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カテゴリー: ヨーロッパ

「砂漠の狐」ロンメル

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版  角川新書
これは面白い、そう思いました。ナチス・ドイツの高名なロンメル将軍の生身の正体をあますところなく描き切った新書です。
ロンメルは勇猛果敢、戦術的センスに富み、下級指揮官としては申し分なかった。とはいえ、昇進し、作戦的・戦略的な知識や経験が要求されるにつれ、その能力は限界を示しはじめた。「前方指揮」を乱用し、補給をまったく軽視するといったように、軍団・軍集団司令官にはふさわしくなかった短所が目立った。
ロンメルはドイツのなかでは傍流でしかないシュヴァーベン人で、陸軍幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校というキャリアを歩んでおらず、そのため大戦略を理解するだけの資質もなければ、そのための教育も受けていなかった。
大きなハンデを負っていたロンメルは、陸軍で出世のはしごを昇っていくためには、危険を冒してまでも成功をつかむ必要があったし、自らの功績を誇張しなければならなかった。
ロンメル将軍をゲッペルス率いるナチスの一大プロパガンダ機構は大いにもてはやした。自ら陣頭に立ち、ときには敵の銃火を顧みずに前進するロンメルは、ナチスの理想を体現する将軍として称揚するのにうってつけだった。
ヒトラーもロンメルに好意を抱いていた。国防軍の保守本流ともいうべきプロイセンの参謀将校たちをヒトラーは嫌っていた。ロンメルは彼らとまったく逆のタイプだったことから、ヒトラーは気にいっていた。
東部戦線のドイツ軍がソ連軍の反攻によって敗走しはじめている時期に、ゲッベルスのプロパガンダ・マシーンは全力をあげて「英雄」ロンメルの戦功を報じた。ゲッベルスは、ドイツ国民の関心をロシアからアフリカに振り向けようとしたのだ。
アフリカ戦線で、ロンメルは結局、イギリスのモントゴメリー将軍に敗退します。それは、戦術的にいくら奇襲しても、補給が続かなかったせいです。海上補給はなんとかなったとしても、陸路での補給が出来なかったのでした。
ロンメルはヒトラー暗殺に関与していたのか・・・。著者はありうるとしています。
ロンメルは言った。「総統は殺さねばならない。ほかに手段がない。あの男こそが、すべてを推進している源なのだ」。
ロンメルは1944年10月14日、ヒトラーのすすめで毒をあおいだ。7月20日ヒトラー暗殺が失敗したあと、ヒトラーはロンメルに対して自決しなければ反逆罪で死刑にすると通告したのでした。
ロンメルのひとり息子は、戦後、西ドイツで保守政党であるキリスト教民主同盟の有力政治家となり、ながらくシュトゥットガルト市長をつとめた。
300頁ほどの濃密な新書で、一気に読みあげました。
(2019年4月刊。900円+税)

大いなる聖戦(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 H.P.ウィルモット 、 出版  国書刊行会
第二次世界大戦についての本格的な研究書です。読みながら、その深く鋭い分析に驚嘆してしまいました。
日本とドイツが連合軍から受けた爆撃の規模は、ドイツが136万トンであるのに対して、日本は16万トンにすぎない。しかし、このように格段の相違があったにもかかわらず、被害の程度は似たようなものだった。これは、日本のほうが人口密度が高く、都市部に人口・家屋・民生産業が集中していたため、ドイツよりはるかに被害を受けやすかったことによる。
そして、日本はドイツより心理的にも物理的にも空襲に対する備えを甚だしく欠いていた。ドイツは4年間にわたって小規模な爆撃を受けていたので、適応していくのに必要な態勢が整っていて、心理的な準備もできていた。ところが、これに対して日本は、勝利は約束されていると信じ込まされていて、自国の敗北が現実のものとして迫っていることに国民がまったく気がついていなかった。1945年3月から8月にかけての空爆によって物質上の損害は大きかったが、それ以上に大きかったのは、国民の士気に与えた悪影響だった。敗戦気運が突如として日本社会全般にわたって蔓延した。1944年6月の時点では日本は戦争に負けると考えた人は50人に1人の割合だったが、1年後の1945年6月には46%となり、8月の敗戦直前には68%に達していた。
アメリカ軍による空襲は、日本国民の軍部への信頼を失わせ、その士気を阻喪させるうえでもっとも重要な要因となった。
さらに、アメリカ軍が事前に爆撃目標を公表していたこと、それでも空襲を受けたということは、自国の航空戦力がいかに無力であるかを日本国民は思い知らされた。日本軍は本土決戦に備えて最後に残った通常の航空戦力を温存しようとしたため、B-29はほとんど迎撃を受けなくなった。
戦争が万一、1946年まで続いていたとしたら、大凶作が見込まれているなかで、日本は大々的な飢餓状態に陥ったことは確実だった。
ポツダム宣言が発せられた1945年7月26日時点で、日本の産業が完全に崩壊するまで、数ヶ月いや数週間しかなかった。
ところが、自国の敗戦が避けられないことを認識している者が、統帥部で決定権限を有している者のなかにはいなかった。
これは、ドイツも同じ。ドイツの指導層には、自国の敗戦という現実を認識して終戦工作を試みることのできる者は皆無で、最後の最後まで自国が生き残れるという幻想にしがみついていた。限りある手段で際限なき目標を達することを目指したドイツと日本の戦争は破滅的な結末に終わった。そのような結果は、日本については予見できたが、ドイツについては必然ではなかった。敗戦の深刻さはドイツのほうが大きかった。
質量両面で世界に冠たる軍事力を誇り、勝利をもたらすうえで決定的となりえた利点をもちながらも、ドイツは敗北に追い込まれた。そして、国土の中枢地帯を敵軍に踏みにじられたうえで敗戦を味わったのみならず、国家が消滅したという点に照らしても、ドイツの敗北の程度の大きさを計ることができる。
著者は本書の最後で、次のように総括しています。私は、なるほど、もっともな指摘だと受けとめました。
ドイツがヨーロッパで、そして日本がアジア・太平洋で勝利したときに払うことになったであろう代償は、組織的大量殺人の企国にとどまらず、ヨーロッパ大陸とアジア大陸における物的・精神的・知的次元での奴隷化である。それに比べたら、このような害悪を阻止するために要した人的損失は、むしろ小さいものと考えられる。5700万人という死者は、忌まわしき害悪を世界から除去するための意味ある代償だった。
そうなんです。日本帝国主義(天皇と軍部)が勝利でもしていたら、世界はとんでもないことになっていたことでしょう。「聖戦」だったなんて、とんでもないことです。
クルスク大戦車戦、マーケット・ガーデン作戦、アルデンヌの戦いなどが当時の国際情勢と軍事力・指導力などを踏まえて総合的見地から論評されていて、理解を深めることができました。
下巻のみで450頁ほどもありますが、第二次大戦とは何だったのか、詳しく知りたい人には欠かせない本だと思います。
(2018年9月刊。4600円+税)

オスマン帝国

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 小笠原 弘幸 、 出版  中公新書
オスマン帝国は600年続いた。それは、日本でいうと鎌倉時代から大正時代までに相当する。
どひゃあ、す、すごーい。なんという長い帝国でしょうか。日本では鎌倉のあと室町そして戦国時代から江戸時代、明治、大正へ続くのです。
ひとつの王朝が実権を保ったままこれほど長く存続したのには、もうひとつハプスブルク帝国がある。広大さを誇るモンゴル帝国は、わずか150年ほどで消え去った。
そして、このオスマン帝国は現代トルコで「偉大なる我々トルコ人の過去」として再評価されている。
この本は、なぜ、これほど長命の帝国だったのか、その謎を解明しています。なるほど、そうだったのか・・・、知らないことだらけでした。
オスマン朝では、君主(カリフ)の生母のほとんどは奴隷だった。オスマン朝では、生母の貴賤が問われることはなかった。イスラム法では、母親の身分にかかわらず、認知さえされていれば、子がもつ権利は同等である。母が奴隷であることは、カリフたちの権威をなんら貶(おとし)めるものではなかった。奴隷だった母親は、非トルコ系の元キリスト教徒だった。
ムラト1世の時代に、常備歩兵であるイェニチェリ軍団が創設された。イェニチェリとは、新しい軍のこと。イェニチェリ軍団は、ムスリム自由人ではなく、元キリスト教徒の奴隷によって構成されていた。
イスラム法のもとでは、奴隷にも一定の権利が保障されていて、かつ、奴隷の解放は宗教的な善行として推奨されていた。
奴隷部隊は、精強であるのみならず、君主以外には地縁・血縁による後ろ盾をもたないことから、諜返の可能性は低かった。
奴隷を王子の母とするには、王朝にとって2つの大きな利点があった。そのひとつは、外戚の排除。というのも奴隷は基本的に親族から切り離された存在であり、その外戚が国政につけ入るスキがない。このように、オスマン帝国が、長命を保った理由の一つには奴隷が王の母として選ばれていたことによる。
もう一つは、男児の確保。奴隷をもちいることで、世継ぎを得る可能性が高まる。
チンギス・ハンの権威を利用しているティムール朝に対して、オスマン朝は、理念的には、より広いオグズ・ハンの後継者として主張することでチンギス・ハンとは異なる出生というのを主張した。
メフメト1世、ムラト2世はキリスト教徒臣民の少年を徴用する人材制度を始めた。デヴシルメと呼ぶ。キリスト教徒の農村から頭が良くて身体壮健な少年たちが選ばれた。とくに優秀な者は宮廷に入り、それに次ぐものは常備騎兵軍団に入り、残りはイェニチェリ軍団に入り、さらに残ったら、イェニチェリ軍団に組み込まれた。
イスラム法では、支配領内にいるキリスト教徒臣民を奴隷にするのは本来なら認められない。そこを、なんとかしようとして、取り込んでいる。
オスマン朝の王位継承をめぐっては血塗られた歴史がある。兄弟殺し。スルタン即位時にその兄弟を処刑する慣習があった。これがオスマン帝国が長く命脈を保つことのできた大きな理由だ。君主と同年代の王位継承候補を制限したのだ。王子が子をもうけると、現君主は、もはや子を生さず、若すぎる王位継承者をつくらないという慣習があった。
世界の秩序のためには、兄弟を処刑することは許されるというのが、法令集に堂々と記載された。そして、メフメト3世が即位したときには19人の王子が処刑され、人々の悲嘆をまねいた。そのため、それ以降は、王子たちはオートマチックに処刑されることはなくなった。
そして、殺されなかったスルタンの兄弟は、宮殿の奥深くに隔離され、そこで外界との接触を断って育てられた。これを鳥籠(とりかご)制度と呼ぶ。君主の「控え」が存在するようになったのだ。
戦国そして江戸時代との比較を考えながら、世の中は本当にさまざまなのだと実感されられました。
(2019年1月刊。900円+税)

プラハの子ども像

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 早乙女 勝元 、 出版  新日本出版社
先日、「ナチス第三の男」という映画をみました。ヒトラーの片腕とも言われたハイドリヒがチェコで暗殺される話です。題名は忘れましたが、同じテーマで別の映画もかなり前にみたことがあります。
ハイドリヒ暗殺のあと、ナチスは報復としてリディッツエ村に襲いかかり、罪なき村人を、男性と老女192人は全員射殺し、女性と子どもは追放して村を根こそぎ破壊し尽くしたのでした。1942年6月10日のことです。
203人の女性が強制収容所へ送られ、村の跡地に生還できたのは143人。連れ去られた15歳以下の105人の子どもは17人(男子7人、女子10人)しか戻らなかった。その亡くなった子どもたちの群像がリディツエ村跡地に建てられています。
よく出来た子ども像です。
「忘れないでよ、ぼくたちを!」
口ぐちにそう叫んで、追いすがってくる・・・。
そして、ハイドリヒを暗殺したグループ7人がこもっていた教会堂が密告者の手引きで6月18日に襲われます。360人のSS精鋭大隊とゲシュタポを含む1000人の武装部隊に包囲され、午前4時に始まり午前11時までの激しい銃撃戦のなか、7人全員が戦死ないし自決死したのでした。今も、この教会堂は水攻めされた地下室をふくめて保存されているそうです。
ハイドリヒを暗殺したとき、その仕返しを考えたら計画は中止すべきだと現地レジスタンス側は意見をあげたのですが、ロンドン側がハイドリヒ暗殺を強行させたといいます。ハイドリヒ暗殺の報復で5000人もの人々が殺害されたそうです。
それにしても、プラハの子ども像はよく出来ています。表情豊かで、個性が伸びのびとあらわされています。こんな子どもたちの将来を奪ってしまった戦争の野蛮さに改めて怒りが湧いてきました。
1995年のチェコ取材が本になっているのですが、この本自体はごく最近出版されています。リニューアル本のようです。
(2018年12月刊。1800円+税)

わたしが「軽さ」を取り戻すまで

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 カトリーヌ・ムリス 、 出版  花伝社
2015年1月7日、パリで起きたテロ事件。雑誌「シャルリ・エブド」の編集部が襲撃され、12人の同僚を失った女性の話です。マンガになっています。
この日、著者は幸運にも遅刻したのでした。もっとも、犯人たちは女性は殺さないと叫んでいたようですので、遅刻しなかったとしても助かったのかもしれません・・・。
しかし、同僚12人を一挙に亡くした生存者にとって、当然のことながら、その心の痛手はいかにも深いものがあります。
しかも、1週間後の1月13日には、さらにパリ同時多発テロ事件が起きました。このときの死者はなんと130人です。劇場が襲撃されたのでした。
トラウマから解離が起きる。巨大なストレスに襲われると、多大なアドレナリンとコルチゾールを発生させ、そのために死に至らせることがある。それで脳は反射的に自分を解離させる。
あなたの脳が解離して、感情、感覚、記憶の麻痺を引き起こした。自分の中が壊れていることの傍観者になっている気がする。まさに、それが解離なのだ。
「シャルリ・エブド」は、フランスの有名な風刺新聞社だ。犯人2人は兄弟で、別のところも襲撃して、警察の特殊部隊によって射殺された。
著者も報道マンガ家でしたが、事件のあと退社して、現在なお、完全に仕事復帰ができていないとのことです。
マンガによって、視覚的に著者の苦しみが切々と伝わってきます。
(2019年2月刊。1800円+税)

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