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カテゴリー: ヨーロッパ

輝ける闇の異端児、アルチュール・ランボー

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 井本 元義 、 出版 書肆侃侃房
ランボー没後130年。
アルチュール・ランボーが生きたのはパリコミューンが誕生したころ。ヴィクトル・ユーゴ―も生きていた。ランボーは、コミューン兵士にもぐり込んだ。しかし、コミューン兵士のなかで、ランボーは挫折を味わった。澱んだ空気の充満する兵舎の中で、ランボーは詩を書けなかった。
1871年5月、ランボーはコミューン兵舎から逃げ出した。残った兵士たちは政府軍に虐殺された。
パリの詩人たちの前でランボーは自作の詩を朗読し、賞賛の歓声を受けた。ポール・ヴェルレーヌの紹介だった。しかし、ランボーは誌人たちとなじめなかった。
著者は私とフランス語をともに学ぶ仲間です。先に上梓していた『ロッシュ村幻影』を大幅に修正し、再構成してまったく新しい本となり、贈呈をうけました。
アルチュールは、幼少のころから教会に反抗し、神を愚弄し憎悪していたと言われている。そして、最期のとき、アルチュールは弱りきった肉体のかすかな力で、それでも必死の力で反抗した。何のために己は存在して生きてきたのか。俺は神を信じない。しかし、神が存在するなら、それを激しく憎む。そして、己の存在をも憎む。しかし、司祭は、アルチュールの中に深い信仰心を見た。
なかなか不可解なやりとりです。これが神への信仰の本質なのでしょうか…。宗教心の乏しい私には理解できません。
(2022年1月刊。税込1650円)

アウシュヴィッツ生還者からあなたへ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 リリアナ・セグレ 、 出版 岩波ブックレット
13歳のとき、ユダヤ人少女としてアウシュヴィッツ強制収容所に送られ、そこで父と死別し、死の行進もなんとか生きのびたというあまりにも苛酷な体験を90歳になって最後に語った内容が小冊子になっています。わずか50頁ほどのブックレットですが、これまで私が読んできた多くのアウシュヴィッツ強制収容所の実情を紹介する本にまさるとも劣らない強烈な内容です。
著者は映画『ライフ・イズ・ビューティフル』を批判しています。強制収容所に夢なんてないし、家族のドラマもない。小さな子どもは働けないから、収容所に着いたら、すぐ殺された。子どもが母親と再会するのもありえないし、おとぎ話にすぎない。あり得たことは、ただひとつ、「死」だけ。まあ、そうなんでしょうね。でも、映画としては、やっぱり救いがほしいわけです。
収容所では眠った。眠りにつきたかった。外の音なんて聞きたくなかった。何も感じたくなかったし、何も知りたくなかった。日に日に心を閉ざし、自らの感情を殺した。焼かれる死体の山など見たくなかった。理由もなく罰を受け、ガス室に送られる人たちの姿など見たくなかった。知りたくもなかった。こんなところにいたくなかった。自らの中に閉じこもり、考えるのをやめた。
女性は誰も生理がなくなり、下着もはいていなかった。女性としての尊厳を奪われ、人間性を否定された。そんな状況では、自ら感覚をまひさせ、考えることをやめ、生きのびることだけを欲するしかなかった。
私たちはみな、友だちを失うことを恐れていた。友情を求めることをやめた。その友だちをいずれ失うことが怖かった。だから、ひとりでいることを選んだ。ただ怖かった。すべてを失ったあと、また何かを失うのが怖かった。
収容所の中で、助け合いや友情というものは、残念ながら、なかった。あんな状況で友情を築くなんて、とても難しいこと。
誰もが死の恐怖をかかえていた。「はい」と言っても、「いいえ」と答えても殺された。冷酷な支配者が望むような、もはや「人」とは呼べない、卑劣なエゴイストに変わっていった。
収容所で自ら死を選んだ人はごくわずかだった。誰もが生きようとした。生きること、ここを出て生きのびることを選んだ。
外の世界のことを思い浮かべた。遊びに夢中になってはしゃぐ子どもの声、子猫のこと、緑の野原と白い雲、そして美しい何かを思いうかべた。
収容所という恐ろしい場所には、人を自己中心的にさせ、人間性をうしなわせるよう仕向けるものだった。その瞬間だけを考えて生きていた。
「死の行進」で、誰も手を貸す人はいないし、誰かにすがろうともしなかった。途中で死んだ馬を見つけると、爪を立て、歯を使い、そこらに落ちていたものを手にして、死んだ馬の肉を生のまま食べた。食べられそうな部分を見つけ、少しずつ飲み込み、なんとか胃の中にのみ下した。そのとき、人間性は死んでいた。そうしてでも生きのびたかった。
「死の行進」のとき、道のわきに茂る木に手をのばし、葉をむしりとって口に入れた。栄養失調のため歯ぐきがうんで歯はぐらぐらしていた。葉っぱをかむのも大変なので、葉っぱの成分をすするようにして飲みこんだ。
ドイツの敗戦が明らかになり、収容所の所長が制服を脱いで下着ひとつになって拳銃を投げ捨てた。拾って所長を殺すこともできる瞬間だったが、彼女はしなかった。愛しか知らずに生きてきた彼女は、自分が人に対してひどい振る舞いをする人間ではないことを思い出し、所長を殺すことはしなかった。これが生まれ変わる瞬間だった。
そして、15歳のとき解放され、18歳で夫となるべき彼と知りあい、20歳で結婚し、90歳までの30年間、自らの体験を語った。無関心と無知を今の若い人々に克服してほしいと訴えていますが、これにはまったく同感です。
いやあ、すばらしいスピーチです。2020年10月9日の彼女のスピーチはイタリアのコンテ首相、外務・文部各大臣、上院議長なども会場にいて耳を傾けていて、イタリア国営放送は生中継したというのです。これまたすばらしいことです。日本のNHKに、こんなことができるでしょうか…。ぜひ、やってほしいものです。ぜひ、あなたも手にとってご一読ください。わずか63頁、ワンコインほどで買える冊子ですから…。
(2022年11月刊。税込572円)

チェチェン化するロシア

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 真野 森作 、 出版 東洋書店新社
ポスト・プーチン論序説というサブタイトルのついた本です。
チェチェン共和国は、人口百数十万人、岩手県と同程度の面積。首長ラムザン・カディロフの独裁政治が長く続いている。
小さなチェチェンは、ロシアの命運を左右してきた歴史がある。プーチン、ロシア大統領が2000年に最高権力を握るときの鍵となったのがチェチェンだった。身近な場所でのテロに脅えていたロシア市民にとって、プーチンは「仲間のように気さく強い指導者」の登場だった。
チェチェンの首長カディロフはプーチンに個人的忠誠を誓い、見返りに首長の地位と地域統治のフリーハンド、連邦予算の投入を得ている。通算4度目のロシア大統領当選を果たしたプーチンにとって、大事なのは忠誠と安定であり、チェチェン内部がどうであろうと関係がない。
チェチェンでは、プーチンへの忠誠やロシアに対する愛国心が強調される反面、イスラム教とかカディロフへの個人崇拝が合わさった黒色の文化が形成されつつある。
チェチェン人は、コーカサス最古の民族の一つ。イスラム教を受容したのは17世紀以降で、比較的最近のこと。「スーフィー」と呼ばれるスンニー派のイスラム教新主義の進行が主流。歴史的にチェチェン社会は150ほどのテイブと呼ばれる民族、父系の血縁集団を基盤としている。
2002年10月のモスクワ劇場占拠事件(人質100人以上が死亡)、2004年2月のモスクワ地下鉄爆破テロ(40人以上死亡)、同年8月の旅客機2機の爆破テロ(90人死亡)、同年9月の北方オセアチア・ベスラン学校占拠事件(400人死亡)と、相次ぐテロ事件が起きた。また、現首長の父親のアフマト・カデイロフも2004年5月の爆弾テロで死亡している。
カデイロフ首長は、嘘や心にもないことを平気で語る。大言壮語や過激な脅し文句をよく口にする。存在感を誇示し、注目を集めることを好む。プーチンとの関係が生命線だと自覚しているため、忠誠心を露骨にアピールする。これって、関西で注目を集めている地域政党のリーダーたちによく似ていますよね…。
カデイロフは反対派を許容できない。狡猾(こうかつ)で、自分との競争相手は全部排除した。犯罪に対しては、犯人本人だけでなく、家族全員が罰せられる。
カデイロフは、自分の私的な親衛隊、カデイロフツィをもっている。武装した彼らは4万5千人もいて、治安当局とともに強権的な統治を支えている。
チェチェンには人権が存在していない。唯一の法律が首長カディロフの命令。
チェチェンは、全ロシアでもっとも失業者が多く、もっとも平均時給が低い地域だ。
チェチェン共和国の予算はロシア連邦中央の支援に依存している。共和国予算の8割がロシア連邦からの補助金で占められている。
チェチェンがらみでプーチン政権やカデイロフ体制を批判する政治家やジャーナリスト、活動家が暗殺されてきた。
チェチェンの民主化は、はるか彼方にあるようだというのが、本書を読んだ率直な感想です。
(2021年9月刊。税込2530円)

小説ムッソリーニ(下)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 アントニオ・スクラーティ 、 出版 河出書房新社
なぜか戦後日本ではムッソリーニは人気がない。悪玉としてヒトラーは一流の人物として評価されているのに、ムッソリーニは二流とみなされている。これは訳者があとがきに書いている文章ですが、そのとおりです。ムッソリーニについて日本人はよく知らない人が多いのではないでしょうか。ファシスト、黒シャツ党。そして、敗戦後、一時はナチス・ドイツから救出されたものの、結局は民衆のリンチにあって逆さま吊りで殺された。私もその程度の知識しかありません。
ところで、ファッショとは何か…。イタリア語では「東」とか「まとまり」を意味する。要するに、集団、団体の意味。議会外の戦闘的な運動によって政治に変革をもたらそうとする勢力を指す言葉だった。ファッショは「細い木」を意味すると書いた本があるが、それは間違いだと訳者は断言しています。
1922年10月ころ、イタリア共産党はファシストに打ち負かされ、社会主義者と袂(たもと)を分かち、内部は分裂をかかえていた。共産党の多数派は「統一戦線」に反対していた。民主主義とファシズムは同意語だった。このころ、イタリア共産党のもっとも明敏な知性を有するアントニオ・グラムシは最悪の健康だった。
1922年11月、ムッソリーニの率いる国民ファシスト党の議席は35だけなのに、イタリア議会は議会の信用を失墜させたムッソリーニ政権を圧倒的に信任した。賛成306、反対116、棄権7だった。
公衆の前に姿をさらしているときは、常に頑強な専制君主のポーズを崩さないムッソリーニも、ひとたび私的な場にとじこもれると、苦悩にもだえ、ささいなことに腹を立て、ぐずぐずと煮えきらない態度を示すことも珍しくなかった。
ムッソリーニは、正規の王国軍とは別の特定政党に従属する第二の軍隊の創設を目ざした。
ここではムッソリーニ首相への忠誠のみが紐帯(ちゅうたい)となる。ただ、これはかつての仲間たちから不評だった。
1924年5月の選挙で、ファシスト党の名簿の得票率は実に65%。有権者は、われ先にとファシスト党に票を投じた。社会主義者は123議席から46議席へ大きく減らした。わずか共産党のみが15議席から19議席は増やした。ところが、ファシスト党の内部で抗争が起きて、勝利を台なしにしつつあった。
ムッソリーニは不安だった。政敵ジャコモ・マッテオッティを抹殺するしかない。ファシスト党のトップグループたちが白昼、路上でマッテオッティを拉致し、車に乗せて連れ去った。目撃者となった少年の話は具体的かつ詳細だった。ファシスト党の財務部長は拉致犯たちに2万リラを渡していた。マッテオッティ失踪は直ちに大きなニュースとなった。
議会でムッソリーニは憤りと恐れで一杯の議員たちに迎えられた。自分たちも一歩間違えば王国の首都の中心で、白昼堂々、暴行され、誘拐されるかもしれないという心理が議員たちを襲った。そして、政治的な立場に関係なく、広く怒りが共有され、ファシスト党の内部をふくめ、いたるところから抗議の声が上がりはじめた。いたるところで、怒りが沸騰した。
突然、ムッソリーニのまわりに空白ができた。義勇軍は動員をかけてもろくに反応しなかった。町では市民がファシストのバッジをはずした。それでも6月26日、上院はムッソリーニ政権を信任した。賛成225,反対21,棄権6。政府は圧倒的に信任された。これでムッソリーニは、なんとか事態を乗りこえられる、党をふたたび掌握できると思い直した。
8月、マッテオッティの無惨な遺体が森で発見された。ファシズムに背を向ける人々が増えた。はじめに動いたのは、ファシズムを支えていた大企業家たちだった。自由主義者たちも距離をおくことにした。
そこで、ムッソリーニは、議会は政権が必要と判断した場合にのみ召集されることになった。ファシズム独裁が始まった。
ファシズム独裁というのは、ドイツでもイタリアでも、むき出しの暴力、凶暴な集団による暴行が横行するなかで誕生する(した)ということがよく分かる本でした。
(2021年8月刊。税込3135円)

ヒトラー(その2)

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 芝 健介 、 出版 岩波新書
1933年のヒトラー首相の誕生は、棚ぼた式に舞い込んだ僥倖(ぎょうこう)だった。1933年は権力安定には不安定な局面が続いた。ナチ大衆(ナチ党を支持する民衆)は、全国のユダヤ系商店や百貨店への攻撃を開始した。ナチ大衆の暴力が激化したが、それは、ナチ党機関紙や集会で煽動されたものだった。
1933年5月、左翼の抑圧、国会の屈服、ユダヤ人排除の次は諸政党の解体だった。7月にはナチ党以外の全政党が消滅した。また、ドイツにおけるカトリック教会の存続は認められたが、聖職者が政治に関わることは禁止された。
ヒトラーは内閣の閣議を1938年2月に開かれたのを最後とし、開かなかった。法の制定は合議によらず、回覧方式となった。そして、ヒトラー自身は命令をサインして文書に残すのを避けた。
ヒトラーは、政権を握ると、国防費をみるみる増大させた。ドイツの国防軍の支出は財務省の予算統制から除外され、国民の眼から見えなくされた。国家支出総額に占める国防軍支出の割合は、1933年の41%。34年の18%、36年の39%、そして38年には50%へと急伸した。いやあ、これはたまったものではありませんよね。いま、日本の軍事予算は5兆円を軽く突破して6兆円へと近づいています。自民党タカ派は、これを10兆円にしろと要求しています。もちろん、福祉・教育予算を削るのとだきあわせです。「人材」育成はお金をかけずに管理・統制でやって、戦争のための武器・装備には湯水のようにお金をつぎこんでいる日本の現状と同じです。軍事予算の急増させていったため、1938年8月ころ、ドイツの国家財政は危機に瀕していた。ついに財務大臣がたまりかねてヒトラーあてに警告した。こんな国家破産を国民に見すかされないよう、ヒトラー政府は躍起となった。
そのとき、1938年11月、「水晶の夜」が発生した。ヒトラーは崩壊寸前の国家財政状態を、ユダヤ人と非占領地住民に背負わせて隠蔽することにした。つまり、ヒトラーによるユダヤ人絶滅策の推進と、オーストリアやポーランド侵攻は、軍字予算の野放図な増大による国家財政危機を乗りこえる方策でもあった。
ヒトラー・ドイツの戦争方式は「電撃戦」として有名です。機械化された機動部隊による、敵軍の抵抗を即刻粉砕するもの。空軍と陸軍(わけても装甲部隊)の一挙投入による速攻で、最短期間に勝利を得ようとする奇襲作戦というイメージが強烈です。しかし、近年では、実は、そのイメージほどのことはなかったとする研究成果が次々に発表されています。長期総力戦の準備がされないままヒトラーの指導により戦争に突入したのが、ヒトラー・ドイツ軍の実際だったというのです。ここでも、言葉のイメージにひきずられてはいけないようです。
ヒトラー52歳のときに始めた対ソ連攻撃のバルバロッサ作戦は、ボリシェヴィズムは殲滅すべきものと宣言したものだった。人種とイデオロギーにもとづく忌まわしくも犯罪的な絶滅戦争にドイツ国防軍は関わらされた。道義性をかなぐり捨てた無法の戦争だった。
ヒトラーは、戦前は神格化され、カリスマ的指導者像、総統神話だったが、敗戦後は、180度逆転して悪魔視されるようになった。そんなヒトラーが精神病にかかっていたというのは否定されている。
ヒトラーは、慢性の胃腸の不調、けいれんによる痛みをかかえ、また、足には、ひどい湿疹に苦しんでいた。ヒトラーにはお抱え医師がいた。ヒトラーが自殺する直前までの8年半のあいだヒトラーに投薬していた内科医のモレル医師だ。頭痛、不眠、耳鳴り、めまい、視力障害等をさまざまな病気と結びつけて思い悩む心気症的傾向の強かったヒトラーに、モレル医師は、ブドウ糖やホルモン、ビタミン等をふくんだ注射ですぐに効果を感じさせる治療法で好印象を与えた。
モレルは、麻酔剤、刺激剤、睡眠薬、催眠剤等を多用し、ヒトラーを薬漬けにしていった。ヒトラーの演説時には、メタンフェタミンなど、中枢神経を刺激する興奮剤も用いた。
ドイツ軍は、自軍兵士にメタンフェタミンの戦時覚醒錠剤を配布・服用させていたことも明らかになっています。ただ、この本では、モレル医師の薬調合は不適切であったことを指摘すると同時に、ヒトラーにはパーキンソン病の進行があったとしています。
ヒトラーには、私的(個人的)生活がないに等しく、ヒトラーから政治を差し引いたら、ほとんど、いや何も残らない。このようにヒトラー研究者たちは見ているようです。いわゆる家族生活がなかったのです。それに代わるものとして、ヒトラーを取り巻く「内部集団」があり、それが重要な「代替家族」機能を果たしていたと推測しています。まあ、人間的には、とても寂しい生活だったというわけです。
ヒトラーは日記をつける習慣がなかったし、私的な文書を残さないよう意識していた。
ヒトラーは56歳で死亡していますが、スターリンと並んで大量の罪なき人々の明日を奪い、奪い尽くしたという点では、悪魔の所業をした「奴」(あえて人間とは言いません)として歴史の記憶の残すべき人物、忘れてはいけない人物だとつくづく思います。
(2021年10月刊。税込1276円)

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