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カテゴリー: ヨーロッパ

ドレスデン爆撃1945

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 シンクレア・マッケイ 、 出版 白水社
 都市住民への無差別空爆を世界で初めて始めたのは日本軍。そしてアメリカ軍も1945年3月10日の東京大空襲で、一夜にして10万人以上の死傷者を出しました。日本の木造家屋を焼き尽くすために焼夷弾を念入りに開発・改良して実行に及んだのです。それを指揮したアメリカのカーチス・ルメイ将軍は戦後、日本より勲一等を授与されました(その名目は航空自衛隊の育成に貢献したこと)。罪なき日本人を10万人以上も殺傷した「敵」軍に勲章を授与するという日本政府の神経が信じられません。アメリカのやることなら何でもありがたがる、自民党政府の奴隷根性がよくあらわれています。
 さて、この本は同じ1945年2月13,14日に英米空軍の猛威爆撃によってドレスデンが灰燼(かいじん)に帰した前後の状況を描いたものです。
 ドレスデンはドイツ南部の都市、オーストリアに近い。しかし、かつてのナチス・ドイツの領土としては、中心部に位置する。そして、ヒトラー・ナチスの政策を早い段階で熱狂的に受け入れていた都市でもある。
 終戦のわずか数週間前、1945年2月13日の一晩に、英米空軍の爆撃機796機が飛来して、「地獄の門を開いた」。この地獄の一夜で、2万5千人もの市民が殺された。
 ソ連軍のドイツ進攻によってアウシュビッツ強制収容所が解放され、ユダヤ人の大量虐殺の事実が明るみに出たのは、この少し前の1月27日のこと。
 ドイツの戦争遂行意思をなくすためには、産業施設に限定することなく、都市の破壊、労働者の殺害そして、共同体生活を崩壊させること。イギリスの爆撃機軍団のサー・アーサー・ハリス大将は、そう主張した。
 爆撃は、まず照明弾投下機が一番に飛ぶ。一番に濃線色の照明弾を投下すると、明るい白色の棒状の焼夷弾が滝のように落ちていく。後続機が、赤い照明弾を落とす。そして、橙色、青、淡紅色がそれぞれ違った目標の目印となる。航空機乗組員は、みな志願兵だった。しかし、みな神経がずたずたになっていく。そして出撃中毒にもなる。
 爆撃機はドレスデンの3千から4千メートル上空から、木造建築の内部と周囲に火をつける目的で、2種類の殺傷兵器を投下した。まず重さ1.8トンのブロック・バスターあるいはクッキー爆弾。路上にいた者は、みな爆発で発生した火で瞬時に炭化し、着衣を焼き尽くされ、裸の遺体が地面に残される。
 第一波の爆撃機244機とモスキート9機は、15分間のうちに、880トンの爆弾を投下した。その57%が高性能爆弾、43%が焼夷弾。そして、1.8トンの投下地雷弾などによって建築物が破壊された。数十万の焼夷弾が、さまざまな装置で点火されて次々に投下され、床板、家具、木造梁(はり)、衣類の只中で、ますます燃え盛る炎に燃料を注いだ。
 第二波の爆撃機は552機。1.8トンの「クッキー」、その他の爆弾と焼夷弾、総計1800トンが炎の届いていない地域に投下された。
 この前、B17爆撃機による精密爆撃は、望まれていたほど精密な結果をもたらさなかった。目標から何キロも離れたところに落下した。
 このドレスデン爆撃について、ナチスのゲッペル宣伝相は「テロ爆撃」と非難した。そして、大量の市民を無差別に死に追いやっていいのかという論理的問題として大いに議論となった。ハリス大将は、イギリス王室からの勲章授与には応じたが、政府からの表彰は回辞した。
 イギリス空軍は、5万の搭乗員が戦死した。30回の作戦飛行から生還できた者は3人に1人もいなかった。ドイツ空軍との空中戦は、まさしく死闘だったのですね。
 イギリス空軍の航空機乗組員12万5千人のうち、5万5千人以上が戦死した。
 アメリカ軍の航空兵2万6千人がヨーロッパ戦線で死亡した。猛烈な対空砲火と、零下の気温にさらされ、また酸素不足と凍傷にも苦しみながら任務を遂行していた。
 この精神的重圧をやわらげるため、基地内に楽しく、くつろいだ雰囲気をつくり出す努力が尽くされた。食事はいつも豊富で、故郷で供される種類のパンが提供された。パブに入り、ダンスホールにも行けた。
 ドレスデンの死者は13万5千人をこえ、20万人に達するともみられている。
 ドレスデン爆撃は犯罪なのか…。1960年代のイギリスでは、とりわけ芸術界で、ドレスデン爆撃は邪悪で、恥ずべき出来事だという見解が定着した。
 東京大空襲だって、広島・長崎の原爆投下と同じように戦争犯罪だと私は考えています、カーチス・ルメイ将軍はやはり犯罪をおかしたのであり、日本政府による勲章授与は大きな間違いだと私は考えています。いかがでしょうか…。
 380頁もの大作を久しぶりの北海道行きの飛行機のなかで必死の思いで読みました。
(2022年8月刊。税込4730円)
 
 庭の一隅にフジバカマを4株植えて、花が咲いています。小ぶりの可愛らしい花です。アサギマダラ(チョウチョ)を招こうとしているのですが、まだ来てくれません。九州を縦断飛行中に立ち寄ってくれることを期待しているのですが…。
 チューリップの球根を植えつけはじめました。毎年500本近く植えています。
 いま、エンゼルストランペットが花盛りです。黄色いトランペットがたくさんぶら下がっています。キンモクセイがようやく咲き出しましたが、今年は匂いがまだ弱い気がします。

スコットランド全史

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 桜井 俊彰 、 出版 集英社新書
 スコットランドの歴史を「運命の石」を軸として説明する新書です。
 「運命の石」は、エディンバラ城の宮殿2階に安置されている、重さ152キログラムの直方体の石。サイズは、670×420×265ミリメートル。何の装飾もない。 この「運命の石」が、1996年7月イギリスからスコットランドの700年ぶりに返されたのでした。
イギリスとスコットランドは、伝統的に違いがあるようです。スコットランドアは伝統的に親フランスで、イギリスのEV離脱には一貫して反対した。
 ふえっ、スコットランドって、親フランスなんですか、知りませんでした。
スコットランド人は、ヨーロッパ文明の母体であるギリシアの亡命王子と、その妻であるエジプトのファラオの娘の末裔(まつえい)。いやぁ、これこそ、ちっとも知りませんでした・・・。
 スコットランド人は、ピクト人、ブリトン人、アングロサクソン人、ヴァイキング、ノルマン人などが、時期を違えてやって来て、時間をかけて混じりあうことで、形成された。スコットランド人という単一の民族がはじめから住んでいたのではない。
 それが、イングランドとの13世紀終盤に勃発したスコットランド独立戦争のなかで、自分たちはスコットランド人だというアイデンティティ国家意識をもつようになった。なるほど、そういうことなんですね・・・。
 スコットランドの初めにいたピクト人については今もよく分かっていないようですが、身体中を彩色したモヒカンカットとして映画で描かれたとのこと。ふむふむ・・・。
 スコットランド女王メアリとエリザベス1世女王との確執。そして、やがてメアリによるエリザベス暗殺計画とその発覚、ついにはメアリの処刑に至る話は有名です。
この話も、スコットランドとイングランド、そしてフランスとのつながりの中で考えるべきものだと改めて認識されられました。さらに、処刑されたメアリの息子のスコットランド王ジェイムズ6世が、イングランド王としてジェイムズ1世になったというのです。世の中は、分かったようで分かりませんよね。
 国王の戴冠式にずっと使われ続けてきた「運命の石」なるものがあることを初めて知りましたが、それだけでも、本書を読んだ甲斐があるというものです。
(2022年6月刊。税込1040円)

アンネ・フランクはひとりじゃなかった

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 リアン・フェルフーフェン 、 出版 みすず書房
 アンネ・フランクの『アンネの日記』は、私も、もちろん読んでいます。残念なことに、アンネの隠れ家の現地には行ったことがありません。アウシュヴィッツ収容所にも行っていません。本当に残念です。
 この本は、アンネたち一家が隠れ家に潜む前の生活を紹介しています。立派な高層アパートに住み、大きな広場で、アンネたちは自由に伸び伸びと走りまわり、遊んでいたのでした。そんな楽しそうな息づかいの伝わってくる本です。
 1939年6月12日、アンネが10歳の誕生日を迎えた日に、広場で8人の友だちとうつっている写真が表紙になっています。女の子たちは、みな屈託ない笑顔です。まだ、オランダにまでナチスの脅威はきていなかったのでした。
 アムステルダムには、高さ40メートル、13階建ての超モダンなマンションがあった。それは「摩天楼」と呼ばれていた。そして、その周囲に4階建ての中層アパートが立ち並んでいる。そこにアンネ一家は住みはじめた。
 大勢のユダヤ人がドイツから逃げて住むようになった。広々としたメルウェーデ広場でアンネは友だちと遊んだ。
 ナチスによるユダヤ人迫害が強まり、1935年には、アムステルダムは、ヨーロッパで最大級のユダヤ人居住地となり、6万1千人に達した。その大部分は労働者階級だった。
 1937年の時点でも、オランダのユダヤ人は、ドイツのような迫害がオランダで起きるはずがない、そんなのは、「まったくバカげた考えだ」と言っていた。
 1938年の末、戦争が起きるかもしれないと考え、オランダ国民は念のためにガスマスクを用意した。1万個以上のガスマスクが売れた。
 1940年5月10日、ドイツがいきなりオランダの「中立」を侵犯して攻めてきた。戦争だ。
 1942年、アンネ・フランクは、恐ろしい話を知らないまま、楽しさいっぱいで13歳の誕生日を迎えた。
そうなんです。子どもは、戦争なんて知らないで、そんな心配をせずに毎日を楽しく過ごすのが一番です。でも、ロシアのウクライナ侵略戦争は、それを妨害しています。
 オランダからユダヤ人4万人が強制・絶滅収容所に送られた。1943年6月20日、ユダヤ人一斉検挙で、この地域のユダヤ人たちが広場に集められている様子をとった写真があります。この日、アムステルダムだけでも捕まったユダヤ人は5500人もいたのでした。
そして、ユダヤ人一家が退去させられると、そのあとすぐに「ヘネイケ隊」と呼ばれる集団が入りこんで、目ぼしい家財道具を運び出して、私腹も肥やすのです。
戦後まで生きのびたアンネの父・オットー・フランクは、ひどく弱ってしまい、体重はわずか52キロだった。そして、隠れ家に残されていたアンネの日記を手渡されたのでした。日記を読むと、自分の娘として知っている少女とはまったく異なるアンネがそこにいた。知人は、「少女の書いた日記って、そんなに面白いものなのかね…」と疑問を口にしたという。
いやあ、そうなんですよね。でも、「アンネの日記」を読んで心を動かさない人がいるでしょうか…。私は、ベトナム戦争のときに書かれた『トゥイーの日記』(経済界)も、ぜひ多くの人に読んでほしいと考えています。これまた、すごい日記なんです。ぜひぜひ読んでみてください。
(2022年6月刊。税込4620円)

ザ・ナイン

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 グウェン・ストラウス 、 出版 河出書房新社
 フランスでナチス・ドイツに対するレジスタンス活動をしていた女性が次々にナチスに捕まり、強制収容所に入れられました。この本のメインは、強制収容所に入れられた9人の女性たちが共に脱出して、生きてフランスに帰りついたという奇跡的な実話を紹介しているところです。
 彼女たちは20歳から29歳。ユダヤ人ではありません。若さと団結の力で死を乗りこえて生還したのです。彼女らはとても幸運だったと言えますが、その幸運を勝ちとる涙ぐましい努力もあり、単に運が良かったというだけではありません。
フランスでレジスタンス活動に身を投じているうちに逮捕され、収容所で囚われの身になっていた女性9人が、ソ連軍の侵攻によってナチス敗戦間近の1945年4月15日、強制収容所からの移動中に脱出を決行。連合軍との前線を求めてさまよう逃亡の旅は、いかにも危険にみちています。そこを知恵と工夫、そして、それを支える固い友情の絆、苦境さえ笑い飛ばすユーモア、そして時に歌声。何より生きのびようとする強い意思があったのでした。まったく知らない話です。
 リーダー役をつとめるエレーヌは、ソルボンヌ大学出身の技術者。5ヶ国語を話した。最年少のジョゼは20歳で、養護施設の出身。美しい歌声で聴く人をうっとりさせた。
 偵察役をつとめる人、勇敢さで優る人、グループの調停役の人。いろんな個性の若い9人の女性が助けあいながら脱出行を遂げていく様子が見事に紹介され、心を打たれます。しかも、それが悲愴感があまりなく、むしろ読んでほっこりしてくるのです。
 収容されたのは、女性専用のラーフェンスブリュック強制収容所。アウシュヴィッツほどではありませんが、ここでも大勢の人々が「焼却処分」されています。少なくとも4万人が犠牲になったとのこと。
 この本に紹介されるソ連兵(女性)のエピソードはすごいです。
 ナチスから「散弾銃女」と呼ばれた彼女らには英雄のオーラがあった。自分たちの兄弟を殺すための銃弾はつくれないと、軍需工場での労働を拒否した。自分たち捕虜は、ジュネーブ条約の下、軍需品の製造を強制されないはずだと主張したのだ。収容所当局は、その罰として、また抵抗手段として、彼女らを何日も屋外に立たせて、水も食糧も与えてなかった。それでもソ連兵たちは挫(くじ)けない。ナチス親衛隊は怒り、そして驚嘆した。結局、ナチス親衛隊のほうが折れて、ソ連兵たちは、厨房での仕事を与えられた。うひゃあ、すごいですね。そんなことがあったなんて、ちっとも知りませんでした。『戦争は女の顔をしていない』に通じる話です。
 ある日曜日の午後、点呼広場で点呼されているとき、赤軍兵士たちが、ぱりっとした服装で、一糸乱れぬ行進で広場に入ってきた。そして広場の中央までくると、兵士たちは赤軍の軍歌をうたいはじめた。大きく澄んだ声で、次々と、何曲も歌った。
いやあ、すごい、すごすぎますね。人間の尊厳を感じさせられます…。
ソ連兵たちは、クールで、排他的で、寡黙なエリート集団だった。
そして、もう一つ。強制収容所にいる女性たちのあいだで大人気だったのは、料理レシピとその口頭での解説。強制収容所のなかでは、誰もが空腹であり、飢えていた。しかし、また、だからこそレシピを聞くと、つかのまの慰めを見出した。話は材料のリストに始まる。順を追って料理の作り方を説明していく。規則的で体系的なレシピは、たとえ一時的であっても、安心をもたらした。つらい話はならない。食べ物に関する思い出話なら、それほど辛い気持ちにならず、人間らしさを取り戻すことができた。
強制収容所がアメリカ軍やソ連軍によって解放された直後の数日で、多くの被収容者が死亡した。ベルゲン・ベルゼン収容所だけで1万5千人も亡くなった。なんとか生きながらえてきた人が、解放されたとたん、安堵のうちに死んでいった。
収容所でナチスの将校の前で裸にさせられたことが、いつまでもトラウマになったという女性がいます。
「私は、自分の体が好きではない。男に、それもナチスの男に、初めて見られたときの視線の跡がいまだに残っているような気がするから。私は、それまで一度も他人の前で裸になったことはなかった。乳房がふくらみ、体が変わり始めたばかりの少女だったのに…。以来、私にとって、服を脱ぐことは、死や憎しみを連想させるものになった」
とてつもない勇気と必死に生きる意思を、そして人間らしいとは何かを感じさせる、元気に出る本でした。
(2022年8月刊。税込3135円)

アウシュヴィッツのお針子

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ハーシー・アドリントン 、 出版 河出書房新社
 アウシュヴィッツ収容所の所長の妻などが、自分たちの服を見栄えよく仕立てるために、アウシュヴィッツ絶滅収容所に収容された若いユダヤ人女性たちを働かせていた実話です。彼女らはアウシュヴィッツ収容所から生きのびて、長寿をまっとうした人もいたのでした。
 アウシュヴィッツ収容所にファッションサロンがあり、このサロンのお針子の大半はユダヤ人。他に、政治犯で裁縫のできる女性もいた。これらのお針子たちは、友情とまごころの強いきずなでナチスに抵抗し、生き永らえることができた。しかも、親衛隊幹部夫人のために立派な服を仕立てるだけでなく、レジスタンス活動に加わり、なかには逃亡の計画を立てる女性たちもいたというのです。成功したケースも、失敗したケースもありました。
ナチス上層部の女性は、ナチスと同じく衣服を重要視していた。たとえば、ゲッペルス宣伝相の妻マクダ・ゲッペルスは、ユダヤ人のこしらえた衣服を臆面なく身につけていたし、国家元帥ヘルマン・ゲーリングの妻エミー・ゲーリングも同じくユダヤ人から略奪した豪華な衣服をまとっていた。
 アウシュヴィッツに婦人服仕立て作業場を設けたのは強制収容所のルドルフ・ヘス所長の妻ヘートヴィヒ・ヘス。このサロンのお針子の大半はユダヤ人。そのほか占領下フランスから送られてきた非ユダヤ人のコミュニストもいた。彼女らは、ヘス夫人をはじめとするナチス親衛隊員の妻たちのために型紙を起こし、布を裁断して縫いあわせ、装飾をつけ、美しい衣服をつくっていた。お針子たちにとって、縫うことは、ガス室と焼却炉から逃れる手段だった。
このサロンには総勢25人の女性が働いていた。サロンを指揮するのは、1942年3月に入所したハンガリー出身のマルタ・フフス。人気のファッションサロンを経営していた一流の裁断職人。お針子の大半は10代後半から20代はじめ。最年少はわずか14歳。サロンには十分な仕事があり、ベルリンからの注文でさえ、6ヵ月待ちだった。注文の優先権は、もちろんヘス夫人にあった。
 ファッション業界と被服産業からユダヤ人を追い出すことは、ユダヤ人主義が偶然もたらした副産物ではない。明確な目標だった。両大戦間のドイツでは、百貨店とチェーンストアの8割をドイツ系ユダヤ人が所有していた。また繊維製品卸業者の半数がユダヤ系だった。衣服のデザイン、製造、輸送、販売に携わる被雇用者の大きな役割をユダヤ人労働者が占めていた。ユダヤ人実業家の実行力と知力があったからこそ、ベルリンは1世紀以上ものあいだ女性の既製服産業の核とみなされてきた。
 ゲッペルスの妻マクダは、ユダヤ人のファッションサロンが閉鎖されたことを嘆いた。「ユダヤ人がいなくなったら、ベルリンからエレガンスも失われるってことを、みんな分かっているはずなのに…」
 戦後、生き残ったユダヤ人たちに対して、「なぜ抵抗しなかったのか?」と尋ねたときに返ってきたのは…。「起きていることが信じられなかったから」
 アウシュヴィッツ収容所から幸運にも逃げ出した人が外の世界で収容所内で起きていることを伝えたとき、人々の反応は「まさか、そんなこと、信じられない」というものでした。人間は、想像外の出来事については、まともに受けとめることができなくなるようです。
 衣服は人を作る。ぼろ切れはシラミを作る。衣服は尊厳と結びついている。後者はシラミが不潔な環境で湧くこととあわて、ぼろ切れをまとった人はシラミ扱いされることも意味している。収容所の外でも中でも、見た目がすべてなのだ。清潔で、まともな衣服は、人間であるという感覚を回復させてくれた。
 収容所の中では、ハンカチ、石けん、歯ブラシは、とくに重宝された。薬は金(きん)よりも貴重品だった。
 ファッションサロンの責任者である親衛隊女性エリーザベト・ルパートは驚くほど親切な看守だった。お針子たちに好意的に接したら、仕事の合間に、無料で服を縫ってもらえた。ただ、ほかの親衛隊女性隊員から不満の声が上がってビルケナウへ異動させられた。そして、異動先では威張りちらす残忍な人間と化した。場所によって、人間は良くも悪くも変わるのですね。
 お針子のノルマは、最低でも週に2着は注文のドレスを仕立てること。すべて無料でありながら、高級服仕立て作業場の仕事はきわめて質が良く、マルタの品質管理の目が行き届いていた。
 親衛隊の顧客は、その見返りとして、食べ物の余りやパン、ソーセージをもってきた。
 病気すると、レモン、リンゴそして牛乳が届けられることがあった。
 アウシュヴィッツに関する本はそれなりに読んできたつもりでしたが、このジャンルは欠落してしまいました。関心のある方に、ご一読をおすすめします。
(2022年5月刊。税込2475円)

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