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カテゴリー: ヨーロッパ

他者の靴を履く

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ブレイディみかこ 、 出版 文芸春秋
エンパシーとシンパシーの意味の違いを説明せよ。
シンパシーは、誰かをかわいそうだと思う感情とか、行為、友情など内側から湧いてくるもの。エンパシーは、他者の感情や経験などを理解する能力。つまり、身につけるもの。その人の立場だったら、自分はどうだろうと想像してみる知的作業。
オバマ大統領は演説のなかで「エンパシー」をよく使っていたとのこと。知りませんでした。といっても、エンパシーというコトバの歴史は浅く、まだ100年になるくらいだそうです。
著者がよく本を読み、よく考えている人であることはわかるのは、金子文子がいち早く登場することにあります。金子文子は、23歳の若さで獄死しました。アナーキストの朴烈のパートナーです。関東大震災のどさくさで逮捕され、大逆罪で死刑判決を受け、恩赦で無期懲役に減刑されたものの、恩赦状を破り捨てたのでした。映画にもなっているようですが、みていません。
これまた残念ながらみていませんが、映画『プリズンサークル』という、「島根あさひ社会復帰促進センター」という男子刑務所のなかの取り組みが紹介されています。ここは、比較的軽い罪で有罪になった人たちを収容しています。私も一度だけ内部に入ったことがあります。盲導犬を訓練していました。
詐欺犯のように無意味なコトバをべらべらと羅列する人たちは、ここでTCのプログラムに参加すると、逆にしゃべらなくなり、一時的には言葉を失うことがある。これは、自分がそれまで発していたコトバの空虚さに気がつき、自分のコトバを獲得し直すまでのプロセスの一部だ。コトバを発せない時期を経て、再びしゃべることができるようになったとき、口から出てくるコトバは前とはまったく違うものになっている。
ブルシット・ジョブ。どうでもいいことをして、何をやっていると人々を説得しようとしているナンセンスな仕事。これには、オフィスで働くほとんどの人がこれにあたる。受付、秘書、人事、管理職、広報…。そして、企業内弁護士、ロビイスト、CEO、PRリサーチャー…。
これに対するのが、キーワーカー。たとえば、コロナ禍でがんばっている看護師、保育士など…。
企業内弁護士を、同じ弁護士として軽蔑する気持ちはまったく(本当に、さらさら)ありませんが、世間から「本当にあんたのやっている仕事は世のため、人のためになっているの?」という問いかけに対して胸を張って答えられるかどうかは、たまに考えてもいいんじゃないの…という気はしています。というのも、「世のため、人のため」という、人権尊重に自分の一生をかけてみようという意識が薄くなってしまっているのは、残念ながら現実だと考えているからなのです。
イギリスのサッチャー首相は、庶民出身なのに、なぜか庶民に対してエリート出身者以上に冷酷になることができた。
みじめに退任するスガ首相も公助の前に自助があるなんていう妄言を吐いていました…。
この本を読んで、私が認識して良かったのは、第二次大戦中のイギリス市民です。戦時下でモノがなく、ヒトラー・ナチスが爆撃するなかで、貧しい人々は自制心に欠け、暴力的なので、パニックを起こして逃げまどい、国を混乱状態に陥れるのではないかと、支配階級は心配していた。しかし、実は、彼らは落ち着いて、お互いを助けあい、明るくジョークをとばしあいながら、一丸となって危機を乗りこえようとしていた
日本軍が始めた中国の重慶無差別爆撃、イギリス軍によるドイツ無差別爆撃、カーチス・ルメイ将軍による日本本土無差別空襲によって、いずれも国民の戦意は喪失するどころか、大いに高揚したというのが歴史的な事実でした。
庶民は、つまり人間は上からみるほど、バカではないのです。
「他者の靴を履くこと」というのは、英語の慣用句としてあるようです。「他者の顔色をうかがうこと」と紙一重ですね。でも違います。ちょっと難しい記述があふれていましたので、苦労しながら読み終えました。
(2021年8月刊。税込1595円)

スターリン

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 オレーク・V・フレヴニューク 、 出版 白水社
スターリン主義者をスターリニスト、トロツキーの信奉者をトロツキストと呼びます。私が大学生のころ、学生運動用語として多くの学生が使っていましたし、知っていました。でも、その内実は、私をふくめてほとんどの学生が知らなかったと思います。スターリニストを単なる官僚主義だとすると、現在の日本の官僚は、上に忖度(そんたく)するばかりですので、ぴったり合致します。今の日本の高級官僚は、上から嘘をつけ、証拠を隠せ、改ざんしろと指示されたら、ほとんどは唯々諾々と従い、例外的に自死した赤木さんのような人がいるだけです。でも、スターリン治政下のソ連では、もう一歩すすんで、あいつを消せと指示されます。肉体的抹殺です。今の日本はそこまではありませんが、果たして、そんな指示に今の日本の官僚たちはギリギリ踏みとどまって抵抗できるのでしょうか…。
1937年から38年にかけた1年間だけでも、ソ連では70万人以上が処刑された。スターリンによる大テロルです。誰も止めるとこができなかった大テロルは、やがてスターリン自身にはねかえってきました。1953年2月末から3月初め、スターリンが別荘で通常どおり起きてこなかったとき、誰もが近づけなかった。この530頁もある本は、その状況が繰り返し再現されます。
なぜか…。スターリンが目を覚ましたとき、なんで、お前がこんなところにいるのかと激しく叱責されたら、即、生命にかかわることになるからです。みんなスターリンの不意のカミナリにびくびくしながら生活していたのでした。
恐怖は、スターリンにとって、もっとも重要な力だった。スターリンはソ連国家保安制度を強固な監督下に置くことによって、いつでも誰でも逮捕でき、即時銃殺に処すことができた。その実例はいくらでもあった。スターリンの政治はテロルに依拠していた。
スターリンは、根本的に、重要な細部を部下に委ねず、自分自身で管理するのを好む小領主だった。
スターリンが死ぬ直前にすすめた医師団陰謀キャンペーンは、大衆のムードを巧みに操作し、戦争勃発のどんな気配すらもないのに戦争準備の心理を助長し、それによって人々の日々の困難から気をそらさせた。そして、スターリンの周囲の人間に不安な気分のまま生活し続けることを強いるという効果をあげた。
スターリンは、他のどの独裁者と同じく、最悪のことを常に想定していた。スターリンは、国内外の情勢が悪化したとき、裏切られることを予測していた。絶対的に献身的で、より若い熱烈な支援者と古参幹部とを取り替えることは、自身の立場をうち固めるうえで、決定的に重要なことだ。
征服者の心の平安は、被征服者の死を覆す。
これはチンギス・ハンの言葉だとされているが、スターリンも参考にしていた。
スターリンが死の発作をおこした「近くの別荘」には、総数408人もの人間がつとめていて、護衛官だけでも335人がいた。この護衛総局で仕事をすると、実入りが大きかった。
スターリンの大テロルが全土で進行した結果、1940年までにロシアの各州やソ連邦を構成する共和国の指導者(書記)の57%から35歳以下だった。大臣や将官、企業長、文化人の団体の指導者も30代から40代までだった。これらの成り上がり者にスターリンは途方もなく大きな権力を付与し、彼らは、特権化された世界を享受していた。
そうなんですね。若い人は、上の重しがとれて、自らが昇進して、特権に恵まれることを喜んでいたというわけです。これがスターリンのテロルを止めなかった有力な原因の一つのようです。
ソ連の党政治局は、スターリンの意思に全面的に従属した。今やスターリンは正真正銘の独裁者だった。
1037年から40年にかけて、ソ連の将校団が2.5倍に拡大した。その結果、多くの指揮官が必要な知識と経験を欠いていた。
スターリンは、ナチス・ヒトラーの軍事進攻を開戦当初まったく信用していなかったのでした。この本によると、スターリンは、ヒトラーの意に反して国防軍がやったことだろうから、そんな挑発に乗るな、発砲するなと命じたのでした。すっかりヒトラーに騙されていたわけです。ヒトラー・ナチス軍の本格的大侵攻であり、たちまち前線が大崩壊したことを知るとスターリンは茫然自失で、別荘にこもってクレムリンに出てこなくなりました。
残る幹部たちが恐る恐る別荘に行ってスターリンに会いに行ったとき、スターリンのほうは全員がそろって引退勧告に来たかと心配して待ちかまえていたというのです。独裁者は、そうではないことを知ると、たちまち元通りに独裁者となって悪の罪業の数々を繰り広げていくのでした。
あとになってソ連がドイツを負かしてしまう段階では、わざと諸戦で負けて、かつてナポレオン軍を負かしたような高等戦術をとったなどと強弁しはじめましたが、実際にはスターリンの大いなる間違いによってソ連軍は大崩壊してしまったのです。
レーニンは死ぬ直前に、スターリンは粗野な男なので書記長にはふさわしくないから解任すべきだという遺書を書いていました。そこでスターリンは、レーニンの死後、政敵をうまく片付けたあと、書記長の辞職願いを提出した。いやあ実に見事な計算ですね。スターリンの計算どおり、もちろん辞職願いは受理されるはずがありませんでした。
ナチス・ヒトラーに匹敵するほどの大虐殺を敢行したスターリンの罪業について、最新の資料をつかって深く究明した本です。
スターリニストって、単なる官僚主義者なんかではないことがよくよく分かります。でも、そんなレッテル貼りに、いったいどれだけの意味があるのか、それも、そもそも疑問ですよね…。
(2021年5月刊。税込5060円)

テンプル騎士団全史

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ダン・ジョーンズ 、 出版 河出書房新社
神の教えと剣(つるぎ)に生きた男たち。巡礼者でありながら戦士。貧者でありながら銀行家。それがテンプル騎士。
テンプル騎士団は、11世紀から14世紀にかけて、中世ヨーロッパと聖地に存在していた多くの修道会の一つ。知名度の高さは群を抜いていて、どの修道会よりも物議をかもした。
テンプル騎士団の設立は1119年。当初こそ貧しかったものの、やがて国王や教皇らと親しい関係を築いた。戦費調達を助け、国王の身柄解放のためのお金を貸し付け、王国政府の財務管理を請け負い、徴税し、城塞を建設し、町を治め、軍隊を訓練し、貿易摩擦に介入し、ほかの騎士修道会と暗闘をくり広げ、政治的な抹殺もいとわず、特定の者を王位につける手助けもした。当初こそ貧しかったものの、テンプル騎士団は、ついに強大な組織となり、中世後期まで存続した。
14世紀はじめ、突如、テンプル騎士団の総長以下が逮捕された。男色と異端の温床として迫害され、拷問を受け、見せしめの裁判にかけられ、自白させられ、集団で総長以下は火あぶりの刑に処せられた。そして、テンプル騎士団の全財産が没収された。
1307年10月から11月にかけて、フランス王フィリップ4世の命令によってジャックド・モレー総長以下、数百名のテンプル騎士団のメンバーが逮捕され、容赦ない拷問にかけられた。テンプル騎士団に入団するとき、背中やへそに口づけし、三度キリストを否認し、十字架に唾棄する。これを自白させられた。テンプル騎士団のメンバーは拷問に耐えられず、とりあえず自白し、教皇の赦しを得ようと考えた。
ところが、当初はフランス王の強引さを嫌っていた教皇も、自白による証拠をたっぷり見せつけられ、ついにテンプル騎士団を有罪と信じるようになり、フランス王の要求を受け入れても仕方ないと考えるようになった。こうやって、テンプル騎士団の逮捕されたメンバーは、1307年から3分の1が耐えられずに5年内に死亡した。
テンプル騎士団は無罪だという陳情が始まると、フィリップ4世は、急いで54人を火あぶりの刑に処した。すると、それを見て、恐怖のあまり、たちまち陳情団のメンバーは腰くだけになった。
人間は拷問に弱いものです。フィリップ4世はテンプル騎士団を亡きものにし、その全財産の没収を図った、つまり明らかな冤罪事件だったのです。
テンプル騎士団の残った全財産は聖ヨハネ騎士団に譲渡されたというのですが、フィリップ4世が損したはずはありません。テンプル騎士団を抹殺したフィリップ4世は同じ1314年、わずか46歳で亡くなり、フィリップ4世のに逆らえなかった教皇のクレメンス5世も病気で亡くなった。
テンプル騎士団は聖地回復を目ざす十字軍の戦闘のなかで目ざましい役割を果たした。テンプル騎士たちは、「人を殺すなかれ」ではなく、キリスト教の敵を殺すこと(殺人)が認められていた。
博愛主義をモットーとしているはずの宗教が異なる宗教の信徒を殺してもいいとしていること、さらには、同じキリスト教であってもカトリックとプロテスタント同士で平気で殺しあってきたことを知るにつけ、どうしても私はキリスト教を信じることができません。
テンプル騎士団の総長は選挙で選出されていた。これはローマ教皇と同じですね。
イスラム教徒の戦術は長い年月をかけて磨かれ、電光石火の奇襲を得意としていた。丸兜をかぶり、腰に矢羽の入った矢筒をぶら下げた騎兵が突然あらわれ、突進してくる。ぎりぎりまで近づいたかと思うと、馬の手綱を引き、ぐるりと回って、退却しながら矢を一斉に放つ。相手は不意打ちを受け、血を流し、混乱に陥る。こうした攻撃が波のように押し寄せ、騎兵たちは矢羽を雨あられのように降らせたかと思うと姿を消し、馬を代えて、新たな攻撃をしかけに戻ってくる。
400キログラムほどの軍馬を、片手が手をつかわず見事に操り、疾走する馬の上から重たい弓を引き、非常なまでの正確さで、敵の馬の首や頭、わき腹など、あちこちに狙いをつけて放つ。機動性の高い小グループで行動し、次々と押し寄せて敵に一息つく間も与えない。至近距離での戦闘では、矢を背中に吊り下げて剣を振るい、槍を突き刺す。
これに対して重要なことは、奇襲に遭遇しても、規律を乱さず反撃に出ること。当初の十字軍は、これが出来なかったようです。
テンプル騎士団は軍事能力と諜報能力を駆使し、イスラム教徒の軍団、そしてモンゴル軍団と互角に戦ったようです。しかし、その戦闘は無慈悲なもの。負けたら殺されるか、捕虜は奴隷として売られるか…。
本文のみで440頁という部厚い本ですが、この有名な騎士団の顛末(てんまつ)を知りたくて夏休みに一気読みしました。最後まで当初の期待が裏切られることはありませんでした。
(2021年4月刊。税込5390円)
 梅雨のようなお盆でした。雨がやんだとき庭に出て少し雑草を抜きました。カボチャのツルが伸びているのをひっぱったら、雑草の中から大きなカボチャがころがり出てきました。これは植えたのではありません。生ゴミを庭に埋めたところタネから自生したのです。放っておいたら、ぐんぐんツルを伸ばしていきました。実は、四方にツルが伸びていたので、カボチャがゴロゴロとれるかなとは思っていました。
 さて、問題は味のほうです。前に、自生したスイカを食べたら、形も色もスイカなのに、ちっとも甘くないということがありました。今度のカボチャは、まあまあの味で、ほっとしました。でも、最近のカボチャって、すごく甘いですよね。それに比べると甘さが足りませんが、文句は言えません。
 今、サツマイモの葉が茂っています。秋が楽しみです。

エルサレム以前のアイヒマン

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ベッティーナ・シュタングネト 、 出版 みすず書房
ショッキングな本でした。580頁もある大部な本ですが、アイヒマンの本当の正体を知りたいと思って必死の思いで読み通しました。
エルサレムでのアイヒマンの裁判を、ずっと傍聴していたアンナ・ハーレントはアイヒマンについて「悪の陳腐さ」、「凡庸な普通の人間」の犯した凶悪犯罪と評しましたが、それが正しかったのかどうかという点に関心がありました。
この本によると、アイヒマンは、エルサレムに拉致・連行される前に、自らすすんでユダヤ人600万人を大虐殺したことを誇らし気に仲間内で語っていた(録音していた)というのです。なので、エルサレムで尋問されるとき、初めて問われて答えているとは思えなかったと尋問官は感じていたとのこと。これには本当に、驚きました。
もう一つ、アイヒマンがアルゼンチンにいることは、イスラエルのモサドによって拉致されるより何年も前に情報が寄せられていたという事実がありました。しかし、それは、アイヒマンが中近東あたりに潜んでいるというガセネタと同じレベルで扱われてしまい、重要視されなかったというのです。
いずれにしても、アイヒマンは戦後、ドイツにしばらく潜伏し、そこから元ナチスの逃亡ルートに乗ってアルゼンチンにたどり着いたこと、アルゼンチンでは元ナチのメンバーの助けを得て、それなりの市民生活を送っていたこと、そのうえで妻子をドイツから呼び寄せ、アルゼンチンで赤ん坊をもうけたことなど、驚くべき事実を知りました。
アイヒマンはナチス時代にしたことをまったく反省しておらず、録音つきの取材でも、ユダヤ人の大量虐殺を得意気に話していたのです。となると、ハンナ・アーレントの裁判傍聴によるアイヒマン像は大幅に修正する必要があるのではないでしょうか。
アイヒマンは、ユダヤ人絶滅の全体像を大まかにでも見通せた。わずかな人間の一人だった。アイヒマンは、直接にユダヤ人の拷問や殺人に加担していいなかったため、つまりユダヤ人絶滅の現場から距離があったことから、かえって全体を見通せた。
アイヒマン一家は、最初はベルリンに、その後ウィーン、最後はプラハに住んだ。
アイヒマンは1956年3月19日に50歳の誕生日を迎えた。3番目の息子が生まれたばかりだった。
アイヒマンがサッセンに語り始めた(録音された)のは1957年4月からだ。アイヒマンは、シリーズ本の1巻を出せることを得意に思っていた。この本は、アイヒマンの死後に出版されることになっていた。
アイヒマンはドイツで戦犯として法廷に立たされたとしても、せいぜい4年か6年の刑ですむだろうと考えていた。アイヒマンは妻に対して、ユダヤ人を一人も殺していないし、殺すように命令したこともないと言っていた。戦争で、ドイツが700万人もの戦死者を出しているので、ユダヤ人の600万人という絶滅収容所での死者と相殺できるとアイヒマンは考えていた。
アイヒマンが仕事の帰り、自宅近くでモサド(イスラエルの秘密機関)によって拉致されたのは1960年5月11日のこと。このアイヒマンの拉致は、1945年5月の敗北以来のどんな出来事より、SS隊員など、ユダヤ人の大量殺戮に加担した共犯者たちの生活に深刻な変化をもたらした。
アルゼンチンにおいて、アイヒマンの正体を知らない人にとって、アイヒマンはときにバイオリンを弾いてくれる、子どもから好かれる存在だった。アイヒマンは、アルゼンチンでニワトリ5000羽と、アンゴラウサギ1000羽を飼っていた。
アイヒマンについての確実な情報は、1952年6月24日、ドイツのゲーレン機関への通報だった。「アイヒマンは、エジプトにはおらず、クレメンスという偽名で、アルゼンチンにいる」
しかし、この情報に対して西ドイツでは8年間、何もしなかった。
アイヒマンは、この年(1952年)7月28日、7年のあいだ、別れていた妻と2人の子どもをアルゼンチンに呼び寄せた。
アイヒマンは自分のやったことを何も忘れてはいなかった。ただ、自分の歴史観を相手にあわせて変え、偽装の腕前を上げていった。
アイヒマンは、ユダヤ人の大量射殺、労働による殺人、飢餓による殺人、ガス殺のすべてを知る唯一の人間とみなされていた。これはアイヒマン本人が自分で築きあげた「名声」だ。
1957年4月以降、毎週土曜日と日曜日にユダヤ人の「最終解決」について議論した。このとき、アドルフ・アイヒマンとして議論に参加した。アイヒマンは、この時、戦争終結から12年後、誰からも強いられることなく、この大量殺戮者は、一同の前で、録音テープのまわる部屋で、ユダヤ人絶滅はあった、それは、何百万人もの殺人まさに完全なジェノサイドであることを、そしてアイヒマンもそれを望み、計画したことを、そして、この計画を今も正しいと考えていること、それに関与したことに満足していることを繰り返して言った。
アイヒマンは、国民社会主義者(ナチス)であり、それゆえにこそ、確信犯的な大量殺戮者だった。
アイヒマンがアイヒマンとして自分のやったことをトクトクと語った録音テープがあるというのも信じられません。幸か不幸か、それは本になっていません…。アイヒマンとは何者なのか…、というのを知るには欠かせない資料だと思いました。大部だし、高価ですが、一読の価値が大いにあります。
(2021年6月刊。税込6820円)

アウシュヴィッツの画家の部屋

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 大内田 わこ 、 出版 東銀座出版社
ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅収容所として名高いアウシュヴィッツ強制収容所のなかにポーランド人画家が絵を描く部屋があった。なんて、まったく知りませんでした。音楽隊が組織されていて、ヨーロッパ各地から強制的に連行されてきた人を音楽で出迎えていたことは知っていました(暴動を起こさないように、嘘をつき通す道具として利用されていました)が、画家の部屋なるものは知りませんでした。そして、意外にも絵がいくつも残っているのです。
収容所美術館は、1941年10月から1944年2月まで、アウシュヴィッツ第1収容所24号棟に存在し、画家たちの工房だった「画家の部屋」は、地下にあった。画家たちはSS(ナチス)が発注する作品を描きながら、収容所の状況をひそかにスケッチして、今日に残した。たとえば1947年に収容所の焼却炉の近くで地中に埋められていたビンの中から、MMのイニシャルのついた22枚の小さな鉛筆画とチョーク画が見つかった。収容所の虐殺、虐殺が描かれている。
1941年の半ばごろ、ポーランド人政治犯フランシスチェクタルゴシュは中世の騎馬による戦闘シーンを描いているのをルドルフ・ヘス所長に見つかった。いつもなら、すぐに処刑されるところ、ヘスは三度の食事より馬が好きだったので、馬の絵を描くことで死罪を免れた。
そのタルゴシュは大胆にもヘスに収容所の描いた絵を集めた部屋をつくってはどうかと提案した。ヘスはその場で、この提案を受け入れて、収容所美術館が発足することになった。ええーっ、ウソでしょ…と思わず叫びたくなるような話です。世の中、本当に何が起きるか分かりませんね。
このタルゴシュは美術館の管理をまかされ、収容者の作品の保存につとめた。そして、無事に解放の日を迎え、1979年9月に故郷で亡くなった。うーん、そんな人もいたのですね。まさしく芸は身を助けるというわけです。
コルベ神父は、日本で6年のあいだ布教活動に従事して、ポーランドに帰国して5年後に、カトリック教徒だという理由で逮捕されてアウシュヴィッツ収容所に入れられた。
そして、1人の収容者が脱走した。その報復としてナチスは10人を餓死させることにする。ランダムに選ばれたその10人のうちの1人が泣き叫んだ。
「私は死にたくない。私には妻も子もいる。私は生きていたい」
当然の叫びですよね。この叫びを聞いていたコルベ神父は「私が彼の身代わりに」とすすみ出た。ナチスにとって頭数さえそろっていれば問題はない。このとき47歳のコルベ神父は、見ず知らずの人のために自分の生命を犠牲にしたのだった。
収容所のなかで描かれた絵を外に持ち出すために、大勢の善意の人々が協力した。鉄道の機関士、洗濯場の親子、パン屋の親子などなど…。その活動がナチスに発覚して処刑された親子もいます。収容所の内外がまさしく生命がけの仕事なのです。
人間の狂気は恐ろしいばかりですが、善意のほうも大がかりというより、根強い基盤を持っているように思われます。いいことですよね。人間って、ギリギリ信じられます…。
(2021年4月刊。税込1500円)

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