりです。

ファニア、歌いなさい

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ファニア・フェヌロン 、 出版  文芸春秋
アウシュヴィッツにあった女性だけのオーケストラで奇跡的に生き残った女性音楽家の手記です。電車のなかで読むのに夢中になっていて、危く乗り過ごしてしまうところでした。
2年間の強制収容所生活で、歌手だった著者は、身長150センチ、体重はなんと28キロだった。それでも、1945年4月に解放されたとき、歌をうたうことが出来たのです。気力のおかげでした。
著者はユダヤ人の父とカトリック教徒の母のあいだに生まれ、22歳からモンマルトルのクラブでシャンソンを歌っていた。パリ音楽院のピアノ科を優等で卒業していて、歌だけでなくオーケストラ用の編曲ができた。
女性だけのオーケストラの平均年齢は20歳そこそこ。年ごろの娘たちが集まっていた。国籍も宗教も違っていた。ユダヤ人だけでなくポーランド人もいたり、共産主義者もいて、内部では反目、いさかいは絶えなかった。
オーケストラは、朝、労働行進曲を演奏しはじめる。勇ましく、明るく、まるで楽しい一日の始まりを告げるように。しかし、その音楽を聞きながら死んでいく人たちがいた。辛い労働に駆り立てられていった。
憎しみと侮辱のまなざしが刺すほど痛い。「裏切り者」、「売女」。そして、死の選別を終えてきたばかりのナチス親衛隊員を歌と音楽で慰める。
アウシェビッツ暮らしのなかのもっとも苦しい一瞬だった。ナチスに気に入られつづけるかどうか、それがオーケストラのメンバーが生存できるカギだった。
シューマンのトロイメライを聞いて収容所の所長は涙を流した。音楽を聞くことによって、選別の苦労を忘れようとしているのだ。
分割して統治することのうまいナチは、よくユダヤ人同士を反目させた。収容者代表、棟代表、労働班長、補助事務員、給食係などの特権的ポストは、ナチスから命令されたことを全力でやりぬくユダヤ人だけに与えられた。親衛隊員からみて熱意に欠けるものは、容赦なくポストを剥奪されるか、ガス室へ送られた。
強制収容所で出産した赤ん坊と母親が無事に生きのびたことも紹介されています。
『チェロを弾く少女アニタ』(原書房)にも、この本の著者ファニアが重要なメンバーとして紹介されています。
実は、この本の著者は『強制収容所のバイオリニスト』(新日本出版社)の著者と同じオーケストラにいました。後者はポーランド人女性で、ファニアがポーランド人を侮辱していると非難しています。民族と宗教の違いは当時も今も大変な反目を生んでいるようです。これが世界の現実なのですが、お互いにそれを乗りこえていく努力をするしかありませんよね。
「私が日本人であってよかった」という日本会議系のポスターが貼り出されて、ひんしゅくを買っていますが、実は、その「日本人」女性が、実は中国人だったとのこと。日本民族の「優秀性」を誇るのも、ほどほどにしたいものです。
それはともかく、この本は批判される弱点もあるとは思いますが、読みものとしては最近の本よりは断然迫力がありました。ネットで注文して読みました。
(1981年11月刊。1300円+税)

フランスの美しい村・愛らしい町

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 上野 美千代 、 出版  米村推古書院
フランスには、「もっとも美しい村」と認定された村々があります。私も、そのうちのいくつかに行ったことがありますが、たしかに「もっとも美しい村」だと名乗っていいところだと思いました。
フランスが日本と違うところは(私がそう思うのは)、日本のように派手な広告・看板・ネオンサインがなく(少なく)、昔の外観を残して(内装は近代化しても)いることです。ですから、そこに行くと、心が本当に落ち着くのです。
そして、人々はテラス席、つまり店内よりも店の外のテーブルで飲食し、談笑し、のんびりと時を過ごしています。それは、、なぜか不思議なのですが、蚊やハエがいない(少ない)ことにもよります。日本だったら、蚊取り線香やらハエ取り紙をそこらじゅうに置いておかなければいけないのに、フランスは夜になっても外で食事をしても虫が寄ってこないのです。本当に不思議です。
そして、南フランスだと、夏に雨が降ることはなく、夜の8時まで昼間のように明るいのです。ああ、こんなことを思い出すと、またぜひフランスに行ってみたくなります・・・。
毎年のようにフランスに行っていたのですが、このところ残念なことにフランスに行っていません。それでも、フランス語のほうは日夜話せるように勉強し、努力しています。
この本の著者は英語オンリーでフランス中をまわったようですが、やはりフランスではフランス語を話せるのにこしたことはありません。私のフランス語力はたいしたことはありません(残念なことに・・・)が、それでもフランスで旅行するのには困らない程度のレベルではあるのです。なにしろ、弁護士になって以来、つまり40年以上、NHKのラジオ講座を聞き、仏検を受験しているのですから・・・。
フランスの美しい村、愛らしい町として本書に登場してくる場所のいくつかは、私も訪れたことがあります。南フランスのエクサンプロヴァンスには2回も行ってきました。初めは40代のとき、「独身」と詐称して妻子を置いて4週間も学生寮に入り、外国人向けの夏期集中講座に参加したのです。私は、これでフランスで暮らしていけるという自信がつきました。
日本にも、たくさんの美しい村や愛らしい町があります。いま私は、そんな町や村になんとかして残らず行ってみたいという「野望」に燃えています。
フランスの地方の良さがコンパクトに凝集された写真で、一見の価値があります。お値段も手頃です。著者の女性は、なんと福岡県は門司港近くでカフェを営んでいるとのこと。ぜひ、ご挨拶したいものです。
(2017年3月刊。1780円+税)

灰緑色の戦史

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版  作品社
ドイツ国防軍の実体に迫った本です。ドイツ国防軍神話が見事なまでに覆されています。
そして、ロンメル将軍が等身大で描かれているところも、私にとっては新鮮な衝撃でした。
ドイツ国防軍の神話とは、ヒトラーの無知と無謀な戦争指導が、伝統あるドイツ国防軍参謀本部の優れた作戦を台無しにしてしまったのだというもの。それは、ヒトラーの妨害さえなければ、ドイツ国防軍は戦争に勝っていたというイメージを広めている。その神話をつくったのは、戦略をめぐってヒトラーと対立し、参謀総長の職を逐(お)われたフランツ・ハルダー上級大将たちのグループ。
冷戦に直面し、ドイツ軍が豊富に有していたソ連軍との戦闘体験を活用したいというアメリカ陸軍がハルダー将軍たちの研究報告書を普及した。ハルダー史観によって、神話が定着した。しかし、冷戦の終結によって、ソ連が押収していたドイツ軍の文書が明るみに出たことによって、このハルダー史観ドイツ国防軍神話は覆されていった。たとえば、ダンケルク撤退を止められなかったのはヒトラーにのみ責任があったのではない・・・。
イギリス上空の制空権をめぐる一連の空中戦(バトル・オブ・ブリテン)において、見かけほどには、ドイツ空軍は無敵の存在ではなかった。ドイツ空軍は陸軍への支援を第一目的としてつくられた戦術空軍だった。主力のメッサーシュミットは、航続距離が短く、イギリス本土空襲にあたっては南イングランドをカバーできるだけ。戦闘機の航続距離が足りないため、爆撃隊が単独で侵攻しなければならない。この裸の爆撃隊にレーダー管制を受けたイギリス戦闘機隊が襲いかかる。したがって、ドイツ空軍の損害は甚大だった。
そして、ヒトラーが爆撃目標を空軍基地から都市に変えたことによって、民間人の被害が増大して戦意が高揚し、イギリス空軍は一息ついて、戦闘機隊を再編することができた。その結果、ますますドイツ空軍にとっての脅威が増大した。
ロンメル将軍は、貴族ではない、プロイセンのユンカー出身でもない。軍人の家庭に生まれておらず、幼年学校を出ていない。
ドイツ将校団では貴族が圧倒的に有利だった。貴族、それもユンカー、軍人の家柄で、幼年学校を出ていることが出世の条件だった。ロンメルは、この4つのどれも満たしていない。ロンメルが昇進するには、実戦で手腕を見せるしかなかった。
ヒトラーは、ロンメルを総統護衛部隊の長に任命した。しかし、ロンメルには、戦略的な能力がなかった。戦術的に有利な情勢だけに気をとられ、それが戦略的にどのような影響を支えるかを配慮できない人物だった。
ロンメル将軍の長所とされているものの多くは、下級司令官の美徳である。前線を恐れない、陣頭に立つ・・・。しかし、軍司令官が前線視察に出かけて行方不明になってしまったら、軍はどうするのか・・・。
陸上自衛隊幹部学校で講師をつとめているだけあって、大変専門的で詳しく、並みの軍事史にはない深さに感銘を受けました。
(2017年5月刊。2800円+税)

トリノの軌跡

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 脱工業化都市研究会 、 出版  藤原書店
私は、イタリアにはミラノに行ったことがあるくらいで、残念なことにローマにもポンペイにも行ったことがありません。ミラノにはスイスから特急列車に乗って行ったのですが、すべてフランス語が通用して安心でした。
トリノというと、イタリア車のフィアットの街ですよね。ところが、そのフィアットが落ち目になったあと、トリノをどう再生させるか、というのが大問題になりました。
本書はトリノ再生計画がかなりうまく進んでいることを具体的に紹介していて、日本人の私たちにも参考になります。トリノは、ミラノより西側、フランス側に近いところにあります。
トリノはイタリア北西部に位置する。晴れた日にはアルプス連峰の雄姿を眺めることができる。トリノでは、19世紀後半に、市域を南北に貫く鉄道が開発された。20世紀になると、フィアットのワン・カンパニ・タウン化が急進展し、鉄道の西側に自動車工場、その部品工場、手製鉄所などが連棟した。労働者向けの陣腐な集合住宅が立ち並び、街は灰色になった。市域は鉄道によって真っ二つに分断された。
トリノの人口は、1970年代半ばに120万人をこえたが、その後は人口減少を続け、現在は95万人。イタリア第四位の都市。
1950年代には、市内の労働者の80%以上がフィアットとその関連企業で働いていた。戦後のフィアットの急成長を支えたのは、国内移民労働者、とくにイタリア南部からの移民だった。フィアットの企業城下町だったが、巨大工場が1982年に閉鎖されると、建築家の手で商業文化複合施設にリノベーション(再生)された。
トリノでは食文化産業も注目されている。スローフードの聖地もトリノの近くにある。
トリノでは、自転車道路や遊歩道の整備といった小さなプロジェクトを結びつけて全体の改善が図られている。
2011年にトリノに居住する外国人は12.9万人。ルーマニア人が40%、モロッコ人が15%を占めている。1990年より前は南米やアフリカからの移民が多かった。しかし、今ではアルバニアやルーマニアなどの東欧からの移民が目立つ。
失業者・無業者の起業・自立を実践的に支援する取り組みがなされている。若年層や女性への支援も目立つ。
単一用途のゾーニングは、まちを単調にし、活力のない、つまらない街区にしてしまう。
市内中心部にある路上駐車場や歩道を活用(バールナイゼーション)するには、業者はその広さに相応した利用料をトリノ市に支払う。
60%の飲食店が路上駐車場・歩道をバールナイゼーションしている。
日本の都市再生にもぜひ生かしたいと思わせる具体的な提言がなされています。政権与党は共謀罪の成立を目論んだり、リニア新幹線のようなゼネコン本位の超大型プロジェクトに狂奔するばかりで、身近な町づくりのような本当に国民を守る力を育てようとしているとは、とても思えません。もっと庶民の力を育てる政治であってほしいものです。
(2017年2月刊。3300円+税)
 日曜日に仏検(一級)を受けました。いやはや難しいです。いつものことながら、知らない単語がたくさん登場してきます。動詞を名詞に変えて同旨の文章につくり直せと言われても、まるで歯が立ちません。年に2度、3時間、じっくり出来ない生徒の悲哀を味わいます。自己採点で53点(150点満)でした。
 この2週間ほど、20年に及び過去問を繰り返し復習し、NHKラジオ講座のCDを聞いて書き取り練習もしてみたのですが、いかんせん頭の劣化現象のほうが進んでいるようで、いつも単語が新鮮です(要するに忘れている)。
 まあ、それでも、フランス映画(なるべくみるようにしています)は、かなり聞きとれますし、字幕と見比べて、そういうことなのかと、一人納得したりしています。これはこれでうれしいのです。

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