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カテゴリー: 日本史(戦後)

瀬長 亀次郎の生涯

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 佐古 忠彦 、 出版  講談社
私はカメジロー本人を遠くから一度だけ見たように思います。彼が噂のカメジローか・・・と、畏敬の念をもって眺めました。
カメジローは戦後の沖縄が生んだ偉大な政治家です。なんと沖縄民謡の歌詞にも登場します。那覇市長に当選したのに、アメリカ軍の圧力でやめさせられます。さらにアメリカ軍の意向を受けた保守反動の議員たちが再度カメジローを引きずりおろしました。でも、次の市長選はカメジローの後継者が見事に当選したのです。
この本は、いま話題の映画(残念なことに、まだ見ていません)を文章に起こしたようなものです。ぜひとも15万人の大集会で語ったカメジローの肉声を聞きたいです。
「この瀬長ひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば、全那覇市民にまで聞こえます。沖縄70万の人民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を越えてワシントン政府を動かすことができます」
いやあ、すごい演説です。ほれぼれします。この演説の文章に接するだけでも、この本を手にする価値があるというものです。
カメジローが演説するときには、早い時間から会場には聴衆がつめかけて座って待っていた。カメジローは、タレント、芸能人のような存在だった。若い青年には憧れの人だった。演説会場にいた聴衆は、非常に痛快で、帰るときには、みんなニコニコしていた。
「したいひゃー!カメジロー!!」
「したいひゃー」とは、やった、でかした、あっぱれという意味の沖縄の方言。権力者を前に言えないことをカメジローが言ってくれる。民衆は胸のすく言葉に熱狂していた。
裸電球が一つ吊るされ、演台の上にはやかん。これがカメジローの演説のスタイルだった。神様(カメジロー)の演説は、聴いた者の心をつかんで離さなかった。
アメリカの失敗は、カメジローを投獄したこと(カメジローは、逃亡犯をかくまったとして2年の実刑判決を受けました)。投獄すれば屈すると思っていたのに、逆にカメジローはますますヒーローになって帰ってきた。しかも、治療を受けて元気になって出てきた。カメジローだって無事に生きて帰ってこられたのだから、どんなに弾圧されてもがんばろうと、みんなに勇気を与えた。
すごいことですよね。私は車中で読んでいて、このくだりで思わず涙を流してしまいました。花粉症の涙のようにティッシュでごまかしましたが・・・。
カメジローは1956年12月、那覇市長に当選した。保守派が分裂したためでもあった。アメリカ軍政府は、沖縄財界とともに銀行預金凍結とか、水道ストップとか、えげつない圧力をかけ、ついに市長の座を奪ってしまうのです。
アメリカの秘密報告書は、カメジローについて、「ダイナミックで、多彩な個性をもった雄弁家」、「軍事占領に対する抵抗のシンボルになった男」、「庶民性を兼ね備え、とても機知に富み、退屈で陳腐な決まり文句は使わない」としている。
政治家は、かくあるべしという見本のようなカメジローを知ることができました。アベ首相の品性のなさ、アソウ大臣の下劣さに呆れる日々のなか、目と心が洗われ、スッキリしました。
(2018年4月刊。1600円+税)

インターネットによる郷土史の発信(2)

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  樋口 明男 、 出版  久留米郷土研究会
 筑後部会の樋口明男弁護士は郷土史を丹念に調べて写真とともにインターネットで発信しています、一冊の冊子になっています(2冊目です)。大変小さな活字ですし、たくさんの情報が詰まっていますので、読みにくいという難点はありますが、その豊富な情報と写真に思わず圧倒されてしまいました。
 久留米には、第一次世界大戦に日本軍が参戦し、中国の青島(チンタオ)にあったドイツ軍の要塞を攻略したあと日本に連れてきた、ドイツ兵捕虜を収容していた収容所がありました。全国5ヶ所に4800人のドイツ兵を分散収容したのですが、久留米には、そのうち1300人がいました。
そのドイツ兵たちはスポーツ大会をしたり、コンサートを開いたりしていました。また、ビールを飲み、ハムを製造したりしていたのです。その様子を伝える写真がたくさんあります。収容所には2つの楽団があったというのも驚きです。日本軍は第二次世界大戦での北京大虐殺のような残虐行為をしなかったということですね。相手がドイツ人(白人)だったというのも大きいような気がします。
この青島要塞攻略戦には、私の亡母の異母姉の夫(中村次喜蔵。終戦時に師団長・中将)も参加していて、宮中に呼ばれて天皇へ進講しています。久留米市史にも載っている話です。高良内には今も石碑が建っています。
大牟田の三池炭鉱の歴史についても豊富な写真つきで解説されています。三井港倶楽部は今もレストランとして残っていて、大牟田支部の裁判官の送別会の会場としてよく利用しています。そこに暗殺された団琢磨の小さな銅像があります。新大牟田駅前には巨大な全身像がそびえています。これは少し違和感があります。
三池炭鉱には、私も一度だけ坑底におりて採炭現場まで行ったことがあります。三川鉱の坑口から坑内電車に乗り、マンベルトに乗ったりして採炭現場までたどり着くのに1時間ほどかかりました。もちろん周囲は漆黒の闇です。その怖さといったらありません。ずっと生きた心地はしません。二度と入りたくはありませんでした。
大きな炭鉱災害がいくつも起きていますし、大小さまざまな事故が頻発していました。炭鉱存続というのは、人命尊重の立場からは簡単には言えないことだと、実際に、ほんのわずかの体験から考えています。
著者はまだまだ発信中ですが、こうやって冊子にまとめられると、一覧性があり、身近な郷土史の記録集として歴史をひもとくのに便利で活用できます。
樋口弁護士の今後ますますの健筆を期待します。
(2017年10月刊。非売品)

いくさの底

カテゴリー:ヨーロッパ / 日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 古処 誠二 、 出版  角川書店
 福岡県に生まれ、自衛隊にもいた若手の作家です。前に『中尉』という本を書いていて、私はその描写の迫力に圧倒されました。それなりに戦記物を読んでいる私ですが、存在感あふれる細やかな描写のなかに、忍び寄ってくる不気味さに心が震えてしまったのでした。
 『中尉』の紹介文は、こう書かれています。「敗戦間近のビルマ戦線にペスト囲い込みのため派遣された軍医・伊与田中尉。護衛の任に就いたわたしは、風采のあからぬ怠惰な軍医に苛立ちを隠せずにいた。しかし、駐屯する部落では若者の脱走と中尉の誘拐事件が起こるに及んで事情は一変する。誰かスパイと通じていたのか。あの男は、いったい何者だったのか・・・」
 今度の部隊も、ビルマルートを東へ外れた山の中。中国・重慶軍の侵入が見られる一帯というのですから、日本軍は中共軍ではなく、国民党軍と戦っていたわけです。そして、山の中の小さな村に駐屯します。村長が出てきて、それなりに愛想よく応対しますが、村人は冷淡です。そして、日本軍の隊長がある晩に殺されます。現地の人が使う刀によって、音もなく死んだのでした。犯人は分かりません。日本兵かもしれません。
 そして、次の殺人事件の被害者は、なんと村長。同じ手口です。
 戦場ミステリーとしても、本当によく出来ていると感嘆しながら一気に読みあげました。だって、結末を知らないでは、安心して眠ることなんか出来ませんからね・・・。
(2017年11月刊。1600円+税)

集団就職

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者 澤宮 優 、 出版  弦書房
集団就職というと、上野駅におりたつ東北地方から来た学生服姿の一群というイメージです。実際、1967年(昭和42年)に私は東京で学生生活を始め、すぐにセツルメント活動で若者サークルに入って一緒になった若者は青森や岩手から来ていた集団就職組でした。彼らのなかには仲間を求めたり、楽しくいきたい、真剣に語りあう場がほしという人も少なくなかったので、大学生と一緒のサークルに飛び込んでくる若者がいて、また、労働学校で社会の仕組みを学びたいという若者たちがいました。もちろん、そこは男女交際の場、男女の貴重な出会いの場でもあったのです。
ところが、この本は、集団就職は決して東北の専売特許ではなくて、西日本、つまり九州や沖縄からも主として関西方面に集団就職していたことを明らかにしています。はじめに取りあげられたのは大牟田市です。関西方面へはバスで行っていたとのことです。
大牟田市の集団就職のピークは昭和38年(1963年)だった。昭和39年3月23日に大牟田市の笹林公園から中学卒の集団がバスで関西方面へ出発する風景の写真が紹介されています。これは私と同世代です。私は1964年4月に高校に入っています。ちっとも知りませんでした。関東方面へは、大牟田駅から夜行の集団就職列車で旅立ったといいます。
行った先で、彼らがどんな処遇を受けたのか、そして、その後、彼らの人生はどのように展開していったのか、それを本書は追跡しています。
集団就職者とは、高度経済成長が始まった昭和30年前後から、原則として地方から集団という形をとって列車や船などの輸送機関によって都会などに就職した少年、少女などの若者をいう。
昭和52年(1977年)、集団就職は、労働省によって廃止された。
集団就職した人の多くは著者の取材を拒否した。応じた人も、氏名を明かさないことを求めた。それが集団就職の一つの真実を物語る。
歌手の森進一も鹿児島からの集団就職組の一人。まず大阪の寿司屋に就職し、それから17回も職を変えている。
「わたぼこの唄」が紹介されています。わたしもセツルメント時代によくうたった、なつかしい歌です。
フォーク歌手の吉田拓郎の「制服」(昭和48年)という歌が、まさに、この集団就職の状況をうたっているということを初めて知りました。一度きいてみたいものです。
若者たちの大変な苦労を経て日本の経済は発展してきたことを改めて思い知らされました。私にとっても、ありがたい労作です。
(2017年5月刊。2000円+税)

明仁天皇と戦後日本

カテゴリー:日本史(戦後)

(霧山昴)
著者  河西 秀哉 、 出版  洋泉社歴史新書ソ
天皇の生前退位を想定していない皇室典範でいいのでしょうか・・・。
先日の天皇のビデオレターは国民に問いかけました。この発言を天皇の政治的行為とみるのは人道的に許されないことだと思います。天皇に基本的人権の保障はありませんが、天皇という肩書の生身の人間にまで基本的人権を認めないというのには無理があります。
私自身は、天皇制はいずれ廃止してほしいと考えています。生まれただけで差別(優遇)するのは良くないと思うからです。貴族制度の復活なんかしてほしくありませんし、同じように皇族という特別身分もなくしてほしいと思います。
それはともかくとして、現在の明仁天皇夫妻の行動には畏敬の念を抱いています。パラオとかペリュリュー島にまで出かけていって戦没兵士、そして現地で犠牲になった人々を慰霊するなんて、すごすぎます。心が震えるほど感動しました。
明仁天皇がまだ皇太子だったとき、戦後すぐの4年間、クエーカー教徒だったヴァイニング女史(アメリカ人)が家庭教師をつとめていたのですね。クエーカー教徒とは平和主義を標榜する人々なのでした。
1953年に皇太子としてヨーロッパへ外遊したとき、明仁は戦争の記憶が消え去っていないことを実感で認識させられた。
明仁が平民である正田美智子と結婚するのを、母の香淳皇后は反対し、皇族からも強い反対の声があがった。それは、旧来の秩序のなかで天皇制を思考するグループにとっても同じだった。
今回の生前退位に向けた流れに反対しているのは、本来、天皇を敬愛しているはずの「右」側の人々です。要するに、天皇を手玉にとって利用したい人々にとって、国民に親しまれる天皇なんて邪魔者でしかないのです。ですから、今回の天皇の率直な声については耳をふさいで、聞こうともしません。
明仁は、象徴なので政治的な発言をすることは許されていないことを自覚しつつ、問題を質問形式でとりあげて気がついてもらうようにしていると発言しています(1969年8月12日)。
これって、すごいことですね。さすが、です。なるほど、と思いました。
今も、天皇は現人神(あらひとかみ)であるべきだと考えている人たちがいます。つまりは、奥の院に置いておいて自分たちの「玉」(ぎょく)として利用するだけの存在にしようと考えている人たちです。戦前の軍部がそうでしたが、今も同じ考えの人間が少なくないのです。
そんな人々が「開かれた皇室」を非難します。古くは美智子皇后への「批判」であり、今の雅子妃への非難です。天皇や皇太子を直接批判できないので、その代わりに配偶者を引きずりおろそうというのです。
平成の象徴天皇制を特徴づけているのは二つある。戦争の記憶への取り組みと、国民との距離の近さ。どちらも、天皇を「玉」として手玉にとって思うままに動かしたい勢力の意向に真向から反するものです。
天皇制度の存続の是非についても、この際、徹底的に議論したらいいと思います。
そして、それは女性天皇の可否というだけでなく、歴代天皇陵の発掘解禁へすすめてほしいと思います。それこそ、本当に「万系一世」だったのか、科学的に議論したいものです。
(2016年6月刊。950円+税)

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