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カテゴリー: 日本史(江戸)

江戸の刑事司法

カテゴリー:日本史(江戸)

  

(霧山昴)

著者 和仁 かや 、 出版 ちくま新書

江戸時代には、もちろん今の六法全書のような便利なものはありません。しかし、それに代わるものとして公事方(くじかた)御定書(おさだめがき)がありました。ただし、この法典は一般には公開されないどころか、閲覧を許された役人も限られていたのです。。すなわち、あくまでも役人の内部文書というものでした。しかし、実際には当時から多くの写本が作成されて民間にも流布していました。その結果、庶民を含む相当広い範囲に、その内容まで知られていたのです。

公事方御定書は上下2巻から成り、刑事法・民事法そして訴訟法的な規定も含む総合法典であった。

この本(新書)は、「御仕置(おしおき)例類集」を素材として取り上げ、江戸の犯罪とそれに対する処罰の実際を紹介している。

下人奉公をしていた新助に主人の妻・かめから恋文を手渡された。主人の妻と不義密通していたことが露見すると重罪となるので、新助は身を退(ひ)いた。ところが、かめは思い詰めて自害(自殺)してしまった。さて、新助に罪はあるのか…。

奉行所は不義密通はなく、単に言葉をかわしただけと認定した。しかし、性行為だけが密通ではない。事件を最初に担当した大坂町奉行は、新助は死罪にすべしとし、老中に提案した。このころ、死罪とするには老中の承認を要した。老中は、評定所に評議を命じた。しかし、評定所は死罪とした。老中は納得せず、評定所に疑問を投げかけた。それでも評定所が死罪相当の結論を変えなかったことから、ついに老中も折れ、新助の死刑は確定した。

ええっ、密通がなく、新しく言葉をかわしたくらいで、たとえ主人の妻が自害してしまったとしても、奉公人を死罪とするなんて、あまりに 可哀想ですよね…。

 寺につとめていた甚吉は住み込みで下男奉公にしていた。ところが働きぶりがよくないとして、ある日、暇(ひま)を出されてしまった。寺から追い出されると、甚吉は衣食住のすべて

を喪うことになる。せめて衣類だけでも取り戻したかったが、寺は応じない。そこで、困った甚吉は寺に忍び込んだ。暗闇のなか、目当ての品物を見つけるため火打ち石で火をつけ物置小屋を見てまわっているとき、火が小屋の中のワラに燃え移り、小屋が焼失してしまった。公事定御定書には、盗んだものが10両以上の価値があったら死罪と決めている。最初に取調を担当した大津代官は、甚吉が窃盗の目的を果たしておらず、過失で物置小屋を焼失させたのだから「中追放」とした。これに対して、評定所は、侵入については、故意(明確な犯意)があったと認定した。そして結論として「入墨のうえ御重追放」とした。奉行も評定所も一般的には可能な限り妥当な刑罰を志向していたことがうかがえる。

いやあ、そうなんですか…。切り捨て御免のような一刀両断の法の裁きというもんじゃないのですね…。江戸の司法でも、まずは物的証拠を確保し、そのうえで自白を得るべきだという意識が存在していた。なーるほど、です。

江戸の司法手続のうち民事紛争においては、なるべく和解(内済ないさい)で解決するよう仕向けられていた。まあ、いわば強制調停といった感じですね…。それでも、庶民は、手数料のいらない司法手続でしたから利用するのに、ためらいはなかったのです。

奉行から伺いが来ると、老中は、文書管理の専門職である「奥右筆(おくゆうひつ)」に調査をさせて検討したのでしょう。それなりの手続がとられていたわけなんです。

こうやってみてくると、江戸時代の司法は明治以降の日本の司法と連続性があったというのに、何の不思議もありません。大変勉強になる新書でした。

(2025年11月刊。990円)

私の幕末維新史

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 渡辺 京二 、 出版 新潮選書

 大変な博識で知られる著者が幕末の動きを詳しく解説しています。講演録なので、とても分かりやすいです。

たとえば、明治維新になってすぐに「万機公論に決すべし」というのが出てきます。有名な「五ヶ条の御誓文」です。ええっ、どうして、こんなに早く出てきたのかなと疑問に思っていました。すると、幕府の政治が行き詰って、徳川将軍があてにならないことが内外で明らかになったことから、幕府内でも、有力大名が寄り集まり、会議して決めていく方式が考えられていたのです。薩摩の島津久光もその一人でした。

将軍慶喜の大政奉還は土佐藩の山内容堂の勧めに応じて決断されたものですが、慶喜は自分が議長になって国政を運営していくという腹づもりだったようです。ところが、明治新政府は、それにとどまらず領地を慶喜からも取り上げてしまったのです。これは完全に将軍慶喜の目論見違いでした。

島津久光は、薩摩藩の藩主の父親というだけで、無位無冠でした。ある本に島津久光は幕府の高官から嫌われていたので、何の成果も上げることなく、すごすごと京都へ引き揚げたとありました。ところが、この本によると、久光がお伴した勅使の大原秀徳が持ってきた幕府に対する朝廷の要求は、3点とも受け入れられたというのです。こんなに違うのです。もっと詳しく調べる必要があります。

そして、久光一行が江戸から京都に戻る途上で発生したのが有名な生麦事件です。生麦事件でイギリス人男性が殺害され、その賠償金の支払いを薩摩藩が拒否したため、イギリスは7隻の軍艦で鹿児島を攻撃します。ところが、この薩英戦争で、薩摩藩は大きな得点をあげました。両者は互角の戦いを展開したのでした。たとえば、イギリスの旗艦に乗っていた司令官と副官が同時に戦死してしまったのです。また、イギリスは兵隊が上陸することもありませんでした。

この薩摩戦争の2年後に英米仏蘭の四国連合軍が下関を砲撃するときは、17隻の軍艦によって、一方的に長州側は敗退したのです。薩英戦争を教訓にしたようです。

歴史は続いている、関連していることを実感させられます。幕末に関心ある方には強く一読をおすすめします。 

(2025年12月刊。1760円+税)

渡辺昇伝

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(霧山昴)

著者 稲富 裕和 、 出版 のぶ工房

 江戸時代の末、大村藩士・渡辺昇(のぼり)は剣の達人でもあり、また幕末の政界でおおいに活躍した。そして明治維新のあとは国の要職を歴任していった。

私の子どものころ、鞍馬(くらま)天狗の登場する映画が大人気でした。嵐寛寿郎が白馬にまたがって悪漢どもに捕まった杉作(すぎさく)少年を救出に行く場面になると、映画館の中は全員総立ちで、拍手とかけ声で騒然となりました。今も、その熱気のすさまじさを身体ごと覚えています。渡辺昇はその、鞍馬天狗のモデルだというのです。驚きました。

幕末のころ、各藩のなかは勤王派と佐幕派に分かれて激しく争っていました。大村藩でも、一方の派の要人が暗殺されています。そして、反対派が捕まり、大量に処刑されました。このあと、大村藩はなんとか勤王派で統一され、行動し、戊辰戦争で活躍します。

同じことは久留米藩でも起きています。久留米藩では、佐幕派の要人が暗殺されると藩内は一気に勤王派にまとまりました。藩主が決断したのです。

ところが、福岡藩は勤王派を処刑したため、結局、維新の流れに乗るのが遅れました。水戸藩の場合は、もっと深刻です。勤王派が脱藩したあげく、越前の地で大量処刑されてしまいました。その遺恨はずっと後世まで引き継がれたようです。

大村藩はわずか2万7千石という小藩であったが、藩主が主導して勤王をかかげて活躍していったことから、京都では、それなりに注目された。

アメリカのペリー艦隊が江戸湾に出現したのは嘉永6(1853)年のこと。泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず。この狂歌は当時の世相をよく表現している。

勤王派の要人を暗殺した大村騒動で罰せられた者は30人をこえる。この大村騒動を乗りこえ、大村藩は官軍の一員として、戊辰戦争に徒軍し、東北地方を転戦し、北海道にまで達した。この戊辰戦争に徒軍した功績から、終結したあと、3万石という賞典禄を大村藩は政府から授与されている。

渡辺昇は、その後、大阪府知事、会計検査院長を歴任した。

幕末の難しい動きについて、さらに深い知見を得ることができました。

(2025年3月刊。3960円+税)

遊清五録

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(霧山昴)

著者 高杉 晋作 、 出版 講談社学術文庫

 幕末に、坂本竜馬と並んで有名な高杉晋作が、24歳のころ中国の上海に渡り、2ヵ月も上海に滞在していたというのを初めて知りました。高杉晋作の書いた上海日記が現代語に訳されて文庫になっているというので、早速、注文して読んでみました。

 当時の中国は、アヘン戦争に敗れて、イギリスに対して上海など5港を開港していました。イギリスやフランスなどの西洋列強に支配され、そのうえ内乱に苦しめられている清朝中国の惨たる現実を高杉晋作は自分の眼で見たのです。やがて、この外圧は日本にも襲いかかってくるという強い危機感を抱いて、日本に帰ってきました。

 ただ、この高杉晋作の日記は本として刊行されず、広く読まれることもなかったようです。

 高杉晋作と上海に一緒に行ったのは、薩摩の五代才助(友厚)や佐賀の中牟田倉之助です。

 高杉晋作は長州藩士の長男として生まれた。19歳から、9歳年長の吉田松陰のもとに学ぶ。吉田松陰は安政の大獄で捕まり、伝馬町獄で斬首された。

幕府は開国した以上、貿易の拠点を中国の上海に持ちたいと考え、視察団を送ることにした。高杉晋作も、その一員となった。高杉晋作が中国・上海に行ったのは密航ではないのです。乗った船は幕府がイギリス商人から3万4千ドル(3万両)で買った木造帆船で、千歳丸。総勢67人でした。

文久2(1862)年4月29日に長崎港を出て5月6日に上海に着いた。8日間もかかったのです。そして、2ヶ月滞在して、7月13日に長崎に帰り着きました。

上海で西洋列強の軍事的な強さを見聞したというのに、日本に戻ってから高杉晋作が攘夷を実行していったというのは、なんとも不可解です。品川に建築中のイギリス公使館に忍び込んで、燃やしてしまったり、百姓主体の奇兵隊をつくってアメリカやフランスの軍艦と戦ったりしています。

 英米仏蘭の四ヶ国連合艦隊17隻が来襲して砲台を占拠されるなど長州藩が惨敗したときは、高杉晋作は列強との講和を担当しました。それだけ豪胆だったわけでしょう。

 その後、幕府による第一次長州征討軍が来たときには、高杉晋作は福岡にいったん逃げたあと、なんとか盛り返しています。

 第二次長州征討のときには、高杉晋作は百姓を取り込んだ奇兵隊を指揮して幕府軍を散々に討ちやぶっています。そのうち将軍家茂が死亡して、慶喜が将軍となります。なので、長州征討軍なるものも解散しました。

 いよいよこれからというとき、慶応3年4月13日、結核のため、高杉晋作は29歳で亡くなってしまいました。

 高杉晋作が24歳のとき上海に2ヶ月もいたこと、そのときの日記が残っていること、それを通じて幕末のころの日本人が世界に目を開こうとしていたことを知ることができる本です。

(2025年12月刊。1100円+税)

山東京伝研究

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(霧山昴)

著者 有澤知世 、 出版 ぺりかん社

 江戸時代を、まるで暗黒・停滞の300年と考えている人がいますが、まったくの誤解だと私は考えています。江戸時代の日本人と現代日本人とは、さまざまな面で連続性があります。私の専門分野である司法の世界においても、弁護士に匹敵する公事師(くじし)がいて、為替手形があって専用の訴訟形式があり、今日の和解・示談に相当する内済(ないさい)がありました。

 文化面でいうと、旺盛な出版活動がありました。出版印刷が盛んでした。浮世絵の役者絵の見事さには驚嘆するばかりです。

 この本の主人公の山東京伝は江戸時代も後期のころに活躍しています。NHK大河ドラマの「べらぼう」(私はみていません)の寛政の改革の前後に活動しています。

 山東京伝は、江戸の深川木場に町人として生まれました。まずは浮世絵師として活躍します。そのときの名前は、北尾政演(まさのぶ)です。次に、江戸戯作壇の中心人物としての山東京伝となり、洒落本(しゃれほん)、黄表紙(きびょうし)、絵巻、読本(よみほん)、さらには滑稽本(こっけいぼん)など、多くの領域を開拓し続け、流行を生み出していく作家でした。

 松平定信による寛政の改革は出版を統制したので、戯作界は大きな影響を受けた。山東京伝も好色本を描いて処罰されている。筆禍後の山東京伝は、近世初期の江戸の風俗や事物の考証に傾倒した。そのため、当代一流の学者たちと交流し、考証の成果を随筆にまとめている。山東京伝は、図案集も多く刊行し、寛政の改革のあとは紙製煙草入店を営みながら、戯作を執筆した。

 19世紀の江戸は、考証趣味が流行した。さまざまな社会的階層の人間が集まり、同一の事物について共同で研究した。

 このとき、社会的身分を緩やかに超えた知的交流の場が存在した。そのときの求心力は古(いにしえ)の事物への関心だった。山東京伝は異国意匠を積極的に取り入れた。陽刻描法も導入している。近藤重蔵(探検家として有名)も大田南畝(戯作家)も、長崎奉行出版をつとめた経緯があり、そのときに入手した舶来品が山東京伝の知人にも伝わった。「異国ブーム」が山東京伝の作品に反映している。

 山東京伝は江戸戯作の第一人者でありながら、後進の作品への目配りを忘れていなかった。戯作者たちは、同時代の戯作作品に注意を払って流行を把握し、新しい趣向を案じるのに余念がなかった。寛政の改革のあと、執筆料を受け取る職業的な戯作者が初めて出現した。それまでは、文壇の中心を占めていたのは武士の作家だった。

江戸時代も末期のことの様子を認識することができました。

(2025年2月刊。5800円+税)

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