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カテゴリー: ヨーロッパ

レーニン、権力と愛(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者  ヴィクター セベスチャン、 出版  白水社
 私はソ連にもロシアにも行ったことがありません。レーニンの遺体は、その意思にさからって防腐処置をほどこして、公開展示されています。この処置には実は莫大なお金を要するようです。まったくもったいないお金のムダづかいだと私は思います。レーニンの霊魂が安らかに眠れることを願います。
 下巻は、いよいよロシア革命に突入します。1916年ころ、ロシアの自殺率は3倍に増加した。主として28歳以下の若者を襲った。ロシアの特高警察オフラーナは、大衆の気分に気がついて、政府に対して繰り返し警告した。体制が懸念すべきは、もろもろの革命グループではなく、人民である。いまや怒りは、政府一般ではなく、皇帝に向けられている。
皇帝は閣僚と参謀本部の助言に逆らって、軍の指揮を自らとっていた。これは、状況が悪くなったとき、野戦司令官に責任を負わせることができず戦争遂行に対する責任を自ら負うことになる。皇帝は、街頭示威行動について聞いてはいたが、その深刻さを理解していなかった。
 1917年2月に起きた二月革命は、完全に自然発生的、怒りの発露だった。このとき、ボリシェヴィキは、ロシア国内にせいぜい3000人と弱体で、ほぼ一文なしだった。
 レーニンは封印列車でスイスからドイツ経由でロシアに戻ってきた。ペトログラードの市民はレーニンを鳴物入りで歓迎した。レーニンは興奮していて、最後の2日間は眠っていなかった。しかし、すぐさま2時間に及ぶ演説を始めた。雷鳴のような演説で、聴く人々の心を打った。
 二月革命は、突如として、ロシアにかつてなかった。そして、それに人像もない、政治的自由をもたらした。
 レーニンは、1917年に巨額の資金源を手にして楽観することができた。ボリシェヴィキの党員は3月初めに2万3千人だったのが、7月までに20万人に達していた。
 ボリシェヴィキの運勢を大きく上向かせたのは、敵の無能ぶりが大きな要因だった。
 戦争で疲弊したロシアに戦争を継続するよう最大限の圧力をかける連合諸国の政策は、レーニンにとって利益となった。
 8月には、レーニンと「売国奴ボリシェヴィキ」に対する憎悪キャンペーンが最高潮に達した。
 歴史をつくるのは個人ではなく、広範な社会的・経済的権力だとするマルクスの観念の間違いを証明するものがあるとすれば、それはレーニンの革命である。レーニンは、策略と道理、怒鳴り声、威嚇、そして静かな説得をない交ぜにして使った。
 レーニンが3ヶ月のあいだ潜伏していたとき、党員になったばかりのトロツキーがボリシェヴィキの表の顔となった。トロツキーは、ロシア国内ではレーニンより、はるかに知名度が高く、はなばなしく脚光をあびていた。レーニンにはオフィスがいるが、トロツキーには舞台がいると言われていた。
レーニンは、トロツキーに大いに頼った。この二人は個人的には決して近くなかったが、両者のあいだに政治的な違いほとんどないことを、二人とも認めていた。
レーニンは、暴力の快楽を味わうことはしなかった。レーニンは他の多くの独裁者が好む軍服ないし、それに準ずるものを身につけることはなかった。
レーニンは、ろくに食事をとらず、健康にあまり気をつけていなかった。会議は午後5時に始まり、ほとんど休憩なしに6時間から7時間かけて降りてきた。
レーニンは、1918年7月に皇帝一家の殺害を副官だったスヴェルドロフに対して口頭で命じた。レーニンは王殺しに罪悪感はなかった。ロシア国内の世論を気にする必要もなかったことになる。
殺害される前、ロマノフ一家は、何人かの廷臣、6人の侍女、2人の従女、3人の料理人とともに元知事公邸で快適に暮らしていた。当時、ロシア皇帝はあまりに不人気だった。1918年に、レーニンの車は1日に3度も撃たれた。
レーニンの遺体をこれまで見たのは少なくとも2000万人。苦しいなかで、ロシア革命は社会主義を目ざすことになった。その結果をまったく全否定していいとも思われないのですが・・・。
(2017年12月刊。3800円+税)

ナチスの「手口」と緊急事態条項

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 長谷部 恭男、 石田 勇治 、 出版  集英社新書
自民党の憲法改正案のなかに緊急事態条項が入っています。災害等の非常事態のときには、国民の基本的人権の保護を停止して、国家権力が好き勝手に国民を統制できるようにしようというものです。
これは、ナチス・ヒットラーが国民を統制する手法でした。麻生大臣がヒトラーの手口の学べといったのには根拠があるのです。では、この緊急事態条項を導入すると、どんな危険が国民にふりかかってくるのか、それをドイツの例をひいて説明しています。
まずもって、コトバの魔術(マジック)に惑わされてはいけません。「基本的人権に関する憲法上の規定は、最大限に尊重されなければならない」と書いてあると、それは、「場合によっては、基本的人権が制限されることになる」ということなのです。つまり、「最大限に」というのは、「できる限り」、つまり「できないときもある」ということです。
ヒトラーのナチス政権は、スタートしたときの議席は国会の3分の1でしかなかった。連立与党をあわせても4割を少しこえた程度だった。1930年9月の選挙で、ナチ党は18.3%、共産党は13.1%の票を獲得した。そして、1932年7月の選挙で、ナチ党は37.3%と倍増した。ただし、共産党も14.3%へと伸ばした。ところが、1932年11月の選挙では、ナチ党は33.1%へと後退した。これに対して、共産党は16.8%へ躍進した。
ヒトラーが首相に任命されたのは、1933年1月30日。首相になったヒトラーには3つの道具があった。ひとつは大統領緊急令。ふたつ目は突撃隊と親衛隊。三つ目は大衆宣伝組織。
2月にヒトラー政府は、大統領緊急令をつかって言論統制をはじめる。2月末の国会会議事業炎上事件をきっかけとして、大統領緊急令を出した。これによって、共産党の国会議員をはじめとする急進左翼運動の指導者たちが一網打尽にされた。このときの放火はヒトラーの下にある突撃隊の一派がひきおこしたものだということが明らかになっている。
ヒトラーは、授権法を制定した。これは、憲法の変更をふくむ立法権を政府に与えるというもの。とんでもない法律です。これで国会はなくなったわけです。ヒトラーが首相になって授権法が制定されるまでの、わずか50日間、ナチ党以外一切の政党を禁じてナチ党独裁ができるまで半年。ヒトラーが「総統」になるまで1年半。あっというまに独裁体制ができ上がった。
内外の不安をあおって、強いリーダーに権限を集中させ、政府の権限を驚異的なまでに拡大させたのが、まさにナチ・ドイツだ。
アベ首相のような人物が独裁的権限を思う存分ふるえるようになったら、まさに日本は一挙に戦前のような暗黒社会に転落してしまうでしょう。
そうならないためにも、憲法「改正」論議の行方をしっかり見守っていきたいものです。
(2017年8月刊。760円+税)

5時に帰るドイツ人、5時から頑張る日本人

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 熊谷 徹 、 出版  SB新書
ドイツでは、1日に10時間をこえて働くことが法律で禁止されている。また、ドイツは、日曜・祝日の労働も法律で禁止している。
有給休暇は法律で最低24日としているが、実際には年30日の有給休暇を認める企業がほとんど。そして、有給休暇の100%消化は当然のことで、2~3週間のまとまった長期休暇もあたりまえにとっている。
電通の社員(高橋まつりさん)の過労自殺など、ドイツでは考えられもしないこと。
こんなに休んでいるドイツなのに、経済成長率は、2013年以降、右肩上がりになっている。そのうえ失業率がEUのなかで一番低い。
日本の残業規制は1年あるいは1ヶ月を単位としているので、ドイツに比べると、はるかに甘い。
日本政府の「働き方改革」は、ジェスチャーにすぎず、実際には、労働者のためではなく、使用者(資本)の利益優先、つまり「働かせ方改革」でしかない。
ドイツでは、病気やケガのために有給休暇を消化するなんて、ありえない。
ドイツは、日本とちがって労働組合は依然として強力な存在であり、徐々にストライキが増えている。
これに対して、日本はストライキが世界でもっとも少ない国になっている。1974年にストライキが9000件をこえていたのに、2011年にはわずか57件でしかない。今では、まったくの死語になってしまっている。
余裕があってこそ良質な仕事ができる。
日本人は勤勉だとよく言われますが、上からの命令で大人しく従っているだけでは、創意工夫もなく、過労死につながり、やがては企業社会自体が消滅してしまうこと必至です。
日本人に大いに反省を迫る本でした。ご一読をおすすめします。
(2017年10月刊。800円+税)

収容所のプルースト

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ジョセフ・チャプスキ 、 出版  共和国
第二次世界大戦のなかで、ポーランド軍の高級将校がごっそり行方不明となってしまいました。カチンの森虐殺事件です。ソ連はヒトラー・ナチス軍が犯人だと名指ししました。ヒトラーは逆にソ連軍こそ犯人だと反論し、欧米が静観したこともあって容易に決着がつきませんでした。今では、スターリンの指示によるポーランド知識層の抹殺を企図した大虐殺事件だったことが判明しています。スターリンはソ連国内で、大粛清をすすめましたが、ポーランドを思うままに支配するために、とんでもない虐殺を敢行したのです。悪虐な独裁者だというほかありません。
この本はカチンの森虐待事件の被害者になる寸前に助かったポーランド人の高級将校が、収容所内でプルーストの「失われた日を求めて」を講義していた事実を再現しています。実は、私もプルーストの「失われた日を求めて」に挑戦し、挫折してしまった者の一人です。なにしろ長文の小説です。「チボ―家の人々」はなんとか読破しましたが、「失われた日を求めて」は、読みはじめてまもなく投げだしてしまいました。
なぜ、明日をも知れぬ身に置かれながら、プルーストの小説についての講義を収容所内で受けていたのか・・・。それは、人間とは、いかなる存在なのか・・・という重要命題そのものなのです。
ハリコフに近い町の15ヘクタールほどの土地に4000人ものポーランド人将校が押し込められ、1939年10月から1940年春までを過ごした。精神の衰弱と絶望を乗りこえ、何もしないで頭脳がさびつくのを防ぐため、ポーランド人将校たちは知的作業に取りかかった。軍事、政治、文学について講義をし、語りあった。結局、この4000人のうち800人ほどしか生き残っていない。それでも人々は零下45度にまで達する寒さのなかで、労働のあと、疲れきった顔をしながら、自分たちの置かれた現実とはあまりにもかけ離れたテーマについて耳を傾けた。
プルーストは、出来事に対して、遅れて、そして複雑に反応する。
プルーストは、何らかに印象に触れた瞬間の感激をすぐに吐き出すのではなく、印象を深め、正確に見極め、その根源にまで至ることで、それを意識化することこそ、自分の義務だと考えていた。
匂いのしみついたマドレーヌとともに、この紅茶のカップから浮かび上がってきたのは、無意識的な喚起だった。マドレーヌの匂いによって喚起された記憶が立ち上がり、深まり、しだいにプルーストの生家やゴシック様式での古い教会や少年時代の田園風景のかたちをとり、年老いた伯母たちや料理人や家の常連といった、母や祖母が愛した人たちの顔が浮かび上がってくる。主人公は、自分の人生に関わった多くの知人・友人たちが、時の作用によって変貌し、老い、膨れあがり、あるいは、かさかさに乾いてしまったのを目撃した。
プルーストとは、顕微鏡で見た自然主義である。
スワンの魅力の本質は、このうえない自然さと、一貫して優しいエゴイズムにある。金も人脈も、それ自体が自然なのではなく、自分がいちばん自分らしくいられる場所へと導くための手段でしかない。
プルーストの作品には、いかなる絶対の探究もなく、あの長大な数千ページのなかに「神」という言葉は一度も出てこない。
収容所の講義に使われたノート、あるいは、講義を受けた人の書いたノートがカラーコピーで紹介されています。すごいものです。
人間が人間たる所以(ゆえん)は、こうやって死の迫る状況下でも、頭のなかは自由に物事の本質を深く交めたいという思い(衝動)なのだ。このことがよく分かる本でした。
精神的活動がなければ、日々はただ生存の連結にすぎなくなってしまう。精神の活動こそが、今日を昨日と区別し、わたしを他者と区別する。つまり、人間を人間たらしめてくれる。多くの収容者が必至で日記をつけようとするのも、このためである。読書の機会は、他にかけがえのないものとなる。
人間とは何かを改めてじっくりと考えさせてくれる、まれに見る良書でした。
(2018年1月刊。2500円+税)

アレクサンドロス大王・東征路の謎を解く

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 森谷 公俊 、 出版  河出書房新社
アレクサンダー大王(この本では、アレクサンドロス)は、紀元前331年12月下旬にペルシア帝国の都スーサを出発し、前330年1月末にペルセポリスに到着した。
ペルセポリスに到着するまでに、山岳部族のウクシオイ人と戦って制圧し、ペルシア門と呼ばれる隘路(あいろ)でペルシア軍のアリオバルザネスの軍隊を破り、ペルセポリスを占領した。
この本は、アレクサンドロスの部隊が実際にどのコースをたどって進軍していったのか、現地に行って確認したところに大変な意義があります。ある意味では、命がけの実地調査でした。その大変さが旅行記として語られていますので、よく分かります。
ワイン好きの著者が、アルコールだめの国で調査するのですから、辛いところです。
それにしても従来の通説が現地の状況・地勢と合致しないことを現場に立って明らかにするなんて、たいしたものです。執念の勝利でした。
アレクサンドロスの率いるマケドニア軍は、イッソスの合戦でダレイオスⅢ世のペルシア軍を大敗させ、ダレイオスの財宝3000タラントンを得たほか、戦後に取り残されたダレイオスの母・妻・三人の子どもたちを捕虜とした。この戦利品によってアレクサンドロスは財政難を脱することができた。
私は、この本を読んで、アレクサンドロスの軍隊にも大きな矛盾をかかえていたことを知りました。大王は偉大な独裁者ではあっても、部下の将兵の思惑を無視することは出来なかったのです。その部下の思惑とは・・・。
それは兵士の略奪欲。古代の戦争において、略奪は勝利者の権利であり、兵士にとっては致富の手段であった。略奪こそ、一般の兵士が戦争に参加する大きな動機だった。ところが、東方遠征において、ペルセポリス占領まで大王略奪を許してこなかった。遠征の大義名分が、「ペルシア支配からのギリシ都市の解放」である以上、ギリシア諸都市は略奪の対象にはなり得ない。
バビロンでの34日間の滞在中、マケドニア人将兵は歓喜にふけって遠征の疲れを癒した。それでも、兵士のあいだには、略奪への欲求がかつてなく高まっており、それは抑えがたいことろにまで膨らんでいた。
アレクサンドロスと部下の将兵たちとの間には、ときに緊張関係があった。略奪を抑えるという大王の政策が将兵の欲求不満を高め、彼らの欲望に突き動かされる形で大王は次の行軍に乗り出さざるをえない。
アレクサンドロスは、インダスリを渡って東へ進み、ヒュファレス(ペアス)川に達した。この先にはガンジス川と豊かな国土があることを知り、アレクサンドロスの心は、はやり立った。ところが部下の将兵たちは、これ以上の前進を拒否した。大王は怒ったが、帰国を決意せざるをえなかった。アレクサンドロスにとって初めての挫折だった。自己の名誉を回復するための一つの方策が、自分に逆らった兵士たちへの報復としての砂漠の横断だった。
なるほど、そういうこともあるのですね。独裁者であっても、いつでも何でも好き勝手できるものではないのですね・・・。
もう一つ、アレクサンドロスは必死になってダレイオスを生きたまま捕まえようとしました。なぜか・・・・。アレクサンドロスは、ダレイオスを従属させたうえで、ペルシアの王位を保証し、自分はその上に君臨してペルシアとアジア人を支配するつもりだった。つまり、アレクサンドロスは「諸王の王」になろうとしたのだ。そのためにはダレイオスの身柄しておく必要があった。
なるほど、なるほど、これもよく分かりました。
何年もかけての現地調査が成功して、その成果として居ながらにしてアレクサンドロス大王の進路をたどった思いに浸ることができました。ありがとうございました。引き続きのご活躍を期待します。
(2017年11月刊。3500円+税)

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