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カテゴリー: 日本史(江戸)

御家騒動

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 福田 千鶴 、 出版 講談社学術文庫

 御家騒動が起きると、それを絶好の理由として、幕府は大名を改易(かいえき)したというのが従来の通説。しかし、著者は必ずしもそうではないと主張します。

実際には、御家騒動が幕府に露見しても改易にならない事例のほうが圧倒的に多い。鍋島騒動(佐賀)、黒田騒動(福岡)、対馬藩の柳川一件、伊藤騒動(仙台)など、いずれも改易にはなっていない。なるほど、そうなんですか…。

 中世は「武士団」だったが、近世は「家臣団」だ。中世は武士同士が個人的に結ぶ主従関係を基礎にすえた武士団を帰属集団とする。近世は、主家(御家)の従臣として主君に奉公することで社会集団化した「家臣団」を帰属集団としていた。これらの違いの本質は、「御家」成立の有無にあった。

 江戸時代の中頃に次のような川柳がある。

 きみ、きみたらず、くさってる安玉子

 18世紀の武家社会において、主従精神が墜落し、君(きみ)が君たりえないとき、臣も臣としての役割を果たしておらず、近世節の主従関係が腐敗した状態になっていることを痛烈に揶揄(やゆ)した一句。

 器量・器用の原理は、下位者が上位者を廃立するときの論理となった。上位者は器量・器用の原理によって下位者を大きく切り捨てることが出来たが、その切った剣(つるぎ)で今度は自分の首も切られかねなかった。

 承応4(1655)年、筑後久留米藩の大名有馬家の主君・有馬忠頼(ただより)は参勤途上の船中で小姓に殺害された。このとき、幕府には病死と届けられ、4歳の松千代の相続が認められた。幕府も真相隠しに加担したわけです。

 江戸時代が泰平の社会になると、大名の寿命が延びたため、壮年になっても大名になれない嫡子が続出した。そこで幕府は、病気や老衰でなくても40歳以上の大名には隠居願を基本的に認めるようにした。

 伊達騒動では伊達安芸と原田甲斐が即死するなど、刃傷沙汰をともなう大騒動となったにもかかわらず、伊達62万石は無傷のまま安堵された。

 黒田騒動の折には、主人(大膳)の主人(忠之)は主人ではない、とする主従関係の観念があり、武士の意地が貫かれた。

 栗山大善の屋敷は福岡城内の一角にあり、その屋敷内に6、7百人が鉄砲2百挺、大砲6挺をもって立て籠った。そして、屋敷を退去するときには、火縄に点火した状態の鉄砲20挺を先頭に、総勢500人の武士が大膳を護衛する鉄砲250挺、最後にも鉄砲20挺が続いた。

このとき、主君忠之は器量なしと断定された。そして、結局のところ、黒田家は安堵され、大膳は陸奥盛岡の南部家にお預けとなった。これだけの大騒動を引き起こしたのに、切腹にはなっていないのです。

 幕府は常に大名家が存続するような様々の方策をとっている。これらの御家騒動は、小説となり、また舞台で演じられた。そこでは、大膳は、忠臣中の忠臣として庶民の賞賛を得ている。

2005年の中公新書の改訂新版です。大変勉強になりました。

(2025年7月刊。1430円)

幕末維新変革史(上)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店

 幕末のころ、帆走船から蒸気機関で走行する戦艦へ進歩した。はじめは外輪蒸気船だった。しかし、外輪だと砲撃されたら弱いし、大砲もたくさん載せることができない。そこで外輪のかわりにスクリュー船とした。エンジンは大量の石炭を消費するので、石炭供給基地を各地に必要とする。木造戦艦だと標的にされたら弱い。そこで、まず鉄板で装甲し、次に鉄艦となった。

 戦艦に載せる大砲の『砲弾』は、初めは破裂しない丸弾だったが、円錐筒型の破裂弾が開発された。1858年、イギリスはアームストロング施条式後装18ポンド砲を導入した。このアームストロング砲を初めてイギリスが実戦で使用したのは、1863年の薩英戦争、そして翌1864年の下関戦争だった。射程距離4000ヤードの巨大砲は威力を発揮した。ただし、当初は事故も頻発した。

 中国大陸の清帝国の林則徐は、アヘンを没収して焼却した。1839年9月、イギリスから軍艦が到着し、ついに戦争が勃発した。イギリスは中国などとの不平等条約を大英帝国海軍が力で維持していた。アヘン戦争が一応の終結をみると、天保12(1841)年、江戸ではイギリスが戦艦を日本に差し向けるという噂(うわさ)が広まった。アヘン戦争で清帝国が敗退すると、日本人の眼は一挙に世界に拡大した。

 ペリーは、アメリカからミシシッピ号で出帆し、喜望峰廻りでシンガポールを経由して香港に入り、まず沖縄に向かう。那覇に寄港して、必要なものを入手した。ペリーは、まずは沖縄を拠点としたのですね…。

 日本においては、ペリー来航という情報は瞬時に日本全国に伝播した。人々は、それを記録し、心配ながら見守っていた。人々は情報を求め、あらゆる手段を用いて収集し、記録し、冊子にまとめて回覧した。

日本では、あらゆる政局の背後に、その展開を凝視する3千数百万の日本人の眼があった。つまり、衆人監視の政治舞台において幕府は自らを国家として振る舞わざるをえなかった。江戸時代(幕末)の日本の人口は3千数百万人だったのですね。そして、情報が全国的に素早く伝播していったというわけです。まだ新聞はありませんが、瓦版がありました。木板摺りで、捕まる前に売り抜けてドロンという形で広まったとのこと。

そして、全国を情報に伝達する手段の一つが飛脚屋。情報を早く知りたいときには、人々は飛脚屋に出かけて確認するという習慣があった。たとえば、江戸でつくった狂歌集を毎月、各地の狂歌組織に送って広めていた。

13年前の本ですが、広い視野で幕末期の動きをとらえることが出来ました。

(2012年10月刊。3200円+税)

商人たちの明治維新

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 大島 栄子 、 出版 花伝社

 大変面白い本でした。そして幕末という時代情勢のなかで、商人がどのように行動していたのか、とても参考になりました。というのも、私はちょうど幕末の久留米の商人の動きを調べて書いているからです。

何が面白いかというと、有名な島崎藤村の『夜明け前』に出てくる「牛方騒動」の話を、その「強欲(ごうよく)」な荷問屋を主人公とする話だからです。

 藤村の話は、「牛方騒動」の調停者となった馬籠の問屋が書いた日記「大黒屋日記」をもとにしている。それに対して、この本は、「強欲」な荷問屋が書いた「永代日記」を読み解いて、ストーリー展開にしたノンフィクションなのです。あの難解としか言いようのない古文書を読み解くと、こんなに状況・心理が分かるのかと驚嘆しました。

 ところは、中山道(なかせんどう)の中津川宿(岐阜県中津川市)です。主人公は中津川宿では大店(おおだな)だった間(はざま)家に婿入りしました。ところが、この間家は、内情は放漫経営で火の車というか、1100両もの大変な借金をかかえていたのでした。ところが主人公は逃げることなく、店の建て直しを図り、見事に成功するのです。要するに、店の収支状況を数字で明らかにして、儲けを出す商売にしていったのでした。

たとえば、塩商売です。中山道を京都の公家から将軍家へ嫁入りするときは、大変な行列になるので、大量の塩が必要になると聞いて、早速、塩を大量に仕入れて大きく儲けたのでした。なんで大行列だと大量の塩が必要になるかというと、食品の保存用として塩漬けにするためと、調味料としての味噌・醬油に使うためです。そして、荷問屋として、「牛方騒動」に関わるのです。これには、主人公も言い分はあったようですが、牛方(うしかた)たちも字が読めるので、明朗取引を求めてきたということのようです。

調停人も入って、結局、主人公の荷問屋は撤退することになりました。このときの、双方の言い分、そして調停人の意見が詳しく紹介されています。日記に書いてあるのです。

そのあと、主人公は質屋、つまり金融業に力を入れ、そこで儲けていきます。幕末ですから、政治がまさしく激動しています。そこを主人公が乗り越えていく状況も詳しく紹介されていて、状況がよく分かります。

主人公自身は政治に直接関与はしなかったようですが、中津川宿の属する尾張藩からは特別に上納を命じられたりしています。儲けのための必要経費みたいなものでしょうか…。

個人の日記を読み解くと、当時の政治その他の経済を含めた状況がよくつかむことが出来ます。参考になりそうなところに、いつものように赤エンピツでアンダーラインを引きましたら、ほとんど全頁が真っ赤になりました(少しオーバーです)。

(1998年5月刊。1650円)

幕末維新変革史(下)

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 宮地 正人 、 出版 岩波書店

 江戸時代の末期から明治時代の初めというのは、まさに大激動の時代だったことが生き生きと伝わってくる本でした。

 徳川慶喜は、熟慮の末、前土佐藩主・山内容堂の建白書を受け入れ、大政奉還を決意した。慶喜は、これによって土佐藩が薩長両藩に合流することを食い止めることが出来た。

 大政奉還後の京都には殺気が充満した。世の中が一新するという期待と希望のもと、「ええじゃないか」の乱舞が町中に繰り広げられた。

 慶応3(1867)年11月15日、浪士の巨魁と目される坂本龍馬と中岡慎太郎が近江屋で急襲された。その3日後、新選組の元メンバー・伊東甲子太郎も油小路で殺害された。

慶喜は、将軍職は辞退することにしたものの、内大臣の辞官と幕府領納地は拒絶した。

大久保、西郷そして岩倉は、軍事力を結集させて新政権を樹立し、反対勢力に対しては戦争をもって決着をつけなければ、天下の人心を一新させることは不可能だと決意した。

慶応4(1868)年正月、鳥羽伏見戦争が始まった。旧幕府側は、5000、会津3000、桑名1500ほか、諸藩の兵が加わった大兵力だった。王政復古政権側は薩摩3000、長州1500と数的には劣勢。ところが、この4日間の戦闘において、数的には優位の旧幕軍側が完敗した。その理由の第一は、薩・長軍は、装備・訓練とも格段の差があった。いずれも、既に本格的な戦争を経験し、それに即した猛訓練をつみかさねてきた兵力だった。第二に、事前に形勝の地を占め、迎撃態勢を万全に敷いていた。第三に、旧幕軍側は「朝敵」と決めつけられて志気がふるわず、そのうえ、慶喜は大阪城にとどまっていて、指揮体制が徹底していなかった。新政府軍の完勝は、不安定な新政府の基礎を盤石なものにした。戦争が局面を切り拓いた。

 慶喜が江戸城に逃げ帰ってきたところに、フランス公使ロッシュが登城してきて、慶喜に対して、フランスが軍艦・武器・資金を供給して援助するので、新政府軍と一戦を試みるよう勧告したが、さすがの慶喜も、これは拒絶した。

5月、上野の寛永寺を拠点とする彰義隊1000と新政府軍2000との市街戦が始まったが、たちまち彰義隊は完敗した。このときも新政府軍側の新鋭アームストロング砲が強力だったようです。

 新政権が成立したからには、その公約だった攘夷がおこなわれるだろうという圧倒的多数の日本人の思いが新政権には重圧としてのしかかった。新政権は攘夷を実行する気持ちはまったくなかったわけですが、先の「公約」との整合性をどうするか、要するにどうごまかすかに頭を悩ませたようです。そこで出てきたのが、朝鮮・台湾です。挑戦を武力で抑えつける、台湾に軍事出兵するというわけです。

 さらに、浦上キリシタン問題が発生した。新政府は、キリスト教を解禁すると、欧米列強の圧力に屈したと非難されることを恐れた。それはそうでしょう。先ほどまで譲夷を実行すると言っていたのですからね。そして、天皇が国家主権者であること、その根拠として記紀神話があるとする新政府にとって、天皇の神格性を真っ向から否定するキリスト教は決して容認できないものだったのです。ところが、欧米列強はいずれもキリスト教団ですから、猛烈に批判・攻撃されます。外交交渉をすすめるどころではありません。不平等条約の改定なんか出来そうもありません。そこで、潜伏していたキリシタンを投獄したものの、各地に分散させて、うやむやにしていくのでした。

歴史のダイナミックな展開の視点を身につけるのに格好の歴史書として大変勉強になりました。

(2012年10月刊。3520円)

「おくのほそ道」を読む

カテゴリー:日本史(江戸)

(霧山昴)

著者 長谷川 櫂 、 出版 ちくま文庫

 古池や蛙(かはづ)飛びこむ水のおと

松尾芭蕉が、この句を詠(よ)んだのは1686(貞享3)年の春、43歳のとき。

 「おくのほそ道」の旅に出発したのは1689(元禄2)年春なので、その3年前になる。このとき46歳だった。

芭蕉というのは、38歳のときに門人から株を送られ、翌39歳に自ら芭蕉と号した。

芭蕉は51歳のとき最後の旅に出かけ、大坂で病気になり、「旅に病(や)んで夢は枯野をかけ廻(めぐ)る」を詠み、10月12日、そのまま亡くなった。

 「蛙飛びこむ水のおと」が先に生まれ、「古池や」があとで出来た。つまり、芭蕉は草庵の一室にいて、蛙が跳びこむところも古池も見ていない。どこからか聞こえてくる蛙が水に飛び込む音を聞いて、芭蕉の心の中に古池が浮んだ。つまり、この古池は、芭蕉の心の中にある。地上のどこかにある古池ではない。古池は、芭蕉の心の中に現れた想像上の池。

 芭蕉の心の世界を開くきっかけになったのは、音だった。

 古池の句を詠んでから、芭蕉の句風は一変した。広々とした心の世界が句の中に出現する。蕉風とは、まさに、この現実のただ中に開かれた心の世界のこと。

閑(しづか)さや岩にしみ入(いる)蝉(せみ)の声

この「蝉の声」も、同じく心の世界を開くきっかけになっている。したがって、この句も典型的な古池型の句と言える。

 このとき芭蕉が感じた静けさは、現実の静けさではなく、宇宙全体に水のように満ちている静けさ。現実の世界の向こうに広がる宇宙的な静けさを芭蕉は感じとっている。

 芭蕉が考えた不易流行は、何よりもまず一つの宇宙観であり、人生観。この宇宙は暗転きわまりない流行の世界なのだ。一見、暗転きわまりない流行でありながら、実は何も変わらない不易である。この流行即不易、不易即流行こそが芭蕉の不易流行である。

 芭蕉は、「おくのほそ道」の旅のあと、句風を一変した。悲惨な人生を嘆くのではなく、さらりと詠むという句風への変化、「かるみ」が誕生した。

 ちくま新書として刊行されたものが、ちくま文庫となってとても分かりやすい解説が加えられていて、勉強になります。

(2025年5月刊。1100円)

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