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カテゴリー: アフリカ

母を失うこと

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 サイディヤ・ハートマン 、 出版 晶文社
 奴隷制を意味するスレイヴァリーという用語は、スラヴという言葉から派生している。中世の世界では、東ヨーロッパ人が奴隷だったことによる。うひゃあ、知りませんでした・・・。
 アフリカのガーナは、よその国より奴隷制のため地下牢や牢獄、奴隷小屋を残している。地下に埋もれた狭く、うす暗い牢室、格子つきの洞窟のような牢室、細い円柱型の牢室、じめじめとした牢室、にわか作りの牢室。15世紀末以来、金(ゴールド)と奴隷をめぐって、ポルトガル人、イギリス人、オランダ人、フランス人、スウェーデン人そしてドイツ人は、アフリカの奴隷交易における拠点を確保するため、50もの恒久的な駐屯地と要塞、そして城を建造した。地下牢や貯蔵庫、また収容所には、大西洋をわたって輸送されていくのを待つ奴隷が収容されていた。18世紀末ころ、ガーナには60もの奴隷市場が存在していた。
 1950年代、60年代、アメリカにいたアフリカ系アメリカ人は大挙してガーナに押し寄せた。パン・アフリカ主義という夢のもとに、明日にでも奴隷制と植民地主義の遺産が崩壊するかのような気運にあふれていた。
 ガーナのエンクルマ大統領は独裁者だった。エンクルマは、世界中の黒人の自由のために妥協なく闘った。エンクルマが失脚したとき、アフリカ系アメリカ人は涙したが、地元のガーナ人は歓喜し、街頭に繰り出して踊った。
 ガーナは自由通貨を発行せず、ヨーロッパで製造された米ドルが通用していた。
 アフリカでも、アメリカに劣らず、黒人の命が消耗品同然に扱われている。
 ポルトガル人に捕えられた女性の右腕には十字架の焼印が押された。
 コンゴにおける王侯貴族はカトリックに改宗し、奴隷貿易で財を成した。
 奴隷は家系をもたなかった。奴隷は人間を数えるときの単位ではなく、家畜のように「頭」と数えられていた。
 商品としての奴隷は、生きた積荷と呼ばれ、またオランダ人は「ニグロ」という言葉を「奴隷」と同義として使った。奴隷船は「ニガー・シップ」呼ばれていた。
 ヨーロッパに連れてこられたアフリカ人「捕虜」は、自分たちはヨーロッパ人から食べられるために連れてこられたと、恐怖心を吐露した。白い人食いへの恐怖は、暴動と自死を誘発した。
 奴隷所有者は、奴隷の記憶を根こそぎ、つまり奴隷制以前の存在する証拠をことごとく消し去ろうと努めた。過去のない奴隷は、復讐すべき相手が分からない。
 奴隷制度から生まれた子どもは、母親とともに何も相談することなく、完全に父親の系図に組み入れられた。奴隷の母親は、子に引き継がせ得る生得権を何ひとつ持たないので、女奴隷の子に触れるのはペニスだけだと言われた。
 コンゴを何度も訪れたアメリカの学者による紀行文でもあります。奴隷制が現代になお生きているという指摘には、ぞぞっとさせられます。
(2023年9月刊。2800円+税)

太陽の子

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 三浦 英之 、 出版 集英社
 アフリカはコンゴの山奥に日本人の子どもが大勢いるという衝撃のルポです。
 中国の残留孤児は『大地の子』でも有名になりましたし、フィリピンにもいると聞いていましたが、アフリカにまでいるとは…。
 舞台はコンゴ民主国(旧ザイール)です。アフリカには、もう一つコンゴ共和国というのもあります。日本企業(日本鉱業)は1970年代にコンゴで鉱山開発をすすめていて、日本からも若い労働者を1000人ほども送り込んだのでした。
 日本鉱業という会社は、日立鉱山を発祥の地としていて、JR日立駅前には資料館「日鉱記念館」がある。そこには、日本鉱業がコンゴでムソシ鉱山を開設していたときの資料も展示されている。このムソシ鉱山は1970年代に銅を採掘し、精鉱していた。
 しかし、1971年の「ニクソン・ショック」によって、1ドル360円の固定相場が1ドル308円前後へと変動相場制になり、コンゴ経済も独裁者モブツ大統領による無謀な経済政策によってコンゴ経済が崩壊した。さらに、隣国アンゴラで内戦が始まり、輸送コストが高騰。
 しかし、世界の合同価格が急速に下落していった。
 結局、総額720億円もの巨大プロジェクトは、その投資額さえ、回収できないまま。
 1983年に日本はコンゴから完全に撤退した。それまで、日本鉱業の社員など日本人が670人ほど現地に住みつき、コンゴ人など4000人ほどの従業員の住宅が整備され、人口1万人をこえるビッグタウンが突如として出現し、やがて、すべて消え去った。
 この地に単身赴任で働きに来ていた日本人社員が現地で次々に結婚し、子どもが産まれたのです。
 この本の真ん中に、父は日本人と主張する人たち(男も女も)の顔写真が紹介されています。ユキもケイコもユーコも、まごうことなく日本人の顔をしています。DNA鑑定なんかするまでもありません。男性のムルンダ、ケンチャン、ヒデミツも日本人の顔そのものです。
 日本鉱業の幹部だった人たちは、著者の質問に対して全否定しましたが、これらの顔写真はまさしく動かぬ証拠です。
 コンゴの日本大使館は、日本人残留児の父親探しには協力できないという態度でした。日本鉱業が全否定することが影響しているのでしょう。
 笹川陽平(日本財団)は、日本食レストランを現地に開設するとき、その全資金を提供したとのこと。
 日本人労働者たちは単身赴任でコンゴにやってきて、ここで家庭を築いたものの、泣く泣く日本に戻ってからは、アフリカ(コンゴ)とは例外なく完全に縁を切ったようです。
 父系制の強いコンゴで、父親のいない家庭で育った子どもたちの苦労がしのばれます。
 ところが、著者の取材に応じ、顔写真まで撮らせた男女は、いずれも、あらゆる困難にめげず、アフリカの地で、「日本的」勤勉さを発揮して、それなりの仕事と生活を切り拓いた人も少なくないというのです。顔だけでなく、性格までもが日本的だという記述を読むと、その大変な苦労を想像して思わず涙があふれ出ました。
 日本に戻った人たち(父親)を探すのは止めたほうがいいと何人からも言われ、実際にも父親が死亡したりして、父親探しは難航しています。でも、アフリカにいて、日本人の名前と顔もして、心を持つ人たちが自分の父親を知りたい、会いたいというのも自然な人情です。はてさて、いったいどうしたらよいのか、分からなくなりました。
 新潮ドキュメント賞、山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞したのも当然と思える労作です。ご一読ください。
(2023年9月刊。2500円+税)

私の職場はサバンナです!

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 太田 ゆか 、 出版 河出書房新社
 南アメリカ政府公認、そしてただ1人の日本人女性サファリガイドである著者がサファリを案内してくれる、読んで楽しく元気の出てくる本です。
 サファリとは、ヒスワリ語で「旅」という意味。大自然の中で、野生動物を観察しに行くアクティビティのことです。
 サファリガイドは午前3時45分に起床し、4時15分に出勤(といっても自宅兼職場)。サファリに出発するのは午前5時。3~4時間ほどのコースです。戻って午前9時に朝ごはんを食べて休憩し、午後4時ころから2回目のサファリに出発します。同じく3~4時間かけます。夜8時に仕事を終え、ときにはツアー参加者と一緒に食事。
 自宅といっても、著者は同僚6人との共同生活(部屋は個室)なので、夕食は交代制でつくります。
 著者は子どものころの夢は獣医になることでした。でも、理系科目が苦手だったのであきらめて、環境保護の分野へ転身。サファリガイドの訓練校があり、南アフリカ政府公認のガイド資格があることを知って、まだ英語に自信はなかったものの、大胆にも入学したのです。
 この訓練校では、実地での教育・訓練と教材を使っての授業を受けます。英語の授業はついていけなかったので、スマホで録音して夜に自分のテントで聞き直します。
 このとき、「生まれて初めて、勉強をするのが楽しいと心から思えた」とのことです。やはり、目的意識がはっきりしていたからでしょうね。
6ヶ月間の訓練のあと、サファリガイドになるための試験を受けました。200種類以上の鳥の鳴き声を覚え、鳴き声を聞いたら、すぐに鳥の名前を言わなくてはいけません。また、動物の足跡を見て、動物の種類、右足か左足か、前足か後ろ足か、どれくらいのスピードで歩いているかを答えます。
 著者は、なんと、1回でパスしました。次は、6ヶ月間の実習。すぐに実際のツアーを案内させられました。これで無事に終了しても、次なる難関は、就職先が見つからないということでした。
 外国人(日本人)であることは不利。道なき道をサファリカーで進むなんて女性に出来るはずがない、パンクしたタイヤの交換ができるのか…。そんな偏見にあい、困難にもめげずに探していたら、環境保護のボランティアを運営する団体にめぐりあえ、ついにサファリガイドとしてスタートできたのでした。日本の両親は猛反対でしたが、結局は、渋々、追認してもらったとのこと。すごいです。
私はNHKテレビ『ダーウィンが来た』を毎週欠かさず楽しみにしていますので、ライオンの生態も少しは知っているつもりでしたが、ライオンのオスは8頭のうち1頭しか無事に大人になることが出来ないというのには驚きました。
 また、ライオンを狙った密猟も知りませんでした。ライオンの歯や爪を装飾品にする、骨はトラの骨の代替品として、伝統薬として高値で取引されているとのこと。ひどい話です。
 過去を20年間で、ライオンは43%も減少したといいますので、半減したわけです。まったく人間は罪つくりの存在です。
 密猟対策として、サイの角(つの)が狙われるので、あらかじめ切除してしまう作業がすすめられています。ところが、オスのサイは角で戦って、メスを得るわけですので、その武器を取り上げてしまったら、どうなるのかが心配されているとのことです。悩みは尽きませんね…。
 「大好きな動物を守る」という幼いころからの夢を実現し、サファリガイドを始めて7年たった著者による若さと喜びにあふれたレポートです。ぜひ、サファリ・ツアーに行ってみたいと思いました。でも、朝5時出発して、3時間とは…。
(2023年5月刊。1562円)

ナイル自転車大旅行記

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 ベッティナ・セルビー 、 出版 新宿書房
 52歳のイギリス人女性がナイル川の源流まで一人で自転車旅行した体験記です。
ときは1986年のこと。カイロに着いたのは11月初め。7200キロに及ぶナイル川源流への旅を思い立ったのは、前年冬に大英博物館にいたとき。といっても、著者は、その前にヒマラヤ、中近東そしてトルコを自転車旅行しています。また、フリーランスのカメラマンとして活動していたこともあります。
夫と成人している3人の子どもをイギリスにおいて、エジプトから自転車で南下していきます。
 自転車はロンドンで特注したもの。著者自らデザインし、車体を鮮やかな赤に塗り、ギアは18段。現地を走ると、この赤い自転車は目立つこともあって「アーアガラ」と呼ばれた。「アガラ」はアラビア語で自転車。「アー」は感嘆のコトバ。
最少の荷物にしても、結局は30キロの重さ。今どきの電動自転車なら、スイスイでしょうが、いくら18段とはいえ、自分の足でこぐのですから大変です。
 10リットル入りのプラスチック容器に水を入れ、それとあわせて、固形セラミックコアを使うスイス製浄化ポンプを携行し、これで助かったのでした。
 本は持っていかない。驚くべきことに、私は絶対まねできませんが、著者は本がなくても読書を楽しむことができるというのです。ええっ、ど、どうやって・・・。
 著者は学校で時代遅れの教育を受けたので、散文や詩をたくさん暗記させられた。それで、頭の中にしまってある本から、一説ひねり出すというわけ。これは、すごいことですね。
 ウォークマンもスマホもありませんので、音楽を聴きながらの自転車旅行でもありません。もっとも、耳にイヤホンをつけていたら、周囲の状況を察知するのが遅れて危ない目にあったことでしょう。
 猛獣に襲われるということはありませんでしたが、学校帰りのガキ連中には何度もひどい目にあったとのこと。「宿敵」とまで表現しています。いたずら小僧というのは、どこにでもいるのですね。
 コース周辺の貧しい村人からは歓待されることが多かったようです。そして、英語を話せる若者がところどころにいて、助けられもしました。
 イザベラ・バードというイギリス人女性が明治の初めに東北から北海道を日本人の若者を従者として一人旅しています。この女性も勇気がありましたが、この本の著者もすごいものです。エジプト奥地のきちんと舗装されているわけでもない道路を1日最高200キロも赤い自転車で走行したというのです。信じられません。
エジプトからスーダンに入り、ウガンダに入国します。どこも軍隊が反乱したり、治安の良くないところです。著者は少年兵が銃をもち、手りゅう弾を持っているのを見て怖いと思いました。ガキに鉄砲なんか持たせたら、面白半分に何をやるか分かりませんよね。少年兵はどこの国でも怖い存在です。
野外トイレは、砂と灼熱の太陽が、すべてを乾燥させるから、衛生的と解釈したというのも、さすがアフリカならではのことです。そこはイギリスや日本とはまったく異なります。
大体は1日に30キロから40キロを走るのがやっとだったと書かれています。見知らぬエジプトの地を走るのですから、それはそうでしょうね。
この当時、アフリカの女性は、6歳のころ割礼された。なかでもスーダンは徹底していた。少女の外陰部は切除され、小さな穴だけを残して、切り口はきつく縫い合わされる。なので、自然分娩(出産)するときは、陰部を切開して広げなければならないので、自宅で出産するのは難しい。いやはや、とんでもない習慣です。アフリカでは、少なくなったようですが、まだ根絶はしていないと聞いています。
このころ、アフリカの悪路を走るのは、トヨタ、三菱、いすゞなどの四輪駆動車。その優れた性能に、著者も感嘆しています。今は、どうなんでしょうか・・・。
日本の女性もタフですが、イギリス人女性も負けず劣らずタフのようです。
(1996年1月刊。2400円)

サハラてくてく記

カテゴリー:アフリカ

(霧山昴)
著者 永瀬 忠志 、 出版 山と渓谷社
 アフリカのサハラ砂漠を日本人青年がリヤカーをひっぱりながら1人で横断した体験記です。信じられません。
古い本です。1994年10月に出版されていて、アフリカをリヤカーで横断(縦断か)する旅を出発したのは1989年6月のこと。そして、最終目的地のフランスのパリに着いたのは翌年の6月でした。このとき著者は33歳。高校での教員生活4年を経て、貯金300万円をはたいて旅に出たのです。
サハラ砂漠をリヤカーで旅をすると、どうなるか…。砂嵐に見舞われる、何もかもが砂だらけ。リヤカーの中から、耳の穴、髪の毛まで砂だらけ、目を細くして砂が入らないようにする。ターバンを頭に巻いて歩く。
 顔中がヒゲ面の青年が砂漠でリヤカーをひっぱっている写真が本の表紙になっています。柔らかいフワフワの砂地がある。リヤカーがぐっと重くなる。力いっぱい引っぱる、汗ダクダクだ。腕は汗をかいて塩で白くなる。シャツも塩分で白くなる。リヤカーの車輪が砂にはまり込んで、どうにも動かない。板を敷くことにする。2枚の板を1列に置き、片方の車輪を乗せて前へ引く。2枚目の板まで引くと、後ろの板を前へ持ってきて置く。また、前へ引く。また、後ろの板を前へ置く。もう片方の車輪は砂にめり込んだままだ。
 1回で1m80cmだけ前進する。10回くり返して18メートルの前進。100回くり返して180メートルの前進。200メートル進むのに40分から50分かかる。夕方5時半まで歩く。そこでテントを張る。ハードな1日だった。
朝食のあと、また歩き出す。周囲の地平線を見渡し、ふと我に返る。周囲は砂漠のみ。誰もいない。一人ぼっちだ。朝、起きたときの気温は13度。日によっては5度まで下がって、冷え込む。
何を求めてサハラ砂漠に来たのだろう…。目の前にあるサハラは、ただ砂と太陽の地獄のような姿しか見せてくれない。
歩いている時間だけで6から8リットルの水を飲んでいる。朝食と夕食で使う水も入れると、1日に10リットルの水を使っている。
こうやって、砂漠のなかを1週間も歩いたのです。とてもとても信じられません。たまに砂漠を車で走る旅行者から水や冷えたビールをもらったこともあったようですが、このたくましさ、精神力には、圧倒されすぎて声も出ません。
ケニアを出発して西の方へ行って北上しています。リヤカーを引きながら1日に40キロも歩いたというのです。これまたそのタフさに息を呑みます。タフとはいうものの、何回も下痢をして1時間おきに便所にかけ込んだこともあります。そして、途中でマラリヤにもかかりました。また、リヤカーもパンクして、その修理をしたり、タイヤを交換したり、大変です。
靴は5足を、それこそ履きつぶしました。傑作なのは、この5足を途中で捨てないで、5足全部を写真にとっています。また、ボロボロになったシャツ5枚を並べた写真もあります。見事にボロボロのシャツです。
33歳の日本人青年ですが、パリに着いたときの写真では、まるでライオン丸のように濃いヒゲの中に顔があるという感じです。
このヒゲがなければもっと若く見られて、危い目に遭ったのでしょうね。ともかく、1年後、無事に日本に戻れたというので、ホッとする旅行記でした。
(1994年10月刊。1700円)

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