法律相談センター検索 弁護士検索
カテゴリー: ヨーロッパ

私を最後にするために

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ナディア・ムラド 、 出版  東洋館出版社
読みすすめるのが辛い本です。よくぞ勇気をもって真実を告発したものです。心より敬意を表します。著者は2018年のノーベル平和賞を受賞した女性です。
イラク北部に住んでいたヤズィディ教徒たちがISIS(イスラム国)に襲われました。著者はISISによって連れ去られ、フェイスブック上に開設された市場で、ときにわずか20ドルで性奴隷として売買された数千人のヤズィディ教徒女性の一人だった。その母親は、他の80人の高齢女性たちとともに処刑され、目印ひとつない墓穴に埋められた。また、兄たちは、数百人の男性とともに一日のうちに殺された。
ISISのパンフレットは次のように書いている。
Q,女の人質を売ることは許されるか?
A,女の人質と奴隷は、単なる所有物であるから、売る、買う、または贈り物にすることも許される。
Q,思春期に達していない女の奴隷との性交は許されることか?
A,相手は性交に適しているなら、思春期に達していない女の奴隷と性交渉をもつことは許される。
信じがたい問いと答えです。これが宗教の名でなされているのですから、その宗教とは一体なんなのか、疑わざるをえません。ヒトラー・ナチスがユダヤ人を人間と扱わなかったのとまったく同じです。
ISISは、略奪してきたヤズィディ教徒の女性をサビーヤと呼び、性奴隷として売買した。
ヤズィディ教徒の女性は不信心者であり、その戦闘員によるコーランの解釈によると、奴隷をレイプするのは罪ではないとされる。
新たな戦闘員を勧誘し、忠誠と適切な職務遂行のほうびとしてサビーヤが手渡される。
ISISが著者を連れ去り、奴隷にし、レイプし、虐待し、そして一日のうちに家族7人を殺したとき、著者を黙らせることができると考えたことだろう。しかし、著者は沈黙しなかった。孤児、性暴力の被害者、奴隷、難民、このように呼ばれることに抵抗し続けた。そして、新しい呼ばれ方を自ら示した。生還者(サバイバー)、ヤズディ教徒たちのリーダー、女性の権利擁護者、そしてノーベル平和賞受賞者、国連親善大使。
ヤズィディ教は、古代からある一神教。物語を託された聖人によって、口承で伝えられてきた宗教だ。
ヤズィディ教徒は世界中に100万人ほどしかいない。
ヤズィディ教徒に対する攻撃は「ファルマン」と呼ぶ。オスマン帝国の言葉で、ジェノサイトと同義。
ヤズィディ教徒は異教徒とは結婚しないし、異教徒がヤズィディ教に改宗することも認めていない。信徒を増やすためには、大家族をたもつのが一番確実。そして、子どもの人数が多いと、農作業の人手に困らない。
ヤズィディ教徒では、神は人間をつくる前に7つの聖なる存在、天使を神の化身として想像した。その一つがクジャク天使。イスラム教徒は、クジャク天使の話を聞いて、悪魔崇拝者と呼ぶ。
ヤズィディ教徒は12月には、贖罪のため3日間の断食をする。
ヤズィディ教徒は、1日3回お祈りをする。
ヤズィディ教徒では、あの世とは、要求の多いところで、死者は、この世の人と同じく苦しみを味わうことがある、とされる。
ヤズィディ教徒の聖職者たちは声明を出した。元サビーヤは、コミュニティに戻ることを歓迎され、その身に起こったことで批判されることはない。改宗は無理やりされたことなので、ムスリムとはみなされない。レイプされたのだから、被害者であり、汚れた女ではない。
サビーヤにされた女性たちを、両手を広げてあたたかくコミュニティに迎え入れるべきだ。この声明に接して、少しだけ心が落ちつきますが、しかし、なかなか容易なことではありませんよね・・・。
人には語らねばいけないときがある。そう思わせる、ぐぐっと重たい本でした。まっ黒な背景に寂しい目でまっすぐに前を見つめている著者の顔に意思の強さを感じまる。
あまりの重たさに、ためらいつつも広く読まれるべき本だと確信します。
(2018年11月刊。1800円+税)

あちらこちら文学散歩

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 井本 元義 、 出版  同人誌『海』抜刷
アルチュール・ランボーの足跡をたどった詩人による探訪記であり、随想集です。
19世紀末のフランスで活躍したランボーは、若き詩人として数々の傑作を発表したあと、突如として文壇から姿を消し、アフリカでは武器商人として行動します。そして、37歳で亡くなるのでした。
著者はランボ―に関する本を数十冊読み、フランスでランボーの生まれ育ち、活動した地を訪ね歩きました。ロッシュ村にあるランボーの墓石は何度も撫でたということです。
なぜ、ランボーは詩を書くのを止めたのか。書くことに何の意味も感じなくなったのか。書けなくなったのか。絶望したのか、それともふてぶてしく生きていたのか・・・。
パリのムフタール通りには、「バー・バトーイーヴル」がある。「酔いどれ小船」と訳される詩はランボーの最高傑作の一つ。このとき、ランボーは、まだ16歳だった。
著者は、会社経営を引退すると、年に3ヶ月ずつ、3年間をパンテオンの近くのアパルトマンに居を構えてパリをさまよい歩いたといいます。すばらしいことです。とても真似できません。
ランボーは、ヴェルレーヌと同世代、そして二人ともパリ・コンミューニのころに生きていました。
ランボーは彗星のように出現し、スキャンダルとともに消え去り、その後は居場所も分からない謎の詩人として名声を博しました。もちろん、本人はそんなことは知りません。
フランスを去ってアフリカで武器商人としてもうけようとしてランボーは失敗してしまいます。
著者は私のフランス語仲間です。2015年にはフランス政府観光局主催の「フランス語で俳句」というコンクールに応募して優勝し、フランス旅行に招待されました。すごいです。
著者のあくなき探究心と文筆活動に大いに刺激を受けています。
(2019年1月刊。非売品)

わたしの町は戦場になった

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ミリアム・ラウィック 、 出版  東京創元社
シリア内戦下を生きた少女の4年間。これがサブタイトルです。オビには、「一人の少女が内戦下の日々を曇りなき目でつづった21世紀版『アンネの日記』」とあります。
少女はシリアのアレッポに生まれ育ち、今もアレッポで両親と妹とともに暮らしているアルメニア系のクリスチャンです。今は15歳になっていますが、この日記では7歳から13歳までの6年間の生活が紹介されています。
戦争が身近にあり、死と隣あわせの生活を過ごしたため、ものすごいスピードで成長した。
銃や大砲の音を聞き分けられるし、爆弾の種類も知っている。避難するタイミングと方法も身についている。なにより、死がどんなものであるかを知っている。大切な人を失った悲しみ、死ぬかもしれないという恐怖、そういったものを経験した。
戦争という泥沼にはまっていた。子どもからすると、チンプンカンプンの、ろくでもない戦争。なんでそんなことになってしまうのか、まるで理解できない。
戦争とは、恐怖、悲しみ、不安以外の何ものでもない。もう二度と戻ることない以前の生活に思いをめぐらせること。それが戦争だ。
ミリアムの日記は、2011年6月、7歳のときから始まる。そして最後は2017年3月。13歳だ。
戦争になる前のアレッポで豊かな色やにおいや味があふれている、天国みたいなところで暮らしていた。アレッポの太陽を浴びて日焼けしていた。夏には、街歩きの最後に、広場のユーカリの木の下で、ピスタチオをトッピングしたアイスクリームを食べるのがおきまりだった。
自宅を出て、避難することになった。みんなにまじって、私たちの家族も歩きだした。まわりの人を見ていると、思わず『ひつじのショーン』に登場するヒツジたちが頭に浮かんだ。だれもが無口になっていた。話をしている人は一人もいなかった。
4歳のときから、ずっとフランス語を習っている。でも、フランスがシリアに戦争をしかけようとしているなんて聞いたら、もうフランス語の授業を受ける気にはならない。
戦争のさなかにも学校があり、少女は皆勤賞をもらうのです。
2014年9月1日。きょうから学校が始まる。5年生になった。私たち姉妹は、一度も授業を欠席したことがない。それがパパとママの自慢だ。
学校の中庭で小さな女の子が一人で遊んでいる。5歳のイバちゃんだ。イバちゃんは、ときどき、ふと遊ぶのをやめ、声をはりあげて「アスマ、おいで、アスマ。一緒に遊ぼう」と言う。アスマはイバちゃんの妹。イバちゃんの目の前で殺された。イバちゃんは、妹が死んでいることが分からなくて、ずっとそばにいて話しかけていた。そのときから、イバちゃんの目には、いつも妹が見えているらしい。
シリアの内戦は、日本では報道されなくなってしまいました。アサド政権がひどいという話もありましたが、反政府軍との武力衝突が早くおさまって、平和のうちに話し合いで解決してほしいと思います。戦争が小さな子どもたちの夢を無惨におしつぶしているのを知ると、耐えられない思いです。
(2018年10月刊。1800円+税)

回想のドストエフスキー2

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 アンナ・ドストエフスカヤ 、 出版  みすず書房
ドストエフスキーが亡くなって30年後に妻のアンナが日記などをもとに書いた回想記です。人間ドッグ(一泊)に持ち込んだ本の一つで、つまらなかったら早送りのように読み飛ばしてしまおうと思っていたのですが、意外や意外、とても面白い読みものでした。
妻のアンナがドストエフスキーと結婚したのは20歳。ドストエフスキーは44歳でした。妻に亡くなられたあと、速記者としてアンナを雇ってから急速に親しくなったのです。
このころのドストエフスキーは、トルストイのような金持ちの作家ではなく、いつも金欠病で借金取りに追われていました。その借金は、自分がつくったものではなく、身内の借金です。
ドストエフスキーが書いて支払われる「印税」が唯一の収入源でした。しかも、ときどきはてんかんの発作におそわれ、また、ギャンブル狂(ルーレット)でもあったようです。ところが、妻のアンナは実務的能力があり、ドストエフスキーの創作活動を速記者として支えただけでなく、莫大な借金を返済してしまったのでした。4人の子どもを生み、夫にあたたかい家庭をもたらしたのです。
ドストエフスキーは、貴族の家柄といっても、貧しい医師の子どもにすぎなかった。
そして、妻のアンナは小官吏の娘だったが、娘時代に速記を習っていた。
ドストエフスキーは、若いときに軍事裁判にかけられ、シベリア徒刑4年、セミパラチンスクでの兵役5年間をつとめている。
ドストエフスキーは、取り立てに来た債権者から、家具を差し押えて、それでも不足したときには債務監獄に入ってもらうと脅された。
債務監獄に入ると、借金は帳消しになった。1200ルーブルの借金のためには9ヶ月ないし14ヵ月は入っていなければならなかった。そして、債務監獄に入った債務者の食費は債権者が払わなければならなかった。
そこで、妻のアンナは、次のように債権者に言い返した。
「住居は妻名義で借りたもの。家具は月賦で支払い中なので差押えは出来ない。債務監獄に夫は期限まで入ってもらって、私は夫の仕事を手伝う。そうすると、あなたには一文だって入らないうえ、夫の食費を払わされる」
いやはや、こんな「反論」が有効だったのですね。驚きました。
ドストエフスキーは、作家としてだけでなく朗読者としても才能があったようです。
『カラマーゾフ兄弟』を、細い声、だが甲高い、はっきりした声で、なんとも言われないほど魅力的に朗読した。何千という聴衆の心が一人の人間の気持ちに完全にひきつけられた・・・。
ドストエフスキーを改めて読んでみようと思ったことでした。
(1999年12月刊。3200円+税)

ヨーゼフ・メンゲレの逃亡

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 オリヴィエ・ゲーズ 、 出版  東京創元社
ナチスの戦犯として、アイヒマンはイスラエルの諜報機関(モサド)に隠れ家から拉致されてイスラエルに連行され、裁判を受けて処刑されました。
ところが、ヨーゼフ・メンゲレのほうはアルゼンチンそしてブラジルで平穏な暮らしのなかで生きのびて、海岸で溺死するまで裁判にかけられることがありませんでした。どうして、そんなことが可能だったのかを小説で再現しています。
アルゼンチンのブエノスアイレスでアイヒマンとメンゲレは互いに面識があったようです。
メンゲレはずっと目立たないように注意してきたのに、アイヒマンは名声を求め、酔いしれて元ナチス親衛隊上級大隊指導者とサインしたりした。
メンゲレはアイヒマンを無教養な元商人として軽蔑した。中等教育も満了しておらず、前線での経験もない会計係の息子。アイヒマンは哀れなやつだ。一級の落ちこぼれだ・・・。
アイヒマンのほうも、メンゲレについて、臆病などら息子、日焼けした下っ端野郎にすぎないとけなした。
メンゲレはフランクフルトとミュンヘンの両大学で医学と人類学で博士号をとっていた。ところが、1964年に、アウシュヴィッツで殺人の罪を犯していたことを理由として、メンゲレの博士号は取り上げられた。これを知ってメンゲレは怒り狂った。
メンゲレはアルゼンチンからパラグアイに移住した。ドイツにいる家族とはずっと連絡をとりあっていた。西ドイツの情報部は、そもそも旧ナチスの息のかかった機関なので、メンゲレの行方を真剣に追跡することはなかった。
そして、次にブラジルに移住した。サンパウロの近くだ。ドイツにいる息子、ロルフ・メンゲレとは盛んに文通した。
1976年5月、メンゲレは脳卒中に襲われた。
息子、ロルフ・メンゲレがブラジルにやって来て、父に問うた。
「パパ、アウシュヴィッツでは何をしたんです?」
メンゲレは答えた。
「ドイツ科学の一兵卒としての私の義務は、生物学からみた有機的共同体を守り、血を浄化し、異物を排除することにあった」
「ユダヤ人は、人類に属していない」
「何千年も前からユダヤ人はアーリア人種の絶滅を望んできたのだから、すべて排除すべきなのだ」
「人民の外科医として、アーリア民族が永遠に栄えるよう、社会の幸福のために努めたのだ」
「私は何も悪いことはしていない」
いやはや、死ぬまでメンゲレはまったく反省せず、罪の意識もなかったというわけです。
1979年2月7日、メンゲレは水着を身につけ、海岸に入った。そして、溺れた。
息子ロルフは、父を助けてきてくれた人々に対する配慮から、父の死亡を公表しなかった。メンゲレの家族は南米における潜伏場所を知っていて、最後まで仕送りしていた。
1992年、DNA検査でメンゲレの遺体であることが確認された。
息子ロルフはミュンヘンに住み、弁護士として活動している。
メンゲレの死に至る状況がノンフィクションとして実に細かく再現されていて、圧倒される思いでした。
(2018年10月刊。1800円+税)

福岡県弁護士会 〒810-0044 福岡市中央区六本松4丁目2番5号 TEL:092-741-6416

Copyright©2011-2025 FukuokakenBengoshikai. All rights reserved.