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カテゴリー: ヨーロッパ

ヒトラーとドラッグ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ノーマン・オーラ― 、 出版  白水社
ヒトラーという人間をとことん暴き出した画期的な労作です。アメリカのエルヴィス・プレスリーもフランスのエディット・ピアフも、そして日本の美空ひばりも、いずれも残念なことに晩年は薬におぼれて、病気で若死にしました。有名人であり続けることのプレッシャーから逃げたかったのでしょうね。ヒトラーも似たようなものです。
ヒトラーの最後のころの様子が次のように描写されています。
震えがひどくなり、急速に身体の衰えが目立った。高齢者のように背を曲げて涎(よだれ)を垂らしていた。上体を前に投げ出し、両脚を後ろに引きずり、身体を右に傾けたまま、冷たい壁にもたれかかり、居室から会議室への廊下をのろのろ歩いていく。薬物なしでは抜け殻同然で、その抜け殻の制服には米粥のしみがついていた。
ヒトラーは叫び、喚(わめ)き、荒れ狂い、怒りまくった。誰もがヒトラーの変わり果てた姿に不快感を禁じえなかった。ヒトラーの歯はエナメル質が溶け、口腔粘膜は乾き、ボロボロになった歯が何本も抜け落ちていた。
昔からの妄年がヒトラーの頭の中で堂々めぐりを繰り返した。被害妄想と赤い膿疱、ユダヤ人、ボリシェヴィキに対する病的不安である。恐ろしい頭痛も始まった。ヒトラーは黄金製のピンセットで自分の黄ばんだ皮膚をつっつき始めた。攻撃的で神経質な手の動きだった。
ヒトラーは、繰り返し何度も注射を受けていたときに細菌どもが自分の皮膚から体内システムに潜入し、いま内部から自分を破壊しようとしていると思い込んでいて、その細菌たちをピンセットでつまみ出そうとしているのだった。
ヒトラーはつらい離脱症状に見舞われ、苦しそうな息をしていて、見るも哀れな様子だった。頭のてっぺんから足の爪先まで不安におののき、口をパクパクさせて空気を吞み込もうとしていた。体重は減り、腎臓も循環系も、ほとんど機能していなかった。左まぶたは腫れあがり、もう手元しか見えなかった。ヒトラーは、絶えず左眼のあたりを押さえたり、擦ったりしていた。
歯がボロボロなので、甘いケーキをかまずに呑み込む。それで大量の空気がいっしょに腸に取り込まれ、臭気を発するガスになる。
ヒトラーは、1945年4月30日、自殺した。有毒な混合薬の過剰摂取によって破滅したのだ。
この本は、そんなヒトラーの主治医として求められるまま「有毒な混合薬」をヒトラーに投与していた医師テオ・モレルを中心に描いています。
驚くべきことに、ヒトラーが政権を握る前のドイツは、世界に冠たる薬物先進国だったというのです。コカインの世界市場の80%はドイツの製薬会社がつくっていましたし、モルヒネとヘロインの製造・販売もドイツは世界のトップでした。そして、これらの薬物が処方箋なしで入手でき、社会のあらゆる層に浸透していました。ベルリンの医師の4割がモルヒネ中毒だったとのこと。
ナチ・ドイツ軍の兵士たちはべルビチンを服用して戦上に赴いた。べルビチンはメタンフェタミン塩酸塩を成分とする覚せい剤です。日本人の長井長義がつくり出し、結晶化に成功したのも日本人の緒方章でした。そして、ドイツのハウシルトがべルビチンとして開発し、一種の万能薬としてドイツの家庭に常備されていました。
べルビチンは、国民一人一人が独裁制のなかで機能することを可能ならしめた。それは錠剤の形をしたナチズムだった。
兵士たちは、1日に2錠から5錠のべルビチン錠を服用させられていた。兵士たちは興奮状態となり、眠る必要がなく、ひたすら前進する。ドイツ軍による電撃戦はフランス軍をたちまち圧倒してしまった。
ダンケルクでヒトラー・ドイツ軍が空如として前進を停止し、イギリス軍が本土に帰還できたのは、このままドイツ軍が全面的勝利を手にしたとき、その指揮をとった将軍がいずれヒトラーを上まわる世間の評価を得て、ヒトラーに挑戦してきたら、自分(ヒトラー)が戦争を指揮していることをドイツ国民が忘れ、その将軍が戦争全体に対する指揮者として、ライバルとして登場してくることをヒトラーは恐れた。この解釈を読んで、私は思わず、「なるほど!」と心のなかで叫んでしまいました。
300頁もある本ですが、一気読みもできる内容ですので、ヒトラーとは何者なのかを知りたい人には強く一読をおすすめします。
(2018年10月刊。3800円+税)

ローズ・アンダーファイア

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 エリザベス・ウェイン 、 出版  創元推理文庫
イギリス空軍(補助航空部隊)に所属するアメリカ人女性飛行士がドイツの上空を飛んでいると、ドイツ空軍機に見つかり、強制着陸を余儀なくされるところから話は始まります。そして、強制収容所に収容されるのです。
収容所のなかの生活、日々の殺人マシーンに慣らされていく様子が描かれます。そして、ついに収容所から再び飛行機に乗って航走するのです。
先日、天神で『ヒトラーと戦った28日間』というロシア映画をみました。ナチスの強制収容所の一つ、ソビヴル収容所からの集団脱走に成功したというすさまじい映画です。実話をもとに状況を再現していましたが、ナチスの大量殺人、非人道的な虐待行為もよく描けていました。やはり、脱走に成功する話という、少しは救いのある話がいいのですよね。
あとがきを読むと、小説ではありますが、本書も実際にラーフェンスブリュック収容所からの脱走に成功し生還した人々への取材にもとづいていることが分かります。
この収容所で人体実験に供されたポーランドじん女性74人全員の名前が「数え唄」として紹介されています。
収容所では、主としてフランス語、ドイツ語、ポーランド語が話されていました。
大勢の罪なき人々が共生収容所で即時に、また徐々に殺されていった事実がありますが、これを直視するためにも、例外的に生還できた人々の話をもとにした小説を読んでその苦しみを想像するのもいいこと、必要なことなのではないでしょうか・・・。
(2018年8月刊。1360円+税)

ナポレオン

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 杉本 淑彦 、 出版  岩波新書
ナポレオンが皇帝になったあと、なぜ次々に周囲の国々へ戦争を仕掛けていったのか、この本を読んで初めて理解できました。
国内体制を固めたナポレオンは、対外戦争にのめりこんでいった。海ではイギリス上陸作戦が計画され、英仏海峡にのぞむブーローニュに一大軍事基地が建設された。陸では、総勢50万人に及ぶ大陸軍の編成が企画された。徴兵制度が整備・拡大され兵員適齢男性の30%が軍務に就いた。
ナポレオンを戦争に駆り立した動機の一つは、軍備増強に起因する財政負担の重荷だった。戦争に勝てば、占領地に巨額の賠償金や税金を課すことができる。戦争への備えが、戦争をもたらした。
ナポレオンがロシアへ侵攻していったのは、ロシアに占領地を得て、賠償金をもぎとることが大きな目的だった。しかし、その目論見ははずれ、冬将軍の下で退却するナポレオン軍をロシア軍が追撃してきた。ついに、ナポレオン軍がロシア領から無事に帰還できたのは、1割の3万人にみたなかった。
ナポレオンのアフリカ遠征は、結果としては失敗、敗退したにもかかわらず、当時の新聞等への報告をうまく操作して、フランス軍が連勝していたかのような幻想をフランス本国に与え続けていた。その意味で、ナポレオンのマスコミ操作術は見事としか言いようがない。
その結果、フランス国民はあたかも救世主かのようにナポレオンを熱狂的に迎え入れた。
ナポレオンがセント・ヘレナ島で死んだのは享年51歳のとき。その死因は、胃がんが現在では最有力。
ナポレオンについて、改めて深く認識することができました。
(2018年2月刊。840円+税)

死に山

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ドニー・アイカー 、 出版  河出書房新社
今から50年以上も前、ロシアの冬山で大学生のグループが遭難し、9人全員が死亡しました。全員が長距離スキーや登山の経験がある大学生とOBたちですし、冬山の装備も当時としては十分でした。
ところが、9人の遺体はテントから1キロ半ほど離れた場所で見つかった。それぞれ別の場所で、氷点下の季節だというのに、ろくに服も着ておらず、全員が靴を履いていなかった。
9人のうち6人は低体温症が死因で、残る3人は頭蓋骨骨折などの重い外傷で亡くなった。女性の1人の遺体には、舌がなかった。さらに、一部の衣服から異常な濃度の放射能が検出された。
いったいなぜ、9人もの若者が、このような異常な状況で死ななければならなかったのか・・・。
アメリカのドキュメンタリー映画作家が50年も前の遭難事故の謎を解くため、現地に出かけるのです。スターリンが死んで、ソ連に少し雪どけが始まっていて、大学生たちは野外活動に熱をあげていた時代に起きた事件です。
大学生たちはカメラをもって、ずっと冬山登山の状況を記録していましたし、そのカメラは回収されていますので、大学生たちのはしゃいでいる様子も写真で紹介されています。
現地の人に襲われたとか、雪崩にあったとか、いろんな説があったようですが、ついに真相が明らかになります。
ネタバレをするのは本意ではありませんが、推理小説ではないので、お許しください。要するに、山の恐ろしさを知り、また、お伝えしたいということです。詳しくは、ぜひ、この本を手にとって、お読みください。結末を知っても、それに至る過程は読みごたえがあります。
要するに、山で発生したカルマン渦列と、それにともなう超低周波音が原因なのです。
強風が丸みを帯びた大きな障害物にぶつかったときに危険な竜巻が発生する。それがカルマン渦列で、そのなかの渦が超低周波音を生み出す。
みんなでテントに入っていると、風音が強くなってくるのに気がつく。そのうち、南のほうから地面の振動が伝わってくる。風の咆哮が西から東にテントを通り抜けていくように聞こえる。地面の振動が伝わり、テントも振動しはじめる。
今度は北から、貨物列車のような轟音が通り抜けていく。より強力な渦が近づいてくるにつれて、その轟音はどんどん恐ろしい音に変わり、と同時に超低周波音が発生するため、自分の胸腔も振動しはじめる。超低周波音の影響で、パニックや恐怖、呼吸困難を感じるようになる。生命体の共振周波数の波が生成されるからだ・・・。
9人は、これ以上ないほど最悪の場所にテントを張ってしまった。本当に耐えがたい恐ろしい状況に置かれた。超低周波音の影響により一時的に理性的な思考能力が奪われ、原始的な逃避反応という本能に支配された。いまはただ、この強烈な不快感を止めたい、逃げだしたい、それだけだった。テントから脱出せずにはいられなかった。どんな犠牲を払ってでも逃げろ、逃げろ、逃げろ、いまはそれしか考えられない。
ろくに服を着ておらず、足には靴下を履いているだけ。わが身に取りついた苦痛から逃れたい一心でテントから脱出したが、外の気温はマイナス30度。そこには別の苦痛が待っていた。
冬の竜巻は、時速60キロの速さで横を駆け抜けていく。周囲は漆黒の闇。テントに戻ることもかなわない。低体温症で身体が思うように動かなくなる・・・。
冬山の恐ろしさを明らかにした貴重な本でもあると思いました。
朝から読みはじめると、次の展開が知りたくて片時も目が離せず、午後、ようやく恐ろしい結末を知り、大自然の驚異を実感しました。9人の大学生たちの冥福を祈るばかりです。冬山に登る趣味がなくても、大自然の驚異を実感させる本として一読の価値があります。
(2018年11月刊。2350円+税)

スペイン内戦(1936~39)と現在

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 川成 洋 ・ 渡辺 雅哉 ほか 、 出版  ぱる出版
スペイン内戦というと、スターリンの責任は重大だと思います。当時、スターリンはソ連国内で大量の粛清をすすめていましたが、スペインでも自分の都合のよいほうに引きまわしたのです。その手先になって踊らされた人々もソ連に戻ったら次々に粛清されていったのでした。
スペイン内戦では、アメリカから渡った日系人(ジャック白井)の活躍も忘れることは出来ません。この本では、ほかにもアナーキストの日本人が2人スペインに渡ったという説も紹介されていますが、当時の日本ではありえないと否定されています。
 スペイン内戦について、さまざまな角度から、大勢の人が語り、分析し、紹介している大作です。なにしろ783頁もあるのですから、一度では読み切れず、日曜日ごとに読んで1ヶ月以上も読了するのにかかってしまいました。
国際旅団の活躍も詳しく紹介されています。
国際旅団の義勇兵は世界各地から、50ヶ国から、続々とスペインに入国し、共和国の戦列で戦った。その合計は4万人。このほか、教育・医療・プロパガンダなどに従事する非戦闘員2万人がいた。彼らは、1938年11月の国際旅団の解散まで、激烈な戦場で戦った。
それから、80年がたっているのですね・・・。この本はスペイン内戦の勃発(1938年)から80周年を記念して出版されました。
ピカソの絵「ゲルニカ」で有名なゲルニカはバスク地方にあります。
1937年4月26日午後4時半ころから3時間、ドイツのコンドル兵団を中心にイタリア軍の飛行機も参加し、人口7000人のバスクの町ゲルニカが爆撃された。爆弾と焼夷弾が投下され、中心街の300家屋の建物の71%が破壊された。
この爆撃はドイツ空軍を試す機会だったと、ヘルマン・ゲンリングはニュールンベルグ法廷で証言した。
スペインの内戦に勝利したフランコ独裁政権は、スペイン国民をサッカーと闘牛に熱狂させ、政治に目をさせない、できる限り教育を受けさせず、政府批判の能力を持たせない、そして、外国人観光客による収入に満足し、どこの地方でも「スペイン料理」としてパエリヤをつくることを受け入れさせることにした・・・。
フランコ独裁政権は、戦後の配給制度によって与えられていた。
スペイン内戦において、早い段階からフランコ軍を支援し続けたのは、ヒトラーのナチス・ドイツとムッソリーニのファシスト・イタリアだった。国際旅団のなかでは指導権を握ろうとするソ連への反発も強く、一枚岩ではなかった。ジョージ・オーウェルも国際旅団の民兵組織には加わっていない。
2007年12月、スペイン歴史記憶法が成立した。これはスペイン内戦やフランコ独裁体制時に、政治的・思想的な理由により迫害された人々に対して、その刑罰・人権侵害の不当性を宣言し、名誉回復する権利を承認した。
こんな法律までつくったのですね、えらいですよね。
ジャック白井は1900年ごろ北海道の函館に生まれ、1929年にアメリカ・ニューヨークにたどり着いた。それまでは外国航路の船員(おそらくコック)だった。そして、最前線で銃をもって戦っていたが、1937年7月11日、敵の機関銃弾によって戦死した。
ジャック白井への追悼詩は、次のように書いている(ほんの一部です)。
同志白井は斃れた
彼を知らない者がいただろうか
あのおかしなべらんめい英語
あの微笑の瞳
あの勇敢な心
エイブラハム・リンカン大隊の戦友は彼を兄弟のように愛していた。
函館生まれのジャック白井
日本の大地の息子
故郷で食うことができず
アメリカに渡り
サンフランシスコでコックとなった
彼の腕は町の食通の連中の舌を満足させた・・・
(2018年6月刊。5800円+税)

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