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カテゴリー: ヨーロッパ

ボンヘッファー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 宮田 光雄 、 出版  岩波現代文庫
ヒトラー・ナチスと果敢にたたかい、アメリカに亡命して、助かるはずだったのに、ドイツに戻って殉教した神学者の生涯と思想を刻明にたどった本です。私は、その存在をまったく知りませんでした。
神学者のディートリヒ・ボンヘッファーは反ナチ抵抗運動に参加して逮捕・投獄され、39歳の若さで処刑された。ただ、その処刑は遅く、ナチ・ドイツの降伏が間近に迫っていた1945年4月9日の早朝のことだった。
マルチン・ニーメラーはヒトラー・ナチスに抵抗した神学者として有名ですが、ニーメラーは、ヒトラーの賛美者だった時期があったのですね。これまた、私は知りませんでした。
ニーメラーは、ヒトラー政権の成立を歓迎し、ドイツが国際連盟を脱退したとき、ヒトラー激励の電報を打った。ヒトラー政権の本質をニーメラーも見抜けていなかった。
ヒトラー政権が成立した1933年ころは、ナショナリズムに根ざす伝統、ワイマール共和国に対する失望などは、かえってドイツの教会をナチズムの運動に傾斜させがちだった。多くの人々が、教会指導者や神学者まで、ナチ政権に滅狂的・献身的に同調していった。
ところが、ボンヘッファーは、1933年春の時点で、ナチのユダヤ人政策に反対した論評を張っていた。このころ、ドイツの多くの教会では、ナチの国家権力が教会生活や信仰箇条の中身に干渉しさえしなければ、何とかヒトラーと妥協してもよいと考える大勢の人たちがいた。
ボンヘッファーは集団的な兵役拒否を呼びかけた。キリスト教信者として許容されるのは、衛生兵勤務のみだとした。
ボンヘッファーは1933年6月に船でニューヨークに渡った。ところが、それは間違いだったとして、7月7日、アメリカからドイツ人を乗せてドイツに向かう最後の船に乗ってドイツに戻った。その後、ボンヘッファーは、カナーリス提督の率いるドイツ国防軍諜報部のヒトラー政権に対する抵抗運動に参加していた。
そして、1942年には、スウェーデンに行ったり、ヒトラー政権を転覆させようとする活動を連合国に知らせる活動にも従事した。ところが、このようなドイツ国内の抵抗運動は、連合国側からは信用されることなく、見捨てられた。
ボンヘッファーは、音楽を愛し、美術を愛し、食物についても健啖家(けんたんか)だった。その周囲を書物でとり囲まれ、死に直面していても詩をつくり、戯曲や小説の断片さえ書き残した。また、社交好きで、祝祭や遊びにも喜んで参加する人好きのいい人間だった。
1953年以来、ナチ政権は、党員であることと教会に所属することとが両立しえないことを公然化させた。
1995年に刊行された本を20年以上たって文庫本としてよみがえった本です。400頁をこえる文庫ですが、大変読みごたえがありました。
(2019年7月刊。1620円+税)

太陽を灼いた青年

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 井本 元義 、 出版  書肆侃侃社
フランスの若き天才詩人アルチュール・ランボー。日本の詩人がフランスに出かけて、ランボーの足跡をたどった本です。たくさんの写真があって、楽しく読めます。
ランボー狂いの著者はランボーに関する本を数十冊も読み、あらゆる評を読んでいます。
そして、ランボーが生まれたシャルルの地に立ち、その空気を腹一杯、吸い込みます。ランボーが酔いしれて彷徨したパリのカルチェラタンをランボーのように歩いてみます。パリにむかってランボーが旅立ったヴォンク駅は今は廃駅となって線路もありませんが、そこに立ち往時をしのびます。手に傷を負ったランボーが悲痛な時を過ごしたロッシュ村を訪れ、そこにあるランボーの墓石を何度も撫でます。
本書はランボーを狂おしいほどにしたう著者が、フランス国内を歩きに歩いてランボーの面影をたどった記録です。著者は仕事をリタイヤして70歳のころ、3年間、毎年3ヶ月間、パリに下宿してパリ近辺を歩きまわったという行動派でもあります。
ランボーが死んだのは、1891年11月10日、37歳だった。マルセイユの病院で亡くなった。葬儀は盛大だったが、参列者は母と妹の二人だけ。このころ、ランボーの詩がかつて賞賛されていたことを身内は知らないし、世間は天才詩人ランボーの死を知らなかった。
ランボーの最高傑作詩の一つ、「酔いどれ船」は、ランボーが16歳のときの作品。その詩に感激したヴェルレーヌから、「来たれパリへ、偉大なる魂よ」と招かれ、ランボーはパリへ旅立った。それからの4年間が、若きランボーの情熱がもっとも輝くときだった。
ランボーは1871年のパリ・コミューンに出会い、コミューン兵士の一員になる。しかし、兵舎のなかは驚くほど無秩序で、1ヶ月もたたないうちにランボーは兵舎を出た。このころ、まだ16歳の天才少年だ。
詩の意味は、色や匂いや言葉や音の組み合わせだ。
ランボーは詩作をやめた。しかし、著者は、そこからが本当の詩人ランボーの誕生だと強調しています。すべてを見てしまった書かざる詩人が誕生したというのです。
ランボーはアフリカに渡り、武器商人になったのですが、結局、取引相手にうまくあしらわれて赤字を出したようです。そして、病気をかかえてフランスに戻るのです。リューマチが悪化、腫瘍ができたのでした。
ポール・クローデルは、アフリカでのランボーの生活や手紙には何の意味もない、ランボーの文学の価値は前半で終わっているとしました。著者は、これに激しく抵抗しています。
私は正直言って、書かざる詩人という存在なるものが理解できません。心象風景を文字にしてこそ詩なのではないか・・・、と思うからです。
この本は私のフランス語勉強仲間である著者から教室で贈呈されたものです。早速読んでみました。私も言ったことのあるパリのパンテオンやサン・ジャック通りなど、なつかしい光景が見事な写真とともに紹介されています。
ありがとうございました。ランボーの一生がチョッピリ分かりました。
(2019年10月刊。1600円+税)

独ソ戦

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版  岩波新書
今年の最良の新書として高い評価を受けていますが、読んだ私もまったく異議ありません。
ヒトラーのナチス・ドイツとスターリン率いるソ連赤軍の死闘の実際が多角的にとらえられていて、なるほど、そういうことだったのかと得心いくことの多い本でした。
ソ連は2700万人が死傷し、ドイツは、戦闘員が444~531万人が死亡し、民間人も150~300万人の被害と推計されている。
ヒトラー以下、ナチス・ドイツ軍は、対ソ戦を世界観戦争とみて、撲滅すべき存在だとしていた。ヒトラーにとって、世界観戦争とは、みな殺しの戦争、つまり絶滅戦争であった。そして、これはドイツ国防軍の将官たちも共有していた。
そして、スターリンも大祖国戦争というとき、ドイツ軍は人間ではないと高言していた。
有名なドイツ軍事史の著者であるパウル・カレルの本は、今ではすべて絶版とされている。パウル・カレルはナチス政権のもとで要職にあったことを隠して、ドイツ国防軍を免責する意図のもとに歴史を歪曲して書いていたことが明らかにされた。そうだったんですか・・・。
スターリンがヒトラー・ドイツ軍の侵攻について、情報を得ながら信じなかったのは、イギリスがドイツ軍を対ソ戦に誘導しようとしていると疑っていたことによる。
そして、スターリンによる大静粛の結果、ソ連軍が著しく弱体化していたため、ドイツ軍が攻めてくるとは考えたくなかった、現実逃避思考に陥っていた。
スターリンは、目前に迫ったドイツの侵攻から眼をそむけ、すべてはソ連を戦争に巻き込もうとするイギリスの謀略であると信じ込んだ。あるいは、信じたかった。いやはや、スターリンのとんでもない間違いのため、ソ連国民は多大な犠牲を払わされてしまいました・・・。
ヒトラー・ドイツ軍がソ連侵攻を正式決定したのは1940年12月18日のこと。
ドイツ国防軍、とくに陸軍は、対ソ戦に積極的だった。当時、国防軍の戦車や航空機をはじめとする近代装備の多くは、ルーマニア産の石油で動いていた。そのためハルダー陸軍総参謀長は、ルーマニアの油田を守るためには、対ソ戦やむなしと判断した。それにはソ連軍の実力についての過小評価もあった。
ヒトラーが開戦を決意し、命令を下す前からドイツ陸軍のトップはソ連侵攻の準備をすすめていた。ドイツ軍は、自分の能力の課題評価とソ連という巨人にたいする過小評価、蔑視から傲慢な作戦計画を立てた。
ドイツの侵攻を受けた時点でのソ連軍は、反撃や逆襲できるほどの練度になく、将校の指揮能力も貧弱だった。ソ連軍はスターリンによる大静粛のため人材不足にあり、独ソ両軍の司令官(師団長など)の平均年齢はソ連軍のほうが11歳も若かった。この差は驚異的ですよね・・・。
独ソ戦全体を通して、570万人ものソ連軍将兵がドイル軍の捕虜となった。捕虜の多くはドイツ軍の虐待で死亡していますし、無事に帰国しても、スターリンによって「裏切り者」扱いされたのでした。
ドイツ軍には「電撃戦」を規定したドクトリンなど存在しなかった。
ドイツ軍が「バルバロッサ」作戦で前進していったとき、現場のソ連軍はなお頑強に戦い続け、容易に降伏しなかった。ドイツ軍の大将は次のように評した。
「ソ連兵はフランス人よりはるかに優れた兵士だ。極度にタフで、狡知と奸計に富んでいる」
ドイツ軍はソ連領内で補給不足に苦しみ、掠奪していった。そのため、現地住民の憎悪の対象となった。結局、ドイツ軍は、戦争に勝つ能力を失うことによって失敗した。すると、有利なのは、回復力に優ったソ連軍だった。
とても読みやすく、本質をついた独ソ戦通史だと思います。
(2019年9月刊。860円+税)

アウシュヴィッツのタトゥー係

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ヘザー・モリス 、 出版  双葉社
実話をもとにしたフィクションです。それにしてもすごいんです。アウシュヴィッツ絶滅収容所で被収容者たちに数字のタトゥーを入れていたユダヤ人青年がいて、戦後まで生きのびたのです。そして、カナダと呼ばれる場所で働いていた女性と仲良くなり、ともども戦後まで生きのびたという信じられない奇跡が起こったのでした。
カナダとは被収容者たちから取りあげた持ち物を整理・処分していた場所です。そこには宝石や金があり、食べ物に換えることができました。
タトゥー係は特別な技能をもつ者として収容所では特権的な地位にありました。そのおかげで主人公は生きのびることができたのです。
主人公のタトゥー係(ラリ)は、まわりを冷静に観察し、必死に頭を働かせて、しぶとく、したたかに生き残る。それはカナダで働く彼女(ギタ)と結婚するためであり、永遠に返せない借りをなんとかして返すためでもあり、そしてナチスに抵抗するためでもある。
ただ生き残ること、それ自体が英雄的行為になるような状況のなかで生き残ること、これがいかに厳しいか、いかに辛いか、それをタトゥー係(ラリ)は身をもって実感する。
タトゥー係(ラリ)は、ナチスによって無意味に殺されていく人々を見ていく。そして最後には運よく、故郷に帰り着くが、それは本当に「運よく」と言えるのかどうか・・・。タトゥー係という特殊な立場にいたため、普通の被収容者たちが目にしなくてすむものまで見てしまうし、見せられてしまう。家畜を運ぶ列車でアウシュヴィッツに運ばれてくる途中で死んでいたほうがましだったかもしれない・・・。
戦後、ラリは、感情が欠けているようなところと、生存本能が高いところが残っていたと息子が語った。
ラリは、スロヴァキア語、ドイツ語、ロシア語、ハンガリー語、それからポーランド語を少し話した。いやあ、すばらしい。ラリって語学の天才だったんですね・・・。
タトゥー係のいいところは、日付が分かること。毎朝渡され、毎晩返却する書類に書かれている。日付の手がかりになるのは書類だけではない。日曜日は、仕事をしなくてすむ。
生きのびたあとの戦後、ギタはこう言った。
何年間も、5分後には自分が死んでいるかもしれないと思いながら過ごしたことがあれば、たいていのことは切り抜けられるようになるのよ。生きて健康でさえいれば、すべてはうまくいくものなの。
ぜひ、あなたも読んでみてください。今を生きる一日一日がますます大切なものと思えるはずです。
(2019年9月刊。1700円+税)

消される運命

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 マーシャ・ロリニカイテ 、 出版  新日本出版社
リトアニアにおけるユダヤ人虐殺の話です。読んで、とても悲しくなります。まったく救いがありません。
リトアニアは第二次世界大戦の前は、一応、独立国だった。1939年、ソ連軍がリトアニアに進駐して、リトアニア人をシベリアに送ったりして恐怖支配した。
ところが、1941年6月22日、ソ連軍は撤退し、ナチス・ドイツ軍がリトアニアに侵攻してきた。そして、すぐにリトアニア人の協力を得て、ユダヤ人を組織的に殺害しはじめた。
「男狩り」として、「収容所に送って、労働従事に従事させる」と言いながら、ナチス・ドイツ軍はすぐにユダヤ人の男性全員を森に連行して銃殺した。
ヒトラーの占領軍は、3年間に10万人のユダヤ人を銃殺し、森の中に埋めて隠した。そして、敗色が濃くなると、ナチス・ドイツ軍の残酷な証拠を残さないよう、1943年12月から埋めた死体を掘り起こして焼却した。
作者は、ゲットーに収容されつつも、戦後まで生きのびて、過去のことを記録して語り伝えた。わずか140頁の本ですが、読みすすめるのがとても辛くて、とても読み飛ばすことはできませんでした。
リトアニア人がナチス・ドイツ軍のユダヤ人殺害に手を貸していた事実が淡々と描かれていて、大変気が重くなります。
ドイツの占領前に23万人のユダヤ人がリトアニアにいたのですが、1941年末までに17万5000人が殺害され、戦後の今はリトアニアにユダヤ人はほとんどいないようです。悲しい話ですが、目をそむけるわけにはいきません。
(2019年8月刊。1800円+税)

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