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カテゴリー: ヨーロッパ

羊皮紙の世界

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 八木 健治 、 出版 岩波書店
 羊皮紙が誕生したのは紀元前2世紀に現在のトルコ西部。そして、古代世界の中心地ローマに輸出するまでになった。パピルスよりも丈夫で、そのうえ羊はどこにでもいるという手軽さから、羊皮紙はまたたく間に広まった。
 現在でも、世界30ヶ所で羊皮紙は作られている。
 羊皮紙がフツーの紙と違うのは、一枚一枚に、かつて動物の命が宿っていたということ。
 羊は皮膚にラノリンという脂分を多く含んでいるため、その脂分が酸化して、いくらか黄色っぽくなっているのが特徴。
 羊皮紙といっても、3種類ある。一つは羊。二つ目は生後6週間以内の仔牛。三つ目は山羊(ヤギ)。
 羊皮紙をつくる過程では、ツーンとしてすっぱい臭いと、どよーんとした腐敗臭が鼻をつく。1頭の羊から約1ヶ月かかって出来るのは、A4サイズで4枚だけ。この1枚が3000円ほどする。18世紀フランスの記録には、1枚が1リーブル、つまり500円から1000円ほどだった。
 羊皮紙の平均的な厚さは、千円札3枚を重ねたくらい。
 羊皮紙づくりは、部厚い皮をひたすら削っていく作業。薄くするほうが大変。
 羊皮紙には穴空きは仕方のないこと、もとから動物の皮は空いていたもので、作製造上での職人のミスではない。
 羊皮紙には、印刷用の油性インクが染み込みにくいため、紙と比べると、印刷後のインクの乾燥にかなりの時間がかかる。羊皮紙の表面をツルツルにしておくため、メノウなどの表面が滑らかな石で入念に磨かれる。
 羊皮紙という知らない世界を少しだけのぞいてみた気がする本でした。
(2022年8月刊。税込3190円)

パピルスが語る古代都市

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 ピーター・パーソンズ 、 出版 知泉書館
 1897年、パピルスがエジプトの都市の周りの、砂で覆われたゴミ捨て場から出土した。
 パピルスの残存に必要なのは乾燥。エジプトの中部と南部では雨がほとんど降らず、砂に守られ、滅失しやすい遺物(パピルス)が数千年間も保存することができた。
 1897年に発見されたのは「イエスの御言葉」。
 エジプトのプトレマイオスの王国は、土地と職業に課税した。たとえば、ブドウ園と果樹園の収穫の6分の1が税として徴収された。油、塩、ビール、亜麻、パピルスなどの重要な生産物や輸出品は、国家が独占して売買するか、管理した。
 ローマ帝国のなかでも、豊かで肥沃で攻めるのが難しいエジプトは傑出した存在であり続けた。エジプトは都市ローマが必要とする小麦の3分の1を供給し、皇帝位を狙う人物の拠点となりえた。
あまり教育を受けてない者たちは、エジプト人のアクセントで話し、子音のLとR、またDとTを区別できなかった。こりゃあ、まるで日本人ですね。
 ミイラづくりにはお金がかかった。遺体をミイラにする処置のための費用は高かった。肖像画は生前に描かれ、死後にミイラの棺に差し込まれた。ミイラ肖像画は、古典古代世界から残存する、ほぼ唯一の肖像画。
 口絵写真に何枚かの肖像画が紹介されていますが、とても鮮明な人物画です。
 パピルス紙は、書物や記録簿のような長いテキストや日常生活に用いる短いテキストのために使われた。ナイル河谷では、貧乏人でなければ、パピルス紙は豊富に手に入れられた。
 パピルス紙の製造は、まず、パピルスの茎を収穫し、皮を剥ぎ、髄組織の内部を長く切り、スライスして、薄く細長い短冊状にする。短冊を互いに接するように平らに並べ、その上に別の層をつくるように直角に短冊を置く。この2層を押し合わせると、樹液の多い髄が融合し、隣りあう短冊が、そして上下の層が結合して、柔軟で滑らかなシートができあがる。
 文字を書くのはエジプトでは古くから行われていて、高い名声を伴っていた。神官と官僚は、ファラオの王国で職務を果たすため、書くことを求められ、異なる形の複雑な文字を習得した。
 国家は現金と穀物の形で税を求めた。それを得るためには、農民と地方の役人の労働を必要とした。なので、土地台帳、税の会計、そして定期的な戸口調査からの情報という詳細で精緻な記録に頼っていた。大量のパピルス紙、文字を書く習慣、そして増大する官僚制のおかげだ。
 浴場は、旅行者だけのものではなく、むしろ市民生活にとって重要だった。
 家にはトイレがない。家具として尿瓶(しびん)や室内用便器があった。
 都市には、エリートが存在した。都市社会のピラミッドの頂点には、公職者と都市参事会が君臨していた。
 相続により財産の集積も分散もあった。
競技祭は、都市生活にさまざまな影響を与えた。市民も競技祭に参加し、代理としてであれ、栄冠を手にする機会を得た。
 ローマ皇帝はファラオ。つまり、君主であり、神だった。ほとんどの皇帝はエジプトに姿を現さない神という存在だった。
 パンは、たいてい自家製。パンづくりは伝統的に女性の仕事で、裕福な家では女奴隷が担い、早起きが必要だった。
 手紙の形式には流行があった。プトレマイオス朝時代のギリシア人は横に長く縦に短い紙に短い手紙を書いた。ローマ時代には、横が短く、縦長の紙が好まれた。
 パピルスを判読していった学者・研究者のみなさんの地道な努力には、今さらながら心からの声援を送ります。
(2022年8月刊。税込5500円)

兵士の革命、1918年ドイツ

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 木村 靖三 、 出版 ちくま学芸文庫
 1915年から始まった食糧配給制は、二重の意味で戦時体制の維持に打撃を与えた。一つは、不十分な量に対する不満。第二に、食糧統制が、巨大なヤミ市場の存在(生産量の3分の1がヤミに流れた)によって制度の実効性に疑義が出され、高額なヤミ価格に手の出せない労働者や低所得者層の反発は一層つのった。すなわち、「平等な」制度が、かえって社会の不平等を他の統制制度の不備を際立たせる目安として作用した。社会対立は、飢えた者と飢えざる者の対立として現れた。
 重工業の大企業には黄色組合(御用組合)が多かった。経営側と、その御用組織は、末端の労働者にとって、いずれも敵だった。
 1918年以降、ドイツ軍の兵士たちが集団的に前線への移動を拒否した。
 事実上の叛乱だが、軍当局は叛乱とすると、兵を逮捕し、それによって前線行きを免れさせることになるのを懸念して、ともかく部隊を前線に送り出すことに全力をあげた。そのため護送部隊が付いていった。
 ドイツでは、将校の権威が急速に低下していった。高級将校が街頭で脅迫的野次をあびせられ、列車内の軍人用と民間人用の仕切りが無視され、軍人用の席が民間人によって占められるようになった。
 ドイツには、もともと海軍力の伝統はなかった。陸軍の将官が海軍の指令官の地位にあった。軍の主力は圧倒的に陸軍だった。
 海軍将校団は、ブルジョワ層出身者が多数を占めた。主力艦では、比較的高齢の将校が若く未経験の将校が多くなり、乗組員がベテラン化するのと対照的に艦内の士気は低下していった。
 食事は将校用、下士官用、一般兵士用と、別立て。6月初め、戦艦「ルイトポルト」の乗組員が乾燥野菜の昼食を拒否して、ハンガーストライキに突入し、代わりの食事を要求した。そして、叛乱実行の罪で5人が死刑を宣告され、うち2名が銃殺された。
 兵士たちの内情は、乗組員の半数は無関心で、4分の1が憤激し、気の毒な連中に心から同情し、4分の1が即時行動と償いへの覚悟をもっている。死刑という厳罰に震えあがったのは、ごく少数だけ。
 海軍の兵士の不満の根拠は艦内生活への不満であり、将校への増悪だった。
 海軍の水兵は蜂起という行動に気力を見いだし、行動の正当性に確信をもった。緊張感にみちた態度と、それに蜂起鎮圧部隊は圧倒され、解体していった。11月5日、もはや水兵の蜂起に対する組織的抵抗はなかった。市内のゼネストは予定どおり実施された。将校は武装を解かれた。蜂起後の将校団の無抵抗と退却の姿勢はあとあと大きな影響を及ぼした。
 兵士評議会のメンバーは次々に交代した。そして活動的兵士の多くが、早くに軍を離れた。革命を開始し、数日で成功へと導いた海軍水平の大部分は、クリスマス前にはその家族のもとにいた。そして、兵士運動の特徴の一つに外部からの指導・監督を嫌う傾向がある。部隊構成員の意思のみを唯一の行動基準とし、それ以外の権威を認めなかった。領域的自律を志向する陸軍兵士と、横断的に行動する海軍水平は日常的に対立していた。兵士評議会が軍事的な領域から排除して、兵士の苦情処理機関に限定されていった。
 労働者評議会メンバー200人のうち、あとでナチ党のメンバーになったのは2人しか確認できていない。兵士評議会300人のうち48人(16%)がナチ党員が関連組織のメンバー6人が存在していた。
 ドイツ陸海軍兵士による1918年の革命の実際を丹念に詳しく究明していった貴重な労作だと思いました。
(2022年8月刊。税込1650円)

ナチ・ドイツの最後の8日間

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 フォルカー・ウルリヒ 、 出版 すばる舎
 1945年4月30日、ヒトラーは結婚したばかりの妻エファ・ブラウンとともに自殺した。ヒトラーは青酸カリを飲むと同時にピストルで頭(こめかみ)を撃った。そして、あらかじめ頼んでいたように部下たちが、ガソリンをかけて二人の遺体を燃やした。ヒトラーは、盟友ムッソリーニのように死体を広場に吊るされ恥ずかしめられないようにしたかった。
 ソ連兵の一団が総統官邸にやってきて、ヒトラーの遺体を捜索した。スメルシュだ。歯科助手がヒトラーの義歯の特徴と一致していることを確認し、エファ・ブラウンのほうは歯科技工士が合成樹脂のブリッジを見て、彼女のものだと確認した。ところが、スターリンはなかなか納得しなかった。7月のポツダム会談のときも、ヒトラーはまだ生きているという考えに固執していた。最後の瞬間にヒトラーはベルリンを飛び立って、スペインに滞在している、あるいはUボートに乗って日本に逃れたのかもしれない…。疑ぐり深いスターリンならでは、ですね。
 ドイツ東部の町デミンでは自殺が大流行した。家族全員が群れをなして自殺した。毒を飲み、頭に銃弾を撃ち込み、首を吊った。大部分の人は溺死(できし)を選んだ。500人から1000人が自殺した。これほどの自殺者を出した都市町はほかにない。
 ドイツ国民の大部分はヒトラーの死の知らせを聞いても、悲しむことはなく、むしろ無関心だった。神格化されていた総統神話は、戦争末期の日々には急速に衰退していた。ナチズムも本質的な魅力を失った。魔法は消え去り、呪縛は解けた。
 ヒトラーの死によって終戦が間近になったことで、少なからぬ人々がほっとしていた。
 100万人が住むハンブルクではナチスのカウフマンがトップとして君臨していたが、ヒトラーの意向に反して無血でイギリス軍に明け渡すことを決意した。そのことによってカウフマンはいわば英雄となり、収監はされたものの、戦犯として法廷で追及されることもなく、戦後も裕福な市民として余生を暮らした。
 ソ連兵によるドイツ女性の強姦はあまりにも目にあまるものがあった。それは、女性たちをものにすることで敗者に屈辱を味あわせたいという欲求でもあった。
 これに対して、アメリカ兵やイギリス兵の場合には、暴力を使う必要がなく、少なからぬドイツ人女性がドルやタバコ・チョコレートとひき換えに進んで彼らに身を任せた。
 ドイツ軍の捕虜となったソ連人兵士は570万人のうち300万人が死亡したが、そのほとんどは意図的に餓死させられた。アメリカ軍の捕虜収容所で死亡したドイツ兵士は8千人から4万人にとどまる。アメリカ軍は、ドイツ軍のような集団虐殺の意図はなかった。
 マレーネ・ディートリッヒはハリウッド女優として有名だったが、その姉はドイツに残り、ナチス兵士向けの映画館を経営するなどしていた。それを知って、マレーネ・ディートリッヒは、自分は一人っ子として、姉の存在を口にすることはなかった。いやあ、そんなこともあったんですね…。
 ドイツ国民は敗戦後、人間の姿をした悪魔であるヒトラーに従っていただけ、自分たちこそが犠牲者だと考えるようになった。誰もが迫害を受けていたユダヤ人たちを助けていたと主張し、その説明書をもらおうとした。
 ヒトラー死亡後のドイツの様子を丹念に追って、人々の動き、目論見を明らかにした460頁もの労作です。とても読みごたえがありました。
(2022年7月刊。税込4950円)

追跡・間宮林蔵探検ルート

カテゴリー:ヨーロッパ

(霧山昴)
著者 相原 秀起 、 出版 北海道大学出版社
 北海道の北、かつては日本領だったサハリンが大陸とは別の島だというのを探検して確認した間宮林蔵の足跡を北海道新聞の記者がたどったのでした。サハリンと大陸との間は今も間宮海峡と呼ばれています(今のロシアでも呼んでいるのでしょうか…?)。
 間宮林蔵がサハリンを探検したのは1808(文化5)年から翌年にかけての2年間。そのとき間宮林蔵は30歳前後。そうなんですね、やはり若さが必要ですよね。
 伊能忠敬は50歳台から日本全国を歩いて測量しましたが、寒さの厳しさが格段に違うサハリンには、やはり若さが不可欠ですよね。
 伊能忠敬は、北海道の大部分を間宮林蔵の測量を基にしているそうです。
 北海道新聞の記者である著者は、北海道大学(北大)探検部出身とのこと。すごいですね。
 間宮林蔵が現地で実測して作成した地図は、現代の衛星データを利用してつくった地図と比べても遜色がないほどの正確さがある。
 いやあ、実に、これって、すごいことですよね。基本は人間の足ですからね…。
 間宮林蔵の描いた絵は、まるでドローンを飛ばして見たように、一定高度に視点を置いて、俯瞰(ふかん)するように描いた。間宮林蔵は、上空から見た風景を想像して絵を描いている。すごい、すごーい。
 当時、サハリンの村では女性の力がすごく強かった。女性上位の村で、女性からの誘惑を間宮林蔵はなんとか拒絶して、村の男たちとのトラブルを避けた。僻地(へきち)で女性問題を起こすのは、探検家や冒険家にとっては、今も昔もタブーなのだ。なるほど、そうなんでしょうね…。
 現在、サハリンでは犬ぞりはまったく姿を消して、スノーモービル全盛だ。日本のヤマハ製が人気だ。
 サハリンには、アイヌの子孫だという「ワイサリ」と名乗る人々が住んでいる。
間宮林蔵はアイヌの集落でアイヌの女性と結ばれて、女の子が生まれ、北海道に子孫がいるそうですが、その名前は「間見谷」です。そして、東京と茨城県にも間宮家が続いているそうです。
 この本は、北大構内の売店で購入しました。北大では、久しぶりにポプラ並木も見学しました。
(2022年4月刊。税込2750円)

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