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カテゴリー: ヨーロッパ

狙われたキツネ

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 ヘルタ・ミュラー、 出版 三修社
 チャウシェスク独裁政権下のルーマニアを舞台とする小説です。あまりに寓話的なので、ルーマニアの実情を全然知らない私には、読み取り、理解するのが難しい本でした。
 ルーマニアという国は、ひところはソ連に追随することなく、自主的な社会主義としてもてはやされていたように思います。ところが、そのルーマニアを戦後ずっと率いていたチャウシェスク大統領夫妻が宮殿の中庭であっけなく銃殺される写真を見て、やっぱりひどい独裁者だったんだろうなと思いました。
 著者のヘルタ・ミュラーは、ノーベル文学賞を2009年にもらった人です。秘密警察による国民への迫害をテーマとする長編小説を書いていたそうです。
 独裁者(チャウシェスク大統領)は、毎朝下着を新品に取り換えた。背広、シャツ、ネクタイ、ソックス、靴。何から何まで新品だ。その服は、全部が全部、透明な袋に密閉してある。なぜか?毒を撒かれないためだ。冬になると、毎朝、新品の懐炉が用意され、コートや襟巻、それに毛皮の帽子からシルクハットに至るまで、まっさらだ。まるで、前の日に着ていたものがどれもこれも小さくなってしまったみたいに……。まあ、夜、寝ているあいだに権力がどんどん成長するんだから、仕方がないのかも。うーん、なんたる皮肉でしょうか。
 独裁者の顔は、年とともに縮んで小さくなっているというのに、写真ではどんどん大きくなっている。それに、白髪まじりのカールした前髪も、写真ではますます黒みを増している。
 チャウシェスク大統領夫妻の処刑シーンの映像は、1989年暮れに世界を駆け巡った。
 東欧改革の流れの中で唯一、流血の革命を経験したルーマニアには、「革命」という言葉が空虚に響くほど、旧支配層を権力にとどまらせた。1996年11月の大統領選挙で旧共産党支配に終止符が打たれるまで、革命のけりがつくのに7年もかかった。
 ルーマニアが今どうなっているのか、日本でニュースになりませんから、まったく分かりませんよね……。
(2009年11月刊。1900円+税)

武装親衛隊とジェノサイド

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 芝 健介、 出版 有志舎
 パウル・カレルという有名な戦記作家がいます。『バルバロッサ作戦』などの著者です。このカレルが、元ナチ党員で、親衛隊(SS)の中佐だったということを初めて知り(認識し)ました。
 このカレルは独ソ戦を戦い抜いたドイツ国防軍は、戦争犯罪を犯しておらず、軍兵士とまったく変わらなかった武装親衛隊(SS)兵士も同様にユダヤ人大虐殺などの犯罪にコミットしていないという伝説をまき散らした。
 この本は、その伝説がまさしくウソであることを克明に明らかにしています。
 独ソ戦開始後、ソ連にいたユダヤ人に対してジェノサイドを初めて展開したのは、フューゲライン(ヒトラーの妻となったエーゲ・ブラウンの妹の夫となった。終戦直前にヒトラーを裏切った罪によって銃殺された)麾下の武装親衛隊騎兵旅団だった。文字どおりユダヤ人専門の射殺部隊だった行動部隊の構成員のなかでもっとも多かったのは、武装親衛隊兵士だった。絶滅収容所への強制移送作業の中心を担ったのも、収容所での殺戮に直接関与したのも、圧倒的に武装親衛隊だった。
 ツィクロンB(毒ガス)によるアウシュヴィッツ収容所でのユダヤ人などのガス殺作戦も、武装親衛隊が決定的に関わっていた。武装親衛隊は、ユダヤ人ジェノサイド実行部隊の中核をなしていた。これらの事実は打ち消し難い。
 アメリカは、初めナチスドイツ軍の戦争犯罪追及に熱心ではなかった。しかし、1949年、ナチスドイツ軍の最後の大反攻中、ベルギーのマルメディで捕らえたアメリカ兵71人を射殺した事件を知って、ナチスドイツ軍のイメージを大転換し、ニュルンベルグ裁判へと進めて行った。そうなんですか……。そういえば、ユダヤ人を絶滅収容所でナチスが大量虐殺しているのを知りながら、アメリカは何の手もうちませんでした。
 親衛隊に入るためには、身長170センチ以上、30歳まで、身体適格を証明する医療証明が必要であった。
 自らの軟弱さが暴露されるのを恐れ、昇進のチャンスがなくなることを恐れるために、命令を実行し続けるSS隊員は多かった。除名、追放という代価を払ってまで、忠誠義務・服従義務を疑ってみるだけの自発性を持ち合わせた隊員はほとんどいなかった。
 1941年6月22日、ナチスドイツ軍は宣戦布告なしにソ連へ攻め込んだ。ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士350万人の6割が死亡したが、これは異常に高い、高すぎる。
 アスファルト兵士という言葉があるそうです。ヒトラーを前にパレードしかやらない。血を流す経験もせず、ただ綺麗な舗装道路を行進するだけの存在。ドイツ国防軍が武装親衛隊を揶揄した言葉のようです。でも、事実はそんなものではなかったのです。ユダヤ人大虐殺の実行犯の集団だったのです。ただ、その点はドイツ国防軍も責任を免れないわけです。
 国民大衆に情報が行きとどかないときには、大変な惨禍が生じるものですよね。
 
(2009年6月刊。2400円+税)

エレサレムから来た悪魔(上・下)

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著者 アリアナ・フランクリン、 出版 創元推理文庫
 最優秀ミステリ賞を受賞したというだけはある本です。作家の想像力の素晴らしさに感嘆しながら読みすすめました。文庫本2冊で、舞台が中世(12世紀)イギリスなので、よく分かっていない社会状況だということもあって、いつもより時間をかけ、じっくり読み耽りました。
 舞台は1171年の中世イングランド。ケンブリッジで4人の子どもが惨殺された。その殺され方が磔(はりつけ)のように見えたため、カトリックの町民はユダヤ人のしわざだとして暴徒と化した。そのせいで、ユダヤ人たちからの税金が激減するのを恐れた時の王ヘンリー2世は、騒ぐ群衆からユダヤ人を守るために、王の保護のもとにおき、シチリア王国から解剖学の専門家を派遣してもらうことにした。そして、やってきたのは、なんと若い女医、死因を探る学問を身につけた病理医学者だった。
 当時のイングランドでは、女医などとんでもない、女が医療を施そうものなら、魔女のそしりを免れえなかった。
 ヘンリー2世の君臨する中世イギリスの世界が細やかに描写され、法医学を扱う検視官の仕事が見事に融和しています。私は、似たようなイメージだろうと勝手に想像して、ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』を想像しながら読みすすめました。
 4人の子どもを惨殺した犯人は、最後近くまで明らかにされませんが、十字軍に騎士として従軍したことが想定されています。そのなかで、十字軍のひどい実態が暴かれています。それは、キリスト教の輝かしい精神を具現したというより、犯罪者を寄せ集めたゴロツキ集団と化していた面もあったようなのです。
 そして、ユダヤ人へのすさまじいばかりの迫害です。ヘンリー2世も、ユダヤ人を保護していたのは、信教の自由を何人にも保障するというより、そこからあがってくる収入をあてにしていた気配が濃厚です。
 いずれにしても、12世紀イギリスの寒々とした雰囲気が実によく伝わってくる本でした。
(2009年9月刊。840円+税)

ワルシャワの日本人形

カテゴリー:ヨーロッパ

著者 田村 和子、 出版 岩波ジュニア新書
 ポーランドの人々は日本に対して親近感を持っているそうです。
 第二次大戦前のポーランドで、オペラ『蝶々夫人』が演じられ、プリマドンナをつとめた歌手のテイコ・キワ(喜波貞子)の大ファンとなった女性がナチス・ドイツに捕まり、獄中で可愛らしい日本人形をつくり、今もそれが残っているというのです。不思議ですね。
 実は、この女性はナチスに対するレジスタンス運動に加わっていました。レジスタンス組織は後にワルシャワ蜂起に立ちあがったのです。
 獄中で親切な女性看守がいて、日本人形をつくるのを援助し、身内に届けてくれました。その看守もレジスタンスの一員でした。あとでつかまりましたが、戦後まで生き抜きました。
 ワルシャワ・ゲットーに閉じ込められていたユダヤ人は、1943年4月、3000人の兵士に指令を出して蜂起した。ナチスに包囲攻撃されたからである。1ヶ月後、鎮圧されてしまった。
 そして1年後の1944年8月、今度はゲットーの壁の外でワルシャワ市民がドイツ占領軍に対する武力闘争に立ち上がった。ワルシャワ蜂起である。2ヶ月あまりの戦闘の末、蜂起軍は降伏した。ソ連軍は対岸まで進出していにもかかわらず、何の援助もしなかった。
ワルシャワ・ゲットーには、かの有名なコルチャック先生も子どもたちと一緒に生活していた。ゲットー内には14歳未満の子どもが10万人(住民の4分の1)いた。
 1942年8月6日朝、ナチスは「孤児たちの家」に押しかけてきて、子どもたちの移送が始まった。200人の子どもはコルチャック先生を先頭にして行進を始めた。
 この日、4000人の子どもたちがトレブリンカ絶滅収容所に移送されたのである。
 コルチャック先生はナチスによる特赦をはねつけ、子どもたちと運命をともにした。
 ワルシャワ蜂起には、大勢の若者そして子どもたちが少年レジスタンス兵として参加した。そのなかに孤児部隊という別名を持つ特別蜂起部隊イエジキがあった。部隊長となったイェジは、当時29歳の青年である。イェジはロシア領内のキエフスに生まれ、シベリアで孤児となった。ポーランド人孤児を救済する組織がつくられ、日本赤十字の協力で375人の子どもたちが日本にやってきた(1920~1921年)。そして、翌年までにアメリカ経由でポーランドに戻っていった。さらに、1922年にも同じように390人の孤児が日本にやってきて、健康を回復してポーランドに戻って行った。そのなかに先ほどのイェジがいた。イェジは、ポーランドに戻ってから日本の交流を目的とした「極東青年会」をつくった(1928年)。
 イェジは、失敗したワルシャワ蜂起を生きのび、1991年5月に亡くなるまで、日本の歌を覚えていたそうです。ワルシャワ蜂起と日本とのつながりを、こんな形で知ることができました。
 
(2009年9月刊。740円+税)

「二十歳の戦争」

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著者 ミケル・シグアン、 出版 沖積舎
 ある知識人のスペイン内戦回想録というサブ・タイトルのついた本です。
 私は20歳のとき、東大闘争の渦中にいて、いわゆるゲバルトの最前線に立っていたことがあります。もっとも、相手も私もせいぜい角材しか持っていませんでした(なかには鉄パイプとか、釘のついた角材を手にしていた人もいましたが、幸いなことに私は見かけただけで、直接むかいあうことはありませんでした)。はじめはヘルメットもかぶっていませんでした。飛んできた小石が頭に当たり、真っ赤な血が出て白いワイシャツをダメにしたことがあります。しばらく頭に包帯を巻いていましたので、過激派学生と間違えられていやでした。
 この本を読むと、私たちの学園闘争があまりにも子供じみた牧歌的なものであることを自覚させられ、苦笑せざるをえませんでした。それでも、当時、私たちは真剣でしたし、闘争の渦中に過労のため身近なクラスメイトが急性白血病で亡くなったり、精神のバランスを喪って入院したりということは起きていました。
 東大闘争では、ともかく学生に死者を出すなということが至上命題だったことをあとで知りました。東大を舞台とした内ゲバ(全共闘内部のセクトの武力抗争)でも、幸いにして東大では死者は出ませんでした。ただし、あとで内ゲバによって多数の死者が出たのはご承知のとおりです。
 この本は、学園紛争どころではなく、スペイン内戦です。ナチス・ドイツの後押しを受けたフランコ軍と、ソ連の後押しも受けた共和国政府軍が戦争したのです。戦争ですから、当然のことながら双方大量の兵士が戦死しています。
 スペイン内戦は特異な戦争だった。スペイン人がスペイン人を相手に戦った内戦であり、敵味方の陣営が、それぞれ簡単には説明しきれないほど複雑な構成になっていた。
 一方の陣営は反乱を起こした軍人たちで、王制にとってかわった共和制政府に対してクーデターを仕掛けた。それを支持したのがカトリック教会や伝統的な保守勢力。そして、当時台頭しつつあったファシスト勢力のファランヘ党であった。
 もう一方の陣営は、共和国の合法性を擁護する勢力と社会革命を標榜する勢力だった。その中には、無政府主義者もソ連流の共産主義者もいた。そのほか、カタルーニャとバスクの自治を求める勢力も一員だった。
 20歳の著者は、大学生として共和国軍に身を投じた。1937年12月のこと。軍隊に一兵卒として入隊した。著者は学生のとき、カタルーニャ学生連盟の書記長だった。そして、コミュニスト・グループと戦った。しかし、アナキストは知らなかった。マドリッドから敗退してきた共和国軍がテルエルの戦いで激戦のあげくに敗れてしまった。
そのあとの戦線膠着状況で過ごす日々が淡々と描かれています。兵士の辛さが良く分かります。
 そして、テルエルの戦いで敗れたけれど激戦を戦い抜いた兵士たちが後方で休息しているとき、直ちに前線復帰命令が出され、それを拒否した兵士50人が銃殺されたという話が紹介されています。指揮官の命令違反は死刑だというわけです。戦争とはこんなにむごいものなのですね。勇敢な兵士を仲間が処刑してしまうというのはやりきれません。
スペイン内戦の内情を20歳の一兵士の目を通して知ることのできる貴重な本です。
 著者は今年91歳で、今なお、お元気のようです。
(2009年9月刊。3500円+税)

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